CHANの日記

2004年10月31日(日) 今日から日記書きます。

今書いているのは11/1日。早いもので震災から1週間と2日経ちました。
息子達は元気?に暴れまわっておりますが、家の片付けもなんとか少しですがすすんでます。
さて、今日(というか昨日)も避難所にママとお子さん2つを置いて家に帰って片付けていたんですが・・・よーやくデジカメ発見!
震災の時に使ったよーな気がしたんだけど、行方不明でした(T.T)。
やっとみつかったよ・・・。

我が家のもう一匹のネコ(モモ)は無事に家に居ました。
震災の時もなんとか頑張って家にいたみたい。
怖かったろうに。。ごめんm(_ _)m
でも分かってくれい。

さて、片付けを終わって避難所に行くとご飯。
『配給の五目御飯がおいしいんだって!とってきて♪』ってママが・・(-_-;)
あの・・・片付けた後なんですが・・いたわってよん(;_;)シクシク

と、まあ何はともあれ晩飯だったのですが。。TVを見てると震災の実況。
あ、出てた!と隣に非難しているお子様が画面に。

その後・・・あれ?なんか似てる部屋・・ってココ(/_;)/。
奥さんとお子様達が・・・そして次男が・・・アップで茶すすってた!(@_@;)

直後にママのお友達から電話有り。はは・・・全国放送ですよね。
なんで写る。
ま、これっきりだからよいのだが、びっくりします。はい。

〜とりあえず人物紹介〜

ちゃん:おいらです。32となるおじちゃん。
ママ :えっと奥さんです。
リョウ:長男(仮名)一応小学生
ユウ :2歳の誕生日を震災後に迎えてしまった次男です。

ちょっと記憶をさかのぼり、震災後もぼちぼち日記に書こうと思います。
今はちょと覚えていないだろう子供たちにが読んでくれるように・・










2004年10月29日(金) 米沢牛!

えー後日書いているわけです。

この日も片付けです。毎日のように・・・
余震は全くおとろえず、震度5がたまーに来てました。
まあ、ゆれると(◎o◎)ドキッっとはするんですが、
割と冷静に揺れがおさまるのを待ち。また家に入って片付けしてます。

最初のイメージが大きすぎたのか・・慣れてしまったのか・・
どっちかというとちょっと悟ってました(^^ゞ。

揺れてがおさまってから逃げても同じかな?とか。
倒壊するなら多分揺れがおさまった直後には倒壊してるはずで、
本震規模がくれば助かるはずもなく。
家の中はすでに倒れきってるし(^^ゞ。
ママと子供達は家よりも頑丈な避難所にいるわけだし。

どっちかというと準備OK。避ける事も出来ないけど。

自分一人で逃げれば言い訳なので、さして気にもせずに片付けしてました。

さて、この頃になるとかなり救援物資というか炊き出しが充実。
トイレも簡易トイレあり、困るのは風呂。
でもちょっと車を走らせれば無料で入れるところもあるので・・・

結局みんな風呂はろくに入れないのだから
『汚い!』なーんて言われる事もないしね(爆)

いつものように夕食に帰るとなんと
『米沢牛のいも煮』!

他にカレー屋。豚汁があったそうで。
でも・・はじめて食ったよ。米沢牛(^^♪。

こんな形で食う事になるとは思わなかった(^^ゞ。

でもなぁ〜。なーんか避難所の幼稚園生活になじんでしまっている
ようで。。。

ところで・・幼稚園のトイレ事情。
とうぜん子供用のトイレです。扉は下半分しかなく、上にちょっとだけ
ビニール袋でカーテンというか、目隠しを付けてはいますが
基本的には男女共用。男子用の便器もそこにあるわけで・・
ママさん方が入っているとなかなか入れん(T.T)。

お互い様だけど、後ろを振り返ればゴソゴソと用を足してる
奥様方の姿はしっかり見える訳で。
でも皆さんあんまり気にしてない?のかおいらが入っていても
平気で用を足していってしまいます(^^ゞ。
非常時だからしょうがないと思うのでしょうが・・
逆だとおいらは入れません(T.T)。

やはり集団になると女性の方が強いようです。

この頃おいらが家で片付けをしている時。
なぜか我が家の非難部屋が『簡易育児室』となっていたようで
隣の子供達が退去して荒らしまくって行きます。(T.T)
ママはまるで幼稚園の先生で。。。

