綿霧岩
DiaryINDEXpastwill


2006年01月28日(土) まぬけな孫娘

祖父は油絵を描く。
子供の頃は、長期休みのたびに、母の実家へ新幹線に乗って訪れることが楽しみで仕方なかった。
すぐ側で暮らす従兄妹たちと会えることも。

ある時祖父が、私の絵を描きたいと言った。
祖父のアトリエには無数の風景、静物画と並んで、祖母や従兄妹、幼い頃の母や叔母の絵がたくさんあり、私はいつも興味深くそれらの絵を見ていたが、自分が描かれることは想像したことがなかった。
が、とにもかくにも私はモデルになってみた。
祖父も母も、それをずいぶん嬉しがっていた気がする。

私は椅子に座り、射抜くような祖父の視線に対抗して目を剥いた。
祖父は「その目つきは悪いからしてはいけないよ」と私に言った。
することがなくなった私は、しばらく祖父の視線にさらされ続けたが、おそらく30分もたたぬうちに限界がきた。
小学校低学年くらいの頃だっただろうか。

その日のうちの数時間後、どこかへ出かけることになって、祖母と母と一緒に私は駅のホームにいた。
ふっと先ほどのモデルの時間を思い出し、私は突然泣いた。一度こぼれたものはなかなか止まらなかった。
祖母は驚いておろおろし、母は、少し前に死んだ、私が溺愛していた飼い猫のことを思い出したのだろう、と祖母に説明していた。
私は、ちがう、と思ったが黙っていた。
自分でもどうして、泣くほどショックなことだったのか理解できずにいたし、
また、祖父に描かれることが嫌だったと言うことは、祖母や母に対する非礼だとも思った。

母の名誉のために付け加えると、おそらく私が正直に、泣いた原因を告白していれば、その時の私以上に、母は事態を了解しただろうと予想する。
しかしどちらにしても、子供だった私は、そこまで他人を(家族であろうとも)信用することができなかった。
ひとりでふんばって生きている、と思い込んでいる、おまぬけな、しあわせな子供であった。

ともかく、その時以来、私は祖父に描かれなかった。
そういう展開にならぬように仕向けていた気もする。
祖父の画家としての目に曝された時、私は確かにある部分で傷付いた。
強烈に。
あの時祖父は、私を可愛い孫としてではなく、ひとつの、紛れも無い存在として、その核を見据えようとしていたように思う。
それは人付き合いの苦手な祖父にとって一番真摯な、人との向き合い方だったかもしれない。
私はそれに耐え切れなかった。

祖父は今では90歳を越える老齢である。
私の姿が、彼によって描かれることはもう無いだろう。
そのことを、ちょっぴり残念に思っている。
傷だと思っていたものは、愛そのものだったと、ロマンチックに思ってみたりしている。






2006年01月16日(月) 誕生

意味はない。
在ることが全てで、それだけだ。
だからこそ、今在ることは奇跡的だ。
みんな奇跡を背負って生きているのだ。


カタギリミワコ |MAIL