そよ風


2004年12月30日(木) 推理小説完結編のような

今年は、私にとっては、推理小説完結編のような年になった。

あの、突然のフィブリノゲンのニュースは、長い間、心の片隅で、
ずっと燻り続けていた疑問を、一挙に解決してくれた。

「輸血の経験のない私は、いったい、いつ、どこで、感染したの?」

「感染経路の不明のケースも多いのですよ。
昔は、予防接種の注射器も、使い捨てではなかった時代でしたから」
と、医者から言われたけれど、釈然としない気持ちのままだった。
ずっと真実はわからないのだろう、と思っていた。

でも、輸血の経験はないけれど、止血剤の注射を何度か受けていた。
妊娠三ヶ月頃から原因不明の出血傾向が続いていたから、
先生は無事出産が終わるまで、とても心配して下さった。
フィブリノゲン購入先の一覧表に、名前のあった病院。

私としては、永年の「なぜ?」に、突然、終止符が打たれた感じ。

それをきっかけに、長い間放置したままのC型肝炎の診察を、
受けてみようという気が起こった。

意外にも、ウイルス量が多く、肝臓の炎症も少しづつ起こっているということ。
本格的にウイルスが暴れ出さないうちにと、インターフェロンの治療を勧められた。

自分のことなのに、全く予想をしていないことが、次から次へと急展開し始めた。

長い間、こだわり続けた疑問が解決し、来年は、新たに治療に踏み出す年。

そして娘の結婚式もある。

息子の就職も決まって欲しい。

新しい年には、どんな筋書きが、私を待ち受けているのだろう。



2004年12月28日(火) 時すでに遅かりし?

明日から、主人も娘も冬休み。

今日は、もうすぐ東京から帰省する娘の部屋の掃除をした。
我が家で一番南側にある、日あたり抜群の部屋。
ということは、室内植物を置くには、恰好の場所なのだ。

彼女が、かつて熱心に(?)勉強していた机の上は、
今や種々のランの鉢植え置き場となっている。

サンサンと陽を受けて、気持ち良さそうなラン達を
少し寒い部屋に引越しさせねばならない。
誰だって、眠っている枕元を、ナメクジが這うと思うと、
いくら花好きだっても、イヤだもの。


先日、図書館で肝臓関係の本を二冊借りてきた。
たまには、こういう本も読んでみるのもイイね。

感心したよ。肝臓て、なんて働き者なんだ!って。
「人体の化学工場」と言うのは、知っているつもりだったけど、
あらためて、その仕事ぶりに、ほんとうに感謝してしまったわ。

破損しても「痛い」も「痒い」も言わず、予備や再生の能力をフルに使って、
文句も言わず、黙ってせっせと働くなんて、尊敬するよ。

あの本を読むと、ほんとうに週一くらいは、アルコールを飲まずに
肝臓さんをいたわり、休ませてあげたいと、心から思うようになるよ。

昔、昔(ひとつじゃ足りないと思って・・)、中高生の時、「生物」の授業は嫌いだった。
「ピルビン酸回路? クエン酸回路? なに?・・それ・・」って、感じだった。
あの頃は、自分の体内で、何が起こってるのかなんて、全く興味なっかったもの。
健康なのが、あたりまえ、という時期。

歳をとって、花や植物とおつきあいをするようになって、
植物の性質や育て方を、本やネットで調べるようになった。
育てていると、植物についていろいろ興味も湧いてくる。
「長日植物」「短日植物」「常緑広葉樹」
あの当時、「なんでこんなもの、覚えなあかんの?」と思ったのにね。

旅行好きになってからよ。
地理や文化も面白いと感じたのは。

ひょっとして、今の私、お勉強の適齢期?