1日終わるとくたくたでしっかり寝れてしまいます。

疲れる。





2004年10月28日(木) はじめて気づいた。

この日。避難所の辺りをうろうろしているとある事に気が付きました。

えっと女性の方。お化粧一切していません。
考えて見れば当たり前なんですが・・(^^ゞ
食べる事とトイレで精一杯。とてもそういう余裕はなかったんでしょう。

ただね。やっぱりマユが無い!(爆)

全く知らない人を見る分にはいいんですが・・
普段すごく若く見える奥様方も実は・・・ねぇ。
肌年齢は隠せません(^^ゞ。

さて、避難所もこの辺りになるとよーやく暖かい食べ物が登場♪
豚汁上手かった^^。

おいらはいつもどうり片付けをし、避難所の幼稚園に帰りました。
帰ってみると幼稚園のグランド?にパイロンが立ってました。

なんでも自衛隊のテントが来るそうで・・・
車をはじに異動して場所を確保。
我が家が非難している部屋から電気を取るそうで。
扉には隙間をふさぐ為に新聞紙でふさいでなどなど。

エコノミー症候群で亡くなる人が出てきたので車中泊の解消だそうです。
他にも温泉地に妊婦・未就園児・高齢者を優先的に何人か非難させてくれる
そうです。
でも・・他の家族は同行できないとか。

結局ほとんど応募者が無かったそうです。
こんな時ですもんね。家族が離れ離れになるのはやっぱり心配で。
我が家もユウが居るのですがやっぱり行くことは無く(^^ゞ。

テントもなかなか入りたがらないようです。
まあ、家が心配というのとそんなには長引かないだろうという思いが
あったのでしょう。

ただ、学校が11月5日に再開予定となってました。
当然幼稚園も同じ位には再開するはず。

とにかく急いで片付けないと・・・
仕事に行き始めたらたぶん休めない。

おじさんが仕事に行ったらしいのですが、地震の被害がほとんど無い所。
行くまでは『もうちょっといいよ』と言われていたようでしたが
いざ行き始めると『もうそんなこと言われなくなった』そうです。
まあ、状況が分からない人にはなかなか理解されないようですね(^^ゞ。

それなりに片付けてから行けばよかったと後悔してました・・・・

さて、おいらの仕事はいつ始まるのでしょう。
小さい子供が居るので寝る場所だけなんて訳にはいかないし。
とりあえず・・・ライフラインと余震次第だけど・・
片付けるしかないね。



2004年10月27日(水) 初風呂!

この日はちょっと離れた親戚の家に風呂を借りに行きました。
地震の後いっさい風呂は無し!
ようやく風呂に入れました。

が、ここでまた余震。
おいらと子供達は風呂から上がり、奥さんが風呂に入ってるとき・・
震度5強の余震(;_;)シクシク。

風呂場から『きゃあ!』という声。

一応市内には居なかったので正確には震度4くらいだったんだと思います。
でもびっくりした。

帰りに近くのコインランドリーに洗濯物を洗いにいったらまた余震。
中にいた人もびっくりして急いで外に出てきました。

さて、余震もちょっとおさまったんでその間に洗濯を・・・
などと思っていると財布の中には5000円札のみ。
近くの店で両替をお願いしようとおもったら『いま小銭が・・』(T.T)

結局洗濯はあきらめおいらの実家へ。
実家は井戸水なので電気が復旧すれば水が使える。
なんとか洗濯が出来たので帰宅。
この日は結局ほとんど片付けできなかった・・・

電気・・この前の日かな復旧したのは。
今まで暗い中で避難所生活をしていて、夜電気がつくという事がこんなに
ありがたいものかと思いました。

むろんテレビも見れるようになってました。

避難所の幼稚園で『情報収集用』という事でテレビが見れるようになったのもありがたかった。

生き埋めになった親子の無事を祈りながらこの日は寝ました。
この時はまだこんなに長い間余震が続くとは思いませんでしたが・・・



2004年10月26日(火) 引越し

この日まで大きな避難所に居たのですが、子供達が騒ぐのがどうも・・(T.T)。

まるで人を詰め込んだようなところにようやく2歳になったユウ。
よその人の所に行っては遊んでくる。みんな疲れてるのに・・
そんなユウを元の場所に引き止めておくのが一番キツかった。

