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2022年05月26日(木) よりによって……

休憩室のテレビをつけたら、お昼のワイドショーは今日も阿武町の誤送金騒動の話題だ。
容疑者の同級生が「パチンコや競輪が好きで、友達からお金を借りていた」「小学生の頃からお金への執着がすごかった」とインタビューに答えるのを見ながら、同僚が言う。
「ぜったいに振り込んじゃいけない人に誤振り込みされちゃったっていうのが不運の極みだよね」
「まったくねえ。この人以外の四六二世帯のどこに振り込まれててもこんな問題にはならなかったのに」

すると、別のスタッフがため息をついた。
「でもさ、ときどき起こるよね、『よりによって……』って言いたくなるようなこと」
先日、洗濯機の修理に来てもらったところ、「これが奥に詰まっていました」と手渡されたものを見て、キャー!!彼女のブラトップのカップだったのだ。
「詰まるんなら、旦那のパンツでも子どもの靴下でもいいのに、なんでわざわざそれなのよ。もうイヤッ」
すると後輩が言う。
「すごいわかります。私もめっちゃ悪口書いたLINEをよりによって本人に送っちゃって、大モメしたことあります。なんであんな失敗したんだろう」
「神様のいたずらとしか思えないよね。ぜったい遅刻できない日にかぎって目覚ましが鳴らないとか。なにも今日電池切れしなくてもいいでしょうよ……って」



こういう話を聞くと、私もひとつ思い出すことがある。
十数年前、東京に住んでいたときのことだ。玄関を掃いていたら、隣家の奥さんに声をかけられた。
「これがうちの庭に落ちてたんですけど、蓮見さんのところから飛んできたんじゃないかと思って」
彼女が差し出したものを見て、私は悲鳴を上げそうになった。たしかにうちの枕カバーである。しかし、それはただの枕カバーではなかったからだ。

その枕は結婚したときに友人がプレゼントしてくれたものである。披露宴の余興の終わりに彼女たちが言った。
「本当におめでとう!お祝いにイエス・ノー枕を贈ります。○○くんの方は表がイエスで裏がノー。でも蓮見ちゃんはたぶんノーはいらないと思って、イエス・イエス枕にしておきました」
ウケ狙いで作られたド派手な枕を高々と掲げられ、私は「親や親戚の前でなんてことを!」と赤面したあと真っ青になった。そのイエス・ノー枕のカバーだったのだ。

「まああ、すみません」
動揺を悟られないように奥さんからにこやかにそれを受け取り、ちょうど掃除が終わったふりをして家に入った。そして、床に突っ伏した。
たまたま洗濯バサミがはずれ、風に飛ばされたのがタオルでもTシャツでもなく、どうしてこれなの?
仕事から帰ったご主人に、
「ねえねえ、お隣さんったらイエス・ノー枕なんか使ってるのよ〜」
「大きなハートマークのアップリケがついててね、お手製だったわよお」
なんて報告されるんじゃないだろうか……。
ちがう、ちがうの。本来の用途でそれを使ったことは一度もない。大きさと厚みがちょうどいいから、授乳クッションとして利用しているのだ。
ああ、しかし誰がそんなことを察してくれるだろう。

ところが、本当に恥をかいたのは数日後、その奥さんと立ち話の最中にこの件について釈明しようとしたときだった。
「もしかして勘違いされたかも……と思ったら、もうはずかしくって。あははは」
すると、彼女は不思議そうに言った。
「そのイエス・ノー枕ってなんですか」
な、なんですって?
「ほら、『新婚さんいらっしゃい!』でプレゼントされるアレじゃないですか」
「その番組、見たことないんですよね」
うっそー。イエス・ノー枕を知らないとは……。
「なにがイエスとノーなんですか」
と畳み掛けられ、頭を抱える。これからもお付き合いがつづくご近所さんだ、ロコツでない言葉を選ばなくては。
「それはその、なんていうか、夫婦のサインとでも申しましょうか……」
しどろもどろに答える。「今晩オッケー♡」なときはイエスが見えるように枕を置き、「また今度」な気分のときはノーの面を表にする。夫と妻、両方の枕がイエス・イエスで並んだら合意成立というわけで……なんてことを道端で解説するはずかしさ、ばかばかしさといったら。