でもね、やっぱり、記憶力がね・・・
それに、細かい字を長時間読んでると、目も疲れるし、肩や首が痛くなるし・・



2004年12月27日(月) 結論

年末も押し迫り、のんき系主婦の私でも、さすがに気分だけでも忙しくなってきた。
こんな日記を書いている場合でもないかな、と思ったけれど・・・

ただ、中途半端なところで、今年の日記を閉じるのは、
何かやり残したような、モヤモヤした変な気分に陥りそう。
書き始めてしまったのだから、最後まできちんと書こうと思う。
自分自身のためにも。

インターフェロンの治療のこと、

主人は私よりも、ある意味、C型肝炎治療に対しては熱心だった。
今までにも、何度か「インターフェロンで治療できないのか?」
と声をかけてくれたにもかかわらず、
私の方が「私のは軽すぎて、全然、そんなの必要ないのよ」と
笑って、取り合おうとしなかった。

輸血の経験がないので、私のウイルスなんて、きっと微量だから、
ぜったいに、将来もこのまま進行などすることはない、
と頭から信じ込んでいたから。

今回、医者から、治療を勧められたことを話すと、もちろん、主人は賛成、
しかも、今はどんどん良薬が開発され、治療の成果が上がっている、などと言う。
どうも、本人よりもいろいろと詳しいようだ。
ネットなどで、けっこう熱心に調べていたらしい。

来春予定の娘の結婚式が終わってから、という話になった。
私としては、やっぱり当日は、若々しいとは言えなくとも、
せめて、健康的な花嫁の母くらいには、なりたいと。
(実は、副作用による髪の脱毛が心配だから)

主人は言う。
「オレ、絶対に治ると思う。」
「なんで?」
「おまえは、丈夫やから」 

たしかに・・・。

すぐに風邪をひく主人から見ると、全然病気をしない私は、鋼鉄のような女?
それに、単純だから、薬はすぐに効くタイプ!



2004年12月24日(金) 迷い

「他人事だと思ってる人が約100万人」
パンフレットの最初のページの言葉。

今日のクリスマスイブに、ふさわしくない話ですね。

私なんて、自分の病名を知っていても、それは「他人事」。
長期間、全く無症状なうえに、ハッキリ言って、私は風邪もひかない丈夫な人。

そして、こと自分に関しては、病気とも言えないようなC型肝炎のことを、
こんなところに書く予定は全くなかった。

「私の血液を輸血でもしない限り、決して私からは感染しない」
と、現代医学で確証されていたとしても、
余計な疑いをかけられたり、変な心配をされるかも知れない、という不安がある。

自分や身近な人がその病名を告げられない限り、
誰もその病気のことを、正しく理解しようと努力しないと思うから。

特に隠す必要もないけれど、言う必要もないと思う。
日記の中だけでなく、実際の日々の生活の中に、
この病気があまり登場することはない、と甘い予想をしていた。

一生、このウイルスを抱えながらでも、栄養と健康に気を付けていれば、
肝硬変や肝臓癌になることもないだろう、と。
だから、今のままで、ずっといいのよ、って。

先日、七年ぶりくらいで市民病院で診察を受けた。
そして、思いがけずインターフェロンによる治療を強く勧められた。

今、できるだけ早く治療すれば、完治する確率が高いそうだ。
それでも、50パーセント。

「保険は下りるのですか?」「はい」

「髪の毛は、抜けるのですか?」「多少はね・・」(それ、けっこうツライよ)

「今、私はとても元気だし、肝機能(GOT、GPT、γーなど)は、ほぼ正常値です。」
「今は、ウイルスが暴れていないからですよ。」
(腹立つわ、ウイルスのヤツ・・私の体内で、ぬくぬくと・・・)

「このまま、一生、暴れないで大人しくしていないのでしょうか」
「たぶん、60歳前後で暴れ出す可能性があります。ウイルスの値は高いです。」
(アンタ達が体内に、じぃっと潜んでるから、風邪のウイルス達も怖がって近寄らないのね!)