周りの人は『いいんだよぉ〜』とは言ってくれますが、
みんながみんな快く面倒を見てくれる訳では無く、迷惑そうな人も居ます。
身近に子供が居ない人は特にそう。
これはごく普通の事ですよね。子供が嫌いだから作らない夫婦だっている訳だし・・・

という事で昼間は車が置いてある幼稚園で遊び、夜は避難所で寝るという生活でした(^_^;)。

ところが、車を止めている幼稚園でも教室を避難所として開放してくれるとの事。
幸い子供もたくさんいる。
すぐに荷物をまとめ引越し^^。

『別にいいのにぃ。』と言ってくれる人もいたのですが・・
やっぱり親が一番キツイんですよね。気づかれして(T.T)。

『後から来る人がいるかも知れないから、そうしたら相部屋でお願いしますね。』といわれましたが、とにかく同じ環境の人達といた方がずいぶん気持ちが楽でした。
ママと『優しい人達が来るといいね』とか『同じくらいの子が来るといいね』などといいながら。
むろん『変な人はイヤ』などなどと・・

幼稚園の教室です。我が家を入れてもせいぜい二家族が精一杯の部屋でした。
ちっちゃな椅子や、すごく低い手洗い、黒板。ちょっと変な感じでしたけどね。(^_^;)

さて、この日。ちょっと離れた所に住んでいる親戚の方が来て
『お、今日からワンルーム?』などど(^^ゞ。
この方は市内に住んでいる義姉の旦那さんでした。


それからガソリンが無くなりかけてたんで
長岡(隣市)までガソリンを入れに行きました。
市内のいたるところで陥没。マンホールは飛び出ていて・・・
動いている信号機なんてありゃしない。
電柱はまっすぐ立っているヤツが無い。全て斜めになってる。

まるで別世界。

そんな感じで車を走らせていると・・おや?
市内から15キロくらいでしょうか。長岡が近くなると自販機の電気が付いてる。
そんでもってコンビニも・・道路もたいして被害は無い。
直下型だったせいでしょうか、被害はほとんどないようでした。

会社に所要で寄ったときに聞いた話ですが、長岡の方で『グラスが割れただけ』とか『テレビが落ちただけ』という程度だった方がかなりいました。

家屋と場所によるのでしょうがかなり偏った被害だったようです。
ライフラインも全て停止していない人もいました。

さて、ガソリンを入れていったん家に・・先日毛布を持ち出した時にちょっと見たけど。ひどい(T.T)
ホントに家の中がシェイク・・台所も食器が割れ放題。

しかも・・毛布を持ち出した時には何もなかった道路ですが、この時かえると家の前のマンホールの脇が陥没(深さ50CMくらい)
余震でどんどん穴が開いてしまったようです。
他の道路も余震でどんどん陥没してました。


さて、余震も怖いがいつまでもそのままにしておいても片付くはずもなく
自分達でなんとかするしかない。
たんすを起こし、必要な物(着替えとか)を持ち出しながらちょっとだけ
片付けました。

うーん・・どのくらいかかるんだろう(T.T)。先が見えん。


この日町内の若いのにあったら『あっちは毎日宴会。○○さんは商売やめようかな(~_~)なんていいながらやけ酒のんでる』なんて・・
家に赤紙貼られて入れない人もいるし・・』と言われました。


さて、この紙。『応急危険度判定』という物だそうです。
外観を見て余震等で物の落下や倒壊の可能性を見て回りの人に
建物の危険度を分かりやすくする為に貼られているとの事

赤色:危険・倒壊の可能性有り。立ち入り禁止
黄色:要注意・基礎、壁等に破損有り。立ち入りの再は十分に注意する事
緑色:調査住み・通常どうり使用可能

あくまでも外観調査だけで、破損状況の調査等ではなく危険度の判定です。
と・・


この日の夜・・ママとこの紙の話をしていましたが、倒壊していなかったのが不思議なくらいの我が家・・赤か黄だね。と話ながらこの日は寝ました。

でも・・やっぱり一部屋はゆっくり寝れる。
『ずいぶん幸せな非難生活なんだろうな』と思いました。

明日から片付けないと。


















2004年10月25日(月) 一番真剣な顔は・・

この日もずっと避難所に居ました。

対策本部の人達もようやく『避難所からボアランティアを募る』という方法を取る事になったようです。
そりゃそうですよね。効率考えたら。
ある意味『三食昼寝付き、おまけで余震付き(T.T)』
とりあえず朝食で運搬のボランティアを。
バケツリレーの要領で味噌汁をパンの入れ物の中にいれて運搬。

