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2024年03月24日(日) 「『いただきます』はいらない」について考えた

毎週土曜日の読売新聞夕刊に「もったいない語辞典」というコーナーがある。
著名人が「使われなくなるのはもったいない言葉」を取り上げるリレー形式のコラムなのだが、昨日のそれは元NHKアナウンサーの村上信夫さんが「いただきます」について書いていた。

熊本県のある学校に保護者から電話があった。給食のときに子どもたちに「いただきます」を言わせないでほしいと言う。理由を問うと、「給食費を払っているんだから」。
また別の学校では、「『いただきます』は宗教行事みたいだからやめてほしい」という保護者からの要望を受け、代わりに笛を吹くことにしたという。「いただきます」は給食開始の合図と捉えられていたのか、と情けなくなる。

(「もったいない語辞典」村上信夫「いただきます」より一部を要約)


これを読み、「そうそう、ずいぶん前に『いただきます論争』というのがあったなあ」と思い出した。
事の始まりは「永六輔その新世界」というラジオ番組に寄せられた一通の手紙。
永さんが「びっくりする手紙です」と前置きして紹介したその内容とは、ある小学校で児童の母親が「給食の時間にうちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているのだから、言わなくていいではないか」と申し入れた、というもの。
それにはリスナーから大きな反響があり、大半が母親に否定的な意見であった。が、少数ながら賛同する人は存在し、
「食堂で『いただきます』を言ったら、隣のおばさんになんで?と言われた。『作ってくれた人に感謝して』と答えたら、『お金を払っているんだから、店がお客に感謝すべきでしょ』と返ってきた」
といった体験談も届いた。そこから「給食や外食時に『いただきます』は不要か」という議論が起こったのである。

「『いただきます』は必要ない」と学校に電話をかける親がいることにはそれほど驚かない。わが子の給食費を出し渋る親がいるご時世だ、そういう“常識”を持った人がひとりやふたりいても不思議はない。
当時私がショックだったのは、「それは人から物を恵んでもらったときに使う言葉だ」という母親の言い分を学校側が一理あるとして受け入れたことだ。

その一理はいったいどこにあるのか。
番組に届いた母親を支持する手紙の中には、手を合わせる仕草を宗教的行為だとする意見があったという。
私はそれまで、この「手を合わせる」について深く考えたことがなかった。幼稚園の頃から「手を合わせる」「いただきますの言葉」「軽くおじぎ」は三点セット。人が「はい、チーズ」と言われたらピースをするようなもので、「いただきます」で自然に出る動作だ。そのあと箸をとるという流れが体に染みついていて、食事前のルーティンである。
しかし、「拝む」に通じると言われてみれば、なるほどそのポーズは合掌だ。仏教を連想して抵抗を感じる人もいるのかもしれない。
とはいえ、「特定の宗教の押し付けにあたる」という訴えには、手を合わせるのをやめるという形で対処すればすむ話であろう。
たしかにもう、号令をかけて全員に「手を合わせる」をさせる時代ではない気もする。大事なことはなんなのかを考えたら、手は例えばももの上に置いていたってかまわないとわかるはず。「いただきます」ごとなくす必要はないじゃないか。

小さい頃、米という漢字の由来や「一粒の米に八十八人の神様が宿っている」「ごはん粒を残すと目がつぶれる」といった話を祖母から聞かされた。だからだろうか、私は茶碗にごはん粒を残さない。
牛や豚や鶏や魚の命、自然の恵みに対して、それらの生産に携わった人、調理をしてくれた人、給食費を払ってくれている親に対して、平和に食事がとれる環境に対してありがたいという気持ちを持つことを教えるために、子どもには「いただきます」が必要なのだ。
そのことを「こっちは代金を払っているんだから、それを言う理由がない」と主張する母親に理解してもらおうとするどころか、それもそうかと納得してしまうとは……。

そして、「いただきます」は必要ないと考える人は「ごちそうさま」も言わないだろう。
冒頭のコラムには、天ぷら屋で「いただきます」と言おうとした妻と娘を「言わなくていい。金を払うのは俺だから」と制した男性客の話も載っていたが、そういう人が「ごちそうさま」を口にするとしたら誰かに奢ってもらったときくらいじゃないだろうか。
でも、感謝の閾値は低いほうがいい。日々の暮らしにありがたいと思えることが少ないよりたくさんあるほうがきっと幸せだ。



(2024年3月23日 読売新聞夕刊 「もったいない語辞典」)


【あとがき】
高齢の患者さんと話していると、「おかげさんで」という言葉をよく聞くんですね。若い人が「おかげさまで」を口にすることはあまりないですよね。私たちがなんとも思わないような小さなことにもありがたみを感じて、たくさんの人に感謝して生きているんだろうな、こんなふうだったら心も穏やかでいられるだろうなといつも思うのです。


