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2022年06月30日(木) 大食いと恋のチャレンジ

ひさしぶりに御座候を買って帰ったら、包みの中に紙が一枚入っていた。
公募した御座候にまつわるエッセイの中から選ばれた一編が掲載されており、年配の男性が大学生だった頃の思い出をつづったものだった。
御座候によく似た大判焼の店があり、十個食べるとタダになるというので柔道部の仲間五人で出かけた。全員完食し、数日後新たなメンバーも連れて再び店に行ったところ、「十五個食べたら無料」というルールに変わっていた------という内容である。

あれだけ餡がずっしりの大判焼を十個というのはなかなかハードだ。とはいえ、大学生の男の子だったら柔道部でなくても食べられるかもしれない。
大学生の頃、学校の近くのカレーハウスCoCo壱番屋に「1300gカレー」という大食いチャレンジ用メニューがあった。通常のカレーの四皿分以上の量なのだが、二十分以内に食べきれば無料になるのだ。
金欠にあえぐサークルの先輩たちはこぞって挑戦し、けっこうな割合で成功していた。達成者はポラロイド写真を撮られて店内に張り出される。ココイチに食べに行くと壁のあちらこちらに見慣れた顔を見つけ、苦笑したっけ。
あのくらいの年だと底なしの胃袋を持つ男の子はめずらしくないんだろう。



実を言うと、私も過去に一度だけ大食い競争に参加したことがある。
やはり大学時代のこと。同級生のAくんにローカル局で深夜に放送している番組に出ないかと誘われた。
五人一組で参加する大学対抗のクイズ番組で、何度か見たことがある。私はその場で「いいよ」と答えた。
Aくんは地元に彼女を残してきており、私は長らく“女友だち”という不本意な立場に甘んじていた。しかし、勝てば居酒屋の一年間飲食半額パスポートをもらえる。せっせと彼を誘って飲みに行き、思いを遂げるんだい。そんなことを瞬時に思いめぐらせたのだ。

数か月後、男三人と女二人のチームで出場することになった。
クイズ番組と銘打っているが、早押しクイズのほかにも体力勝負のゲームと週替わりのゲームがあり、三つのコーナーの合計点で勝敗が決まる。
早押しクイズは楽勝で、ほとんどのポイントをこちらがいただいたと記憶している。体力勝負のゲームは反復横跳びの回数を競うもので、これまたわがチームが優勢であった。
「大ゴケしなきゃいけるぞ」
そして、いよいよ最終ゲーム。
「今週のみなさんにやっていただくのはーー」
司会の桂きん枝さん(現・桂小文枝さん)が叫ぶ。
「大食いバトルだあっ!!」
あ然とした。週替わりのゲームがよりによって大食い競争、しかもそれを好きな男の子の前でやらなければならないなんて。そんな醜態晒したら、まとまるものもまとまらなくなっちゃうじゃないか。
しかし、カメラは回っている。この状況で私が選択できるのはふたつにひとつ。テレビ映りを気にしてチームの足を引っ張るか。先のことはいったん置いておいて、とりあえずチームのために力を尽くすか。
覚悟を決めた。
……はいいが、何の大食いなのかが不安でたまらない。司会が桂きん枝さんと和泉修さんというところから察しがつくように、この番組はお笑い色が濃い。過去の放送では、出場者が苦悶の表情で丸ごとの大根やらキャベツやらにかじりついていたこともあったのだ。
さすがにあんなのはイヤだよお。

スタジオの袖からカートが運ばれてくるのを息を詰めて見つめる。うやうやしく布が取り除かれ、現れたのは……籐のカゴに山盛りになったイチゴだった。
今回は男女混成チームであることを考慮してくれたのだろう。私、イチゴならがんばれる!
Aくんとの未来がふたたび射程範囲に入った。
と思ったそのとき。隣にいたBくんが悲鳴のような声をあげた。
「ぐわあ、俺、イチゴ食えんのやー」
……へ?
蜂の子やこのわたが出てきたというならわかるが、イチゴである。「とくに好きではない」はあっても、「食べられないほどきらい」なんてあるものだろうか。
が、彼の「食えない」は本当だった。一年間飲食半額パスポートを鼻先にぶら下げられたその状況でも、ひと粒も口に入れることができなかったのである。
後で訊いたら、子どもの頃に練乳をかけたイチゴにアリがたかっているのを見て、どうしても無理になってしまったそうだ。



