綿霧岩
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テレビでフラメンコギタリストの沖仁さんという人の演奏が流れた。海だ、と思った。そのあと海の上の青い空だったり、海と空のあいだを流れる風だ、とか思ったが、最後の方は頭の中の風景はどこかに消えてしまっていて、ただ演奏者の沖さんの気配が頭に残った。やわらかだった。ギターの音色も、手拍子も、足拍子も、なんともかろやかで、その時間、私自身がどこぞへ旅をしているような気分だった。音楽は時間で描かれた絵みたいだ。
言葉にしたらひとりひとり違うものも、たったひとつしか無いものだったりする。 なんだそりゃである。 たかがそりゃ。されどなんだそりゃ。ああああおそろしく不自由だ。おそるべき面白さだ。ひどすぎて、すばらしすぎる。 どう言ったらいいのかわからないのだ。それどころか何を言ったら良いのかさえわからない気がしてくるのだ。なんだこの駄文は。でもこれがいまの私の記録だ。
春がすぐそこに来ている、感じがする。季節の変化で、自分の心持ちもむくむくと変わっていくのが、不思議なような、当然なような。なんだかんだ言っても、私は春がとても好きみたいだ。春はどんどん変化していくところが良い。
何か書けるものはないかと裏紙のようなものを探していたら、十年以上も前に書いた日記が出てきて、思わず読んだ。 日記の中でその時の私は、そのときの私の限界いっぱいに日々悩み苦しみ泣き怒り、していた。ふと、十年後の私はどうしているのだろう、と思いを馳せもしていた。
そんなことはすっかり忘れていた。 その時の私は私であるにもかかわらず、私とはずいぶん離れた遠い人に思えた。 読んで当時のことを思い出したが、その時の、出口が無くて自分は生涯それに囚われていくに違いないというその気持ちが、今でも言葉にしてしまえばそれに似た気持ちになることはあるけれども、その時と今とでは、明らかにそれぞれの気持ちは私自身が別モノだと感じる、という事実が、驚くほど私を安心させた。
その時はそんなこと思ってもみなかった。 遠い未来の自分にすがるように思いを馳せはしたが、そのときの、いっぱいいっぱいだった私の存在そのものが、未来の自分をこんな静かな気持ちにさせるとは、全くもって想像しなかった。
過去の私はむしろ救ってほしくてたまらなくて未来の私をおもったと思う。 が、私はまるで、過去の私に救われた気さえしていた。
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