「暴れだしてから、インターフェロンの治療を始めてはダメなのですか?」
「完治する確率はグンと下がります。インターフェロンの量も増えます。」

もし、今、少しでも肝炎の症状に苦しんでいたなら、きっと、即決したと思う。
でも、私は、今のところ、とても元気で楽しい日々。

運が良ければ、このまま、肝硬変にも肝癌にも進行しないで、
そこそこ健康に歳を重ねて行けるのでは、と期待してしまう。

インターフェロンの副作用は、調べると決して穏やかではない。
一年間、耐える価値はあるのだろうか。
完治しない場合もあるのだ。確率は半分・・

保険は下りても、インターフェロンは高額だ。
それに、髪の毛が復活するまで、どうすればいいの?
やっぱり、高額なア○ランスも買ってもらわないと。

こんなこと、今、現実に病気と闘っている人達から見れば、贅沢な迷いだろうけど。



2004年12月22日(水) 私は元気なのに

今日の私は、再び病院デーだった。
今回は、予約だったので、待ち時間は約1時間、
しかし、予想外の先生の言葉に、今も困惑の真っ只中という状態。

医学の進歩の速さは、すごいものだ、とつくづく感じる。

この七、八年の間、元気なのをいいことに、ずっとサボっていた。
私が知らない間に、医学はどんどん進歩していたのね。
当時は、まだ詳しく表われなかったウイルスの状態なども
きちんと数値で出るなんて、びっくりだわ・・・

「我々は(1)以下の値を「軽い」と言ってるんですよ。」と先生。

私は・・・(18)

こんな項目、十年ほど前の検査には、なかったよ。
私はずっと元気だし、当時何度か受けたエコーの検査後も、
特に、たいしたコメントはなかった。

半年に一度の通院も、自分では意味がないように思えてきて、
せっかくの休日を、病院通いでつぶされるのなんて、まっぴらだ! 
私は、こんなに元気なのにー
と、自然と病院に行かなくなった。(それがダメなんだよね)

今でも、私は、とても元気だ。
平均睡眠時間5時間、遅寝早起きの毎日だけど、
この何年間、風邪ひとつひかない。

健康って何?  病気って何?

それに、ごく一般的な健康診断の血液検査の数値、けっこう優秀だと思う。
私は、平均以上に健康体のはずよ。

ということは、普段の健康診断で何が判るというの? ってこと。

それにしても、あまりにも無関心過ぎた自分に反省。
ネット検索で、いろんなことを調べたり、勉強したりするくせに、
この病気に関しては、10年以上前に買った本を読んだきり。

私の知識は、10年前から全然進歩していないなんて、
肝心なところで、私は、時代の流れから取り残されていたのね。
やれ、インターネットだ、ホームページだの、と遊んでいる間に。

昔の本には、この病気の人は、食後すぐに横になるべし、とあった。
摂取した栄養が、できるだけ吸収されやすいようにと。
でも、今日、病院でもらったパンフを読むと、今は、そうではないらしい。

もう、オオデをふって、食後にゴロリ〜ンとなれないってことか。(困るよ・・・)



2004年12月16日(木) 第二の故郷

昨日は、十八年前まで住んでいた兵庫県川西市は多田神社周辺を散策。
この地で子供達を出産し、幼稚園時代を共に過ごした、かつての若ママ達三人が多田に集合、
私も、約二時間近くかけて、遠路遥々、懐かしい町にたどり着いた。
昔住んでいた家、子供達といっしょに通った幼稚園、子供図書館、多田小学校などを巡る。

「ねぇ、ねぇ、あの(シルバー編み機)の看板、昔のままよ!」
「昔、ここにあったパン屋さんは、もうないのねぇ」
「あっ、全日空の女子寮もなくなってる。」

ちょっと、あかぬけた美人が歩いていたら、
「あの人、きっと全日空のスチュワーデスよ」と、囁きあったものだけど。

のどかだった猪名川沿いの道には、店舗やマンションが隙間無く立ち並び、
以前と雰囲気がずいぶんと違っている。

でも、よく通った細い脇道は、昔のままだった。
国道に平行した、片側が小さな工場の川沿いの道、車が滅多に通らない。
この道は、ほんとうに十八年ぶりで歩く。でも、当時は三日に一度は歩いた道。

最初は、懐かしいねぇなどと喋りながら歩いていたが、
いつの間にか、まるで昨日までずっと、歩いていたかのような感覚になる。
いつもの、歩き慣れた、馴染んだ道を歩いている私達。

十八年という年月は、どこへ行ってしまったんだろう。
友達も同じことを言う。

でも、悲しいかな、十八年の時間を逆行できるのは気持ちだけ・・・

昔と変わらないのは、ぺちゃくちゃと賑やかに喋って歩く姿と、猪名川の流れ也。



2004年12月14日(火) 嫁のプライド?

