Rocking, Reading, Screaming Bunny
Rocking, Reading, Screaming Bunny
Far more shocking than anything I ever knew. How about you?


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*名前のイニシャル2文字=♂、1文字=♀。
*(vo)=ボーカル、(g)=ギター、(b)=ベース、(drs)=ドラム、(key)=キーボード。
*この日記は嘘は書きませんが、書けないことは山ほどあります。
*文中の英文和訳=全てScreaming Bunny訳。(日記タイトルは日記内容に合わせて訳しています)

*皆さま、ワタクシはScreaming Bunnyを廃業します。
 9年続いたサイトの母体は消しました。この日記はサーバーと永久契約しているので残しますが、読むに足らない内容はいくらか削除しました。


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2007年08月30日(木)  And if you want it

アメリカの古本屋から、ネットで注文したマイク・ロイコの本が届いた。のは、いいのだが。
開いてみたら、思いっきりNYの図書館のスタンプが。
・・・と、盗品等関与罪?
・・・・・・・・・・・・・ま、いっか。

昨日読み終えた本'Sience-Fiction Carnibal'(edited by Fredric Brown and Mack Reynolds)はヤフオクで入手したペーパーバックの古本だが、何と読んでいる最中にまっぷたつになってしまった。時々開いて伏せておいたのに耐えられなかったらしい。それもその筈で、この本は1953年出版の1957年版なのだ。
昨年フレドリック・ブラウンの'The Wench Is Dead'をアメリカの別の古本屋から取り寄せたが、1954年版のその本は、未読の状態であったし、注意して読んだにも関わらず、読後には背が割れてページも抜け落ちる寸前だった。
しかし、こういう本が、この読後の状態が、実に何とも見ていて愛しい。「わたしの本」という気分になる。特に'The Wench Is Dead'(ちなみにかなりの希少本)は、最初は手付かずのきれいな状態から、私に読まれることで見事な古本と化していったわけで、私の読書の痕をくっきりとのこしている。

「モノ」はいらないと常々思い、何でもしょっちゅう捨てたりあげたりしているが。たまにこういう、見ているだけで嬉しくなる物もある。
と、言いつつも。将来誰かがこれを本当に欲しがれば、あげちゃったりするのが私なのだけど。気前がいいのではなく、何かしっかりと理由がつけば、モノを手放す機会は逃さないのだ。

何にも持たないのが理想なのだ。スーツケースひとつで引越し出来る状態が。
そんな私が未だに唯一大量に抱え込んでいるのが本であり、先日またかなり処分したが、それでも900冊近くある。捨てたい欲望と、並べて見ていたい気分の間で揺れている。

And if you want it (もし誰かが欲しがれば)  *Let It Bleed / Rolling Stones (1969) の歌詞。



2007年08月26日(日)  He wants it easy, he want it relaxed

bbsにストロークスのライヴ映像のリンクを貼る。今日、8/21の日記にストロークスの歌詞を使ったので、その曲を貼ったのだ。

ストロークスとの出会いも衝撃的だった。2005年にCROSS ROADに勤めている時、滅多にないことだが次にかけるCDを選ぶのに間に合わず、慌てて1枚棚から抜いてプレイヤーにつっこんだら、'Is This It'が流れた。始まった瞬間思わず「何コレかっこいい」と口走った。これは、新しい。こんなのは初めて聴く。
アパシーを前面に出した音楽。絵的に動かないバンドはオアシス以降珍しくないが、しかしオアシスの音楽は馬鹿がつくほど熱いのであり、やはり今でもおおかたのロックはそうだ。が、ストロークスは違う。アンニュイだのスノッブだのという言葉が浮かんでくる。後乗りというより遅れて面倒臭そうについていくボーカルが歌う言葉は、「疲れた」、「したくない」、「わからない」、「仕方ない」、「意味がない」などの羅列。"Last Nite"の歌詞における身勝手さなどは、自覚がないだけにぞっとする。'Is This It'で彼が、"Can't you see I'm trying?"(僕だって頑張ってるんだぜ)と言う時、彼の「頑張り」とはせいぜい「君の話を5分間我慢して聞く」といったところか。