パスポートは逃したけれど、収録のときにもらったTシャツでAくんとペアルックをするという“彼女気分”は味わえた。
「明日学校、あれ着て行こうよ」
「オッケー」
いま思えば、そんなこっぱずかしいことによくつきあってくれたものだ。

Aくんは卒業後まもなく、遠距離恋愛をつづけていた地元の彼女と結婚した。彼からは三十年たったいまでも誕生日にメッセージが届く。
若い頃、「いまの関係が壊れるのが怖い」と気持ちを伝えずにいる友人を見ると、
「友だちと恋人とでは得られる幸せの濃度も量もぜんぜん違うんだから、いちかばちかチャレンジすればいいのに」
ともどかしくてしょうがなかった。だけど、淡いからこそ末永くつづくのなら、それもありなのかなといまは思う。
人生において誰かと愛し合った時間は、夜空に咲いた大輪の花火のようなもの。思い出すと胸が痛くなるほど美しい。でも、ふと見上げるといつもしずかにそこにある小さな星の瞬きもまた尊い。

【あとがき】
ところで、御座候って地域によって呼び方が違うそうですね。大判焼と呼ぶところが多いみたい。そのほかは回転焼、今川焼、太鼓焼など。
私は関西に住んでいるので御座候(兵庫県姫路市に本社)は子どもの頃からよく食べていますが、ずっと「太鼓まんじゅう」と呼んでいました。すっかり大人になってから「なにそれ」と人に笑われて改めましたが、家では「御座まん」と言っています(なんでだろう。そんなにまんじゅう扱いしたいのか……?)。
それにしても、十個は無理だな。でもケーキ十個だったら、あの頃ならいけたかも(ただし、ケーキはいろんな種類で時間制限なしね)。


2022年06月25日(土) 男性の前開き事情

年下の同僚が「最近、だんなが怪しいんですよね」と言う。彼女のシフトをやたらと気にし、夜勤の日にはきまって飲みに行くらしい。
「でもそれだけじゃあなんとも。“鬼の居ぬ間に洗濯”かもしれないし」
「誰が鬼ですか」
相手の“匂わせ”では?と思うようなこともあったのだという。
「え、ワイシャツに口紅がついてたとか?」
「違いますよ、ひと昔前のドラマじゃないんだから」
「助手席にイヤリングが落ちてたとか?」
「発想が古いなあ」

「こっちが身動きとれない夜勤を狙うなんてサイテーですよ。だから今度、夜勤と思わせて、家から『いまどこ?』ってLINEしてやろうと思って。『家だよ』って返ってきたら、完全にクロですよね」
しっぽをつかんでやると息巻く彼女。しかし、「ほんとに浮気してたらどうするの」と言ったら、とたんに「……どうしましょう」とトーンダウン。
威勢のいいことを言っていても、「知りたい」と「知りたくない」のはざまで揺れ動いているんだよね。早とちりなところのある彼女の思い過ごしであればいいのだけれど。



かく言う私も三十代の頃に一度、本気でやきもきしたことがある。
日曜の夜遅く、夫が出張から帰ってきた。週末返上で仕事だったのだ。
「ビール?それともすぐごはん?」
と声をかけた私は彼がスーツのスラックスを脱いだ瞬間、ふきだした。
「パンツ、後ろ前に履いてるーー!」
夫は前開きがお尻についていることを確認して、「……ほんとだ」。
いくらぴったりフィットではないトランクスとはいえ、前後を間違えたらその心地の悪さでわかりそうなものなのに。ズックを左右逆に履いていても平気な子どもみたいで、ちょっとかわいい。