先日、町のふれあいセンターで、骨密度の測定をしてもらった。
なんと、私の予想に反して、結果は惨めだった。

「あなたの骨密度は日本人同年齢女性の標準値に対して75%です。
 あなたの骨量は要注意域にあります。
 現状のままでいくと将来的に骨粗鬆症になる可能性が大です。」

とのコメント付きのグラフ、標準ラインより、はるか下方にマークが付いている。

保健婦さんとの会話。

「好き嫌いありますか? インスタントラーメンなど、よく食べられますか?」
「いいえ。毎日、動物性蛋白、植物性蛋白、緑黄色野菜、淡色野菜、きっちり考えて摂ってます!
 インスタントラーメンなんて、若い頃から苦手です!」

「運動はされてますか?」
「ハイ、週三回、スポーツジムのエアロビクスに通ってます。歩くのも大好きです!」

「太陽にあたってますか?」
「庭いじりが好きなので、しょちゅう当たってます!」

主人に「庭仕事する時にも化粧しろよ。顔が日焼けしてるで」とまで言われてるのよ!

さて、この結果に納得がいかない私、
「私の骨密度100パーセントやねん!」と、耳にタコができるほど自慢ばかりする姑の顔がチラチラする。

私の骨密度が75%だなんて知れたら「あんたの栄養管理、アカンのちがう?」と言われ、
姑先生の栄養指導、栄養学口座が始まるのは目に見えている。

(そんなの、嫁としてのプライドが許さない?)

大の医者嫌いの私が、病院で再検査を受ける決心をした。
それも、この辺では一番大きい市民病院の整形外科へ行って、確かな検査を受けるんだ!

この七、八年、放置したままの病気(と言えるかどうか)も、ついでに受診することにして、
昨日は、病院詰めの一日となった。

それにしても、公立の大病院の待ち時間の長いこと!
ざっと11時から夕方4時近くまで、病院にいたことになる。
昨日は読書デーだったとも言えるよ。

永井するみ「防風林」一冊、横山秀夫「真相」、
そして、平山りんご「わがまま、気まま、思いのまま」

全部、読み終えてしまった。
本が好きなので、長い待ち時間は全く苦にならなかった。

でも、駐車料金900円は、高いんじゃ〜ないの!!

そうそう、骨密度、正確に精密に検査していただきました。

101%なんだって!!

たとえ、1%でも、多いのが嬉しいね!
今度の土曜日、自慢してやろう。
私達、「骨ニクの争い」ではなく「骨ミツの争い」をする嫁姑!



2004年12月13日(月) 親善大使

先日のこと、義母がニコニコして言った。

○○ちゃん(私の娘)から、電話がかかってきたよ。
「おばあちゃん、誕生日おめでとう!って」

義母は、その度に言う。

みんなに(義母は友達が多い)、そのことを言ったらね、
「そらぁー、嫁さんがエエからやでー!」って、みんなから言われるんや。

義母も私もニコニコ、にっこり!

でもね、嫁の私が、この結婚三十年の間、
義母の誕生日を思い出したこと、何回あったかなー

よしんば、思い出したとしても、「おかあさん、お誕生日おめでとうございます!」
なんて、私が電話をしたら、きっと、腰を抜かすとまでは、いかないだろうけど、
「あんた、どうかしたん? 何かあったん?」と、言われてしまいそう。

もちろん、娘に「おばあちゃん達の誕生日には、お祝いの電話をしなさい」
なんて、一度も言ったことはないよ。

マメで、やさしい父親のDNAを受け継いでいる娘、
義父母や私の母の誕生日も忘れず、東京から、せっせとお祝い電話を送り、
帰省の折には、ちょっとした東京土産を買ってきて、
年寄り達を喜ばせてくれている。

のんき嫁の私は、この若き親善大使のお陰で、何の努力もせず、
ちょっと点数を稼がしてもらってるよ。

しかし、私のDNAを受け継いだ息子は、全く・・・薄情なヤツ。
ほんと、音沙汰のないヤツ・・・
でも、仕方ないかー。 
私に似ているんだから。



2004年12月10日(金) 衝撃のニュース

偶然、目にしたとはいえ、衝撃のニュースだった。
私の場合、新聞でもなく、テレビでもなく、ネット上のニュースで知った。
いつも、何とは無しに通り過ぎてしまう小さな画面に、目が張り付いた。