ジュリアン・カサブランカ(vo)は、フランスの有名企業の会長とモデル(元ミス・デンマーク)の間に生まれた。両親は幼い頃に離婚して母親に引き取られ、14歳には飲酒で逮捕され、父親にスイスの寄宿学校に放り込まれたりしている。要するに、絵にかいたような金持ちの放蕩息子だ。23歳でバンドデビュー。(ちなみにギターの一人はアルバート・ハモンドの息子)
背景を知れば、あまりにも納得の音楽なのだ。たかが中産階級というだけでブラーを目の敵にしていたオアシスの兄弟が聞いたら唾を吐きかけたくなるような存在だろう。
坊ちゃん臭く無責任で無気力なこの音楽が―――えらくエレガントだ。
「無駄」―――これほどにきらめきわたる無駄は滅多にない。へえ、きれいだなあ。
どうせこの男はいずれ酒か何かでぶくぶくに太るだろう。でも今しばらくは、虚空に向かって揮発性の音楽を吐き出しているといい。

ところでコートニー・ラヴの"But Julian, I'm A Little Bit Older Than You"は、ジュリアンのことを書いた曲らしい。その歌詞からするに寝たんだろうが、姐さんともあろう女がガキに入れ込むのも大概にしましょうよ、と言いたくなるほどのクズ曲だ。ああいうきれいな顔の「無駄」は、ただ消費しちまえばいいのに。

He wants it easy, he want it relaxed (彼はただ気楽にゆったりやりたい)  *The End Has No End / Strokes (2003) の歌詞。



2007年08月25日(土)  Reach out for me and hold me tight

22:40にMickeyからメール。誘いたいのはわかっているが、好反応せずにいたら、「また一緒に飲みたい。君はいいロックンロール・スピリッツを持ってるからね」と言われ、むかっと来る。自分がロックの権威のつもりか。大体この私をスカのライヴに誘うような奴に、私の音楽志向がわかるとでも。
返信せずにいたら、「新宿に行こうよ!」と言われたので、終電がなくなるまで待ってから、「悪い。電車ない」と冷たく返事。もうこれで今後連絡してこないだろう。

しかし最近「外人お誘い断り日記」みたいになってきちゃって。そういやGeoff(g)からのPCメールにも返信してないなあ。

今はちょっとPCを空っぽにしているので、音楽も珍しくそれほど聴いていない。で、強烈にR.E.M.が聴きたくなって、とりあえずお手軽にYouTubeに行ってみたら、10/16にライヴCD/DVDが出るらしくそのトレイラーがアップされていた。おおお。

R.E.M.は変なバンドだな。私がこの言葉で表現するのは他にキンクスがいるが、両者に共通するのは、普通ロックに一番多いテーマである「(セックスを前提とした)恋愛」の要素の欠如だ。実はレッチリにおいても、アンソニー・キーディスの歌詞は意外にも品良くそれを避けていたりするのだが、レッチリの場合、音に色気があるのであまりそうとは感じない。しかし、キンクス及びR.E.M.は、音にも殆ど「性愛」が存在していない。
キンクスは初期にはわざとらしいほど単純なプロトタイプ的ラヴソングがあるが、よく聴くと全く魂が籠っておらず、やがてはその路線を捨てる。私にとってはこの乾きがキンクスの醍醐味だ。
しかしR.E.M.の場合は、一環して愛らしきものを求めてはいるのだが、対象が女性であるかすら怪しく、或いはそれは神とか救いなのかもしれないが、とにかく非常に「切実」だ。
足掻いているのである。人間があるべき本来の姿だ。

'World Leader Pretend'のライヴ映像を出してみる。いくつか見た中で一番気に入った、2005年のミャンマーでのライヴ。全く派手さのない抑えた演奏だが、緊張感が凄い。マイケルの声は少し枯れ気味ではあるが、この表現力はどうだ。YouTubeにはこの曲の1989年のライヴもあったが、マイケルの歌は当時より何倍も深みを増している。(マイケルが完璧ゆえに、残念ながらマイクの上ずったコーラスは耳障り)
言葉が、重い。決心し、差し出している。横でピーター・バックがまるで気づかうようにギターを弾いている。何べん見ても、はらはらする。

Reach out for me and hold me tight (手を伸ばして僕を抱きしめてくれ)  *World Leader Pretend / R.E.M. (1988) の歌詞。



2007年08月21日(火)  Is this...it?

