++いつか海へ還るまで++

雨が降る 代わりに泣いて いるように

降り続く雨 降り止まぬ雨


2005年02月28日(月) 病院へ行こう*最初の一歩を踏みだそうと・予約電話前日*

実は随分前から精神科や心療内科に・・・という思いはあった。
それでもある意味 ぐちゃぐちゃに翻弄されて運命からもみくちゃに
されている時はその全身を苛む苦痛が大きすぎて絶え間なすぎて
むしろ神経が麻痺していたような感じだったのかもしれない。
そうして自己防衛しなければわたしの神経は完全に
壊れていただろうから。

身辺が一応落ち着いて来て 短期の仕事も何とか
つつがなく勤めあげることができた頃から わたしの
倦怠感や虚無感はどんどん酷くなっていった。
それはまるで 今まで張り詰めていた糸がプツンと
音を立てて切れたようだった。

洗い物してたりふっと歩いてて空を見上げたり・・
何でもないような時に涙が突然流れて止まらなくなる。
全てが煩わしく簡単な家事をするのでさえものすごい疲労感がある。
それでも子供がいる以上 衣食住に関してそれなりにしなくては
ならないわけで もしも子供がいなければそれら全ての動作を
止めていただろうと思う。

倦怠感が酷く 外に出たくないし他人と接したくない。これに関しては
Kや数少ない友人という例外はあるがそれ以外に関しては拒否感に
近いものがある。わからないくせにわかったような顔をして触れるな・・と
いうような。
子供が絡んでくるとそういうわけにもいかなくてそれが苦痛だが
わかってもらいたいわけでなくどう思われても良いから 
頼むからそっとして欲しい という切実な感情があって。

ただそこまでなっていても病院へ行くというのは気が重く苦手な
うえにやっぱり特殊な・・という先入観はあるし

〔瑤砲弔い討良坩臓塀慣性について・副作用について)

病院・医者に対する不安
(きちんと話を聞いてもらえるのだろうか→
合わない苦手なタイプの先生で嫌な思いをするのが怖い→
ちゃんと自分の状況や症状を説明できるだろうか→
うまく伝わればいいけどありがちな勘違いでわかったように
言われるのには耐えられない)

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かなり不安は取り除かれてた。
けれど△亡悗靴討呂匹Δ靴討睇坩造消えなくて怖くて。

何しろ色々な出来事で他人に対してはものすごい不信感というか
表面上何とか普通に接することはできていても
内面ではものすごい恐怖感と拒否感(精神的に触れて欲しくないと
いうような)ストレスがかかってしまうような現状で。

ある意味こういう精神状態が進みすぎてしまうと
まず病院に行く(予約電話する)という行為そのものから
怖くなってしまい なかなかできずにいた。

そんな中 新たな重圧がかかってきて
崖っぷちに立っているわたしの背中を押した。




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それも最悪なことにその委員会の委員長は以前子供同士のトラブルで
面識がなかったにも関わらず参観の日にわたしをつかまえて一方的に
文句を言ってきたお母さん。

良くある教育熱心な正論をおっしゃるタイプの方で教育論まで
ご講義いただきました
(わたしにとってはとても的外れな気持を
ズタズタにされるものだったけど)

崖っぷちにいる人間への最後の一押しありがとう(苦笑)

あれから学校行事に参加するの怖くなって
それでも子供の為に勇気振り絞ってでかけてたんだけど。
そのあげく今回の皮肉な運命の采配。大げさなようだけど
壊れるきっかけなんてそんなものだろう。
ほんの小石の一粒がダムを決壊させちゃうみたいに。

でも子供の為にも逃げ出せない。

Kは以前から心配して少しでも楽になれるのなら病院へ行ってみるのも
良いと思うよ・・と言ってた。
そうだね・・自分の力ではもう本当に限界の所にきてる。
どんどん世界が灰色に侵食されていくのがわかるんだ・・。