以来、洗濯物干しには細心の注意を払っている。風のある日は、飛んで行くとまずいものはもちろん部屋干しだ。
そう、こんなこともあるからね……(2022年5月22日付 『勝負パンツと三軍パンツ』 参照)。

【あとがき】
イエス・ノー枕を知らない人がいるとは思わず、おどろきました。関東だったからかな。『新婚さんいらっしゃい!』はもう何十年も見ていないけど、賞品はいまもイエス・ノー枕なのかしらん。
実際に使っている夫婦がいたら、ほほえましいな。


2022年05月22日(日) 勝負パンツと三軍パンツ

同僚が昨日はむしゃくしゃして眠れなかったという。
午後、布団を取り入れようとベランダから身を乗り出して、ぎょっとした。彼女はマンションの二階に住んでいる。真下の部屋には小さな庭があるのだが、その芝生の上に女性の下着が落ちていたのである。
目を凝らし、「あー、びっくりした。よかった、私のじゃなくて」とつぶやいたあと、ふと思った。
あれは私のパンツではない。でも、拾った人はどう思うのだろう?
どこから飛んできたのかと考えないはずがない。そのとき、最有力候補にされるのは真上の部屋ではないだろうか……。
彼女は愕然とした。「庭にパンツ落ちてましたよね。でも、私のではありませんので」と言いに行くわけにもいかない。あれに名前でも書いていないかぎり、自分のではないことを階下の住人にわかってもらうことはできないのだ。
「どうしていい加減な干し方した人に代わって、私が恥をかかなきゃならないのよー!」
しかし、さらに許せないのはそれが“おばさんパンツ”だったことである。
「あんな巨大なスルメみたいなの、“三軍”パンツの中にもないわ」
あんなデカパンを履いていると思われるのは耐えられない、と彼女は悲痛な声をあげた。

わかる、わかるわ、その気持ち……。私は静かに頷いた。
大学生のとき、学食で友人を見つけ駆け寄ろうとした私は濡れた床に足をとられ、見事に転んでしまった。タイトなワンピースを着ていたのだが、スライディングさながら勢いよく滑ったものだから、スカートが一気にまくれ上がった。
その姿はまるで強風で逆さになった傘状態。時分どきで人がごった返す中、なにもかもすっかり丸出しである。私は半泣きになって家まで走って帰った。
走りながら必死で考えていたのは、「今日どんなの履いてたっけ!?」ということ。人前であんな転び方をして立ち直れないくらいショックなのに、その上ダサいのなんか履いていたら……もう舌を噛み切るしかないと思った。
パンツを見られたことは「はずかしい」で済む。しかし、「あんなの履いてるんだ……(プッ)」と思われるのはものすごい屈辱だ。

この失敗があったからというわけではないけれど、下着はそれなりのものを着けていたいと思っている。
女たるもの、いつでも脱げるよう心づもりを……あ、いや、そっちの意味ではなくてですね(まあ、そっちの意味でもいいんだけど)、好むと好まざるとにかかわらずそれは人目に晒されることがあるからだ。
緊急入院してきた患者はたいてい意識がなかったり痛みで動けなかったりする。だから私たちが病衣への更衣を行うのであるが、この先、自分が不慮の事故かなにかで救急車で運ばれることがないともかぎらない。そのとき、「お願いですからいったん家に寄ってください!」と懇願しなくても済むようにはしていたいではないか。

とはいえ、誰でも自分の好きな下着を集めて身に着けられるというわけではないようだ。
二十代前半の頃、恋人のいない同僚何人かで集まってクリスマスパーティーをしたことがある。私はプレゼント交換の品をなににしようか迷った末、
「来年は私たちなんかじゃなく、すてきな彼と過ごしてネ」
という気持ちを込めて勝負パンツにすることにした。そうしたら翌日、私のプレゼントが当たった子から苦情がきた。
「蓮見ちゃんからもらったやつ、お母さんに見せたら『そんなイヤラシイの捨てなさい!』って怒られた」

