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2008年06月24日(火) パーソナル・スペース

読売新聞の人生相談欄に、三十代の会社員のこんな投稿が載っていた。
「妻の実家の近くにマイホームを建てたら、義父母が毎日のように遊びに来るようになりました。引越しの翌日、初風呂を楽しみに会社から帰るとすでに義母に入られた後でした。庭には義父の趣味の盆栽が置かれ、物置も便利に使われてしまっています。犬を連れて来るので室内はひっかき傷だらけ。まるで自分の家のように好き放題する義父母が許せません」

この相談者は男性であるが、「妻」からであればこの手の愚痴はしばしば聞く。私は元同僚の話を思い出した。
結婚と同時に夫の実家と目と鼻の先に家を建てた彼女は新婚旅行から帰った夜、新居のドアを開け、わが目を疑った。下駄箱の上に木彫りの熊の置き物がどーんと飾られてあったのだ。そう、鮭を咥えた北海道土産のあれだ。
玄関の上がり口にはペルシャ絨緞柄の分厚いマット。敷いた覚えなどないそれを踏んづけて部屋に入ると、夫婦がまだ一晩も泊まっていない真っさらの部屋になぜか生活感が漂っている。ダイニングテーブルには安っぽいビニールクロスが掛けられ、キッチンには三本足のふきん掛けが取り付けられていた。
「なんなのよ、これは……」
夫が実家に電話をかけたら、義母は言った。
「ああ、あんたらが旅行行ってる間に親戚を招いて新居のお披露目パーティーをしたんよ。そのとき部屋があんまり殺風景だったから、適当にみつくろっておいたよ」

* * * * *

冒頭の悩み相談の回答はこうだ。
「昔は客が来ると、真っ先に風呂に案内し使ってもらいました。湯のふるまいは最大のもてなし。あなたも親孝行をなさったわけで、物は考えようです。初風呂を使えなかったことにこだわり続けるなら、あなたはいい笑い者になってしまいますよ」

私はこれを読み、この回答者はなにもわかっていないと思った。初風呂の件を水に流せばおしまい、という話ではないのに。
この義父母には娘の家は「よその家」であるという認識はまったくない。だから相談者が風呂や盆栽に目をつぶってもなんの解決にもならないのだ。彼らにとってそこは自分たちの家の「離れ」という感覚だから、同じようなことはこれからもいくらでも起こる。
新築の家の風呂に主より先に入り、犬を部屋に上げる人は、ためらいなく冷蔵庫を開けて中のものを食べるだろう。夫婦の留守中に玄関に熊の置き物を飾り、人を呼んでパーティーをする人は、勝手に二階に上がり部屋を覗くに違いないのだ。

だから私はこのたび夫の実家から車で五分のところに住むにあたって、「合鍵は渡さないでね」と夫に念押しした。
上に書いた元同僚は、マイホームの資金を援助したことを理由に義母に合鍵を作られてしまった。そのためインターフォンに出るのが少しでも遅れると、さっさと鍵を開けて入ってくる。それが苦痛でたまらず、「盗んででも取り返したいわ」とこぼしていた。
幸い、私の義母は彼女の姑のような人ではない。
しかしフレンドリーで世話好きな人だから、「今晩のおかずの足しにして」「玉子が安かったから買っておいたよ」と突然訪ねてくることはあるかもしれない。そんなとき私が留守で、もし合鍵を持っていたら、「傷むといけないから冷蔵庫に入れておいてあげよう」となっても不思議はない。
気持ちはうれしい。でも、困る。自分の意思の働かないところで誰かに家に出入りされるのは生理的に嫌だ。
それに、もし昼寝でもしていてインターフォンの音に気づかなかったら家の中で鉢合わせして、「まっ、居留守を使ってたのね」と思われかねない。いつやってくるかわからないと思ったらたえず心のどこかで“備えて”おかねばならず、わが家にいても心底リラックスできない気がする。
引越し後しばらくの間、義母は片付けの手伝いに来てくれた。とてもありがたかったのだが、インターフォンを押さず門を開けて入ってくることにはどうしても慣れることができず、何度目かのときに鳴らしてもらえるようお願いした。
気を悪くしないよう「そしたら二階にいても気づけるんで……」と付け加えたが、身内なのにと思われたかもしれない。でも、ここは私の家だから。