という話を翌日同僚にしたところ、彼女が言った。
「じゃあご主人、昨日一日どうやっておしっこしてたんだろうね」
本当だわ、どうしていたんだろう。だって昨日はスラックスのファスナーを下ろしてもパンツの窓はなかったのである。どうやって中身を取り出していたのか。
「それなのに、逆に履いてることに気づいてなかったんでしょ。それって不思議じゃない?」
なるほど、ヘンだわと思った。
帰宅は二十二時過ぎ。朝ホテルでシャワーを浴びて着替えてから、四回や五回はトイレに行っているだろう。そして、一度でも朝顔で用を足していたら私に笑われたとき、彼の反応は「そうなんだよ、窓がなくて焦ったよ」とか「だから今日はトイレが不便だった」というものになっていたはずではないか。

「休日出勤とかいって、悪いことしてたりしてネ」
同僚が冗談めかして言う。……笑えない、ちっとも笑えない。
神妙な面持ちの私を見て、彼女は一緒にいくつかの可能性を考えてくれた。そして、私たちはこう推理した。
「夫がそのことに気づかなかったのは、パンツを逆に履いてから一度もトイレに行かずにすむくらいの時間しか経っていなかったから。つまり、家に帰る少し前にどこかでパンツを脱ぐようなことをしてきたのではないか」
これは確かめねばなるまい。

その日の夕食後、「やっぱりどう考えてもおかしいと思うんだよね」と切り出した。
「なんのこと?」
「昨日一日中パンツを逆に履いてたことにあなたが気づいてなかったこと」
「まだその話してるの」
「まだその話じゃないわよ、おかげで今日は仕事が手につかんかったわ!」
私は「気づかないなんておかしい」と思う根拠を述べ、夫はふんふんと頷きながらそれを聞いた。
「なるほど。パンツに窓がないとトイレができないのにそれに気づかず一日過ごせるはずがない、さては風俗に寄ってきたか浮気してきたか……と考えたわけだね」
「そう、そう」
私はつづけた。
「正直に言って、怒らないから。あ、いや怒るけど。っていうか怒るどころじゃすまないけど。とにかく本当のことを言ってちょうだい」

すると、夫がくっくっと笑いだした。
「そりゃあ気づかないよ。だって僕は前開きは使わないもん」
「使わない?じゃあどうやっておトイレするのよ」
「それはね、こうやるの」
夫はその場でズボンのファスナーを下ろし、その手順を見せてくれた……のだが、私は目が点になった。思いも寄らない方法だったからだ。
夫はズボンの前開きから手を突っ込み、トランクスのウエストのところをがばっと下ろして中身を引っぱり出してきたのである。
そして、自分は前開きを必要としないためそれのあるなしは気にも留めない、だからトランクスを逆に履いていることに気づかなかったのだ、と主張した。

誰に確かめたことがあるわけでもないが、ハト時計のハトが小窓以外の場所から飛び出すことがないように、私は男性のそれも必ず前開きから出てくるものと思っていた。ズボンの中でパンツをずり下ろして引っぱり出す、なんて人がいるとは……。
が、そのときふと思いついて、私はタンスから夫のトランクスを何枚か取り出した。どれも前開きのボタンがきちんと留まっている。
ようやく私は「前開きは使っていない」という言葉を信じる気になった。夫は途方もなく横着な人である。もしふだんそれを使っていたなら、ボタンは外れたままになっているはずなのだ。

それにしても驚いた。
夫はドアを開けっ放しでトイレをしたり、風呂上がりに素っ裸で部屋をうろうろしたりが平気。「恥ずかしい」という感覚に疎い。そういう人だから、小用の作法もほかの人とは違っていたのね……。
と納得しつつも、念のため訊いてみる。
「ふつうの人はちゃんと前開きのところから出してくるんでしょ?あなたがヘンなだけだよね?」
「知らないよ、ほかのやつがどうしてるかなんて。人によっていろいろじゃないの」
「えっ、窓から出さない人もいるの?」
「まわりのやつに訊いてみりゃいいじゃん」
「『おしっこするとき、どうやって取り出しますか』って?そんなこと誰に訊くのよ」