ネットで再度調べてみた。
近くに心療内科又は精神科はないだろうか。

一箇所見つけたのはA総合病院。
そこは以前から大きな病気の時などにお世話になってる。
そこに女性用外来というのがあった。

完全予約制。

電話で予約して日時を決めるらしい。

とにかく電話してみよう。
明日 予約電話を入れてみようと思う。
わたしにとってはもうそこからものすごい勇気を必要とするけれど。

とにかく最初の一歩を踏み出してみよう。

神様 勇気をください。

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子供が急な蕁麻疹で夜間救急へ・・。
飲み薬と塗り薬でかなりひいてきたけど
学校どうなるか微妙。
子供が家にいたら 予約電話かけるの できそうにない。

自分なりにテンションを精一杯あげてないと電話できそうにないのに
どうしよう・・このままではまた逃げ出したくなる。
心療内科への最初の一歩をわたしは踏み出せるんだろうか・・・。

踏み出さなくては。
なんとか。



2005年02月27日(日) 永遠に行き先を失ったもの

夫への想いはとても複雑だ。

例えば まっすぐな愛情という感情だったなら
亡くした悲しみも大きかっただろうけど
その悲嘆に素直に浸れただろうと思う。
他人のいう「ご主人は天国で見守って・・」という
慰め文句?もそのまま心に沁みただろう。

もしも夫が病気になどならずこんな形で亡くなってなければ
今度は反対にちゃんと?憎み続けていられただろう。
こういう言い方はおかしいかもしれないけれど。 

夫に苦労させられていたことを知っていた友人達から
「こんなことをいってはナンだけど自由になれたのは
羨ましい」というような言葉や
(彼女たちもまた夫に苦しめられている辛い立場にいて
その苦しさに耐えかねてだけれど) 
彼女らの配偶者に対しての
「事故か何かでいっそ死んでくれたらいいのに」とか
「殺してやりたい」などどいう言葉を聞くと
複雑な気持でいっぱいになる。

楽にみえるのかな・・羨ましくみえるのかな・・けど
実際にこうなってみればわかるだろうけど
決していいものじゃないよ・・と。

確かにわたし自身 彼女たちの立場にいた時は同じように
何度も思っていたのだから気持はわかるし(多分 こういう
立場にならなければまったく同じ台詞をわたし自身がいっていただろう)
その言葉を責めようとは思わないのだけれど

ただ

ある意味 マイナスの感情を迷いなく
向けられる対象がそこにあるっていうのはまだ救いがあると思う。

生きているから憎める。

どれだけ消せないほどの心の傷を負わされて
苦しめられて憎んですらきたといっても
目の前で命の灯が消えていくのを平然と見ていられるわけも無い。

不憫な想い、長年積み重ねてきた思い出(それには良かったときの
ことだってあるのだから)情・・・の部分、
かといってこの闘病生活の間も愕然とするような問題が発覚したりして
その度に先の無い病人を責めれるわけもなくやりきれなさ怒りの
持って行き場もないままに飲み込むしかなかったり。

まさに精神的生き地獄だった。
常に緊張とストレスがそこにはあって それでもそこで
自分を保ち続けているため必死だった。

そうして夫は逝った。

逝った後 少しはこれで張り詰めてたものが楽になるかと
正直思った。けどそうじゃなかった。
残されたのは 愛 でも 憎しみでもなく 切なさとやりきれなさと
空虚さ・・・。

亡くなった人間は想い出の中でどんどん懐かしいばかりになっていって
でも それほど虚しい哀しいことがあるだろうか。

遺されたものはどうすればいい?
永遠に行き先を失った想いは何処にいけばいい?
叫べないままの言葉は飲み込まれたままで
そこからまた背負い続けていかなければならない。

憎み続けることができていた方がずっとずっと楽だった。

死んでしまうってことはそこで途絶えてしまうってことだ。
ずっと返事のないドアを叩き続けるようなものだ。

そこにあるのは憎しみよりももっと切ない 
哀しみ だ。。。

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今 わたしの支えは子供とそうして色々なことを
全部知り支え続けてくれた遠方に住むKの存在だ。

