今年も残す所あと僅かとなって参りましたが、皆様におきましてはどのような一年でしたでしょうか。 年末が近づく中、「一年あっと言うま、月日が過ぎるのは早い」とのお便りを頂く事が数多くありましたが、この時期になると、時間が過ぎる早さをより一層感じる思いがございます。
一年を振り返ってみて、楽しい事や嬉しい事。その一方で、不安や悩みで辛い・苦しい、といった事も多くあったかと思いますが、その経験を来年に繋げていけるように。皆様が幸せで、より良い歩みを進められる事を心から願っております。
今年も一年大変お世話になりました。来年もまたどうぞよろしくお願い致します。是非、良いお年をお迎え下さい。
「縁起」と言えば、「縁起が良い、悪い。縁起を担ぐ」という言葉を、誰もが口にしたり耳にした事があるかと思います。 この言葉は、仏教の基本思想を表す言葉になるのですが、これは元々「因縁生起(いんねんしょうき)」という言葉の略で、「因縁によって万物が生じ起こること」。すなわち、世界の全ての物事は、直接・間接的にそれぞれ他のものを縁として存在し、それぞれが依存したり関わりあって消滅変化している、という考えがございます。 その昔、お釈迦様は「縁起の法」というものを説かれたのですが、これを表現する有名な言葉として、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」というものがあります。
これだけではとても難しい言葉となりますが、分かりやすく言うと、「コレがあるからこそアレもあって、コレが無ければアレもない」。もっと分かりやすく例えるならば、「生があるからこそ老いと死があり、生が無ければ老いも死もない」と表現でき、生まれる事が無ければ、老いや死が訪れる事は決してなく、生があるからこそ老いも死も訪れる状況がある事を表しております。 しかし人間というのは、自分が老いたり死んだりする事だけを嫌い、生と死が一緒だとは考えない部分があります。 極端な例えですが、もし、貴方が老いたり死んだりする事を望まないのであれば、この世に生まれてきた事さえも望まない事と同じと言えます。 では、そのような考えと「縁起」という言葉にどのような繋がりがあるのかや、私たちの生活にどんな関係があるかについては、少し長くなってしまう事からも、また次回の便りにてお伝えさせて頂きます。
今回は、「邪魔」という言葉についてお伝え致します。 その意味を調べると「妨げ、余計なもの、目障り」といった形で表わされ、皆様もその事を認識されているかと思います。しかし他にも、「仏道修行を妨げる悪魔」という意味もあるように、仏教が由来となっている言葉となります。 お釈迦様が修行をされていた際、その修行を「マーラー(マーラ)・パーピーヤス」、別名「天魔波旬」とも言われますが、その魔神が邪魔をする為に現れた出来事がありました。 そして仏教がインドから中国に伝わった際、「マーラ」の言葉は「魔羅」という漢字に当てられ、古くは磨や摩といった言葉でも表現される事もありましたが、今は”魔”の字となって表わされています。 そんな魔神の名称が、いつしか自分を見つめ直し反省する際、心の内から起こる障害を表すようにもなり、その“魔”という言葉の上に、“邪”を加え、「邪魔」という言葉になりました。 今回の便りの最初に、「仏道修行を妨げる悪魔」ともお伝えしましたが、何もそのような修行の場だけではなく、皆様の生活の中でも邪魔を受ける事があり、仕事や勉強に飽きて遊びたくなるのも、自分の目標に対して諦めたり挫けたりしてしまう事も、悪魔のささやきである邪魔の仕業となります。 ただ、そういった心の隙間(隙魔)は、自分の弱さによって生じてしまうものですが、改めて、自分の心に隙が生じ、その間(あいだ)を魔に入り込まれてしまわないよう、皆様におきましても日々の精進を重ねて頂ければ幸いです。
さて、前回の続きですがもう一つの意味として。
“我”とは自分自身に執着する事となり、“慢”とは慢心を意味する言葉になるのですが、その二つが合わさり、自分の力を過信したり執着してうぬぼれる事を意味し、傲慢や驕りと似た言葉として捉えられていました。 その我慢が、「我を張る、強情」などの意味として使われるようになり、強情な人は他の方に弱みを見せる事がなく、耐え忍んでいるように見えた姿から、今現在においては耐える・忍ぶ・堪えるといった意味で、我慢という言葉が使われるようになったとも言われております。 上記のいわれからすると、いずれにしても元々はあまり良くない意味として使われ、「自分が自分が・・」という気持ちが強くなる事により、ご自身が苦しくなってしまう。相手や物事を自分の思うがままにしようとして、かえって思い通りに行かず、周りに影響を与えたり時には迷惑をかけてしまう事などもございます。 “我慢”をしなければならない状況というのは、「アレが欲しい、コレがしたい」。はたまた「あの人に会いたい、話がしたい、メールしたい」など、自分の気持ちが前に出るからこそ、我慢といった状態も生じて参ります。 以前の便りでもお送りしたように、この世は一切皆苦であり、思い通りにならない事ばかりである。その状況において、自分が思うがままに考え、行動する事で、苦しい我慢を強いられる事が無いよう、いつどんな時でも冷静に、落ち着いた心で臨んで頂ければ幸いです。
「わがままを言わないように我慢する」、「甘い物を我慢する」など、“我慢”という言葉はとても頻繁に使われ、私も「今を乗り越える為に辛抱強く我慢して・・・」、といったアドバイスをお送りさせて頂く事がございます。 その意味を誰もがご存知かと思いますが、現在は耐え忍ぶ事、堪えるといった形で使用されている言葉となります。 しかし、元々は仏教で使う言葉となり、“我が慢する”という表現をする事もあるのですが・・・。 “我”とは自分自身を表すように、自分の欲であったり、「何かをしたい」という気持ちが大きくなる中で、それが叶わない状況において、「我慢をしなければならない」という使われ方をします。 最初の一文にて、「わがままを言わないように我慢する」とお伝えしましたが、この“わがまま”という言葉も、漢字で書くと“我儘”と書き、自分を表す“我”の言葉。もう一つの“儘”は、「意のまま(儘)にあやつる」とも言われるように、「我がままに、自分の思うがままに」という事を表現しております。 そして、もう一つの意味があるのですが、こちらについては、また次回にお伝えさせて頂きたいと思います。
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