この十何年間、ずっと心の片隅にあった疑問、
「なぜ? なぜなんだろう?」と問い続けていた自分、

あの時点では、そういう可能性は全く示唆されていなかった。

常に「いつ? どうして? どうして私が?」があった。
でも、はからずも、早くに結果だけを知っていた私は、幸運だったのか。

一ヶ所だけ、はまらない、ジグゾーパズル。
釈然としない気分を、いつも片隅に抱きつつ、歩いてきた。

そして、あのニュースだ。

突然、パズルの最後の一枚、ピッタリと一致する一片のカケラが、上から降ってきたのだ。

二十年以上前の、確かな事実、確かな記憶がよみがえる。

念のために一覧表を捜す。
あった・・・

予想もしていなかった形で、突然、未完成のパズルが完成した。
だからと言って、私の場合は何も変わらない。



2004年12月09日(木) 泥棒ごっこ?

最近は、留守中の御近所の配達荷物を、預かることが少なくなりました。
以前は、荷物を預かってもらったり、逆に預からせてもらったり、
ということがよくありました。

少し前頃、南紀出身の御近所の荷物を、時々預かることがありました。
敢えて観察などする気はないけれど、ひと目でソレとわかってしまう中身、
当然(?)ちょっと高級柑橘類(ぽんかん、オレンジ、ネーブル等々)

敢えて期待などは、決してしないのですが・・・・♪♪♪・・・?
律儀な奥様が必ずお裾分けを届けて下さいました。・・・(^^)v

小さな運送会社の事務所にいた経験のある私は、その度に思いました。
「ベテラン配達員は、決してこういう物は預けないものなのに」って。
たとえ、御近所が親戚同然の地域だったとしても。
特に中身が「マツタケ」「メロン」などの場合は、絶対にダメ。
そんな物を預かってしまったら、抑えても、抑えても、淡い期待感がフツフツ・・・


そうそう、預かり荷物に関して、忘れられない出来事があります。

留守中の配達荷物、御近所に預かってもらって配達完了したと思いきや・・・

中身は、北海道産の御土産用の「塩鮭」でした。
北海道旅行の御土産として、ダンボール一箱分、自宅宛に送った宅配便。
旅行から帰宅後、すぐに御近所やお友達、御親戚などに配る予定だったのでしょう。

今のように、細かい配達時間指定の制度が確立されてなかったから?
忙しい配達員は、とにかく配達を完了してしまいたかったから?

その不運な荷物は、たまたま留守中ということで、御近所に預けられました。
不在表を見た受取人は、すぐに預かってくれているお宅に引き取りに行ったのですが・・・

お留守だったのです。

何度も行ったそうですが、ずっと留守。
塩鮭と言っても、ダンボールひと箱分、冷蔵庫に入ってるとは考えにくい。
なんといっても、なまもの土産、できるだけ早く配りたい。

でも、その日、とうとう、誰も帰って来なかったそうです。

留守するなら、預かるナって!!(でも、きっと緊急事態が発生したのでしょうね。)

そして、翌日になっても、預かり主は帰ってきません。 
ついに、こちらに電話がかかってきました。

「運送会社、並びに、警察、たちあいのもとで、窓ガラスを割って、そのお宅に入り、
自分の荷物をなんとか引き取りたい」という内容でした。

それから、どうなったのでしょう。
実は、私も結果を聞いていないのです。
今なら、どんなに忙しくても、興味津々「ねえ、ねえ、どうなりましたか」と当然尋ねるのに。

その頃は、事務処理に忙殺されてました。聞き耳だけは、しっかりたてて。

最近、近所預かりが少なくなっているのは、きっと、いろいろ問題が多いからでしょうね。
単に、隣近所の付き合いが少なくなった、ということだけではないと思います。



2004年12月07日(火) 粘着力!

さて、今日もまた、宅配便絡みの日記です。
書き出したら、次々思い出して止まらない状態です。

留守中に配達があった時、ポストに入っている「不在表」、
最近は、「お留守だったので持ち帰りました」が多いですね。
長期不在の場合は仕方がないけれど、そうでない場合は、できるだけ早く、
配達日時を指定して事務所やセンターに連絡しましょう!