……訊いてみました。日記書きの友人たちに。
そうしたら、夫と同じ「ズボン内ずり下ろし派」がいただけでなく、トランクスの裾から出してくるという人、小も座ってするという人まで見つかったのだ。豪快にズボンを脱いでしている人を見たことがあるという証言も得られた。
へええ!男性の小用の流儀というのはワンパターンしかない(たぶん)女性に比べ、バラエティに富んでいるんだなあ。
夫が変わり者でなかったと判明してよかった。いやいや、夫の潔白が証明されてよかった。
ということで、浮気疑惑は一件落着したのであった。めでたし、めでたし。



ところで、私はこの話を当時の日記に書いた。それはいつだってズボンとパンツのふたつの窓を通って出てくるものと思い込んでいた私には、そのくらい衝撃だったのだ。
そして、文中で「ふだん履きのパンツの種類」と「あなたは小用の際、前開きを使うか」を読み手に問うたところ、たくさんの回答が集まった。

「ふだん履きのパンツ」については、トランクスが六割弱を占めていた。
とはいえ、世代ごとに人気のタイプがはっきり分かれていた。三十代・四十代はトランクス、二十代はボクサーブリーフが優勢。ビキニは少数派だろうとは思っていたけれど、たったの四人と予想以上に少なかったな。褌は三十代の方にお一人いらっしゃった(どこで買うのかな)。
どのタイプを履いているかによって取り出し方に傾向があるかもしれないと思ったのだが、今回の調査(?)では明らかにできなかった。


さて、本題。「前開きを使うか、使わないか」の結果はこうなった。
前開きから出す男性は五人に一人もいないという事実が判明し、あらためてびっくり……。

そして、私と同じように「驚いた」という女性は多かった。だよねー、そんなこと知らなかったよねえ。

30代 女性 トランクス 使わない
結婚して数年経った頃、新しく買ったトランクスを履いただんなが「このトランクス、窓の所にボタンがついてなくてパカパカするからボタンつけて」って言ったんです。「いちいちボタン開けなくて済むからいいじゃん!」と答えた私に、「窓なんか使わないから開きっぱなしはイヤだ」と答えるだんなに訳がわからず……(@_@?
「ええっ!窓使わないでどうやってするの??」と驚いて訊く私に説明したのが、正にずり下ろし法。
蓮見さん同様、男の方は皆さんあの小窓を使用して用を足すものだと思い込んでいた私には晴天の霹靂、目から鱗の出来事でした。

30代 女性 ボクサーブリーフ 使わない
私もつい二、三日前蓮見さんと同じことが起こって、夫に「前開きは使わないよ」と実演されてびっくりしました。実演されてもいまいち信じられず、ほんとかな?と思って弟(トランクス)にも質問したら、同じ答えでした。ちなみに父(トランクス)は前開きを使っているそうで、常にボタンを外しているそうです。
「そんなこと弟とかに確認するなよ」と夫に言われたけど、なぜかとっても興味がありますよね。でも、夫はボクサーブリーフ。ほんとに気付かなかったのかな……?


八割もの男性が前開きを使用していないと聞いて不思議に思うのは、「窓はそのためについているのに、なぜ使わないの?」ということ。
理由を訊いてみましょう。

10代 男性 トランクス 使わない
ズボンはチャックをずりりと上げ下ろしするだけで済むんですが、前開きはボタンなので手間取ることが多いのです。ボタン探して、外して、隙間をかきわけ中身を取り出し、用を足して収納してボタン穴を手探りしてボタンを留めて。とても面倒です。

20代 男性 トランクス 使わない
穴を使わない理由は尿の切れが悪くなるから。穴を使うと、根本の部分が少々窮屈になって尿が出にくくなるわけです。サイズの問題もあるでしょうが。
それと、男性は用を足した後にブツをブルンブルンと振って竿の中に残った尿を切りますが(しない人もいます)、穴から出すと狭くてこのブルンブルンがしにくいです。


「前開きは使わない」と答えた人のほとんどが上記のどちらかを理由に挙げていた。あの窓は誰にでも使い勝手のよいものではないみたいだ。
となると、「じゃあ最初から窓なんてついていなくていいんじゃないの?」と言いたくなる。梅雨時や冬なんかは干してもそこだけ乾きが遅いし……。
そのあたり、どうでしょうか。