Kは独身・8つ年下だけど一番わたしの気持を
理解してくれているのはKだと思う。
もう本当に長い付き合いになるけど
いつも穏やかにわたしの不安定な精神を
受け止めてくれてとても感謝している。

他にも内情を知る数少ない友人はいるけれど 
その友人たちもまた遠方に
住んでいてネットで出会った友達だ。

今のわたしはこの人たち以外の他人とできることなら
一切の接触を絶ちたい。
人と関わりたくない。そっとしておいて欲しい。
それができればどんなに楽になるだろう。

Kとはメールや電話で繋がっている。逢えるのは2ヶ月に一度で
それがわたしが 買い物、子供の学校行事(これが一番気が重い)
以外で唯一自発的に出かけたいと思う時だ。
その時だけはわたしはわたしを取り戻して重たい鎖から
解き放たれる気がする。

その時間とKと子供の存在だけが
かろうじてまだ わたしをわたしであり続けさせてくれている。



2005年02月26日(土) わたしのこと。

30代。子有。夫が亡くなって今年で三年。

だいたい こういう立場の人間に他人がかける言葉はほぼ決まっている。
「ご主人はいつも天国で見守ってる」
「お母さんが頑張ってる姿をみて子供は育つんだから」etc・・・

要するに ”ずっと亡き夫を想い続けつつ、子供命で 
がむしゃらに働き続ける”というのが世の常識的な正しい方々が考える
あるべき姿なんだろう。

そして実際そうして一生懸命生きてる人たちは沢山いるわけで。
それはそれで確かに正しいまっとうな姿なんだろうと思う。

だけど

わたしの夫への思いは複雑だ。
あまりにも色々なことがありすぎた。

離婚を考えていた矢先の夫の病。既にそれは手遅れの状態で。
告知せずに隠し通したまま 入院・手術・そうして
自宅介護の繰り返しの3年あまりの後 逝った。 






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それも理由は義兄のギャンブルの借金の穴埋めの為。
唯一かけてたささやかな保険金をあてにしてのこと。
貸せるほど多額におりるわけじゃないし 第一 
葬式代と夫が残した借金返済でいくらも残りはしないのに。

無理だと断るとその場で逆切れした義母。
それでも我慢して我慢してこの日まではとこぎつけた四十九日でも再度暴言。
「アンタ 離婚してたら保険金だって手に入らなかったんでしょ!
嫁なんだから貸してくれて当然でしょ!」

義兄可愛さとはいえ あまりの言葉にもう怒りよりも強烈な虚無感と
吐き気。

それが息子の四十九日も過ぎないうちに遺された嫁と孫へ言う言葉ですか?
他にもまだまだあちらの実家の方々の信じられないような言動はあるけど
書けば書くだけ気分が悪くなるだけだから止めよう。

辛い日々だった。
いくら離婚を考えていたといっても目の前には命の期限切られてる人がいて
それも一度は愛していた人ならやっぱり想いは乱れる。
不安がる人に泣く姿など見せられるわけもないからとにかく
いつもの自分を保たなきゃならない。
まだ泣くな。まだ泣いちゃいけない・・って
それだけ呪文みたいに繰り返してた。
無意識に反射的に感情とは関係なく微笑を作っているのが普通になってた。 

張り詰めて張り詰めてずっと飲み込んで飲み込んで・・・
そのあげく 亡くなった後までこんな出来事。

そこで壊れてしまっても不思議じゃなかった。
けど そこでも わたしは踏みとどまった。
短期だけど・・ということで紹介してくれる人がいて次の月から1年だけど
パートに出かけて引越しもして諸々の事後の手続きも必死で済ませていった。

短期パートを無事に勤めきり 身辺のことも徐々に落ち着いてきた。
けど無我夢中の1年が過ぎた頃から 痛みの感覚がやっと知覚できるように
なってきたみたいに わたしの精神は音を立てて軋みだした。

誰にも知られないまま。



2005年02月25日(金) はじめまして

心の葛藤日記。
初めての心療内科への道のりと
その後の過程も心の整理の為に
書いていきたいと思います。


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ゆうなぎ [MAIL]

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