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2011年08月22日(月) リスク感覚

先日の、岩手県陸前高田市の被災松の受け入れをめぐる京都の五山送り火騒動を注視していてつくづく感じたのは、「放射能」という脅威にどのくらいリスクを感じ、警戒するかは人によってまったく違うということだ。
先月、娘が通う幼稚園のクラス懇親会に出席したときのこと。レストランで食事中、隣のテーブルではその少し前に園の畑で行われたじゃがいも掘りの話題で盛り上がっていた。
子どもが持って帰ってきたじゃがいもを「コロッケにして食べたよ」「うちはポテトサラダと肉じゃが」「おいしかったね」とにぎやかに話していたのであるが、中にひとり、「うちは食べてなくて」と答えた女性がいた。
「えっ、どうして?」
「食べても大丈夫なのかなって。静岡のお茶からも放射性物質が検出されてるでしょう、だったら東京はもっと危ないってことにならない?」
「えーっ、そうなの!?じゃああのじゃがいもはどうしたの?」
「心苦しかったけど、置いててもしょうがないし……」
「子どもが掘ってきたじゃがいもを処分した」のインパクトは大きく、さきほどまでの和気あいあいの雰囲気はたちまちどこかに消え去った。そして、「東京はもっと危ない」にぎょっとした人たちが「この辺で採れたものってほんとにだめなの?」「どうしよ、なんにも考えずに全部食べちゃったよ」「私も。子どもにも食べさせたわ」と不安を口にしはじめた。
自分の発言が空気を一変させたことに気づいたのだろう、その女性は「ううん、大丈夫だと思うよ、思うけど、うちは主人がそういうこと気にするほうだから念のためにってだけで……」とあわてて弁解したのであるが、みなの動揺は治まらず、じきに話は日常生活においてどのような被曝防護策をとっているかという方向に発展。テレビやインターネットで得た「知識」が飛び交い、歓談の席が討論の場のようになってしまった。

これが、私が家族や親しい人とでないかぎり放射能関連の話をすすんで口にしない理由だ。
それをどの程度脅威に感じ、どう対処すべきと考えるかは家庭によって異なる。この「リスク感覚の違い」はしばしば場を白けさせ、気詰まりなものにしてしまう。だから、私は幼稚園のお母さん方との集まりやご近所さんとのお茶のときにこの話題を持ち出さない。
いや、園や学校、行政機関に掛け合う必要がある事柄が発生したときには「気まずい雰囲気になるかも」「価値観の押しつけになるのでは」などと尻込みせず、話し合う場を持ち、意見を合わせて事に当たるべきだと思う。
けれども、水道水を飲んでいるか、外に洗濯物を干しているか、食品の産地にこだわっているか、といった日常生活内のことをよその家庭と比べっこしてなにを得られるだろう?
自分より厳しく策を講じている人の話を聞くと「もっと危機感を持ったほうがいいのだろうか」と不安になるし、逆に自分より楽観的な人がいると「私が神経質なのかしら」とこれまた悩む。自分の方針に揺るぎない自信を持っているわけでないから、誰かがどうしているこうしていると知ると右往左往してしまうのだ。
え、でももし危機感の度合いや対処がほかの人と同じであると確認できたら心強いじゃないかって?
むしろ私はそれが一番やっかいだと思う。誰にも正解がわからない中、自分の答えが「みんな」と同じだったとしてもなんの意味もない。にもかかわらず、「みんなと同じだからだいじょうぶ」「私は間違ってなかったんだ」という気になってしまう------これはとても危険なことだと思う。その安堵は脅威に対する警戒心を薄れさせ、思考停止を招かないだろうか。
センセーショナルな見出しで放射能の恐怖を喧伝するメディアには振り回されるまいと思えども、「除染」「半減期」「シーベルト」といった言葉をこのたび初めて耳にしたような一般の人間には情報の取捨選択ができない。「正しく怖がることが大切」と言うけれど、それがどんなにむずかしいことか。
それでも私は、メディアから発信される情報は「バイアスがかかっている」という前提で受け取ることと、講演を聴いたり勉強会に参加したりして無知を少しでも克服することで、「いま、自分が持つべきリスク感覚」を模索している。
知れば知るほど胸に重い石が詰まっていくが、この問題については「知らないでいること」ほど恐ろしいことはないと感じている。リスクから目をそらすことで心の平安を得ようとしてはならないと自分に言い聞かせている。