30代 男性 ビキニ 使わない
パジャマについてるポケットみたいなもので、機能としての価値ゼロ。

30代 男性 トランクス 使わない
前開きはパンツの前後を確かめるためだけの機能ですが、不可欠です。間違えて履くと気がつきますが、直すのは面倒ですから。


使わない派にはその存在感はこの程度のよう。
しかし当然のことながら、前開きから出す人にとってはなくてはならないものである。

30代 女性 ボクサーブリーフ 使う
無印良品のボクサーブリーフを買ってみたら、「前が開かない」と夫からクレーム。穴が無いと困るらしいです。

40代 男性 ボクサーブリーフ 使う
前開きを使うのが一番合理的です。朝顔の前で無理矢理取り出している男性やベルトを外しズボンを下げている男性を見ると、「なにもそんな苦労をしなくても」と思ってしまいます。


という声もちゃんとあるので、結局のところ、使うか使わないかは最初にどうやって教えられたか、なんじゃないだろうか。

30代 男性 ブリーフ 使う
家の事情で女だけの家庭で育ちました。トイレは座ってするものと習い、前開きの存在理由がわからず中学まで知らずに座ってしていました。ちなみに「小用後は拭く」ものとも習ってました。
中学の時に同級生に前開きから出すと言うことを聞いて理解に苦しみました(当時は前開きから出して座ってすると思ってた)。よく職場で朝顔に向かった二人が談笑しているのを見ますが、私には無理。朝顔に向かうことはもちろん、人がしている姿を見るのも恥ずかしいです。



ちなみに、前開きを使わない人たちの取り出し方で圧倒的に多かったのが、ズボン内ずり下ろし法。
実に四人に三人がこの方法を採用している。夫は“変わった人”ではなく、むしろふつうの人だったのだ。
浮気を疑うわ、変人扱いするわ……。私ったらヒドイわあ。


というわけで、私の若かりし頃(そうでもないか)の壮大な勘違いにお付き合いくださって、ありがとうございました。

【あとがき】
前開きのないパンツが売っていることも、このとき読み手の方に教えてもらって初めて知ったのでした。
知らないままだったら、「買ってきたトランクスに窓がない!これでどうやっておしっこしろっていうの」とぷりぷりしながらお客様窓口に電話をかける女になっていたかもしれない……。
あー、よかった。なんでも書いてみるものだ(バカな話も真剣に書く、それが信条。えっへん)。


2022年06月18日(土) 義理読み無用

同僚が休日に京都に行ってきたという。
風情のある街並みを散策しながら、「せっかく来たんだから京都らしい店で食べようよ」ということになり、町家造りの小料理屋風の店の暖簾をくぐった。落ちついた雰囲気に「高かったらどうしよう」と話しながらふと見ると、壁に「ご紹介のない方はご遠慮いただいております」と貼り紙がしてあるではないか。
場違いなところに足を踏み入れてしまった、とあわてて店を出たそうだ。

「『一見さんお断り』の店って本当にあるんだね」
と彼女が言うのを聞いて、ふと思った。
enpituのこのページもバーチャルな空間に開いた個人商店みたいなものだが、エッセイや日記といった“読み物”を品揃えするこちらの店は一見さん大歓迎である。
もし有名どころにリンクされてアクセスが急増しても、“常連さん”がページに入れなくなるなんてことはない。新規のお客が増えても、不便や迷惑をかける心配はないのだ。

とはいえ、どんな人でも来てくれたらうれしい、ありがたいというわけではない。
日記書きの友人がめずらしいカウンタをブログに取りつけたことがある。何十秒か経過したときにはじめてカウントする仕組みになっている。彼女はテキストを最後まで読んでくれた人がどのくらいいるかを知りたかったのだ。
そうしたら、アクセス数がいつもの四分の一になってしまったという。彼女のサイトを訪れるのはふだんから交流のあるメンバーが多かったため、ショックを受けた。
「つまり、読んでくれてると思ってた人のほとんどがろくに読まずにバックボタンを押していたのね……」