2024年03月10日(日) 「結婚は○○だ」の○○に言葉を入れるとしたら。

ばたばたしていて、昼休みに入るのが三十分遅れた……のはいいのだが、休憩室のドアを開けて、しまったと思った。先輩のA子さんがまた「オッサン、オッサン」と連呼している。
オッサンとは彼女の夫のこと。彼がいかに不快でストレスを与えてくる存在であるかを、A子さんはお弁当を食べながらしょっちゅうみなに話して聞かせるのだ。
ひそかに「ジャイアンリサイタル」と呼ばれているそれが始まると、私は「歯磨きしてこようっと」「記録ができてないからお先に」などと言って仕事に戻ることにしている。でも、今日はそれができない。

自分で言うのもなんだが、私は人の話を聴くほうだと思う。
興味のない話だと上の空なのが見て取れる人がいるが、もちろんそんなことはしない。自慢話やのろけ話でも「マウント取ってんの?」なんて思わず、ちゃんと相槌を打つ。
しかしながら、パートナーの悪口だけは別。
「あなたにとってはデトックスなんだろうけど、その毒を浴びるこっちは……」
と心底うんざりする。
以前、サークルの創立記念パーティである男性に十年ぶりに再会したら、離婚調停中だという。彼は妻がいかに思いやりがなくわがままで話の通じない相手であるかをとうとうと語り始めた。
「もうちょっとわかってくれてもいいと思うんだけどね。自分さえよければって人だから、しかたないのかな。でも悲しくなっちゃうよ」
しかし、「大変だね」と声をかける気にはならなかった。
まるで似つかわしくない場でこんな大勢の前で夫婦関係を披露して。あなたも自分のことしか考えていないじゃないの。

「私は貧乏くじを引いたからさあ」
とA子さんが言うのを聞いて、ふと思い出した。
オードリーの若林正恭さんが自分みたいな人間が結婚してもいいんだろうかとプロポーズをためらっていたとき、世間話もするかかりつけのドクターに「結婚はくじ引きです」と言われたという。
別れるときは別れるし、幸せになるときは幸せになる。どうなるかは引いてみないとわからない、と。が、まだつづきがあった。
「ただ、末吉を大吉にできるくじ引きです」
引いたときは末吉でも、大吉になる可能性を秘めたミラクルなくじ引き。それで若林さんは決心がついたそうだ。
A子さんが引いたのは最初から「貧乏くじ」だったんだろうか。



「結婚は○○だ」の○○に入れる言葉は人によっていろいろだ。
よく耳にするのは「結婚はバクチ」。
人は結婚生活によって幸せにも不幸にもなるから、伴走者選びは人生を懸けた賭けである、と。私はそんなに大げさに考えたことはないけれど、まあ一理ある。
結婚は運ゲーだ、という人もいる。結婚前に知れることより生活を共にする中でわかることのほうがずっと多い。それが吉と出るか凶と出るかは運次第……。ふむ、わからないではない。
「結婚は人生の墓場」はもはや慣用句になっている。これだけ離婚が多いご時世である、そう感じている人は一定数いるんだろう。
「だんなは妻と子どもと家のローンという人生の三大不良債権を背負うハメになる」
「結婚は百害あって一利なし」
ドラマ『結婚できない男』の四十歳独身の主人公、桑野信介もこう言っていたもんねえ。

一方で、違和感があるのは「結婚はガチャ」だ。
高齢の女性患者さんから「結婚式の日に初めて夫の顔を見た」という話を聞いたことがある。そんなふうに親が決めた許婚とするしかなかった時代の結婚ならそうかもしれない。
でも、いまは結婚するもしないも誰とするかも個人の自由。自分で相手を選んだのにガチャと言うのか。
パートナーが病気になったり浮気をしたりリストラされたり義父母が常識のない人たちだったり。結婚後のトラブルやリスクはたしかに“選べない”。
しかし結婚するとは、この先なにが起きても引き受ける覚悟を持つということではないんだろうか。結婚前にはわからなかった、こんなことは予測できなかったとガチャを持ち出してくるのは違う気がする。
親ガチャはあっても夫ガチャや妻ガチャはない、と私は思う。

さて、私が○○を埋めるとしたら。
恋愛には興味がないし、子どももいらない。でも「既婚者」の肩書きがほしいと婚活をしていた知り合いがいる。親や親戚からの圧も鬱陶しいが、職場などで「結婚できない人」という目で見られるのが耐えがたいのだと言っていた。
「『独身』からいっぺん卒業できれば。バツがついたってぜんぜんかまわない」
そういう理由で結婚を望む人がいることに驚いたけれど、たしかにそれは「既婚」というステータスをくれる。
そして、私自身も妻、母、嫁という“ポスト”を得て、ひとりでいたら一生接点はなかったであろう人たちと出会い、未知の世界に飛び込んだ。
私の未来は変わったと思う。
だから、私にとって結婚は人生で最大の「キャリア(経歴)」かな。

【あとがき】
結婚は縁のものだと思っています。どんなに好きでも結婚に至らなかった人は縁がなかった。逆に、のちに別れることになったとしても一度は夫婦になったということは縁のある人だったのだと思う。
縁は「運命」とちがって流動的なものだから、一生安泰を保証してはくれません。夫婦仲は双方がそのための努力をしつづけることで維持できるのだと思います。