そしてひとつ心に決めているのは、「他人のリスク感覚を評価しない」ということだ。
地震の数日後、子どもを連れてしばらく関西にある私の実家に帰省することにした。そのことを近所に住む夫の両親に伝えに行くと、義母は道中気をつけてと言ってくれたが、義父の視線は冷たかった。「大層な……」がありありと伝わってきた。
たとえリスク感覚が自分のそれとかけ離れた人がいても、私はこんな目で誰かを見るまい、と思う。
誰からともなくこの話題が出て、「水をどうしているこうしている」の場に居合わせることもよくあるが、放射能に対する警戒レベルが「高」の人は「低」の人に比べてあまり歓迎されない。不安を煽られると不快感を示されたり、過剰反応だととがめられたり。たいてい肩身の狭い思いをするため、彼女たちはおのずと口が重くなるようだ。
冒頭に書いた懇親会の数日後、娘が持ち帰った写真を見て、じゃがいも掘りのときに手袋やマスクを着けていた子どもがクラスの三分の一近くいたことを知った。園からは事前に、土壌の放射性物質が心配な場合はそれらを持たせるよう連絡があったとはいえ、着用させたいと考える保護者がこんなにいたのかと驚いた。
あのとき、じゃがいもを「食べなかった」と言ったのは一人だけだった。しかし、わが子が素手で土に触れるのを不安に感じる親が、持って帰ってきたじゃがいもを食べさせることができただろうか。
「うちも食べなかったの」とは言い出せない雰囲気が、たしかにあった。

「安全」を手に入れることができないのなら、それぞれがいまいる場所、置かれた状況の中で望みうる最大限の「安心」を探し求めるしかない。
なにをどこまで許容するか、どうあれば安心と感じられるか。その基準は人によって違うから、誰かと答え合わせをする必要はないし、人がどんな選択をしようと口をはさむことではない。私は自分と家族の被曝を防ぐためにすべきことはなんでもしようと思っているが、「そんなの気にしない。ストレスを増やすことのほうがよっぽど体に毒」という考えも肯定する。「生活を変えない」、それもまたひとつの選択である。
周囲との温度差にひるまず、自分の方針は自分で決める。誰にどう思われようと、「これがいま私にとれる最善の行動である」と信じる道を選ぶ。
将来その人生の責任を取るのは、ご近所さんでもテレビの中の専門家でもない。自分なのだから。

【あとがき】
市が開催した講演会に行ったら、隣席の夫はほとんどずっと寝ていました。終わったとき、「今日の話聞いてどうだった?」とイジワルで訊いたら、「なんかよくわかんなかったなぁー」ですって。そらわからんわな。リスク感覚の違いは家庭内にもあるのです。よその家庭と考えが違っていてもかまわないけど、夫婦間の温度差はやっかいです。


2011年08月15日(月) 電磁波問題(後編)

※ 前編はこちら

「A子さんが言っていたことはどのくらい正しいんだろう?」
インターネットで調べてみると、海外の研究機関の疫学調査の結果などから電磁波が「健康を脅かすリスクがあることは否定できない」と言われているのはたしかなようだ。
現時点ではそれはクロかシロか判明していない「グレーゾーン」に属する。そのため、ヨーロッパを中心としたさまざまな国や地域で予防原則の考え方の下、電力設備の建設や携帯電話の使用などに関する規制やガイドラインが設けられているという。それに対し、日本ではそういうものがほとんどない。「クロでないかぎりはシロとする」ということだ。
当然のことながら、電力会社のサイトには「健康リスクがあるという確たる証拠は認められないから問題ない」と書いてある。国際非電離放射線防護委員会(ICNIRP)や経済産業省など公的機関の見解も同じだ。
しかしその一方で、「電磁波問題は今世紀最大の公害だ」とその危険性を訴えるサイトがたくさんあり、「国や電力会社は『居住環境における電磁波はICNIRPが定めたガイドラインの値を下回っているから大丈夫』と言うが、そもそもその基準値が問題なのだ」と主張している。
「電磁波問題はこれまで多くの研究者が指摘してきたが、日本のマスコミは無視してきた。なぜなら電力会社と携帯電話会社は大スポンサーだからである……」
なんて書いてあるのを読むと、さもありなんと思う。
とはいえ、この人たちのうちいったいどのくらいがそれについて正しく理解した上で声を上げているのだろう?聞きかじりの知識で不安がっている人も少なくないのではないか、という疑念が湧くのも正直なところだ。