そういえば、大学卒業を機に実家に帰ることになった友人が派手なパンツを処分しようかどうしようかと悩んでいたことがある。また、別の友人は「おなかを冷やしたらだめ」「通気性がいいのが一番」と母親からおへそが隠れる綿のパンツしか許されず、こんなのを履いているうちは恋人なんかできないとこぼしていたっけ。
なるほど、実家暮らしだと親の目が気になって下着のおしゃれはしづらいかもしれない。



ところで、冒頭の同僚に一軍、二軍、三軍の違いを訊いてみた。
花の一軍はお高かったりデザインが繊細だったりで洗濯機には入れられない、ここぞというときに履くパンツ。二軍は値段と履き心地と耐久性で選んだ普段使いのもの。三軍は二軍から落ちてきた、うっかり職場に履いて行ったら更衣室から誰もいなくなるまで着替えられない代物、だそう。
パンツの格付けとはおもしろいなあ(三軍まであるのね……)。

【あとがき】
私はひとり暮らしが長かったので親の目を気にしたことがありませんでしたが、実家に住んでいたら色気のあるものはやっぱ無理かな……。


2022年05月15日(日) 踏みとどまる愛

「オードリー・ヘプバーンってむちゃくちゃ可愛いですね。あの髪型が似合うってすごくないですか」
同僚が興奮気味に言う。なにをいまさらと思ったら、一昨日の金曜ロードショーで『ローマの休日』を初めて観たらしい。
そうか、二十代だとあの映画を知らない人もいるんだなあ……。

イタリアのローマを訪問中、過密スケジュールにうんざりして宮殿を抜け出したヨーロッパの小国のアン王女と、特ダネをモノにしようと職業を偽って王女に近づいた新聞記者のジョー(グレゴリー・ペック)のたった一日のラブストーリー。
身分違いの恋が成就しないことをふたりはわかっていた。だから互いに思いを口にせぬまま、ジョーはアン王女を大使館へ送り届ける。そして書き溜めていた、公開すれば大スクープになる原稿を破り捨てる。
すべてを捨てて突っ走る愛もあるけれど、相手の立場を思い、自分の立場を考え、踏みとどまる愛もあるのだ。



束の間の青春、束の間の恋。ふと思い出したのは、やはりアメリカ映画の『マディソン郡の橋』だ。
舞台はアイオワ州マディソン郡の片田舎。農場主の妻として平凡に暮らすフランチェスカ(メリル・ストリープ)の前に、屋根つき橋の写真を撮り歩いているというカメラマンの男が現れる。彼の名はロバート(クリント・イーストウッド)。
彼女はローズマン橋まで道案内をするが、自由で都会的な雰囲気を持つその男に夫にはない魅力を感じ、たちまち恋に落ちる。夫と子どもは遠出をして家を留守にしていた。彼らが帰ってくるまでの四日間、ふたりは互いが互いにとってなくてはならない存在であることを確かめ合う。
最後の夜、ロバートは「一緒に行こう。ふたりで新しい世界をはじめよう」と言い、荷物をまとめたフランチェスカだったが、葛藤の末に「やはり家族を捨てることはできない」と思いとどまる。
十数年後、ロバートは彼女に告げた「これは生涯にたったひとつの確かな愛だ」の言葉どおり、独身のまま死ぬ。フランチェスカもまた、短いが激しい恋を胸に抱いて死んでいく。

「あれほど盛り上がったのに、どうして」と言う人もいるが、私はフランチェスカがロバートについて行かなかったところにこそ、リアリティを感じる。
彼女は「夫を裏切り、子どもを捨てて出て行くことはできない」と涙を流し、愛しい男をあきらめる。それは家族に対する責任、自分が選択した人生に対する責任を果たすためであるが、それだけではない。
彼女にはわかっていたのだ、すべてを捨て去ることができるほど自分はもう若くないということを。この新しい愛に走っても本当の幸せは得られない。どんな愛も永遠にはつづかないのだということを。
まったく別の生き方をしてきたふたりがずっと一緒に生きていくことができるとは、彼女には思えなかった。もしかしたら、
「こんなに愛し合うことができたのは、四日間という期限付きだったからなのかもしれない」
とさえ思いはじめていたかもしれない。
人はときに、その悟りにも似た悲しい予感を組み伏すことができない。燃えるような恋の真っ只中にあろうとも。

