新聞の読者投稿欄を読むのが好きだという話は先日書いたが、昨日と今日の朝刊には驚いた。
たまに「○日付けの△△さんの手記を読みました」という形で、誰かの投稿を読んでの感想が採用されることがあるのだけれど、今回はある投稿に対し、反論とも言えるような意見が二日連続で掲載されたのである。私の知るかぎり、こんなことは初めてだ。
二週間前に掲載された元の投稿「嫁とカーネーション」を書いたのは、六十五才の女性である。
数年前の母の日のこと。夕方、近所に住む長男の嫁がカーネーションを持ってきてくれました。しかし、私は自分は姑への贈り物は必ず昼過ぎまでに渡していたこと、去年もらったのが傷みかけの花束だったことを思い出し、つい「ありがとう。またカーネーション」と言ってしまいました。怒った嫁はそれから一ヶ月あまり口を利いてくれませんでした。 たしかに私が至らなかったのですが、寛容な心、度量の大きさもほしいと思います。こんな私は間違っているでしょうか。
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それに対し、昨日今日の朝刊に掲載されたのが、これ。
先日の投稿を読んでびっくりしました。どうして「ありがとう。よかった」と思われないのですか。お嫁さんが怒るのは当然です。「寛容な心、度量の大きさがほしい」とお書きですが、その言葉をそのままご自分におっしゃったらいかがでしょう。あなた様が間違っています。 (65才女性)
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寛容な心を相手に要求するよりも、まず自分がおおらかに受け入れること。どちらが間違っているというよりも、相手の落ち度を取り上げて、自分の素直な心を見失っているような印象を持ちました。(47才・女性)
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リアルタイムで元の投稿を読んだときの私の感想も、お二方とほぼ同じ。「なんてかわいげのないお姑さん」というものだった。
「友達の中にはカーネーションの代わりに商品券でもらっている人もいるのに」のくだりにはびっくり。「つい言ってしまったって書いているけど、本音だものな」とつぶやいたものだ。だって、「私が間違っているのでしょうか」なんて書き方をする人に、本当にそう思っている人はいない。
とはいえ、ものすごい数の人たちの目に触れる新聞で、しかも前代未聞の二日連続で「あなたが間違っています。気持ちを変えて下さい」と書かれたことについては同情する部分もある。もし先日採用されたときに「私の投稿が新聞に載ったのよ〜」と知り合いに触れ回っていたら、格好がつかないよなあ。
ところで、こんなふうに本人に向かって異論を唱える人を見ると、「おぬし言うな」と思うと同時に、ちょっと不思議な気がしてしまう。そのエネルギーはどこから発生するんだろうか。
私もエッセイやweb日記を読みながらつっこみを入れることはしょっちゅうだが、わざわざそれを本人に伝えようと思ったことは一度もない。人がなにをどんなふうに考えているかに興味はあれど、執着はない。たいていは「ふうん」「へええ」で最後まで読んで、おしまいだ。
まれに激しく抵抗を感じる文章に出会っても、「まあ、人それぞれだもんね」と思えば、本人にもの申そうとペンをとったりキーボードを叩いたりするところまでいかない。「私のだって個人の意見に過ぎないわけで、それを伝えてどうする」という冷めた気持ちもある。
だから、「この人、間違ってる」「こういう考えのままだとこの人は損をする」と思えば、自分にはなんのメリットもないのに他人に耳の痛いことを言ってやれる人はすごいなと思うのだ。私にはそういう親切心がない。
先ほど紹介したふたつの意見。どちらも全文を読めば、相手によかれと思っての「ひとこと言わせていただきます」であることが伝わってくる。
が、これらを余計なお世話ととるか親切ととるかは「聞く耳」次第。元の投稿者がふたつの声に素直に耳を傾けられる人であったらいいのだけれど。