誰かになにかをしてもらったら、同じだけお返ししないと申し訳ないという気持ちになるものだ。
「うちのを読んでもらってるから、◯◯さんのところも行っておかないと」
「コメントくれたから、私もなにか書きに行かなきゃ」
という具合に。しかし、私はこう思われるのがイヤなのだ。
たとえ「いいね!」一個でも受け取りっぱなしでいることにすまなさを感じる人はたぶん少なくない。だから、私は足あと代わりに押すことはしない。義理読みを招きたくないばかりに、行きつけのページにもそれを贈ることには慎重になってしまう。
見せかけの訪問や中身の詰まっていない「いいね!」はいらない。私は喜ばないし、あなたの時間ももったいないから。

だから、ブログ自動巡回ツールというものがあると知ったときはあ然とした。
「毎日の足あと作業に追われ、貴重な時間をムダにしていませんか?これを利用すればワンクリックで登録ブログに足あとをつけることができ、アクセスアップが期待できます」
だって。
義務感で読まれたくはないけれど、Botに巡回されて「いいね!」されるのはさらにノーサンキューだ。フォロー返し目的で自動的にフォローを行う機能もついているというから、もう笑うしかない。



「どうしてフォローをはずしたんですか」とメッセージが届いて、友人が返答に困っていたことがある。
しかし、年を取ったり生活が変わったりすれば嗜好や関心事は変化するもの。フォローリストはその時々で見直せばいいのだ。
逆に言えば、「あれ、フォロワーがひとり減ってる……」と気づいても、「嫌われるようなことを書いただろうか」なんて思い悩む必要はないということ。
それに。私は同じ書き手として、誰かが真剣に書いたものを義理や惰性で読みつづけるのは失礼だと思うんだ。

【あとがき】
不特定多数に向けてweb上に文章を公開するこの趣味には、「書く」「読む」「交わる」の三つの楽しみがあります。でも「読む」楽しみは、自分が読みたいと思うものをきちんと読むことで味わえる気がします。


2022年06月10日(金) キラキラの記憶

先日、作家の林真理子さんが日本大学の次期理事長に決まったというニュースが流れた。
前理事長による脱税事件などの不祥事を受け、七月から新体制を発足するにあたっての人事であるが、林さんは二〇一八年に日大アメフト部の悪質タックル問題が起きたときから「日大のオレ様体質を変えなければ」と言っていた。
「日大というところはとことん根が腐っている。理事会を解体しなくては根本的解決にならない。こうなったら私が立候補する。もちろん無給でやる。母校のためにひと肌もふた肌も脱ごうではないか」
と書いていたのだ。

林さんは日大の芸術学部卒。エッセイにはたまに大学時代の話が出てくるが、卒業生であることに誇りを持っていることが伝わってくる。
大学運営に携わったことのない人間になにができる、お飾りで終わる、という声も聞かれるが、「地に落ちた母校の信頼をなんとかしたい」という林さんの思いは本物だ。
なにかを守りたい、大切だと思う気持ちほど大きな原動力、推進力になるものはない。もし私が日大の学生だったら、あの記者会見を見て心強くうれしく思っただろう。



ところで、林さんの「愛校心は誰にも負けないつもりだ」を聞いて、ふと思った。
愛校心、か。私はどうだろう?
寄付をしたこともない私がそれを語るのはおこがましいかもしれない。でも、母校への愛着はしっかりある。

少し前、書類を整理していたら、大学名入りの未開封の封筒が出てきた。開けてみると成績証明書であった。就職活動のときに会社に提出するために何通か発行してもらったのだろう。
それを見て、子どもが言った。
「ママって頭いいのかと思ってた……」
あらま、こんな成績とってたんだ、と自分でもびっくりだ。……いや、当然か。学校、サボってばっかだったもんな。