生まれて初めてボランティアという物をしました(^^ゞ。
さすがにいい大人がただ飯くってるのも何かと・・・
どうも同じ思いの方が多いらしくかなりの人数が集まりました。
一番驚いたのは高校生くらいの人が参加した事。

見た目にはとてもそんな事をしそうにないような。。
見かけで判断しちゃダメって事ですね\(__ )。

さすがに人数が集まれば早い!今まで何十分も待たされた食事があっという間に運搬されました\(^O^)/ヤッター。

この方法の法が効率が良いと分かったのか、夕食でもおにぎりを握る人を
募集。
ママがボランティアに行きました。
むろん、弁当を作っているような主婦の方々。それも避難所にたくさん居ます。おにぎり数百個30分たらずで完成!
そりゃ職員さん数人がするより早いですよ。奥様方ですもん。。。
おにぎりを握っていた時、ママの居たチームが異様に早かったそうです。
このメンバーで弁当屋でもする?』なんて話をしてたそうで

はじめからこうすれば良かったんですが、さすがに本部の人も試行錯誤(^^ゞ。
避難所では『指示に従ってください!』的でも味噌汁の運搬の後で
『これでよさそうですか?どんな感じです??』と聞かれました。

誰だって始めての経験ですもんね。この平和な田舎町では・・
この日以降トイレ・食事・物資の積み替えにボランティアが募られました。

この日くらいから3食食べれるようになりました。

さて、この辺りです。報道の方がたくさんくるようになったのは。
インタビューを一生懸命されてました。
とても真剣な表情で・・・・

でも、避難所を見る限り、一番真剣な顔をしていたのはたぶん
インタビューをしているお姉さん。
『なんかあったんですか?』

結局数分居ただけ。すぐに撤収です。
おいらのイメージですが、
『被災地というステージに上がってコメントした』という感じでした。
いつもテレビで見ていた光景の裏側を見た気分でした。
きっと『来る事に意義がある』のでしょう。

この日NTTから公衆電話到着!助かった(^^ゞ。
公衆電話といっても充電器に繋がれた多数の携帯電話。
充電サービスもあり、でも十分でした。ただ・・避難所からはきっとつながりにくかったでしょう。
結局避難所にいると自分からはかけられません、通話できないんです。
他からかかってきたのは入るんですが。

もし被災されたら、他の場所からかけてあげないと安否は確認できませんね。コンサート会場とかと同じで。

この日、暖かい味噌汁がとてもうまかった。
そして、避難所の人数も増え、半畳くらいになんとか体を曲げながら眠りこの日は終わりました。










2004年10月24日(日) 悲しい誕生日

震災2日目。

23日の夜は車中泊でした(T.T)。まあ無事に全員揃ってなのでよかったのですが・・・
じつはこの日はユウ(次男)の2歳の誕生日でした。ケーキも無く、プレゼントも無く・・・またちゃんと誕生祝しようね。と

とりあえずユウの誕生日所では無く、毛布だけでも家から持って出ないと
どうにもならない。
何とか自宅に戻り毛布を取って車に積み込み。
むろん土足ですよ。余震もあるし家の中はメチャクチャ(;_;)シクシク
必要な物だけとりあえずもって非難していた場所へ。

何とか戻っておばさん達と相談し、結局避難所へ行くことに。
『炊き出しとか出るかもしれない』と・・・

一応非難所に入り、なんとか場所を確保。
避難所生活最初の日の朝は『おにぎり1個』と『お茶1本』でした。
それも数が無いので全員で順に取りに行くという感じで・・・
結局この日は朝・夜の2回でおにぎりとお茶だけの食事でした。
それでも食事も無い人も居るのだからずっとマシな日でした。
夜になると停電で辺り一面暗闇。非難所は自家発電らしく
ずっと朝まで電気が付いていました。
なかなか寝付けなかったけど、明かりがあるという事は嬉しかった・・・

結局この日は11時就寝。だって夕食の時間が夜の10時だった(^^ゞ。

この辺で問題発生。みんな携帯電話のバッテリーが無くなって来てました。
混乱の為、(避難所に人が集中していたせいもあるけど)自分から電話する
事は出来ませんでした。auはまだいくらか繋がったようですがドコモはダメ。かろうじてメールが送れる程度。

