鼠小僧白吉のうだうだ日記

2003年02月26日(水) 芸術の春?

友人のタマキ君たちのバンド、リキッドダイアリーのライブを聞きに行った。

タマキ君たちの音楽は前身のバンドの時から聞いている。今日のライブで「リキッド1周年」と言っていたが、そうか、リキッドダイアリーになってから、もう1年たつのか。

用事や仕事と重なってしまい、なかなか足を運ぶことが出来ないのだが、行ける時はライブに足を運んでいる。前回聞きに行った時からドラムが加わっていて、今回はギターが新加入していた。バンドの編成もそうだが、聞きに行く度に彼らのポテンシャルもドンドン上がっていっているような気がする。と、言ってもおいら、ああいった音楽のことはあまり詳しくないので、あくまで、ライブを聞いた感じでなんですけどね。

タマキくんCD発売、楽しみにしてますよ!

この春、ライブやらなんやらに、けっこう足を運ぶ。この冬の鼠小僧はまさに「冬眠」状態。行きたい芝居やライブがいくつかあったんだけど、寒いのとダルイのと気がのらないのと、カゼをひいたのと……などなど足が前に出ず、なかにはチケットを買ったのに行かなかったライブもあった。

しかしなんかここんとこ、芝居だとか音楽だとか、妙に行きたい気分になって、一気にだーっとチケットを買ってしまったのだ。

まずはアコースティックのライブイベント「東京百歌」。このライブはお気に入りのアーティストが大勢出ているのでめっちゃ楽しみ。
それと音楽はもうひとつ、「篠原美也子デビュー10周年ライブ」。本当にこの人の歌声、そして詩が描く言葉の世界はすごい。

芝居の方は、久々に歌舞伎座に行く。もしかしたら1年ぶりくらいかも。「切られ与三」が楽しみ。死んだはずだよお冨さん〜ってやつです。

たまには芸術を堪能しなくちゃね〜。心が乾いちまいますから。

と、いうわけでおいらはこの春は「芸術の春」なのであります。



2003年02月24日(月) 羊を巡る冒険

村上春樹の「風の歌を聞け」「1973年のピンボール」そして「羊を巡る冒険」の初期3部作に出てくる「僕」は29歳の時の流れのなかで、自分の20代を振り返っている。その歩みを探ることで、そこから導き出される答えがむなしく、せつないものになったとしても……

と、そんな感傷的なもんでもないが、最近、25歳の鼠小僧白吉、妙にここ何年かのことを考え、振りかえってしまうことが多い。

ま、理由は簡単でおいらのまわりの人間がイロイロと「行動」を起こし始めたり、あと懐かしいやつに出会ったりと、そうしたことが立て続けにあったからだ。

土曜日、高校の時からの悪友Eから久々に電話があった。彼は今仕事で広島の方に行っているのだが、この週末、用事で東京に帰ってきているとのこと。そこでじゃー呑もう! ってことで渋谷に集合ということになった。

高校時代、Eと遊ぶ時、いつも他に3人の女の子がいっしょにいた。M、R、S。でそのなかから今回はMだけが渋谷まで来ることができた。

「渋谷の109前集合!」といえば、当時はすぐに集まることができた。しかし今はなかなかそうはいかないもんだ。

去年Rが結婚した時はEがくることができなかった。そりゃそうだ。広島でかなり忙しく働いているE、そう簡単に東京にでてこれるもんでもない。その前の時はおいらが仕事で出張中、顔を出せなかった。

今回もSは他の用事があるとか、Rは……「つわりがひどい」とかで来ることができなかった。

「つわり」……なんか妙な感じだ。高校生のころの、制服の姿を知っている連中のひとりの腹んなかに、当時は存在しなかったまったく別の生き物が蠢いているのだ。

Eは広島の方でテレビ関係の仕事をしているのだが、かなり頑張っている様子。

Mは音楽の道を歩んでいるのだが、今度7月ちょっと大きめの舞台に立つ。

時の流れちゅーのは妙なもんだ。たまに会って話している時、その感覚は、制服をきていた時とたいしてかわらない。でも確実に流れた時間の分だけ、みんなそれぞれ違う別の姿を身にまとっていて、その姿がちらっと表に顔を出す時、高校時代のおいらたちにはなかった、蠢きを感じるのだ。