どしゃ降りの雨のラストシーン。
町に買い物に出たフランチェスカと夫が乗る車の前に、信号待ちをするロバートの車。信号はやがて青に。しかし、前の車は動かない。ロバートの最後の誘いだ。
早く行け!とクラクションを鳴らす、なにも知らない夫。前車のバックミラーには彼女が贈ったネックレスが掛けられ、揺れている。たまらず、ドアに手をかけるフランチェスカ。
しかし、彼女は自分の心に強力なブレーキをかけた。この農場用ピックアップトラックに残ること、すなわち「この町で農夫の妻として退屈に生きること」を最終的に選ぶのだ。
左のウィンカーを出し、ゆっくりと動き出す前車。そのライトの点滅はすべてを悟ったロバートのフランチェスカへのエール、彼女の選択を祝福するサインだ。そして、ロバートは町を去る。

「男はロマンチストで、女は現実的」
とよく言われる。実際に男と女のあいだにそういう傾向があるのかどうか、私にはわからない。しかし、この物語の中ではそう描かれている。
「現実的」とは、手離してはならないものがなんであるかをいかなるときにも見誤らない聡明さ、喪失の恐怖と闘う勇気を持っているということ。
「ありのままに」「自分に正直に」あることがなによりも尊いことであるかのように言われる昨今だが、思いを遂げようとするよりもっと崇高な決断もある。



そして、愛に報いるとはどういうことか。
宮殿に戻ったアン王女がローマを離れる前の記者会見で、ヨーロッパ各国を表敬訪問した中でもっとも印象に残っている都市は?と訊かれる。
どの街もそれぞれに……と当たり障りのない言葉を口にしかけて、答えを変える。
「なんと言ってもローマです。私はここでの思い出を生涯忘れることはないでしょう」
その凛とした表情に、大切な恋を胸に、王位継承者として生きていくという決意が見てとれる。

ふたりが結ばれればハッピーエンドで、結ばれなければ悲恋、ではない。
それを決めるのは、夢のような時が過ぎたあとどう生きたか、だと思う。

【あとがき】
ほかの若い同僚に『ローマの休日』を知っているかと訊いたら、「もちろん知ってますよ、ハコネーゼでしょ」だって……(ガクッ)。


2022年05月08日(日) ドッキリはいらない。

「ウソ告」という言葉を初めて聞いた。
好きでもない人にラインなどで告白をして、相手のリアクション後に嘘だとバラすイタズラだという。それが友人の子どもが通う中学校で流行っているらしい。
トーク画面のスクリーンショットはもちろん拡散される。そんなことをされたら、ショックで学校に行けなくなるかもしれない。この先好きだと言ってくれる人が現れても、「まただまされるのでは……」と警戒せずにはいられないだろう。
人の心をもてあそび、後々まで消えない傷を残す、許されない行為だ。

それがゲーム感覚で行われているというから、びっくりしてしまう。中学生にもなって、やっていいことと悪いこともわからないのか。
が、ふと思った。テレビでもユーチューブでもドッキリコンテンツがあふれていて、堂々と人をだましたり試したりしている。ターゲットにされた人が動揺したり怯えたりしている姿を大人たちが喜んで見ているのだから、中学生がそれに倣って同級生に“告白ドッキリ”を企てたって不思議はない。



私が子どもの頃にも、「元祖どっきりカメラ」「いたずらウォッチング!!」といった番組があった。
ターゲットはたいてい一般人で、仕掛けは単純。坂の上から道幅いっぱいの大玉が転がり落ちてくるとか、住宅街を歩いていたら突然百人の男たちが前方から全速力で走ってくる(100人隊シリーズ)とか。凝ったものでは、スナックで飲んでいた客がトイレから戻ると、店がヤクザの事務所に変わっていた……という“模様替えドッキリ”があったっけ。
過激なものもあったが、自分が引っかかってみたいと思うようなイタズラをいくつも思い出すことができる。

