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2021年08月29日(日) 私の知らない世界

手狭になったマンションから戸建てに移りたいと、半年前から家探しをしている友人がいる。彼女は最近、住宅ポータルサイトで理想的な物件を見つけたという。
築年数、広さに間取り、駅までの距離、周辺環境、どれをとっても申し分ない。しかも予算内だったため、はやる気持ちを抑えながらページを読みすすめたところ、告知事項欄にある文言を見つけた。
「心理的瑕疵あり」
瑕疵とはキズのこと。つまり、「この物件には買主にとって心理的な抵抗が生じる恐れのある不具合や欠陥があります」という注意書きである。
だから近隣の相場より価格が抑えられていたのね……と合点がいったものの、残念でならない。“訳あり”といっても、事故物件とはかぎらないではないか。そう思い直し、真相を確かめるべく不動産会社に問い合わせをした。
「うちは大人だけの世帯だし、近くにお墓があるとかその家の人が病死したとかくらいなら気にしなかったんだけど、さすがに……ね。もしなんか出たら、住んでいられないし」
訳を聞いてあきらめがついた、と彼女は言った。



病院で働いていると言うと、「夜勤のときとか怖くない?見たことある?」と訊かれることがある。「病院=人が亡くなる」というところから、出るんじゃないかと“期待”されるのだ。
残念ながら、私は見たことも感じたこともない。深夜に誰もいない階の自動販売機に飲み物を買いに行くことがあるが、怖くない。
しかしたしかに、院内に苦手な場所があるという同僚は少なくない。
夜勤ではふたりずつ仮眠をとるため、休憩室とその日空いている個室を利用するのだが、ある部屋を仮眠に使うときは必ず「申し訳ないけど、私、休憩室で休ませてもらっていい?」と言う人がいる。自分までその部屋を使えなくなってしまうと困るのであえて訊かないけれど、やはりそういう理由らしい。
また、別の場所について「なぜかわからないけど、『近づきたくない』って強く感じる」「私もそう。あそこに入ると、いつも頭が痛くなったり吐きそうになったりする」と話す人もいる。
「見える」「感じる」同僚たちは不気味な思いをしたことが一度や二度はあるようだ。

そういう心霊体験については、怖いもの見たさで話を聞いて「ひゃ〜」と盛り上がることがある。しかしながらどう受け止めたらよいのかわからないのは、一部の同僚が披露する“スピリチュアルな力”についてだ。
ある人は朝出勤するなり、「たぶん今日ステルベン(死亡)があるよ」と予告することがある。誰かが亡くなる日は病棟の空気が違っているそうだ。かと思えば、患者のオーラで死期が近いことがわかると言っているスタッフもいる。
私は不思議でしかたがない。なにをするにもエビデンス(科学的根拠)が求められる医療の現場に身を置きながら、彼女たちが人の死を「空気の変化やオーラの色でわかる」と口にしたり、ステルベンがつづくと引き出しの中からお清め塩を取り出してきたりすることが。
専門看護師や認定看護師といった立場や志のある看護師の中にも“霊視”をする人がいて、仲良しの同僚はエレベーターで乗り合わせたときに突然、「あなた、内臓に気をつけなさい。とくに消化器系」と言われたという。そういうことを面白おかしく話す人とは思えないだけに気味が悪いと困惑していた。
わかるなあ、彼女の気持ち。それとも、人間にとっては無音でも犬には聴こえる「犬笛」のように、第六感が優れた人だけが感じとれるなにかが本当に存在しているんだろうか……。

というわけで、職場における非科学的な現象を積極的に信じることはない私であるが、ひとつだけ例外がある。
「いつまでたっても来てくれない。私は忘れられてるんじゃないかねえ」
ちっとも“お迎え”が来ないとぼやくのは、九十代後半の患者だ。
「死ぬのは怖くないんですか」
「なにが怖いもんかね。親きょうだい、親戚、友だち、みーんなあっちにいるんだから」
そして、「あの世に行くのも順番待ちなのかねえ。コロナのワクチンみたいだね」と笑った。

「大丈夫ですよ、そのときが来たらきっと迎えに来てくれますから」
そう答えたのは、あながち冗談ではない。
すでに故人となっている家族や友人、大切にしていたペットが夢に出てきた、あるいは実際に会った(と思い込んでいる)という話を患者から聞くことがある。
「昨日、お母さんが来てくれてね」
「久しぶりに夫の顔を見たよ」
うれしそうに話した後、しばらくして亡くなる。再会を喜んでいたことを思い出すと、この「お迎え現象」はあったらいいなと思っている。

【あとがき】
いや、実際には、死が近い人は慢性的な呼吸不全に陥っている場合が少なくないため、お迎え現象は酸欠状態の脳が作り出した幻覚なのだろうと解釈しているのですが、「会えてよかったですね」と心から思うのも本当。
さて、八月も終わり。本日のタイトルは私の子どもの頃の夏の風物詩、『あなたの知らない世界(お昼のワイドショー)』をもじってみました。