「パーソナル・スペース」という言葉がある。快適でいるために相手との間に保っておくことが必要な空間のことで、意識はしないが誰もが持っている。
それは心の距離が反映されたものだから、恋人や友人に対しては狭くなるし、他人には広くなる。たとえば、電車が空いているのに誰かが隣に座ってきたら席を移りたくなる。それは他人に対して「これ以上近づいてほしくない」と感じるラインの内側に入ってこられたからだ。

そして、人は精神的にもパーソナル・スペースを持っているんじゃないだろうか。
「初対面なのに私にこんなことまで話しちゃっていいの?」と戸惑うほどあけっぴろげな人がいれば、「同僚とは仕事上の付き合いしかしない」というスタンスの人もいる。この心のパーソナル・スペースの広さは個人差が大きいが、良好な人間関係を保つにはそれを侵さない、侵されないことがとても大事だと思う。
私が誰かとの付き合いにストレスを感じるとき、「立ち入られすぎている」場合が多い。人の家に無遠慮に上がり込み自分の家のようにふるまうことも、「どうして結婚しないの?」「子どもはまだ?」と他人のプライベートに入り込むことも、縄張りを侵すという点でまったく同じだ。

たとえ身内でも、近所に住んでいても……いや、だからこそはっきりさせておきたい。娘、息子が住んでいるのは実家の離れではないのだ、と。
ほどよい距離が必要なのは仲良くしたくないからではなく、ずっといい関係でいたいから。
この思いを義父母に理解してもらうのは無理なんだろうか。

【あとがき】
義母がインターフォンを鳴らさずに門を開けて入ってくることに慣れられなかったと書きましたが、郵便や宅急便の配達の人にもそういう人がいるんですね。その人たちはインターフォンは押してくれるんですが、こちらが「はい、お待ち下さい」と答えると同時に門扉を開けて入ってくる。ドアを開けると目の前にいるのでいつもギョッとして、その後ムッとします。どうして門の外で待っていないのか。門より内側は敷地内ですよ、と言いたくなります。実家も一戸建てですが、こんなことをされたことはありません。夫は「門まで取りに行かなくていいからいいじゃん」と言いますが、ほかの人もべつに気にならないんでしょうか。




2008年06月13日(金) すぐに見る人、見ない人

先日電車に乗っていたら、若い女性が私の向かいに座った。ドレスアップしていたのとホテルの名が入った大きな紙袋を持っていたのとで、結婚披露宴に出席した帰りだろうと見当をつけたら、はたしてそうだった。
なぜわかったかというと、彼女は席に着くやいなや足元に置いた紙袋から引き出物を次々取り出しては中身を確認しはじめたからだ。
ノリタケのペアカップ、新郎新婦の名入りワイン、おしゃれな風呂敷に包まれた鰹節、マキシムの焼き菓子……。彼女は人目をはばからずバリバリガサガサと包みを開けていく。
その姿はまるでレジを待てずにお菓子の袋を開けてしまう子どものようで、あまり格好のいいものではなかった。
が、ひとつひとつ丹念に眺めている彼女を見て、思い直した。
「贈り主にしたら、こうして家に帰り着くまで我慢できないほど中身を楽しみにしてくれる人のほうがうれしいか」

私は遠方で挙式したため引き出物をカタログギフトにしたのであるが、ずいぶんたってから友人のひとりから「あのカタログギフト、ころっと忘れてて有効期限が切れちゃった。いまから注文してもだめかなあ?」と言われたときはかなりがっかりした。
新幹線に乗ってまで来てくれるのがありがたくて、少々奮発したものだった。だからぜひなにか受け取ってもらいたかった。
しかしそれ以上に残念だったのは、「期限切れ」を知ったら私がどう思うかということに彼女が思い至らなかったことである。人間だもの、うっかりすることはある。でもわざわざ贈り主に報告しなくてもいいんじゃないか。商品が届くかどうかは問い合わせればわかるんだから。