大学のすぐそばに住んでいたのに授業にも出ず、いったいなにをしていたか。私の大学生活はサークル活動と恋愛、この二本立てだ。
そのサークルに入るためにその大学を選んだから、四年間サークルにどっぷり浸かった。
週二回の例会が二十一時に終わったあと、近くの食堂で晩ごはんを食べ、誰かの家に移動して朝までつづきをするというようなことをしょっちゅうしていた。午前に必修の授業があると這うようにして行き、そうでない日は起きたら学食でお昼を食べ、ついでに講義を受けたり受けなかったり。
例会に合宿、大会出場、テスト明けの打ち上げに追いコン。楽しかったことばかりじゃない。マンモスサークルゆえの運営のむずかしさがあった。上を目指す派と「強くなるより楽しみたい」派がぶつかり、サークル分裂の危機もあった。そこが私の居場所だった。
FacebookにはOBの多くが登録していて、この年になっても誕生日にはメッセージがいくつか届く。私が同窓会に行くのもサークルのものだけ。
このつながりは私が大学で得た宝物である。

忘れがたい恋もした。
ゼミコンのあと家まで送ってくれたあの夜から、卒業前に「もうすぐ離れ離れになるけど、一緒にこれつけてがんばろうな」とペアウォッチを贈り合ったことまで、昨日のことのように思い出せる。
生まれ変わっても、きっとまた好きになる。

取り柄もない平凡な女の子にカラフルな日々を送らせてくれたあの場所に、本当に感謝している。
人生の中で、人がなにかにうつつを抜かせる時間はかぎられている。だから私は子どもにも、大学に行ったら勉強よりも“青春”をしてほしい。何十年経っても、なにかの拍子に思い出すと宝石箱を開けたみたいにキラキラが飛び出してきて、頬が緩んだり胸がきゅっとなったりする……そんな経験を。
「楽しかったなあ、あの頃」
「あの仲間に出会えてよかった」
「彼のこと、本当に好きだった」
満たされた日々はその先の人生にも効きつづけ、あなたを支えてくれるから。

【あとがき】
内定をもらい、就職活動を終えたとき、「ああ、学生生活が終わるんだ」と胸が締めつけられたのでした。あの四年間は青春そのものでした。


2022年06月01日(水) 落書きに魅せられて。

次の休みが待ち遠しい。大阪で開催中の『バンクシーって誰?展』に行こうと友人と話しているのだ。
バンクシーは世界各地に神出鬼没に現れ、街中の壁をキャンバスにする正体不明のストリートアーティスト。赤い風船に手を伸ばす少女の絵をあなたも見たことがあるかもしれない。
他人の所有物に無断で絵を描くのは法に触れる行為であるが、社会風刺とダークユーモアが込められたその“落書き”はアートとして高く評価されており、オークションでは億を超える値がつく。バンクシーが大英博物館に勝手に作品を陳列したら、その価値が認められて正式に展示されることになったというエピソードは有名だ。

私はノスタルジーを感じさせるその絵柄も好きだが、彼が美術館ではなく街角に絵を“置く”ことでより広く自分のメッセージ------貧困や人種差別、弱者への無関心に対する批判、資本主義や大量消費社会への警告、反戦や反権威をテーマにした作品が多い------を伝え、見る者に気づきを与えているところに惹かれている。
たとえば、下の絵のタイトルは『クリスマスおめでとう』。
イギリス最大の製鉄所があるポート・タルボットという街のガレージの壁に描かれたものだ。

口を開けて少年が食べようとしているのが雪でないことは、隣の壁とひとつづきで見るとわかるようになっている。

バンクシーは作品について多くを語らないが、地元の人々を悩ませている製鉄所から排出される粉塵に対する抗議であろうと解釈されている。
なぜここにこの絵が描かれたのかを知ると、ただ「きれいな絵だなあ」「うまいもんだなあ」では終わらないのだ。

「すごい高い場所に描いてある絵もあるよね。どうやって描いてるんだろう」
と友人が言う。
バンクシーが公開している制作動画では、フードをかぶった男性が暗闇の中で脚立を運び、額に着けたライトの灯りを頼りに壁にスプレーを吹き付けていた。そして朝になり、刑務所の外壁にタイプライター用紙をロープ代わりにして脱走しようとしている囚人を警察官が発見するのである。
(ちなみにこの絵は、詩人オスカー・ワイルドが同性愛の罪で投獄されたイギリスのレディング旧刑務所の保存を求める市民運動への支持表明と見られている。ワイルドはこの刑務所の中で『獄中記』を書いた)