15時に目覚め、洗顔して、いつものストレッチをしようとし、腹筋100回やったところで物凄く具合が悪くなる。吐気ではないのだが。胃がなんともいえず不快。立つのもやっとだ。ふらふらになりながら、ネットで薬を検索。キーボードを打つにも超人的努力がいる始末。うちにある薬では、ブスコパンが目的に適うようだ。一錠飲んでベッドに倒れこみ、じっとしていたら30分くらいでじわっと刺激を感じ、次第にラクになってきた。なので素早く身支度して、何事もなく授業。
結局苦しんでいたのは1時間くらいだが。これって、生まれて初めての「二日酔い」?
もしこれがそうだっていうなら。なるほど、これは辛いわ。

・・・考えてみれば。
夕べは3週間ぶりの飲み。(しかもその前は1ヶ月あいている) なのに、久々にジンをロックやストレートで飲み、その後また早いピッチでチンザノを飲んだのだ。おまけに昨日はまる一日以上お酒以外のものを口にしていない。胃腸の調子もこの2ヶ月良くないし、更に今は月に一度の「飲むと吐く」期間中。
・・・も、いちいち言うのも面倒なくらいですが。アホです。ええもう。

でさあ。久々に、飲み歩いた後のいやーな気分を味わったよ。殆どここに書いたことないけど、私は実は、一晩中飲み歩くとよく自己嫌悪に陥るんだ。理由は簡単に説明出来るけど、したくない。
チャリごと階段を落ちたのは自己嫌悪には関係ない。それどころか、あの「落ち」がついたおかげで、笑えるのが救われる。

馬鹿やってるのも大変で。
飲み屋の愛なんか信じてないわよ。
Can't you see I'm trying?
I don't even like it. I just lied to


Is this...it? (これがそうなの?)  *Is This It / Strokes (2001) の歌詞。



2007年08月20日(月)  All I wanna do is... Bicycle bicycle bicycle

家で授業を終え、コンビニにゴハン買いに行ったらFK(b)からメール。これから飲もうというので、ゴハン買うのを中止。
22時20分に出て、駅へ急いでいたら、20代前半らしき男に「ちょっと遊びませんか?」と声をかけられた。道端で、しかも荻窪の天沼あたりで、タダで女を拾おうという発想の浅ましさ。加えてその美学のかけらもない台詞。お前は死ね。コンビニでだらだらと漫画を立ち読みする奴と一緒に死ね。
珍しくiPodしてないとこういう目にあう(声をかけられたのが聞こえる)のだ。ということで反省して爆音"Stadium Arcadium"状態にしつつ駅へ。ああ、爽快。しかし暑いな。

23時に渋谷到着。FKお薦めの"le Connaisseur"というバーへ。こじんまりした、葉巻とお酒を楽しむバー。こんなにちゃんとしたお酒がずらりと並んでいるのは久しぶりに見た。
まずはシャンパンベースのカクテル。メニューには載っていなかったが、桃のリキュールでつくってくれた。シャンパンは、炭酸の駄目な私が唯一好きな発泡酒だ。
次にジン。甘くないのを色々見せてもらい、飲んだことのないロンドンジンでヴィクトリアン・バットをロックでもらう。これが美味い。47度なのに口当たりも後味もすっきりとしていて、うっかりすいすい飲んでしまいそうだ。
あまり時間がないのでもう一杯だけ。どのジンをもらおうか迷っていたら、スタッフが、「特別に」と取っておきのジンを出してくれた。Butonといって、もう製造していないとか。勿論初めて見る。壜にはもう殆ど残っていないのに、何とサービスだと言う。最初の2杯を「美味しい美味しい」と感激して飲んでいたのが良かったらしい。有難く、ストレートでいただく。しっかりどっしりした、これぞジンという味わい。お酒が美味しいので、お通しのチョコレートにすら手をつけず。
1時間で切り上げたが、何とも充実した気分を味わえた。