2021年08月16日(月) ペットを理由に仕事を休めるか

夜勤明け、ナースステーションで朝の点滴準備をしていたら電話が鳴った。
この時間にかかってくる外線はたいていスタッフからの急な欠勤の連絡だ。私が手を離せないのを見て、早めに出勤していた日勤の看護師が電話を取ってくれたのであるが、途中から相槌のトーンが変わったので、ちょっと気になった。
それはほかの同僚も同じだったとみえ、彼女が電話を切ると「誰から?なんだって?」と声が飛んだ。
「Aさんが、今日休むって」
「どうしたの、体調不良?」
「そう。……猫がね」

飼い猫を病院に連れて行くため急遽休ませてほしいという内容だったらしい。が、みなにそれを伝える口調から、「ペットのことで休むってどうなの」という彼女の不満が透けて見えた。
誰かが休めばその人が受け持つ予定だった患者はほかのスタッフに振り分けられる。そうでなくても忙しいのに、さらに負担を増やされるのはきつい。それが納得のいかない理由だと、カチンとくるというものだ。
「気持ちはわかるけど、正直、現場は困るよね」
「子どもが具合悪いっていうのとは違うからね」
「ちょっとびっくり。甘いんじゃないかなあ……」
とささやく声が聞こえた。

帰り道、私がAさんの立場だったらどうしただろうと考えた。
仕事を休んで病気のペットを病院に連れて行くかどうか、ではない。次の休みまで受診を待てそうになければ、連れて行くに決まっている。逆に言うと、自分の代わりをできる人がいないとか自身がペットを理由に休むことに抵抗があるとかで、そういうときでも仕事は休めない、休まないという人はペットを飼うべきでないと思う。
私はこれまでに二匹の猫を看取ったが、今日か明日かという状況でも休まなかったのは、日中も彼らを見ていてくれる家族がおり、ひとりで逝かせることはないと思えたからだ。
職場に迷惑をかけたくない。でも苦しむペットを一匹で家に置いておくことはできない。しかし、それがたびたびとなると仕事に支障が出る……。
その葛藤にさいなまれるのがわかっているから、彼女のように一人暮らしだったら、私はペットと暮らすことはあきらめていただろう。

私が「もし自分だったら?」を考えたのは、欠勤理由についてだ。
飼い猫を受診させるためと聞いて、何人かが「そういうのってありなんだ?」と顔を見合わせ、ナースステーションにもやもやした空気が流れた。が、それは無理もない。
「ペットを飼う」というのは、他人からしたら趣味のようなものだろう。飼い主にとっては子ども同然の存在でも、職場の人には「そうは言っても犬猫」である。
先日読売新聞で、「ペット忌引やペット休暇、ペットが病気のときには一緒に出勤できる制度などを福利厚生で導入する企業が増えてきている」という記事を読んだが、大半の職場ではペットの体調不良は「だったら休んでもしかたがないね」と思ってもらえる理由にはならない。
だから、私なら「ペットを病院に連れて行くため」とは言わない。
Aさんは嘘をつくのをよしとしなかったのかもしれない。しかし私はむしろ、正直に話して「そんなことでこちらの仕事が増えるのか。あー、バカバカしい」という気持ちにさせるほうが心苦しい。理由がなんであれ、同僚にかけてしまう負担の量は変わらない。ならば、「家族の急病で受診に付き添う」でいいんじゃないか。



家で飼っているペットの写真を病室に飾っている患者はめずらしくない。
ある患者が「犬が危篤だと家族から連絡があった。ひと目会いたい」と涙ながらに訴えたとき、担当の看護師は「オペが控えているし、点滴中だし、外泊なんて無理です。ご自分の体とどっちが大事なんですか」と困惑していたが、主治医からあっさり許可が出た。
「僕はペットを飼ったことがないけど、十八年も一緒に暮らしてたら、もう完全に家族でしょう。最後に悔いが残ったら、これからの入院生活がんばろう、元気になろうってきっと思えないよね」

「ペットは家族なんです、だから今日は仕事を休ませて」を理解して、というのは求めすぎだと思っている。でも、ドクターのこの言葉はうれしかった。

【あとがき】
朝家を出るとき、猫の頭をなでながら「今日もがんばって、あんたたちのごはん代かせいでくるよー」と言うことがありますが、あながち冗談ではありません。私にとって彼らはれっきとした扶養家族。「子どもと同等」にはならないけれど、守るべき存在です。
でも、そういう思いは人前では出しません。以前、年賀状の差出人欄にペットの名前が並んでいたことにドン引きしたという人がいて、「ペットも家族の一員」は家庭外では通用しないとあらためて思ったことがあります。