悪気はないのだが贈り主の気持ちに鈍感な人はときどきいて、私の夫もそういうタイプである。
引越しの片付けをしていたら、タンスの引き出しから包装紙に包まれた小さな箱が出てきた。手に取った瞬間、おもしろくない気分がよみがえってきた。
それは何年か前のバレンタインだかクリスマスだかに夫にプレゼントしたネクタイピンなのだが、どういうわけか彼はその場で開封しなかった。「ねえねえ、早く見てよ」と言うのはしゃくで静観していたら、包装は何日たっても解かれない。そのうち頭にきて、私はそれをタンスの引き出しに放り込んだ。そうしたら夫はもらったこと自体を忘れてしまい、以来タンスの肥やしになっている……というわけだ。

私は百貨店の配送お問い合わせセンターというところで仕事をしたことがある。中元、歳暮の時期にお届けを承ったギフトについてのお客からの問い合わせに応対する部署なのだが、そこで働いて驚いたのが、
「世の中には物をもらってもお礼を言わない人がこんなに多いのか」
ということだった。
一日に何十本もとる電話の大半が「先方から連絡がないんだけど、ちゃんと着いているの?」という内容なのだが、そのほとんどがお届け済み。誰かから物を贈られても感動が薄く、「届いたよ」「ありがとう」はとくに必要ないと考えている人はたくさんいるのだなあ、と思ったものだ。
こういう人はきっと、物をもらったときだけでなく人から厚意や親切を受けたときにもありがたみをあまり感じないに違いない。

向田邦子さんは頂き物があるとすぐに見たいタチだそうだ。来客が手土産を持ってくると、中身が気になって気になって話に身が入らない。しまいには「早くこの人帰らないかな」と思ってしまう……という話をエッセイで読んだことがある。
追い立てるように帰されてはかなわないし、中を早く見たがることと感謝の気持ちはセットになっているとも限らないが、それでもこれだけ楽しみにしてもらえるなら贈り甲斐はあるというものだ。
あれ以来、夫にプレゼントをしていない。でももしこの先そういう機会があったら、もちろんあのネクタイピンを再利用する。

【あとがき】
お礼を言われたくてプレゼントしたり親切にしたりするわけではないけれど、「届いたよ」や「ありがとう」がないとやっぱりモヤモヤしてしまいますね。まだ届いてないんだろうか、気に入らなかったのかな、迷惑だったのかな、とかあれこれ気を揉まなくてはならないし。
受け取った側はもらったことを忘れても、贈った側はお礼の言葉がなかったことを忘れないものです。




2008年06月06日(金) ハグ

「東京の電車ってなんでこんなにわかりづらいんだ!」
とぼやきながら、駅で路線図とにらめっこしていたときのこと。背後から賑やかな声が聞こえてきた。
振り返ると、大学生と思しき人たちが待ち合わせをしているらしい。ひさしぶりに顔を合わせるのか、誰かが合流するたび男も女もなく抱き合い、盛り上がっているのだった。

その様子を私は興味深く眺めた。たとえどんなに懐かしくてもうれしくても、友人相手に私がこういう反応をすることはない。
「テンション高いなあ。若いもんなあー」
が、そうつぶやいてすぐ、「いや、若いかどうかは関係ないか」と思い直した。
あるオフ会の席で、「ハグ」の話題が出たことがある。参加者五人のうち三人が「友人や仲間と日常的にハグをする」と答えたのであるが、その人たちは三十代、四十代だった。
過半数が“ハガー”ゆえに別れ際にはおのずとハグということになったのだけれど、私にとってはファーストキスならぬファーストハグ。ロボットのようにぎこちなかったに違いない。


私自身はハグにはなじみがない。照れくさいしそういうキャラクターでもないので、したいと思わない。けれども、それを「いいもんだよ」と言う人がいても不思議に思うことはない。
しかしながら、最近私には理解がむずかしい種類のハグが流行しているようだ。