FKと別れ、終電で新宿へ。ロックバーMへ行く。カウンターはアヤノちゃん。チンザノとゴードンジンをもらう。
いつもならもっと重くうるさい系が多いのに、どういうわけか今日はこの店にしちゃ大分古めのいいのが立て続けにかかる。ドアーズパティ・スミスポリスなど。しかし私はアリス・イン・チェインズレッチリをリクエストしたりして。新宿で飲むのが何と2ヶ月ぶりなんだから、ここはやはり、「ハイド・パークの"Can't Stop"を」
・・・じーん。
何だか今日はアヤノちゃんと楽しく話が出来る。珍しく一人で来てるからか? 気分がいいので一杯おごり、握手して店を出る。

新宿ロックバーCTへ。行く、筈が。
違う道を通ったせいで小滝橋通りのどこにいるかわからなくなり、店に電話して店員MG(g)訊いたのだが。彼も私のいる位置を間違え、反対方向を指示され、しばらく歩いてそれに気づく。
で、物凄く面倒くさくなり、道端に脚を伸ばして座り込み、煙草に火をつける。
・・・ああ、この「地べた座り」は危険だ。これをやってる時の私は、「何かもうどうでもいいや」状態なのだ。街中の道路でこれをやると、世の中に対する文字通り「視点」ががらっと変わる。皆さんもたまにやってみるといい・・・わけねえだろ。
午前3時。どこかで始発まで時間つぶしてから西荻ロックバーBCへ行くか・・・と思っていたところへMGがお迎えに来てくれて、チャリで店へ運ばれ、マスターに抱きかかえられてご入店となる。お手数かけます。
チンザノをいいピッチで飲む。実は今日は勤務じゃないというMGが、下へも置かないおもてなしぶり。従業員教育が行き届きすぎですw
今度はスタジオ盤の"Can't Stop"がかった。・・・じーん。

閉店になったからCを出た。で、ほんのしばらく歩いたところで、ビルの前にとめてあったチャリをいじりまわしていたら、ハンドルに手をとられて、そのままそれに引きずられて地下の踊り場までさかさまに落ちた。
・・・何がしたかったんだろう。・・・多分、「コレに乗っておうちに帰ろう」と思ったのか。チェーンが外せないことは一目でわかった筈なのだが。
それまではきびきび活動していたが、そこでいきなり「きゅう」となって動けなくなる。負傷はといえば、何と右手中指のハラをすりむいただけ。毎日750回のストレッチのせいで体が柔らかく、普段も15cmヒールでこけても怪我しないのだ。
「・・・アホか」と思いながらも、「・・・私って可愛い」と笑っていたりもする。本当のアホだ。
しかし落下のせいで急に酔いが回る。しばらくそのまま動けずにいた後、思い切って上にあがり、タクシーを拾って7時半帰宅。

All I wanna do is... Bicycle bicycle bicycle (ただチャリに乗りたかっただけ・・・かなあ?)  *Bicycle Race / Queen (1978) の歌詞。



2007年08月17日(金)  Tell me baby what's your story

家からすぐの古本屋「象のあし」は、翻訳ミステリーを引き取らないのが困るが、和モノは好む。三日前も筒井康隆の文庫を45冊持ちこみ、半数が状態が古かったが1,200円。今日は日本文学の文庫を7、8冊持ち込んだら今度はそれだけで650円。どうやら稲垣足穂一冊のおかげらしい。

マチちゃんが焼いてくれたジョン・フルシャンテのソロを聴く。何枚かある中で、1stの'Niandra Lades And Usually Just A T-Shirt'は聴くのが実に三年半ぶりにして二度目。一度目は2004年3月にLEO(g)宅で聴いたが、二人して「何だこりゃ」と言って笑った。さて、三年半を経て聴いた感想は。・・・何だこりゃw
これは普通の感覚で聴いたら、プロの作品どころか、正気の人間の作ですらない。ベックの1stは宅録だが、これに比べれば遥かに立派な出来だ。
しかし。ジョンを愛し続けてはや5年、もうこちとら「普通の感覚」では聴かないのだ。マチちゃんはさらっとこれを「いいでしょ?」と言う。スッゲーなその愛は、と思いつつ、私も多少のことでは動じなくなっている。明け方にこんなの聴いていたら、(多分自分でやってると思われて)お隣さんに警察もしくは救急車を呼ばれてしまうのでは、と理性が言うのだが、一方でこの出鱈目なオブジェのような作品を丹念に仔細に聴き入ってしまう自分がいる。何故なら、これはジョンだからだ。
ああ、「ジョン」だな、と思う。もう物凄く、100%ジョンだ。どれだけギターの音が揺れても、どれだけ歌の節回しが適当でも、少しも「外れた」ように聞こえないどころか、全てが地面に吸いつくようにぴたっとおさまっている。
もしも音楽の究極の目的が自己表現なのだとしたら、これほど間違いなく自分の名前を刻んでいる作品も珍しいだろう。ジョンだわ、これ。

