2006年04月25日(火) |
黄昏の女王 卑弥呼 邦光 史郎 |
黎明〜飛鳥時代
はじめに言葉ありて
この世はすべて混沌としていたが、やがて天と地が分かれ、陸と海、夜と昼の区別がつくようになって、陰陽の神が生まれたと、日本の創世記、古事記(ふるごとふみ)は伝えている。 なべてこの世は、天と地、夜と昼、陰と陽から成り立っている。 天地の根元をなす陰と陽、この二つを合わせて太極となす。 太極から発したはずなのに、人はとかく根元を忘れて、権勢欲や物欲に走りやすい。人間本来、無一物、裸で生まれて裸で死んでいく、と口では言うが、その裏側で我欲を貯め込んでいる。 欲望の衣裳も着なれてみると、捨てがたいもので、この天と地、夜と昼の間を旅する者たちも、欲望の衣裳に支配されやすい。 まだ国家と言えるほどしっかりした権力構造が生まれていない頃、故郷を追われて海を渡った男が、たどり着いた所は、今でいう邪馬台国だった。 どこへ行くにも、己れの脚だけが頼りで、地図も磁石もなく、山の向こうに何があるのかもわからず、遠くから近づいてくる獣の足音に聞き耳を立てなくてはならない頃の人間は、闇を見透し、山野を獣のごとく走り廻る能力をもっていた。まして集団を率いる長ともなれば、異能の持ち主でなくては務まらない。 己れの体力と智力と直観力がすべてという、いわば歴史以前の混沌(カオス)の時代に、英雄となった男が、大和に国をつくった。 その国にいくつかの王朝が興っては滅び、権力の座を目指してひしめく王たちの中から、大和の中の宝石とも言うべき飛鳥を制したのが、男大亦王(のちの継体天皇)とその一族だった。 彼らは歴史をつくったが、その陰で、彼らを操った闇の一族がいる。たえず権力者の走狗となって暗い任務を果たす冥府の一族がそれだが、魔王のごとき彼らの長から、たえずつけ狙われている木の花一族という、誰とも争わず、自然の中でひっそりと暮らしている一群の男女がいた。 この光と影、陰と陽が、歴史的な人物たちの争いや興亡に絡み合って、人の世の喜怒哀楽に操られつつ、人間模様を織りなしていくことになる。 人はみな、時間の流れのままに移ろう、時の旅人である。
天皇家は神武天皇を祖とする万世一系のように伝えられているが、そもそも神武天皇自体が架空の人物である この頃は日本では弥生時代と言われた時代で、王朝のあったはずがない 地方を支配していた豪族のようなリーダーは存在しただろうけれど 西日本各地の首長たちが手を結んで、リーダーの元に国を繁栄させていこうとして邪馬台国が出現している そしてそのリーダーたちは万世一系ではなくて、力でのし上がってきた
でも この物語に登場する木の花一族と冥府の一族というのも、作者の創造の賜物だろうか この物語を読んで思うのは作者と同じく日本人はどこからきたのだろうか・・ということ 男性作家と女性作家では、ある人物像の表現は違っていたが男性作家でも微妙に違うようだ それも読み手には面白いことだ
卒論のテーマを『万葉集』の枕詞の研究にしぼった主人公のなつみは、『万葉集』のいくつかの歌から持統女帝の生き方に興味を持ち、同性として女帝の心情に迫ってみたいと思うようになる。卒業後、就職したある編集プロダクションが倒産したのを機に、自分の内部にある古代への思いを断ち切れずにいたなつみは、吉野、明日香へと旅立つ。明日香で山田寺遺跡の発掘に加わり、壬申の乱のコースを徒歩でたどったりして、なつみは歴史を肌で感じ、持統女帝を身近に感じるのだった。考古学研究所の手伝いをするようになったなつみは、鎌倉の実家を離れて、明日香で一人暮らしを送り、経済的には恵まれないながらも、充実の日々を送る。
本のタイトルの『茜さす』は 有名な『万葉集』に収められている相聞歌からとられている
茜さす 紫野ゆき 標野ゆき 野守りは見ずや 君が袖ふる
額田女王
そして 主人公の名前に由来した歌も紹介されている
吉野なる 夏実の河の川淀に鴨そ鳴くなる山陰にして
湯原王
先に読んだこの作者の『雲と風と』でも感じたことだが、作者の疑問がそのまま登場人物の疑問となって物語が展開されていく 学者たちの解説書をどれだけ読みこなせば、いろんな疑問や矛盾を感じさらに小説へと広がりを見せられるのだろうか ・・・・・
