過去ログ一覧前回次回


2011年12月04日(日) 東京の片隅に暮らして。

近所を歩いていたら、後ろから「すみませーん」と声が聞こえた。振り返ると、スーパーの名が入ったトラックの運転席から若い女性が降りて走ってくる。
「小さなお子さんを連れて大変ですね。○○っていう食材の宅配システムをご存知ですか」
レジ袋片手にベビーカーを押す姿を見て声をかけてきたらしい。
「インターネットで注文できるので便利ですよ。ちょうどいまお試しキャンペーン中で、新米をプレゼントしてるんです」
「そうなんですか。でも買い物に出るのもいい気分転換になっているので……」
などと二言三言交わしたところで、唐突に彼女が「こちらの人じゃないですよね?」と言った。
初対面の人と三十秒も話をすると出身地を訊かれるのはよくあることだ。しかし、大阪から来たと答えて、「やっぱり!訛ってるなーって思ったんですよね〜」と返されたのは初めてだ。
そうか、東京の人にとっては関西弁もれっきとした「訛り」なのね……。軽くショックを受けている私に彼女が言う。
「大阪と東京じゃあカルチャーショックが大きかったでしょう。もう慣れましたか」
言葉がこんなふうに違うのだから習慣やなんかにもさぞかしギャップを感じたことだろうと想像したようだ。
でも、それがそうでもないんだな。こちらに来て三年半になるが、「東京」を意識する瞬間などほとんどない。
そりゃあエスカレーターに乗っているときにふと後ろを見てあわてて左に寄ったり、コンビニで「豚まん下さい」と言って店員さんにクスッと笑われたりすることはある。しかし、そういうときも「おっと、ここは大阪じゃなかった」と思うだけで、「東京なのだ」と再認識するわけではない。
家が都心から離れているということもあるけれど、それよりなにより子どもの世話に明け暮れ、行動範囲は自宅から半径五キロ圏内という生活では日本のどこに住んでも大した差は生まれないような気がする。

それでもひとつだけ、「東京ならでは」を感じていることがある。それは生活圏で有名人に遭遇する機会の多さだ。
引越してきてすぐの頃、二子玉川の高島屋でともさかりえさんを見かけた。関西には三十数年住んだが、吉本の芸人さん以外出会ったことがない。「女優さんを見ちゃったワ!」とさっそくご近所さんに自慢したところ……。
羨ましがってくれるどころか、「タマタカ周辺は芸能人とかスポーツ選手とかたくさん住んでるからね」と事もなげに言う。それもそのはず、「私は松嶋菜々子を見たことあるよ」「ユーミンとだんなさんが歩いてるの見たわ」「だいぶ前だけど、聖子ちゃんがお茶してた」とすごい目撃談がつづいた。
彼女たちが顔を隠すこともなく、ほかのお客と同じように買い物をしていると聞いて半信半疑だったのだが、その後、テレビに出ている人を街で見かけたときもたしかに彼らはサングラスをかけたり帽子を目深にかぶったりはしていなかった。
考えてみればそりゃあそうだ。人目にさらされる仕事をしているからこそ、オフの時間は素の自分に戻って「ふつうに」過ごしたいに違いない。
それをわかっているからか、そういう場に居合わせてもおおっぴらにサインや握手を求める人は見たことがない。声をかけたい衝動を抑え、彼らのプライベートを尊重するところを好ましく思い、もちろん私もそうしている。が、先日は驚きのあまり、あっと声を上げそうになった。
週末に知人の子が通っている学校のバザーがあり、招待券をもらったので出かけた。ずいぶん盛況で、あるイベントコーナーで順番待ちの列に加わったのだが、そのとき目の前に並んでいる男性の後ろ姿になんとなく目を引かれた。長身で、白の帽子に白のパンツ、青いタンクトップからはよく日焼けした筋肉質な腕が伸びている。こういう格好はスタイルに自信がないとできないよなあ、どんな顔をしているのかしら……と想像をめぐらせていると、隣にいる奥さんと話す声が聞こえてきた。
それを聞いて「そうそう、西城秀樹系かもネ」と思った瞬間、くるりとその人が振り向いた。
……びっくり。本人だった。
後で知人に訊いたところ、息子さんがその学校に通っているそうだ。
CMやドラマを見ていると、見覚えのある風景が映って「あら?これ、うちの近所だわ」ということがしばしばある。自宅周辺でテレビのロケに遭遇するというのも東京にくるまではなかったことだ。
もっとも驚いたのは、家の前で撮影が行われたときだ。
散歩に行こうと表に出たら、いつも静かな通りに車が何台も止まっており、その周りでたくさんの人がせわしなく動いている。ああ、事故があったのね……とあまり見ないようにして通り過ぎようとしたところ、「ちょっとちょっと!」と大声で呼び止められた。
振り返ると、「そこをのいてくれ」と私にジェスチャーする人の後方に、端正な顔立ちをした男性がパイプイスに座っているのが目に入った。道路の端に寄りながら「なんでこんなところにパイプイスがあるんだろう。ところであの男の人、どこかで見たことなかったっけ」と首をかしげ、ハッと気づいた。
そばを通った人をつかまえて訊く。
「なんの番組ですか?」
「『法医学教室の事件ファイル』ですよ」
まあ!こういう夫婦、憧れるなあと思いながら毎回見ているドラマじゃないの。その名取裕子さんと宅間伸さんが容疑者を尾行している場面だった。
私服姿の有名人に出会うのもラッキーだけれど、撮影現場に出くわして仕事中の彼らを見られるとさらに得した気分になる。

東京に転勤が決まり、どのあたりに住むかとなったとき、夫は自分の実家の周辺で家を探すと言って譲らなかった。大阪にいたときのように家と会社がドアツードアで十五分、なんてことが無理なのはわかっているが、千葉や埼玉に住み、一時間ちょっとで通っている同僚もいると聞く。
「会社が遠くてしんどい思いをするのはぼくなんだから(いいだろう)」と思っているようだが、通勤に時間がかかると大変なのは夫だけではない。私もその分早く起きなくてはならず、授乳中でろくに眠れない身にはきつい。ウィークデーに子どもをお風呂に入れてもらおうなんてことは望まないが、たとえ定時上がりしても娘が起きている時間に帰ってこられるかどうか、だなんて。それでも「親のそば」を優先するのか、と大いに不満だった。
しかし住みはじめたら、家も街もすぐに気に入った。時々お茶をする仲良しのご近所さんもできた。
夫がこうまで固執するこの場所を離れる日が来るとしたら、それは転勤か離婚か、そのどちらかしかないだろう。関西に戻れる見込みは薄そうだ、と思うと寂しい気持ちにはなる。
しかし、これはわれながらまったく予想外だったのだが、「もし義父母と同居せずに済むなら、東京で暮らすのも悪くないな」と思えるまでに、いま私はここでの生活を好きになっている。

【あとがき】
朝ゴミ出しに出ると、角の家によくハイヤーが止まっているんですよね。運転手が手持ち無沙汰にクルマの外で待っていたりして、ドラマの場面そのもの。で、「あそこのご主人、大企業のエライさんなんだな。あんまりそんなふうには見えないけど」とずっと思ってたんですが、引越し直前にご近所さんと雑談の最中に、そこがある有名作家の家だと知ってびっくり。うっそー。ぜんぜん気づかんかった!それに対し、西城秀樹さんは声も顔もテレビのまんまで、ひと目で本人とわかりました。後ろ姿に目が引かれるくらいだから、一般人とはやっぱり違うんですねえ。