みんなそれぞれの道でなんとか歩もうとしている。

おいらもまけちゃいられないね。もっともっといろいろアタックしていかなくては。

羊を巡る冒険に出るのには、まだまだ早すぎる。おいらの探すべき鼠はまだ近くにいると思うし、羊の存在にはまだ気づいてもいない。
でも確実にピーナッツの殻とビールは、ジェイズバーの床の上でどんどん高さを増して行っている。

……
しかしここんとこ本当に良く飲んでるな。木曜新宿、金曜横浜、土曜渋谷、日曜池袋。そのうち呑みや街マップとかつくれそうな勢いだ。

………さてさて、
話しは変わって金曜日の横浜。
そこで会ってた人に「ホームページを見てる」と言われて、ちょっとアタフタ。
いや、別に見られてもいいんですけどね。たまーに、ヤバイこと書いてる時もあるんで。

あわてて、全ページちぇっく。結構、気が小さいおいらです。



2003年02月02日(日) 成人

成人って30歳? 40歳?

最近文芸関係の人が書いた文章の中に「30歳成人説」だとか「40歳成人説」などといった文章を良く見かける。これってつまり、「大人になりきれない大人が世の中にたくさんいますよ」ってことなんだろうけど、果たしてそれでいいのだろうか。

塩爺が「大変喜ばしい」とボケて間違えて発表した史上最悪の失業率。特にそのなかでも20代の失業者が大変多いとのこと。一昔前だったら大学でたら就職っていうのが当たり前だったんだろうけど、今はそんなの当たり前でもなんでもない。

おいらの出た法政大学の就職率は確か7割を切っていたと思った。と思ってぐるりとまわりを見渡せば、う〜ん納得。まともに就職してるやつは……見あたらネエじゃないか(おいらも含めてね)。

別に就職しなくても生きていける。バイトの時給はけっこういいし、へたしたら税金やらなんやらで給料から天引きされる「まじめな」同級生よりもポケットに入ってくるお金は多いかもしれない。

30近くになってきて「ちゃんと」就職し奴らが責任ある仕事を始めて、ふと気がついた時にはけっこういい年収で、となりにはおくさんと子供がなんていう様子を見たとき初めて、ソロソロおいらもなんて思う。

20代前半でちゃんと就職し、自分の人生の道筋をつけるのが当たり前だった時代。もうちょっと時間をさかのぼれば、その決断は10代後半でせまられ、さらにその昔は(たとえば戦国時代の武将の嫡男は)10代半ばそれなりの覚悟をしなければならなかった。そういう時代もあったのだ。

今の時代はそうした決断は先延ばしできる。先延ばししてもたいして差し支えのない、そんな時代なのだ。

30代でも40代でも「成人」できればまだいい。へたしたら一生成人しない奴もいるかもしれない。それでも今はいきて行ける。

柴田翔は60年代の学生を描いた「されど我らが日々」のなかで、「我々は老いやすい世代なのだ」という言葉を使った。
日本が現在の繁栄を気づく草創期の学生は、すでに学生時代に成人を迎え、様々な思いを胸に抱き歩みを進めようとしたからこそ、そのつまづきを感じ、それが老いと表現されたのだ。

今の我々は「老い」などという言葉の存在すらも感じることができないかもしれない。幼稚な時間のなかで、ただ遊戯をしているだけだ。

文芸者たちがのんきに「30歳成人説」「40歳成人説」などと唱えている間に、我々の世代は益々幼稚な時代を長く長く引き延ばしっているのではないだろうか。

幼稚のなかから生まれる良さもある。石原慎太郎は「小説は10代のうちに書くべきだ」と言っている。大人になる直前の一瞬の時に生まれる感性は本当に素晴らしいものがある。しかしそれは一瞬だからこそ輝くのであり、その時間をダラダラ過ごすなどということはありえない。ただの幼稚の垂れ流しでしかなくなってしまう。

「戦いはいつも自分のため」(旅立ちの朝)
「未来は自分で開け」(VOICE 明日への滑走路)
高校時代良く鈴木彩子の歌聞いていたな。久々に聞いてみるか。何かに改めて気づくかも。



今日は新宿で2件はしご。そのあと地元でもう1件。酔った勢いで最近思っていることを連ねてみました。
鈴木彩子の歌の詩を最後にもう一つ
「甘えは許されない時、だれにも頼ってはいられない。高いところを飛ぶ鷹は決して群れをなすことはない」(コンクリート)


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