梅田を歩いていたら、「FREE HUGS」と書かれたボードを持って立っている人たちを見かけた。
友人が「フリーフグ……ってなに?」と言い、「それを言うならハグやろ」と答えたものの、私にもなんのことかわからない。彼らはなにを呼びかけるでもなく、ただボードを掲げて立っているだけ。道行く人も素通りだ。
「無料のハグ?」
「ご自由にハグをどうぞ?」
「なんのこっちゃ!」
しばらく考えたがわからず、宗教の勧誘とかそんなんじゃないの?ということで話は終わった。
が、そんな出来事もすっかり忘れていたある日、新聞に「フリーハグ」の文字を見つけた。ハグは相手を軽く抱きしめる欧米流のあいさつであるが、日本では数年前から、見知らぬ人と抱き合うことで苦しみや悲しみを和らげ、幸せを分かち合おうとする「フリーハグ」という活動が全国に広がっている……という内容だった。

「そうか、あのとき見たのはこれだったんだ」
しかし、いまひとつ釈然としない。記事には通りすがりの人とうれしそうに抱き合う女性たちの写真が添えられていたが、なんだか奇妙な感じがした。
だって私はこんなふうに見ず知らずの人と抱き合うことはできない。そういうことがあるとすれば、我を忘れるほど感激したときくらいではないか。たとえば先日、女子バレーボールの柳本ジャパンがオリンピック最終予選で北京行きを決めたが、もしあの試合を会場で観ていたなら、その瞬間私は周囲の人と肩を叩き合って喜んだかもしれない。しかし、“素面”のときに街角に立っている人に「どうぞ」と腕を広げられても飛び込むことはぜったいにない。
この人たちはどうしてそんなことができるのだろう?

彼女たちは言う。
「ハグは言葉より温かい」
「ただ抱き合うだけで心が落ち着く。人に優しくなれる」
新たな疑問が浮かぶ。見ず知らずの人と抱き合って、心が癒されるなんてことがあるのだろうか。
たしかに、肌と肌の触れ合いはときに言葉を超えるほどの力で心に働きかける。しかしそれは私の場合、相手が誰であっても起こるわけではない。家族であったり友人であったり、今日までに積み重ねてきたものがある人とだから、互いのぬくもりや感触によって「通じ合う」ことができるのだ。
自分にできないから他の人にもできるはずがない、と言うつもりはない。けれども、赤の他人が抱き合って笑顔が生まれるとか幸せを分かち合えるとか、そんな魔法が起きるとはどうしても思えない。


mixiにも「フリーハグ」を支持する人が集まるコミュニティがいくつもあって、四千人近い登録者を抱えるところもある。
「私もみんなに幸せをあげたい。フリーハグを日本中に広めましょう」
「知らない人同士でも抱き合える。それって素敵なことですよね!」
そして、「一人じゃ恥ずかしいので、誰か一緒にFREE HUGSしてください」と仲間を募集する書き込みが連なっている。ハグの習慣のないこの国で、一人であのボードを持って街に立つのはそりゃあ勇気がいるだろう。

でも、私は思う。誰かを笑顔にしたいというなら、ハグよりもいい方法があるんじゃないか?
宗教の勧誘に間違われることも冷ややかな目で見られることもなく、いまこの瞬間から一人で実行できること。しかも、ハグに応じてくれる人を見つけることほど手ごわくない。
なにかって?それはお年寄りに席を譲るとか、白い杖を持った人に肘を貸すとか、バスを降りるときに「ありがとう」を言うとか、近所の人に笑顔であいさつするとか、そんなこと。
人が人のぬくもりを感じる瞬間は、もっと身近にいくらでもある。

【あとがき】
「さ、ママにキスしてちょうだい、ハグしてちょうだい」と言われて育つ国ならともかく、親しい人との抱擁さえ習慣のない日本で(ハグという言葉自体、比較的最近知られだしたと思う)、フリーハグが根付くのはかなりむずかしいんじゃないかなと思います。
ところで、本文にオフ会でハグを初体験したと書きましたが、私のmixiの紹介文(マイミクさんが私について書いてくれる文章)には、このときの私の狼狽ぶり(?)を見ていた人からの「ハグを求めるとものすごい勢いで拒否されますヨ」という一文が載っています。とほほ。