このようにハシゴがないと描けない、大掛かりで時間のかかりそうな作品も多い。誰にも見られずに仕上げて立ち去るなんて不可能だと思われるのに、素性は知れないまま。とても不思議だ。
しかし、その匿名性が彼の作品の価値を高めているとも思う。



「いったい誰がどうやって描いたのか」といえば。
大学時代、サークルに京都大学から来ている男の子がおり、「うちの大学に面白いものがあるから、見せてあげる」と言う。後日彼のキャンパスに遊びに行った私は、彼が指差す方を見てびっくり。
校舎の壁面をめいいっぱい使って巨大な絵が描かれていたのだ。不気味なお化けのようなものが描かれている。


「これ、落書き……?誰がどうやって描いたん!?」
「さあ。でも一夜のうちに出現したらしいよ」

それから何年か後に「kyoto-u.com」内の掲示板に、

1987年4月28日に登場。深夜のうちに屋上からザイルで振り子トラバース(屋根の中心にザイルをセットし、ぶら下がる登攀者を下からサブのザイルで右に左に振り子のように振る、アルプスのアイガー北壁で用いられる高度な技術)で書き始められたが、時間切れで朝になり、頸の辺りにスプレーの書き残しがあって未完成なのが残念な出来であった。

というコメントを見つけ、制作者についての謎がさらに深まったのであった。
その後校舎が建て替えられ、もう壁画を見ることはできないけれど、それまで消されることがなかったのは京大が掲げる「自由の学風」ゆえの寛大さだったのだろうか。

京大の落書きといえば、もうひとつ有名なものがある。
京大の前身のひとつである第三高等学校の初代校長、折田彦市先生の銅像だ。
九十年代の初め、何者かによってスプレーで顔が赤く染められ、台座には「怒る人」の文字。これが折田先生像をめぐる、大学と落書き犯のバトルの幕開けである。
巨大壁面落書きは見逃していた大学側もこれには目をつぶらなかった。
しかし、像を洗って元通りにしても入学式や学祭、入試や卒業式などキャンパスに学生が溢れる時期になると、決まってあらたな落書きがなされる。しかも、回を重ねるごとにどんどん芸が細かくなっていくのである。

ある年は新入生のサークル勧誘に借り出され、

またある年は、京大のシンボルから万博のシンボルに……。

またある年は、勝手に嫁に出された。

いたずらが始まってからついに像が撤去されるまでの七年のあいだに、折田先生は三十回近く“変身”させられたという。

消しては書かれ、また消しては書かれ。大学側にとっては腹立たしいことこの上なかっただろう。とはいえ、徹底的な犯人探しをせず、そのつど洗浄することで対処したというところに温情を感じないでもない。
それに、もし折田先生が生きていたとしても、本気で怒りはしなかったのではないかという気がする。まあ、自転車を担がされたりウェディングドレスを着せられたりするたび、「わしになにをさせる」とはぼやいただろうけれど。
誰にも見向きもされずポツンとそこにいるだけより、京大名物としてその時期には学外からも人を集める存在であったほうがいいよねえ……なんて言ったら、不謹慎だと叱られてしまうだろうか。
でも私は部外者の無責任さで、校舎の壁画といいこの像といい、京大生というのはユニークなことを考えるんだなあと感心してしまった。



落書きは犯罪であり、うまい下手にかかわらず正当化されるものではない。
けれども、限られた道具で素早く仕上げなければならないがゆえに、キャンバスに描かれた絵にはない勢いや予定調和でない面白さを感じることがある。
街中で見かける落書きのほとんどは景観を損ない、人を不快にさせるだけの悪ふざけの産物であるが、ユーモアやメッセージ性のあるものにたまに出会うと、どんな人がなにを思って描いたんだろうと想像をめぐらせる私である。

【あとがき】
ストリートアートの先駆者といえば、私の中ではキース・へリングです。大学時代だったかなあ、よく流行りました。カラフルな人型が踊っているようなあの絵柄、なつかしい。それを真似たような落書きは高架下とかトンネルで見られますね。
(テキスト内の画像を快く貸してくださった「私設図書館」の館主様と「折田先生を讃える会」のえる会長様に心よりお礼申し上げます)