綿霧岩
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祖父は油絵を描く。 子供の頃は、長期休みのたびに、母の実家へ新幹線に乗って訪れることが楽しみで仕方なかった。 すぐ側で暮らす従兄妹たちと会えることも。
ある時祖父が、私の絵を描きたいと言った。 祖父のアトリエには無数の風景、静物画と並んで、祖母や従兄妹、幼い頃の母や叔母の絵がたくさんあり、私はいつも興味深くそれらの絵を見ていたが、自分が描かれることは想像したことがなかった。 が、とにもかくにも私はモデルになってみた。 祖父も母も、それをずいぶん嬉しがっていた気がする。
私は椅子に座り、射抜くような祖父の視線に対抗して目を剥いた。 祖父は「その目つきは悪いからしてはいけないよ」と私に言った。 することがなくなった私は、しばらく祖父の視線にさらされ続けたが、おそらく30分もたたぬうちに限界がきた。 小学校低学年くらいの頃だっただろうか。
その日のうちの数時間後、どこかへ出かけることになって、祖母と母と一緒に私は駅のホームにいた。 ふっと先ほどのモデルの時間を思い出し、私は突然泣いた。一度こぼれたものはなかなか止まらなかった。 祖母は驚いておろおろし、母は、少し前に死んだ、私が溺愛していた飼い猫のことを思い出したのだろう、と祖母に説明していた。 私は、ちがう、と思ったが黙っていた。 自分でもどうして、泣くほどショックなことだったのか理解できずにいたし、 また、祖父に描かれることが嫌だったと言うことは、祖母や母に対する非礼だとも思った。
母の名誉のために付け加えると、おそらく私が正直に、泣いた原因を告白していれば、その時の私以上に、母は事態を了解しただろうと予想する。 しかしどちらにしても、子供だった私は、そこまで他人を(家族であろうとも)信用することができなかった。 ひとりでふんばって生きている、と思い込んでいる、おまぬけな、しあわせな子供であった。
ともかく、その時以来、私は祖父に描かれなかった。 そういう展開にならぬように仕向けていた気もする。 祖父の画家としての目に曝された時、私は確かにある部分で傷付いた。 強烈に。 あの時祖父は、私を可愛い孫としてではなく、ひとつの、紛れも無い存在として、その核を見据えようとしていたように思う。 それは人付き合いの苦手な祖父にとって一番真摯な、人との向き合い方だったかもしれない。 私はそれに耐え切れなかった。
祖父は今では90歳を越える老齢である。 私の姿が、彼によって描かれることはもう無いだろう。 そのことを、ちょっぴり残念に思っている。 傷だと思っていたものは、愛そのものだったと、ロマンチックに思ってみたりしている。
意味はない。 在ることが全てで、それだけだ。 だからこそ、今在ることは奇跡的だ。 みんな奇跡を背負って生きているのだ。
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