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こちらでは、龍先生から届く便りを掲載致しております。

2009年01月26日(月) 誹りと誉れ

「ただ誹(そし)られるだけの人、また、ただ誉められるだけの人は、
過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない」

上記の言葉は、お釈迦様の教えとして出てくる一説となりますが、以前の便り「07年3月17日 非難」でも、同じ意味を持つものとして、「黙している者も、多く語る者も・・・」の言葉を紹介させて頂きました。

どんな人でも、どんな時でも、誹謗中傷を受けたり批判される事は嫌なものです。
ここ最近は、特にそういったご相談を頂く事が多かったのですが、毎日を頑っている中でその事を誉めて下さる方もいれば、人の頑張りを素直に受け取れない方からは、ヤッカミやひがみを言われてしまう状況もある事でしょう。


とある日本人ファッションデザイナーの方は、デザインしたバックや服などを発表した際、ことごとく非難されてしまう出来事がありました。それでも、めげずにコツコツと頑張り続けた結果どんどんと有名になって行き、今は世界を中心に活躍されるまでになりました。

上記のお話からも、人から誹りを受けた時にこそ今回の言葉を思い出してもらいたい。また改めて、どんな時でも誹りというのは受けるものである。今の仕事でも、もし仕事が変わったとしても・・・。趣味や好きな事の中でも、家族や仲の良い友達といる時でさえも、その事はついてまわってきます。

なるべくならば、そういった事は避けて通りたいものですが、もしもそういった出来事があった場合でも、落ち込んだりマイナスに考えてしまわないよう、今回お伝えした言葉を知っている事で、皆様が余裕を持って対処できるよう、一つの指針として心に留めて頂けたなら幸いです。


2009年01月18日(日) 出世

「出世して大物になりたい」、「社長に出世する」など、成功して社会的な地位が上がる事を「出世」と言います。また、体が大きくなり成長していく段階で、その名前を変えていく魚の事を「出世魚」とも言います。

この「出世」という言葉。元々は仏教の世界において、家から出てお寺に入って修行する出家の際、俗世間から出るという意味で出世間と言われておりました。
また、その他の意味として、お釈迦様がこの世に出られる事を示す言葉でもありました。

さて、「無量寿経」という経典の中に、次のような言葉がございます。

「世に出興し給う所以は、道経を光闡(こうせん)し皆を救い、恵むに真実の利を以てせんと欲してなり」
なんだか難しい言葉ですが、簡単に言うならば、「お釈迦様がこの世に出られた訳は、教えを明らかに開いて皆を救い、真実の利を与える為である」、という意味となります。

この「真実の利」とは、地位や名誉、財産などといった事ではなく、正しく清らかな言動を心がけ、感謝と反省を忘れないという理を知り、心豊かに過ごす事を意味しています。

お釈迦様自身においても、釈迦族という王族の王子様として生まれ、この世の権力や栄華を約束されていました。
しかし、そういった身分がありながら、いつかは自分も老い、病になり、死んでいく定めにある中で、自分は何の為に生まれ生きているのかを考えられた。地位や名誉、財産を得れば、それを失う事に悩み、若く健康な時期を過ごすからこそ、自分が老いて病になり、死ぬ事に怖さを覚える。

だからこそ、そういった中に本当の幸せが無いと感じ、真の幸福とは何なのかを求め、お城を出て、出家・出世間されました。

「出世」という言葉について。今現在、私たちが認識している意味とは大きく異なり、今回ご紹介した2つ以外に、他のいわれなどもございますが、改めて、お釈迦様がこの世に出られて、私達に教えを示して下さったように、私達自身においても、なぜこの世に生まれ出て、何の為に生きているのか・・・。

普段生活している中では、あまり考える事はないかもしれませんが、この便りを通して皆様に伝わるものがあり、何かを感じて頂けたなら幸いに思います。


2009年01月11日(日) 意地

意地になる、意地を通す、意地悪」など、物事に対して素直になれず、意地を張ってしまうという事は多々あるものです。
その言葉の使われ方が示すように、あまり良い意味で使われる事はなく、自分の意思や気持ちにおいて、強情を張ってしまう状態を表現する言葉となります。そして、この「意地」という言葉は何が元となり、何を表しているのか・・・。