この音楽は、例えば世界に何かメッセージを訴えようとか、ましてや世界をよりよく変えようなんて思ってもいないに違いない。ただ無心に穴を掘り、ただ無心に自分をかきむしり、ただ石に名前を刻んだのだ。
「文学は飢えた子供を救わなくていい」というのは、私が20歳で到達した結論であり、未だにそれを修正する気はない。
ジョンは何も成し遂げなくても、変えなくてもいい。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズのファンは「レッチリ教」と皮肉られることがある。レッチリなら何でもいいといわんばかりに興奮し熱狂するからだ。
普通はそういう状態のファンは、アーティストの成長を妨げる。しかしレッチリは、あまりにも自分たちを真摯に見詰め続けているので、それすら気づかない。それでファンが飲み込まれる。かくして通常ならあり得ないような恋愛関係が成立する。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズとは、その愛に値するバンドなのだ。

Tell me baby what's your story (ただあなたの話が聞きたい)  *Tell Me Baby / Red Hot Chili Peppers (2006) の歌詞。



2007年08月16日(木)  どん底

昨夜は東京駅での授業後に西荻BITCHに行こうと思ったが、やはり荻窪で電車を降りてしまった。体調は戻ったが、暑くて無理。

アメリカも日本も猛暑で人が死んでいる。アメリカではこの5日で11人死亡。
しかしそれより気になるのが、ユタ州で6日に起きた炭坑落盤事故。これでもう10日間、6人が閉じ込められたまま安否が不明で、おそらくもう死んでいる。「おそらく」―――これが何よりたまらない。まして私は閉所恐怖症なのだ。
炭坑の落盤事故は、ゾラの「ジェルミナール」で読んだ。当時私はまだ不安神経症を起こす前――まさしく前年であったが、その悪夢のような描写は後ずさりたいほどの恐怖だった。そしてその「災難」は、どん底の貧乏と切り離せない。元来炭坑労働者というのは貧乏の象徴である。
毎日このニュースの続報を見るたびに涙が出て、いっそ早く死亡確認してくれという気持ちになっていたところに、「坑内で物音がした」という最新ニュース。まさか生きているのかと思うと、希望を持つと同時にぞっとする。

どん底  *マクシム・ゴーリキイの著書。(1902)



2007年08月14日(火)  The Treasure

サマセット・モームの短編集「ジゴロとジゴレット」読了。初めて知ったが、「ジゴロ」という言葉は本来、酒場などで金持ち女に金をもらってダンス相手をする男をさすらしい。
モームはイギリス人では一番好きな作家だ。この短編集には「三人の肥った女」という作品があって、40代の金持ち女性3人(でぶ)が日々体重を落とすことに必死になっている話だが、ここに描かれている女性たちが実にいい。多くの男性作家の描く女性はつくりもので、特にミステリーなどは「線が細く体が弱くすぐに気絶する美人」、「健康的で男勝りに気が強い聡明な美人」、「明るく素直ですぐふくれる若い庶民的な美人」など、「お化けのタイプ」の陳列かと思うような類型が多いが。
モームの描く女性たちは美人も不美人も知的も愚鈍も老いも若きも全て見事に生き生きとしている。ちゃんとした等身大の女だ。
勿論男もそうで、だからモームの書く話は面白い。たいした事件が起こるわけではないのだ。本来は食べることの大好きな三人の肥った女が必死でダイエットにいそしんでいるところに、痩せ過ぎで医者にもっと食べろと言われている女がやってきて、しばらく一緒に滞在することになる。それだけのことが、ミステリーそこのけに「一体どうなるんだろう?」と先の展開を期待させる話になる。