しかし、大人になったらドッキリ番組で笑えなくなった。
「こんなことをして大丈夫なのか」「いくらなんでもターゲットに失礼だろう」「人の心をなんだと思ってるんだ」と言いたくなるような内容のものが多いからだ。
歌手がステージで歌っているときに突然床が落ちる、スポーツ選手が走りだした瞬間に前方の床が開く……という落とし穴ドッキリ。その拍子に舌を噛んだり足を痛めたりすることはないのか、身体が資本の人にもしケガをさせたらどうするんだ、とハラハラしてしまう。
思えば、100人隊も相当危険なことをしていた。道を歩いていて突然「アイツだ!」と叫ばれ、百人が自分めがけて走ってきたら誰だって逃げる。年配の人にも容赦なく仕掛けていたが、あの頃は「もし転んで骨折したら……」ということまで誰も考えなかった。だから、一般人相手にああいうことができ、見る側も無邪気に楽しめたのだろう。
同じ映像をいま見たら、私はきっと、
「信号待ち中の人にいきなり後ろからハリセンして、びっくりして道路に飛び出したら大惨事だよ」
「歩いている人を突然胴上げなんかして、もし首や腰を痛めている人だったらどうするんだろう」
が気になって、むかしのようには笑えないにちがいない。

そんなわけで、私がその手の番組を目にするのは家族が見ているときだけであるが、最近のドッキリはターゲットに疑われないようにするためかやたら手が込んでいて、ネタばらしまで長い時間をかけるものもあるようだ。
大きな仕事が入ったとか主役に抜擢されたとか言われ、若手の芸人やタレントは喜んでその準備やレッスンに励む。そうして何か月も夢を見させてから突き落とすのである。宝くじ当選ドッキリもとても気の毒だ。
「スポーツ番組の収録と聞いていたから、現役と同じトレーニングをして食事制限もして、この日のために調整してきた」
と落とし穴に落とされた元プロサッカー選手。人の“本気”を嘲笑うようなことをして気がとがめないんだろうか。
ターゲットを精神的に追いつめる系のドッキリもいっぱいだ。大御所に怒鳴られたり万引きの疑いをかけられたりして真っ青になっている人を見て、スタジオは手を叩いて大盛り上がり。悪趣味としか言いようがない。

その上、だまされた側は「ドッキリで〜す」と言われたら笑って許さなくてはならないのだから、つくづく酷な話である。
ターゲットが一般人でない場合は「放送できるものが撮れなかったら困る」という制作側の事情がわかるから、カメラの前でぶちギレるわけにいかず、感情を押し殺すのだろう。
引きつった笑顔を見ながら、不快な思いをさせられた側が“大人の対応”を強要される理不尽さにも憤る私である。



ところで、ウソ告について職場で一番若い同僚に訊いてみたところ、
「私も高校時代にウソ告されて付き合ったことあります」
と言うからびっくり。だけど、付き合ったんならウソ告じゃないじゃない。
「それが、ウソ告して“付き合う”ところまでが罰ゲームだったらしくて」
ええーー。なんなの、それ……。で、相手とはどうなったの?
「友だちから『ウソ告して一か月付き合う』ってルールになってるらしいよって情報が入ったから、一か月になる前日に『初めから全部知ってたんだ』って顔して振ってやりました」

ウソ告が横行していたら、“本物”との見分けがつかないだろう。
「どうせウソ告でしょ。私はだまされないからね」
「いや、ガチだから。中一のときからずっと……」
「じゃあ証拠見せてよ。それと、ここから先はラインではやりとりしないから」
「だから、嘘じゃないって」
なんて展開が目に見えるようだ。
で、付き合うという話になってもしばらくの間は疑惑が晴れることはないわけね……。

日常の中にサプライズはあってもいいけど、ドッキリはいらない。
好きだという言葉を信じることができないとか、いいことがあったときに喜びより先に「……いや、ちょっと待てよ」が頭をよぎるようになるなんて、かなしすぎるもん。

【あとがき】
同僚が言うには、本気の告白なのに断られると「嘘に決まってるだろ!」とごまかすケースもあるらしく、ウソ告だったのかガチ告だったのか結局わからないことも多いそうです。
振られてはずかしくても悔しくても、「好きじゃない」なんて言って逃げちゃだめ。相手はきっと真剣に返事してくれたんだから。