不在表を入れたのに、いっこうに、連絡をしてこられないお客様がいました。
たしかにすべての宅配便が、「まあ、嬉しい! 何が届いたのかしら? ワクワク♪」
という物ばかりではありません。

自分で送った荷物、あまり受け取りたくない荷物、急がない荷物、
いろいろな理由はあると思いますが・・・

その宅配業者の人は、連絡がないけれど、毎日、配達に伺っていたようです。
団地やマンションなどは、たいてい、いつも近くに配達があるものですから。

「今日こそは、御在宅かも」と期待するのだけど、やっぱりお留守。
そのたびに「持ち帰りました。連絡ください」の不在表を投入してくる。
でも、いっこうに連絡なし。腐ったり傷んだりする品物ではないけれど・・

ひょっとして、不在表の小さな紙切れに気が付かないのかも、と思ったのでしょうか。
彼は、ドアのどまん中に、不在表をガムテープで貼り付けたのです。
イヤがオウでも、ドアの前に立てば、目に付くように。
簡単に剥がされないように、四辺をきっちりガムテープで取り囲んで、頑丈に。

さすがに、ついに、受取人から連絡が入りました。
でも、配達日時の指定ではありませんでした。

「ガムテープといっしょに、ドアの塗料まで剥がれて、禿げてしまった故、早急に修理をして欲しい。」

恐るべし! ガムテープの粘着力!!

「今から、その禿げたドアを見て、同色のペンキを買って、自分で塗ってくる」
と言って上司は出かけて行きました。

小さな運送会社の社長って、ペンキ塗りまでせんとアカンのね・・・

上手くペンキ塗りができたかどうか、後日談は聞いてません。
けっこう、この程度のこと、日常茶飯事だったような・・・

もう15年くらい前のこと、今はもう変わっているかな?



2004年12月06日(月) すみません・・・

お歳暮、贈り物のシーズンが到来しました。
この時期、ギフトや小荷物を配送する事務所やセンターは、てんやわんやの忙しさ。
この時期に限ったことではないけれど、荷物やギフトを受け取った人は、
必ずすぐに、お礼の気持ちを、葉書や電話で相手に伝えましょう!

常識よ!と思われる方も多いことでしょう。
でも、某配達事務所にパート勤めをしていた時、けっこう頻繁だったのです。
「送った相手から、なんのお礼も言ってこない。ほんとうに配達されているのか?」
と尋ねられるお客様です。

送り状の伝票番号から、いつ、誰が、配達完了したかというデーターが、すぐに検索できます。
その日の、配達完了伝票の中から繰って捜しだし、受取人の印鑑やサインを確認、
それをファックスで発送元の配送センターに送信するなんて事態、ちょくちょく発生しました。

受け取り人の方がお留守で、親切な御近所の方のサインや印鑑の場合もありました。
そうなると、確認の電話をかけることも必用になることがあり、
送り主と受け取り人、預かり主と受け取り人、
下手な確認電話のせいで、人間関係にヒビが入らないよう祈るばかりでした。

中には、ほんとうに「いや、受け取ってない」「たしかに、お届けした」
という事態になったり、
お年寄りの方が受け取られ、すっかり忘れてしまっていた、ということもありました。

その事務所の担当地区は二市一町だけで、半日パートの私が「チョクチョク」と感じたのですから、
日本全国、品物やギフトを受け取っても、何の連絡もよこさないという人、けっこう多いのかも。

かく言う私も・・・
実は、忘れていて、遅れ馳せながら、あわててお礼の葉書を書くこともシバシバ。
いいえ、正直に白状すると、感謝の気持ちを伝え忘れて、そのまま・・・
(もう、時効かも・・、若気の至りと思って大目に見て!と叫びたい気分)
というが、あります。

すみません・・・



2004年12月04日(土) 怖〜い思い出

頻繁ではないけれど、宅配便をよく利用する今日この頃、
某宅配便の事務所でパートをしていた頃の思い出話。

年末、一年中で一番忙しいこの時期、いつもは暇な宅配便事務所も、
臨時の配達員や仕分け人アルバイトが右往左往し、
倉庫には、山のような荷物が積み上げられ散乱している状態だった。

