Rei's column
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地元での夜は非常に退屈です。そこで夜読む本を探しに書店へ。 なんとなくハードカバーの本など漁りながら・・ 母親がひとこと。 「最近って重い小説は流行らないんだね〜〜」
・・なるほど。たしかに。
ハードカバーの新刊でそこそこ売れ筋のものは好き嫌い中身問わず適当に手にして読むことにしています。 最近の傾向というか、好まれているものにざっと目を通すのは大切だと思うわけです。 今の世の中ってどんなだろうを的確に知るバロメーターみたいなもので・・
「りらっクマ」の絵日記>笑 と最後まで迷いましたが「孤独か、それに等しいもの」を購入してみました。 どういう基準で迷ってるんですかといわれても意味はありません。テキトーですから。
帯にあったキャッチフレーズ「今日一日をかけて、私は何を失ってゆくのだろう 〜孤独の先にあるものを指し示し明日への小さな一歩をあと押しする珠玉作品集」・・というのがおもしろそうだったので。 短編集で3つめまで読みましたが・・ なんといいますか、その・・ 「世界の中心で愛を叫ぶ」(こちらはテレビでさらっと見ただけ)といいこうゆうのがやっぱ最近の傾向なのかなあ・・ という感じ。
孤独ってそんなにカンタンなもんじゃないんじゃないかな〜 と思いつつ みんな感傷的な気分になりたいのかな、とも思ってみたり。 孤独って置いてけぼりにされて座標を失くすこととは違うと思われ。
怜的にはさらりと却下。 でも面白かったですけど。こうゆうのが受ける理由もなんとなくわかるかなあ・・ってカンジが。
ピュアなものは死して完結し思い出の中へ・・って プリザーブドフラワーのように色褪せることも枯れることもなく都合よく愛でるモンでもないような。 その後、ネットで寸評を検索してみましたが意見は分かれるみたいです>支持派・却下派
多くの人が上げていた記述のくだり
「・・大久保君(若くして死んだ恋人)が恋しいわけではない。 大久保君と過ごした自分自身の姿が恋しいのだ。それはなす術もなく、日々、移り変わっていってしまう。 二度と取り戻すことのできない記憶の堆積物に、私は勝手に大久保君という名前をつけて呼んでいるだけなのかもしれないのだ」
・・かもしれないのだ、ではなくそのとおり以外の何者でもない。・・と私は思う。 ついでを言えば「だから何だ??」とも。
熱く語ろう!!
人の魂は潜在的にそんなに弱弱しいものでは無いと思う。
どうしてそんなに現代人は感傷的なのだろう。 何故、運命や時の流れに蹂躙されるように心を病んでしまったり悲しみに暮れてしまうのだろう。。
誰かに、自分の姿を投影しなければ孤独に苛まれてしまうなんて・・ 高らかにアイデンティティを主張すればよいではないか〜〜 や、その前に「生き抜くこと」が前提であればゴハンを食べねばならない。 そういう原始的な感覚に立ち戻ってみることが必要なんじゃないかな。
・・たぶんね、「生き抜く」という必要性が薄いんだろうね。今の世の中。 だからすぐ心を閉ざしてしまうし練炭で知らない物同士肩を寄せ合って死んでしまったりするのかなあ、と。
例えば「常盤御前」
( 〜ときわごぜん。源義経の生母。「平治物語」によれば、都じゅうから千人の美女を集めた中でも一番の美女であったという。 源義朝の愛妾となり今若・乙若・牛若(源義経)を産む。 平治の乱で義朝が敗北したあと母と三児の助命を請いに六波羅に出頭。 その後平清盛の愛妾となり、廊御方能子(ろうのおんかたよしこ)を産んだ。 )
その美貌ゆえ夫を討った敵将の愛妾に甘んじた数奇な生涯。 といえば悲劇のヒロインぽいのですが歴史を読み解けば意外とそうでもないのかも、という一面もあり・・
秀吉の愛妾「淀君」も信長の妹・お市の方の娘であり 秀吉は実父・浅井長政、再婚した義父・柴田勝家と2人の父を倒し実母を自害に追い込んだ敵であったような?
時代背景がそうであったのだから仕方ない、というよりも 「生き抜く」という意志に溢れていたように思うのは私だけですかね〜〜 原始、人間はもっと力強く生命力に溢れ・・ 一生懸命生きてたんじゃないっスか? 生のためならダンナや親を殺した人間でさえも受け入れる「何か」があったような。 忠義や感情を越えても「生」を尊重する。。。 ある意味、スバラシクないですか?? 私は激しくそう思います。
「生きる」ため。 モノが溢れ、生命が危機にさらされなくなった現代では死語になりつつあるこのコトバ。
人が「生きること」そのものに意味を見出そうとする傾向が強いのかもしれませんが 私は人が「生きること」そのものにさほど意味は無いと思うです。
理由はカンタン。 生まれてきたから。 だから生きる。天寿をまっとうするまで人は生き抜く。動物や植物が皆そうであるように。 生きるためにはゴハンを食べる。 そこにいくら意味や理由を探してもしゃあないでしょう〜〜??って。 ・・いじってはイケナイ前提ってあると思うんです。 そこを見失ったらすべてが揺らいでしまう根底みたいなもの。 それを見失いかけて揺らいでいる人々。
私の存在にさしたる意味などない。 私が生きていることにも。 生きているから、生きていようとする。ひたむきに。
恋愛も他人のいかなる存在も私自身の根底など揺るがせるはずもない・・ 人は他人<ひと>とそこまで交わることも分け合うことも出来ないのだから。 それは静かに横たわる深海のような「孤独」 それをわかっているから、誰かと交わりたいと思う。 自分を理解してほしい、相手のことも理解したい、と強く願う。 出来ないことが前提だからだ。
常盤御前や淀君はただ運命や時代に流されて嘆きながら生きていたようなカンジはしない。 自分が生きていくという前提を肯定しながら生きていったのではないかと私は思う。
いったいいつからこれほど恋愛至上主義みたいな風潮になったのだろう。 恋愛は一番ではない、と私はいつも言い切る。 何か恋愛を自分を変えてくれる魔法か幸せへのシード権みたいに捉えちゃいないだろうか? どこか感じるのは他人への依存。 ・・恋人とは本来他人なのだから。 私にはまるでその人そのものではなく「相手に投影した自分の姿を愛する」完結した自己愛のように思えてならない気が・・
・・セカチュ〜 でまったく泣けない私は激しく生を叫ぶのでありました>笑
孤独すら甘んじて受け入れよう。 決して折れることのない魂を、激しくスパークするような生命を。
以上。。 最近の傾向について思うこと でした。
孤独か、それに等しいもの 著者: 大崎善生 出版社:角川書店
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