モームのもっとも素晴らしいところは、人間の本性をそのまま描いているのに、その筆致があっさりとしていて、少しも暗い影を感じないことだ。
例えばパトリシア・ハイスミスは、容赦なく人間を描いてしまう。その徹底的なやり方は「無礼」と表現したいほどで、一種の傑物には違いないが、読後にぐったりと疲れることすらある。
同じ妻殺しの話を書いても、モームなら、さっぱりと、しかし同時に鋭く描ききる。実にシャープだ。

最近暑さのせいか物事が面倒で。読書も無駄なものを読むのがいやになってきた。昨日はクリスチアナ・ブランドのデビュー作「ハイヒールの死」を読了したが、予想通りミステリーとしても一般小説としても二流の感だ。だがこういうエンターテインメント性のあるものもはまだいいのであって、今一番読みたくないのが、「それらしく」書こうとしている二流の純文学だ。行間を読めと言われても、行間に何も書いていない。そういう「雰囲気」につきあわわれるのが面倒なのだ。
人生は短い。そして素晴らしい作品は多い。そういうものを読まなくては。

The Treasure (貴重な宝もの)  *サマセット・モームの「ジゴロとジゴレットに収録された短編(邦題=「掘り出しもの」) (1934)



2007年08月10日(金)  僕は忘れはしない

昨日YouTubeで有頂天「心の旅」の映像を見つけ、もう何度も何度も見ている。ああ、ケラってこんなにきれいな顔だったっけ。妙なメイクばかりが印象に残っていたけど。

あれはもう7年も前になるのか、新聞に町田康という作家の「芥川賞受賞作」の広告が載っていた。その顔に見覚えがあった。・・・あ!!
「ダンナ、大変! 町蔵が芥川賞取ってるよ!!」と声を上げた。「名前が違うけど、コレ町蔵だよね!」
芥川賞発表記事なんて読んでなかったので、かなりびっくりした。
その前年に同じ新聞で、ケラリーノ・サンドロヴィッチという名の新人劇作家が「演劇界の芥川賞」と言われる岸田國士戯曲賞を受賞したという記事を読んだ。勿論ケラのことだ。こちらはあまり意外ではなく、すんなりと、やっぱりこのひとは才能があるんだなあと思った。
いずれにしろ、どちらも何となくくすぐったいような嬉しさがあった。
インディーズのバンドというのは、やはりそれだけ近い存在だったのだ。それは単にハコが小さいから間近で観られるといった問題ではなく、あの当時のインディーズというのは、洋楽のビッグネームなどに比べ、もう例えようもないくらい自分たちの感性に肉薄して食い込んでくるものがあり、同時代を生きている、時間と空間を共有している一体感が凄かったのだ。

当時「心の旅」のスタジオ盤を聴くたびに、いつも同じところでぐっときた。
いつもいつの時でも 僕は忘れはしない
いつもここで涙ぐんだ。今もここで涙ぐむ。
ライヴ映像のケラが、本当にいい顔をしている。

僕は忘れはしない  *心の旅 / 有頂天 (1985) / チューリップ(1973) の歌詞。



2007年08月05日(日)  What's my motivation here?

15時15分にベイビー(g)からのメールで目覚める。やがて電話。これから来るとういうので、少し時間をもらってシャワーを浴びる。17時半到着。
6日前に来た時もCDをもらったが。今日はCD3枚とDVD1枚で、全部私の為に新品を揃えてくれたらしい。要するに彼が今気に入っている音楽。
DVDがアリス・イン・チェインズの"Unplugged"で、これを二人でコーヒーがぶ飲みしつつ見る。