2022年05月01日(日) あなたがおばさんになっても

読売新聞紙面の「小町VOTE」というコーナーに、
「『そのバッグかわいいね』など持ち物を褒めたときに、『これ、安かったの』と答える人の気持ちが知りたい。謙遜なのか自慢なのか、判断がむずかしい」
というトピが載っていた。
即座に「え、そりゃ自慢でしょ」とつぶやく私。「いやいや、安物ですよ」なら謙遜、もしくは事実を述べているのだろうが、「これ、安かったの」はいいものを安く買えたことを誇っているのだ。

関西に住んでいるためか、こういうやりとりは日常的にある。が、中にはトピ主のように首をかしげる人もいるようだ。
大学時代のこと。サークルに顔を出した就活中の先輩がスーツ姿を褒められ、得意げに言った。
「このネクタイ、百円やぞ百円」
すると、私の隣に座っていた同期の男の子が「言わなきゃバレないのに……」とぼそっ。安物だなんてどうしてわざわざ自分から言うんだ?黙っていればわからないのに、と思ったらしい。
でも、そうじゃないんだなあ。むしろ、彼は「百円」とバラしたいのよ。

「なあなあ、これいくらやと思う〜?」と持ち掛け、「え、まじで?めっちゃええやん!」と“目利き”を認められるとホクホクする------というのは、私にもよくわかる。高価なものをいくらしたと明かすのははしたないと感じるが、「こんなにお安く買えちゃった」は話のネタにして、その感動を誰かにわかってもらいたくなる。
先日も電車の中で、
「このピアス、イチキュッパやってん」
「やっぱそのくらいするよねー。かわいいもん」
「1980円ちゃうで、198円」
「え!どこで!?」
という女の子の会話を聞いたばかり。“安かった自慢”は私の周囲ではお約束の、楽しいコミュニケーションである。



ところで私にも、相手の真意を測れずいつもリアクションに困ることがひとつある。若い女性の「もうおばさんだから」という言葉だ。
アラフォーやアラフィフの女性であれば、「だから大目に見てね」というエクスキューズか、ただ事実を述べているだけで深い意味はないかのどちらかだろう。しかし、二十代の人だと本音なのか謙遜なのか自嘲なのかわからず、どう返答したものかと考えてしまう。
否定されることを期待しているのかなと「え〜、二十代なんて若い、若い」「ほぼスッピンで人前に出られるってことが若い証拠だよ」と言ってみたり、「ちょっとぉ、それを私の前で言う?」とつっこみを入れたりするが、どうしてこちらが気を回さないといけないのかしら……と思う。
安かった自慢は「お得情報、聞けちゃった」と喜ばれたり、「いや、もっと安いところを知ってる」と盛り上がったりする。でも、おばさん未満の人のおばさん宣言は何も生まず、誰ひとり楽しい気分にならない下げ会話だ。


女ざかりは19だと あなたがいったのよ

(森高千里『私がオバさんになっても』)

「若いうちが花」と思っている人にとっては、十代か二十代前半がピークであとは失われていくばかり……なのかもしれない。
しかし、人の“旬”は若いうちであるとはかぎらない。むしろすっかり大人になり、自由に使えるお金や時間を持ったり自分の意思で人生を選択したりできるようになってからが本領発揮という気がする。
私自身、仕事面ではまちがいなくいまが満開、花ざかり。年齢で自分の価値や可能性をジャッジするなんて、本当につまらないと思う。

とうとう大台に乗ってしまった、とあなたは観念したように言うけれど。
おばさんになっても、なにもあきらめることはない。それに、そんなにいそいでおばさんになる必要もない。そのうち嫌でもなれるんだからさ。

【あとがき】
『私がオバさんになっても』は、森高さんが二十歳を過ぎた頃に「女ざかりは十九だよなー」と言われてムッとしたことがきっかけでできた曲(森高さん作詞)だそうです。
三十年前にリリースされたのですが、女ざかりが十九歳とはびっくり。だったら、女性が“おばさん”と認定されるのもいまよりずっと早かったでしょうね。