しかしそれはそれとして、私は自分がどのくらいの電磁波を浴びながら暮らしているのかを把握しておきたいと思った。送電線や電柱のトランス(グレーの円筒形のもの)がそこかしこにあり、家では家電製品に囲まれている。
そこで東京電力に電話をして、自宅の電磁波の測定をお願いした。無理を言ったわけではなく、そういうサービスがあるのだ。
数日後、測定器を持って訪ねてきてくれたのは気のいいおじさんだった。まず、ブレーカーを切って屋内配線に電気が流れないようにして各部屋のバックグラウンド値を測定する。
二階の和室でほかの部屋の三倍くらい高い値が出たが、なぜだかわからない。首をひねっていると、「この部屋はお隣の家とどのくらい離れていますか?」とおじさん。
家と家が密接していると、隣家のエアコンの室外機が原因になることもあるらしい。もっとも、最近の家電製品は省エネに配慮しており発生する電磁波も控えめになっているため、お隣さんが電気をたくさん食うよほど古いエアコンを使っていたら、の話だそうだが。
和室の原因はわからずじまいだったが、A子さんが当時マンションに住んでいた私にこんな忠告をしてくれたことを思い出した。
「隣の家と接している部屋を寝室にしている場合はそっち側の壁にベッドを置いちゃだめよ。お隣さんが壁の向こうにどんな家電を置いているかわからないからね」
これはでたらめな話ではなかったのだなあ、といまごろになってちょっと感心する。あのときは「気にする人はこんなことまで考えるのか!」とあ然としたが、いまはいくらか理解できる。テレビやオーディオ機器が配置されている可能性は大いにあるから、敏感な人にとっては気持ちが悪いのだろう。
つづいて、家電製品が動作時にどのくらいの電磁波を発生させるかを確認する。
A子さんの言う通り、モーターのついた家電製品は軒並み高い値を出した。中でも電子レンジや掃除機、除湿乾燥機はこの後送電線直下で測った値の十倍から二十倍であった……と言ったらびっくりするかもしれないが、2メートル離れればほぼ0になるからどうということはない。ドライヤーだけはちょっと困るけれど……。
その後、近所の公園や幼稚園バスの停留所などよく行く場所でも測定してもらった。私は歩きながら次々と質問をし、おじさんは立場上言いづらいこともあったと思うが、しかし誠実に答えてくれた。



「ICNIRPが定めたガイドラインを見直すべきだ」という主張が妥当なものであるかどうかなど、もちろん私には判断がつかない。しかし、スイスやイタリアでは住宅や病院、学校といったとくに気を配る必要があるとされる場所にはその安全基準(100μT)よりはるかに厳しい制限値が設定されている(スイスは1μT、イタリアは3μT)ことを考えると、ゆるいと言われているそのガイドラインすら採用されていない日本は本当に大丈夫なの?という思いが浮かぶのはたしかだ。
「電磁波にさらされると体内に電流が流れる。生理的に体内で発生する量以上の電流が流れることによって中枢神経系に影響が出る」というメカニズムにはなんとなく頷けるし、エックス線や紫外線が電磁波の一種であることを考え合わせても、携帯電話や家電製品が発するそれが人体に望ましくない作用をする可能性を持っていたとしてもそれほど不思議ではない気がする。

そういうわけで、私は少々認識を改めた。
測定器を購入したり電磁波カットのエプロンを着けたりして積極的に防護に努めるほどの切実さはないけれど、子ども部屋をつくる際にはベッドの配置を考えるだろう。これからもコタツには入るし携帯電話も持ち歩くが、「無意味に電気に近づくのはやめる」くらいの心がけはしてもいいと思うようになった。「レンジがチンというまでじーっと前で待たない」とか「ノートパソコンを膝に載せて使わない」とか「発信中は携帯電話を耳に当てない(発着信の瞬間にもっとも強い電磁波が出るそうだ)」とか。
「携帯を枕の下に敷いて寝るのはやめる」と言ったら、A子さんはそんなことをしていたの!と血相を変えるだろうなあ。

※ 「電磁波」というのは「放射線(エックス線など)」「光線(紫外線など)」「電波」「電磁界」の総称で、携帯電話やテレビ、ラジオから出る電磁波は「電波」、電力設備や家電製品から出る電磁波は「電磁界」です。日記の中でも呼び分けたほうがより正確だったのですが、話がわかりづらくなるのでそのまま「電磁波」と表記しました。

【あとがき】
私は目覚まし時計のカチコチ音がだめなので(気になって眠れない)、いつも携帯電話のアラームで起きていたんですよね。それがこれからは枕元に置けないとなって困りました。電波時計は頭のそばに置いていても大丈夫なのかしら……。


2011年08月04日(木) 電磁波問題(前編)