アリス・イン・チェインズに関しては、正直今までは重苦しいメタルだと思い込んでいたが。少なくとも"Unplugged"に関しては「グランジ」だ。ニルヴァーナの'Unplugged'をも彷彿とさせるが、これはどちらかというと、そのカメラワークや色彩でスタイルを確立している「アンプラグド」という番組の独自性ゆえかもしれない。
ニルヴァーナとの一番の違いは、ニルヴァーナが結局どこまでもカートのバンドであるのに対し、アリス・イン・チェインズは('Unplugged'だけで判断すれば)、ボーカルが自分だけで立っていられず、ギタリストに寄り添って成り立っている点だ。そしてギタリストは、彼だけではミューズを呼べない。これはつまり、ドアーズ方式だ。もっともドアーズの場合ボーカルに依存の意識はなく、後方で支えるのはキーボードだが。

"Sludge Factory"という曲を始めたと思うと、ボーカルが突然"Fuck!"と叫んで歌うのを中断。歌詞を間違えたらしい。ここでバンド全体も2秒と間をおかず演奏をやめるのが普通でないと思う。よほどボーカルの精神状態を気遣っていたと見える。
ベイビー曰く、この時ボーカリストのレイン・ステイリーは既に重度のヘロイン中毒で、"Unplugged"で久しぶりに人前に出たものの、結局この後活動停止、2002年にオーバードーズで死亡。
後から知ったが、死んだ日付が4月5日。―――カート・コバーンと一緒だ。

死亡といえばドアーズのジム・モリソンも死亡しているわけだが。先日見たヘラルド・トリビューンの記事によると、彼の死亡場所は、従来思われていた自宅の風呂場の浴槽ではなく、ナイトクラブのトイレだという。店のオーナーが醜聞を避ける為、ジムを自宅に運ばせたらしい。それを見ていた客の証言もある。
だからといってこれでカリスマに傷がつくわけでもないだろう。死んだら何だって同じだ。

ちなみにジムの死因もヘロインのオーバードーズ。猟銃自殺したカートもヘロイン中毒だった。

What's my motivation here? (俺がこの世に生き続ける意味は何だ?)  *ボーカルのレインが歌を中断した後に言った言葉。その場の意味としては、「俺がここで歌ってるのは何のためだ?」ほどの意味。



2007年08月02日(木)  Of Human Bondage

かっちゃんにもらったシルクのワンピースを着て出勤。ゆるくてぴらぴら。裾はあけっぱなしで、前から風が吹くと腿のラインがくっきり出る。なんて無防備な。いつものぴったりのジーンズだと、こちらが腰を少し持ち上げただけで、もう脱がすのは不可能に近いが。このワンピースだと目的到達まで5秒といったところ。

というエロな発想とは実は程遠い印象の紺のワンピースを可愛らしげに着て、今日も可愛らしさとは無縁のINUを聴く。今日はスタジオ盤の「メシ喰うな!」を。
お前らはまったく 自分という名の空間で耐えられなくなるからといって
メシばかり喰いやがって メシばかり喰いやがって
メシ喰うな!

・・・ははは。爽快だな。
「あのふざけた中産階級のガキども」という歌詞の素朴さ純粋さには呆気に取られる。この日本において「中産階級」などという幻想を信じられる若さは感動的だ。

私が東京に来たのは19歳の時。東京には、夜を徹して熱く文学を語り合うような連中がいっぱいいるかと期待していたら、田舎よりも少ないのにがっかりした。今まで読んだ本の中では、パリでもロンドンでも文学青年で溢れていることになっていたのに。(思えばその「本」も、19世紀文学だったりすることに後から気づく)
音楽ならさすがに色々な人種に会えた。一人印象的な人物がいて、一度デートした。心理的に何かと拘りを抱えた人のようで、時々怒ったようにぶっきらぼうにものを言う癖があった。
その人物が、当時町田町蔵と一緒にやったりしていたのだ。
彼自身のバンド名をつけたのも町蔵だった。今そのバンド名で検索をかけたら、Amazonで普通にCDが売っていた。ついでに彼は、2003年に実刑判決をくらっていた。
彼はベーシストである。私がベースという楽器に対して持つ勝手な思い込みを具現したようなひとだった。今も当時と同じように痩せて、同じようにどこか不満そうな眼をしているだろうか。
また、会ってみたいなあ。

Of Human Bondage  *サマーセット・モームの著書(邦題=「人間の絆」) (1915)  *芸術を熱く語り合う青年たちが出てくる小説。また主人公フィリップは、ある理由で「彼」を連想させる。



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