2006年04月11日(火) |
雲と風と 永井 路子 |
伝教大師最澄の生涯
「心形久しくして、一生ここにきわまる」 最澄は遂に悲痛な一語を漏らす。 もう疲れた。わが一生はもう終わった・・・・・ 遂に梵網戒による受戒の実現は望めなくなった。苦しみ、敗北に身を噛まれながら自分は死ぬよりほかはない。 最澄の病床をかこむ義真、光定、円仁らは、言葉もなく、頭を垂れたことだろう。 ━自分のやろうとしていたことは、まちがっていなかった。しかしいま力竭きて自分は世を去るよりほかはない。 それでも最後の気力を振い起して、彼は心こまやかな遺言をしてゆく。 「自分の死後、喪に服することはしなくてもいいぞ。ただ仏の垂れた戒を忘れずにな。酒は飲むな、女を近づけるな、ここを清浄の地として毎日大乗仏典の講究に励んでくれ」 さらに彼はしいて声を励まして言った。 「自分は生れてこの方、乱暴な言葉を言ったり、弟子を叩いたりしなかった。そなたたちも、自分への恩返しとして、そうしてくれればありがたい」 山内での序列、作法等、弟子たちの中に対立が起きないよう、最澄の遺言はねんごろであった。声はすでに力がなかったとはいえ、彼は最後に言ったという。 「わがために仏を作ることなかれ。わがために経を写すことなかれ。わが志をのべよ」 供養の必要はない。ただ、この金剛宝戒の確立を、それだけを・・・・・体はすでに衰えても、最後まで彼の精神は輝き続けていたのだった。
「悠々と時の流れてゆきこの世界は、ただ苦悩に満ちているだけで安らかなことはなく、さわがしく生きている生き物は、ただ患うることのみで楽しいことはない」
比叡山を開創した天台宗の宗祖・最澄の思想と人間像と桓武天皇との関係が書かれている。この作者の文の進め方はふつうの歴史小説風ではなくて、作者の感じた疑問がそのまま登場人物の言葉になっている。私のような通りいっぺんの考えしか持たない人間が思いもつかないような疑問を考えてくれるので、感心しきりだ
ひとつ本を読めばそれに繋がるものが読みたくなる 作者が表現する雲走り風騒ぐ激動の同時代を生きた空海のことも知りたいと思う
2006年04月04日(火) |
陸奥甲冑記 澤田 ふじ子 |
桓武王朝期、律令国家の統一を急ぐ朝廷側が日高見国と呼んでいた陸奥には小部族が住み、阿弖流為が部族連合国家の盟主としてそれぞれの族長を束ね、盤具公母礼(ばぐのきみもれ)が長老役として補佐していた。だがこうした「まつろわぬ民」を朝廷側は蝦夷と嘲り、加えて桓武天皇は大陸からの脅威に対応できる統一国家を急ぎ作るべく、蝦夷討伐に踏み切った。征東大使には最初天皇と血のつながりのある紀古佐美が任ぜられたが、そのふがいなさから幾度となく失態を繰り返し、やがて坂上田村麻呂が征夷大将軍となる。情に溢れ、人心の掌握に優れた坂上田村麻呂の手腕によって日高見国の実力者たちはひとり、またひとりと朝廷側へなびき、東北の民の団結はほころびてゆく。そして遂に、もはや戦いを続けても益なしと判断した阿弖流為は投降する。だが必死で阿弖流為や母礼を助けようとする田村麻呂の尽力も空しく、二人は処刑され、日高見国は律令国家に組み込まれることとなる。
正史というのは勝者の側から綴られることが多い。権力のトップに立った者は、事実を変え、自分たちの権力の維持に都合のいいように歴史を作り上げてしまう。とするならば、ひとつの正史の陰には、敗れ去った多くの民たちの歴史が葬り去られていることになる。征服された人々の歴史は抹消されたり、正史に書き留められなかったりするから、後世の者たちは、書き残された資料から注意深く真実を見つける作業をすると共に、書かれなかったことをも推察する洞察力をもたなければならない。 歴史の研究者であれば「書かれなかったこと」に拘るのは正当なやり方ではないだろうが、小説家にとっては空白の部分から「こうであったに違いない」と推察し、確信にまで深めてゆくのは自然なことだ。
こういう作者のおかげで私たちはそれこそのめり込むように歴史に魅せられていくのだ。 阿弖流為の碑が京都の清水寺にあると知った。 ・・・・・行きたい・・・・・。
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