「帰省してるんなら、小町ちゃんもおいでよ」と声がかかり、結婚まで勤めていた会社の女子会に出席してきた。
仲良しだった同僚とは退職後もつきあいがつづいているが、多くの人とは十一年ぶりの再会である。それはもう懐かしく、話に花が咲いた。  
一次会の創作料理屋でオイルフォンデュを注文したら、卓上のIHクッキングヒーターが運ばれてきた。自分で揚げながら食べるらしい。そうしたら、店員さんがそれをテーブルに設置するのを見ながら同期の一人がつぶやいた。
「もしA子さんがこの場におったら、卒倒してたやろねえ」
すると、すかさず「ほんま、ほんま。『電磁調理器!?キャー、こんなもの持ってこないで!』って突き返してるか、『私から2メートル以上離して置いてちょうだいっ』って大騒ぎしてるよね」「けどそんな離れてどうやって揚げるん?」と声が上がり、どっと笑いが起こった。

A子さんというのは当時三十代前半の、一時期同じ部署で仕事をしていた女性である。楚々とした雰囲気のきれいな人だったが、それとは別の理由で社内では有名人だった。
というのは電磁波をとにかく嫌い、そのためにみなを困らせることがあったからである。
外出時にも会社の携帯は電源を切ったまま机の中に入れっぱなしのため、急ぎの用件があってもつかまらない。出張を命じられると、新幹線に乗りたくないばかりにいろいろと理由をつけてほかの人に行かせる。清掃当番になってもフロアに掃除機をかけてくれない。「モーターのついた家電には近づきたくない」とのことで、自宅にも掃除機はないらしい。彼女曰く、「人間ホコリじゃ死なないけど、電磁波では死ぬからね」。
電磁波防護ベストなるものを着用しているのだが、「だったら心配ないんじゃないの?」と誰かが言おうものなら、「じゃあ頭はどうするのっ。ほんとは三百六十度、全身包まなきゃ意味ないんだから!」と悲愴な面持ちで叫ぶ。
その姿がコミカルで少々迷惑を被っても憎めない人だったのだが、彼女と斜向かいの席になったときはさすがに閉口した。パソコンのブラウン管モニタの背面を自分の方に向けられるのを嫌がり、隙あらば隣近所のモニタの向きを変えてしまうのである。席を外して戻ってくると、必ず画面があらぬ方向を向いている。それを直すたび彼女の視線を感じ、やりにくいったらない。
その上、ことあるごとに、
「ドライヤーとか電動歯ブラシ使ってない?あれは頭を電子レンジにかけるのと同じだからね」
「コタツでうたた寝、なんて自殺行為だよ。え、ホットカーペットの上で赤ちゃんがハイハイ?それは虐待よ!」
などとまくしたてるので、周囲から「困ったサン」という目で見られていた。電磁波というものにまったく無頓着だった私もやはり彼女のことを「ちょっと変わってるなあ」と思っていた。

* * * * *


その会社を退職してからも、電磁波に注意を払って生活している人には何人か出会った。
親切心で忠告してくれることもあったが、私はそのたび「気にする人ってときどきいるんだなあ」と思うだけで、その後派遣社員として勤務した会社で妊娠中に上司から電磁波防護エプロンを勧められたときですら聞き流していた。
しかしそんな私が二ヶ月前、ある新聞記事を読んで初めてそれについて関心を持った。WHOの国際がん研究機関が「証拠は限定的」としながらも携帯電話の電磁波と発がんのリスクに因果関係があると発表した、というニュースである。
「耳にあてての通話を長時間つづけると脳などのがんを発症するリスクが高まる恐れがある」という内容に、私はどきっとした。もう何年も、目覚まし時計代わりに携帯を枕の下に敷いて寝ていたからだ。
そしてそのとき、ひさかたぶりにA子さんのことを思い出した。そういえば、携帯で話していると耳が熱くなるのは電磁波のせいだと言っていたっけ。「食品をレンジでチンすると熱くなるでしょ、それと一緒よ」と。
彼女の言葉を真に受けたわけではない。しかし、WHOが発がんリスクのランク分けで携帯電話の使用を五段階中、上から三番目の 「発がん性が疑われる」に位置づけ、電磁波が人体に害を及ぼす可能性を認定したというなら、家族の健康を預かる者として「何も知りません、興味ありません」ではいかんだろうと思ったのだ。 (つづく

【あとがき】
完成前から観光スポットになっている東京スカイツリーですが、A子さんがこれを見にくることはぜったいにないでしょうねえ。