でも、荷物を満杯に積み込んだ車が、みんな出払った後、
事務所の中は、急にガランとなり、私と上司(親類の人)だけになる。

忙しい上司は、いろいろな所用で走り回っていることが多く、
事務所の中は、たいてい私ひとりが留守番だった。

「みんなで外に出て待ってるのに、約束の時間になっても荷物が届かない!」
と、怒りの電話があったのはそんな時。

担当地区の配達員は当然、もう出発している。
道路状況や諸事情で、配達時間がずれることは多い。
携帯電話のような便利な道具は、当然まだ一般には存在しなかった頃、

(小荷物をわざわざ外に出て、みんなで待ってるなんて?? 変なの・・)

「すみません。もう少しすると届くと思いますが」と言う私に、相手が突然、凄んだ。
(言っとくけど、ちゃんと申し訳なさそうに返事をしたよ。)

「もう少し待ってたら、来るんやな!! 
けえへんかったら、そっちへみんなで行かしてもらう!!
男を電話に出せ! そこの場所を教えろ!!」
独特の口調だった。

そこへ、運良く(?)、相手のお望みどおり、ふらりと男が現れた!
事情を急いで説明し、無理やり電話を押し付けられた不運な彼、

しどろもどろに応対して、ここの場所を説明だけすると、電話を切り、
なんと「ゴメン、悪いけど、忙しいから」と、逃げるように行ってしまった!

たしかに、出入り業者的存在の彼は、私達とは仕事上、直接関係はない。
しかも、若くて、とても小柄で華奢で、羨ましいほど色白で、
どうみても私より、か弱く、なよなよしい。

こわ〜い人達が押しかけてきたら、どうしよう・・・
○○さん、早く荷物を届けて〜。

古い大型の倉庫が並ぶ、だだっ広い敷地には、たいてい誰もいない。
その片隅にある宅配便のちっぽけな事務所、すぐそこまで海が迫る。
倉庫の事務所は遠く、滅多に行った事がないし、私とは交流もない。

その当人の配達員が昼食のため戻ってくるまで、
一人、寂しい事務所の中で、不安な時間を過ごしたのは当然のこと。

「ええ? ちょっと遅れただけやけどなー」と、配達人。
「みんなで外で待ってた? 物凄く怒ってたでしょう?」
「いいや〜、べつに〜」
「・・・・・・」

今から考えると、あんな寂しい場所でよく留守番していたなーと思う。
誰からも目に付かない場所で、お金も無さそうな粗末な事務所だったが、
留守で持ち帰った小荷物、配達日指定の荷物などが、置いてあった。
若くは無いが(でも今よりは遥かに若い三十代)女事務員が一人で留守番してたのよ!

今は、埋め立てられ、大型マンション群とショッピングモールが建ち、
すっかり変わってしまったあの周辺、
昔の古い大型倉庫、ちっぽけな粗末な事務所は、今では、移転して近代的になってることだろう。

古くなって行くのは、人間ばかり也。



2004年12月02日(木) 気分転換

ちょっと、気分転換したくなりました。
日記の名前も背景も変えました。

私は、そよ風のように、爽やかではないけれど、
私の旧姓は「風」という字が入っている、ちょっと珍しい名前。
その「風」にこだわって考えた末、「そよ風日記」に決定しました。
もう、結婚30年目というのに、旧姓にこだわるのは変かな?
特に深い理由はないのだけど。

でも、「nogiku」にしても「そよ風」にしても、いつも思うのは
「なんて、実物の私と、かけ離れた名前!」
でも、パソコン上だから、好きな名前を付けてイイ気分♪

背景写真は、2年前の夏のりんくうタウン。
写真では、うっすら見える(?)観覧車は、つい最近、撤去されました。(寂しい・・・)
夜空に浮かび上がる、輝く観覧車の風景、もう見ることができないのね。

山や海などの、自然の織り成す風景も好きだけど、この人工的な眺めも、実は好きなんです。
海を渡る関空への連絡橋、白い砂浜のマーブルピーチ、ゲートタワービル、
娘と主人と三人でカメラを持って散歩に来た夏の日の写真。

ところで、デジカメの写真を背景に仕上げるのに、ずいぶん苦労しました。
画像を薄くぼかしたり、この日記帳に組み込んだり、手さぐり状態での挑戦でした。
完璧に自己満足の世界です。

運動不足気味。 明日は久々にエアロに頑張ろう!




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