幸い車に車載の充電器があったので、我が家何とか充電は出来ましたけど。
それもスタンドも当然閉まってるので、
『ガソリンが無くなったらどうしよう』
と不安になりながらの充電でした。(T.T)

この日位でしょうか、給水車が来たのは・・・なんとか損害だらけの高速道路をとおり、警察に先導してもらいながら高田からと・・
ありがたい事です。

さて、困ったのがトイレ、ライフラインが全て止まってしまっているので
用が足せません。ほとんどのトイレはダメでした。
かろうじて近くの施設はビルのタンク分だけ水があったので、それがある
間は何とか用が足せましたが、結局1日くらいしか持ちませんでした。
それも地下にあったので、懐中電灯を交代で持ちながら用を足しに行きました。怖かった・・廃墟みたいで(T.T)。

この日の夕暮れ辺りでしょうか、簡易トイレが運ばれて来ました。
トイレといっても袋の中に用を足し、殺菌剤を入れるという物。
それも数が無いので一袋に2.3回はしてくださいと・・・。

結局この日も夕食は昨日と同じ、コンビニのおにぎりではなく、職員さんが
あわてて握っていたのか、まったく不ぞろいのおにぎりでした。

こうして、ユウ2歳の誕生日は過ぎていきました・・・







2004年10月23日(土) すべての始まりの日

この日おいらはお仕事中でした。
一応工場勤務。あとちょっとで終わり!明日はユウの2歳の誕生日。
ケーキは予約したし。大好きなアンパンマンのぬいぐるみでも買おうかなど
ママと相談する予定。

もうちょっとで終わり。あとは片付けして。。。などなど・・
と『ぐらぐら』あれ?地震?・・・・って でかい!(~_~)!!
機械は揺れるし、電気は消えて非常灯に切り替わるし。非常ベルは鳴ってる。
『ヤバイ!』
と思って逃げろ!と後輩に叫んだ。けど・・・『扉が開かないんです!!』
後輩二人は機械の修理中で裏側に回っていたところで地震に合い
扉が機械のカバーでふさがれて出れなくなっていました。
なんとかおいらがカバーをどけてなんとか救出!
3人で外へ非難。

他のみんなも作業着のまま外へ・・・
この間に2発目をくらいました、ガラスは落ちるわ蛍光灯は落ちるわで
女の子は泣いてるし・・・

ということで、泣いて歩けなくなりそうな女の子を強制連行して外へ
そこで3発目。

立ってられなかった。。。工場が揺れてガラスが落ちて・・
まるでここが光ってウルトラマンが出てきそうな。怪獣につぶされて
光がでて壊れるような感じで・・ほんとか?と思いました。

なんとか非難した後帰宅する事に・・と言っても大半の人は車のカギなどもって無くて、おいらも若いのを2人送る事に。

送っていく最中に倒壊した家屋を見て『家もきっと倒壊してる、逃げ遅れているんじゃないだろうか!』と早く帰りたかったのですがそうもできない
そんな感じで橋の手前までくると『ガスがもれてまーす、火を使わないでくださーい!!』という叫び声。実際ガスくさかった。

一人目を何とか送ってもう一人を送っていくと、通行止め。
周りの人に聞くと『ガケが崩れて車じゃ入っていけない。歩いて線路を渡れば入れるけど・・・』と、若いのは『歩いて行きます』と言って帰りました。
ここは親子が生き埋めになっていた例のガケでした。
暗くて何も見えなかったけどたぶん数十メートル手前まで言ってました。

さて、やっとのことで家に帰ると家には戸締りが!あれ?
何とか家屋は倒壊していなかったので、ガス・電気・水道の元を止め、近所の人に聞くと、『出かけてるみたいだよ』『避難所に行って見た?』と言われました。
たぶんおばさんの所へ行っていると思い、おばさんの家へ・・・誰も居ない。避難所にも言ったけど、車が見つからない。
という事で近所の人が集まって居る所で待って居ました。
携帯がよーやく繋がるようになり奥さんの居場所発見。
避難所とおばさんの家の近くの幼稚園に避難してました。
やっと逢えたのは夜中の12時過ぎ(;_;)シクシク
でも無事でよかった。

車は屋根・フロントガラス・リヤガラスに瓦が落ちてボロボロだけど、
子供たち。おばさん達全員無事。よかった。

車は動かせないので、その日は車の中で寝ました。
おばさんの家から毛布を持って来ていたので何とかねれた。

この1日が始まりの日でした。


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