その記事に三つ目の誤字を見つけたとき、指が自動的にブラウザの閉じるボタンを押していた。
ネットニュースを読んでいると、ときどきこういうことがある。どこよりも早くアップしようと、タイトなスケジュールで書かれたのだろう。
しかし、文脈から正しい変換を推測しながら読まなくてはならないような記事を信用できるだろうか。報酬をもらうのによくこんな雑な仕事をするなあとびっくりしてしまう。
私はライターや編集者といった肩書きの人がプライベートでやっているブログをいくつか読んでいるが、誤字や脱字を見たことがない。プロは仕事でなくとも自分の「書き言葉」にはプライドを持っているんじゃないだろうか。
私はかれこれ二十年以上、こういう文章をweb上で公開しているけれど、誤字や脱字はほとんどないと思う。
漢字の誤変換もタイピングミスもしないもん、という話ではない。投稿ボタンを押すまでに書いたものをしつこいくらい読むため、間違いに気づかないままアップしてしまうということが起こりにくいのだ。
記事を書く手順は昔から変わらない。
まずワードで下書きをする。この段階では細かいことは気にせず、とにかく最後まで書いてしまい、その日はそこまで。長文のため、書き終えたときにはあたまの中はその内容一色になっている。その状態で推敲しようとしても不具合が目に留まらないから、書いたものは少なくとも一晩は寝かせることにしているのだ。
窓を開けて部屋からタバコの煙を追い出すように、眠っている間にあたまの中の空気を澄ませる。「えーと、昨日なに書いたんだっけ」くらいまで忘れてから下書きを読むと、粗がよく見える。
誤字や脱字を直したり、語順を入れ替えたり、冗長な部分を削ったりして「こんなもんかな」と思えるレベルになったら、フォントを変えて読んでみる。明朝体とゴシック体とでは印象がだいぶ違い、手を入れたくなる箇所が新たに見つかる。
その後、ブログサービスの記事作成画面に文章を移す。プレビューを確認しながら改行や区切り線を加えていき、出来上がりとなる。
そんなわけで、文章の手直しには毎回かなりの時間と労力を費やす。その配分は下書き7の推敲3というところか。
しかしここまでしても、更新したばかりのものを読んで、
「うーん、ここは“である”より“だ”のほうがいいかなあ」
「この部分はやっぱりいらなかったかも」
などと思うのである。しかたなく直す。が、悲しいかな、仕事から帰るとまた気になるところを発見してしまう。まさに底なし沼だ。
こんな書き方は「更新は月数回。時間があるときに書く」というスタンスだからできることだろう。ニュースサイトに掲載する「鮮度が命」の記事と違って、原稿の完成を急ぐ必要がない。
その「締め切りがないこと」に加え、「納得のいくものしか作品リスト(記事一覧)に入れたくない」という潔癖さが私をあきらめの悪い書き手にしている。
でも、“自分にとってのクオリティ”にこだわってきたからこそ、これだけ長くこの趣味がつづいているのだとも思う。
どうしてここで文章を書いているの?と訊かれたら、「書くことが好きだから」と答える人が多いだろう。でも、私が好きなのは書くこと自体ではなく、書いたものを後から読むこと。 あるオフ会で過去記事について話していたら、「更新後に読み返すことはない」という人が多数派で、とても驚いた。 「投稿したら自分の手を離れたという感じがするから、執着がない」 「次書くものに気持ちが向かうから、過去の文章を読もうとは思わない」 と口々に言う。投稿ボタンを押してからがこの趣味の醍醐味、の私とは正反対である。 さすがに十五年も二十年も前のテキストは感想でもいただかないかぎり読み返すことはないが、ここ数年で書いたものはときどき読む。たまった記事はブログの書籍化サービスを使い、本の体裁にもする。この楽しみのために、私はひたすら「自分が読みたいと思うもの」を書いてきた。
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どれだけの人に読まれたかではなく、更新した後にも何度でも読み返したくなる文章であるかがクオリティの指標。
娘が友だちと撮ったプリクラのアルバムをしょっちゅう眺めていて、「そんなに自分の顔を見て楽しいのかな」と思うが、自分の書いたものを飽かず読んでいる私のほうがよっぽどナルシストかもしれない。
さて。今日の記事に誤字や脱字があったらカッコ悪すぎるから、投稿ボタンを押す前にもう一回通しで読んでおこうっと。