人間には、眼耳鼻舌身という五感がありますが、仏教の世界では、それにプラスして第六感、“意”というものがございます。これは、すなわち人間の意識・心を表しているのですが、物事というのは、その人の意識の持ちようや心がけ次第で、プラスにもマイナスにも捉える事ができます。

また人に接する際や様々な状況においても、相手を優先に考える事もあれば、自分中心になって考えを固持する時もありますが、そんな後者の状態が「意地」という感情に繋がってしまう面がございます。

そして、意地になってしまう時というのは、自分の思い通りにならないからこそ、その状況や相手に対して自分の考えや意見を押し通し、意地を張る形となりますが、以前のお便り「07年2月24日 思い通りにならない状況の解決方法」でもお伝えしたように、そういった状況を明らかにし受け入れる事ができた時から、前に進んでいく流れがございます。

改めて、仏教の表現では自分の心を“意”と表しますが、物事や人への対応が自分中心になる事で、それが“意地”となってしまわないよう、自分の心や感情を上手く調節できるよう、毎日の精進を重ねて頂ければ幸いです。

※文中紹介便りアドレス
http://www.enpitu.ne.jp/m/v?id=104147&pg=20070224


2009年01月04日(日) 縁起(2)

さて、昨年末の12月28日にお届けした便りの続きをお送り致します。

「縁起」と言えば、「縁起が良い、悪い。縁起を担ぐ」という言葉を、誰もが口にしたり耳にした事があるかと思います。

この言葉は、仏教の基本思想を表す言葉になるのですが、これは元々「因縁生起(いんねんしょうき)」という言葉の略で、「因縁によって万物が生じ起こること」。すなわち、世界の全ての物事は、直接・間接的にそれぞれ他のものを縁として存在し、それぞれが依存したり関わりあって消滅変化している、という考えがございます。

その昔、お釈迦様は「縁起の法」というものを説かれたのですが、これを表現する有名な言葉として、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」というものがあります。

これだけではとても難しい言葉となりますが、分かりやすく言うと、「コレがあるからこそアレもあって、コレが無ければアレもない」。もっと分かりやすく例えるならば、「生があるからこそ老いと死があり、生が無ければ老いも死もない」と表現でき、生まれる事が無ければ、老いや死が訪れる事は決してなく、生があるからこそ老いも死も訪れる状況がある事を表しております。

しかし人間というのは、自分が老いたり死んだりする事だけを嫌い、生と死が一緒だとは考えない部分があります。
極端な例えですが、もし、貴方が老いたり死んだりする事を望まないのであれば、この世に生まれてきた事さえも望まない事と同じと言えます。

そのように、神様と悪魔、福の神と貧乏神など、その全てが因縁(原因)となって自分や物事が存在しているにも関わらず、神様や福の神だけを取り込もうと考えた結果、「縁起」という言葉は、いつしか良い意味だけを表したものとして使われるようになりました。

節分の時にも、「鬼は外、福は内」と言いますが、鬼と福、両方の要素があってこそ物事は存在しているのであって、実際には鬼も福も内な状況がある訳です。

この事をもっと身近に、普段の生活に照らし合わせてみると、毎日を過ごす中では良い事だけではなく、苦手な人に会ったり、嫌な事をしなければならない状況などが数多くございます。
しかし、私たちは良い出来事が起こる状況だけを望み、嫌な事や悪い事は避けたがる傾向にありますが、改めて、その両方があってこそ毎日があり、日々の歩みとなっている。両方を受け入れてこそ、物事の流れを築いているとも言えます。

今回の「縁起」という言葉について。皆様が現代用語として認識されている意味とは、大きく異なる面がある事でしょう。
しかし、その本来の理に触れ、小さな視点ではなく大きな視点から物事を捉える事で、貴方様自身も大きな心を持って物事に臨んで頂く。その結果として、毎日を幸せに過ごされる事はもちろん、日々の歩みがスムーズに進む事に繋がれば私も嬉しく思います。


※追伸
今回のお便りに通じるものとして、「05年4月25日 福の神と貧乏神」にも目を通して頂けたなら幸いです。
http://www.enpitu.ne.jp/m/v?id=104147&pg=20050425


2009年01月01日(木) 新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

また新たな年がスタートしましたが、皆様にとって良い一年となりますように。
幸せな日々を過ごされるお手伝いができるよう、私共も精進して参ります。

本年もどうぞよろしくお願い致します。



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