ふつうのおんな

2005年03月31日(木) 父の涙

病室で母と二人だったとき 母が
「もし私が死んだら通帳はね・・・」
という話しをしたそうだ。
前にも父に説明したらしいが父は覚えていなかったらしい。
「どうして覚えてないの」
と母が問うと「おまえが死ぬ事なんて考えたことはない。絶対に助かるとしか思ってない。」
と言い 声を出して 子供のように泣きじゃくったのだという。

わぁわぁ泣く父を母はどんな想いで

これまで何度も「心の準備をしなさい」「覚悟しなさい」と父に言われてきたけど
一番覚悟ができていなかったのは母でも妹でもなく父だったのか

父は泣き顔で私に会わないようにとこの夜はそそくさと帰ったので会えなかった。

お母さん お父さん置いていったら お父さんすごくさびしくなっちゃうよ
がんばれ

chick me

2005年03月30日(水) 父の具合

※※以下、ご飯中の方は読むのを控えてくださいね※※

デパートで夕飯用にカニがたっぷりのったお弁当を買った。

病室に戻ると父がおいしくなさそうに別のお弁当を食べていた。
母に伊達巻をかうためにとある店に寄ったら売切れだったのでしかたなく別の弁当を買ったらしい。

つまんなそうに食べててかわいそうなのでカニと交換したのだが半分食べたところで胃をおさえ始める。
どうしたの?と聞いても「大丈夫」としか言わない。
ご飯は残してカニだけ食べなよ とすすめたら ちょっときつそうにカニだけ食べた。

そして5分後全部吐いていた。
母はそんな父を見てつられてたべたばかりの海苔巻を吐いていた。

その1時間前に私が近所の蕎麦屋から運んだざるそばは消化していたらしく出なかったという。
ちょっと安心
年末の胃だったらそばはまったく消化されずに出ていたはずだ。

それより今は父だ。

母いわく父は体調を崩すと海鮮系がだめになるのだという。
私が買ってきたカニだから無理したのかな?

「せっかくのお弁当をごめんね」
と涙目で父に言われて こっちが恐縮してしまった。

非科学的だけど、父と母はたまに体調がシンクロするらしい。ほんとに。

父も 母も つらいところだ。

chick me

2005年03月28日(月) オットの入浴

オットはお風呂が嫌いではない。
本を持ち込んで30分くらい平気で入っている。

しかし

頭も身体もろくに洗わずにそのまま出てくるのだ。

残されるのはオットの出汁が出た残り湯のみ・・・。

なんで?なんで洗わないのっ
獣くさいじゃないの!

文句をいうとすっごくうれしそう。
枕カバーがすごい勢いで汚れるのでしょっちゅう巻いてあるタオルを換えている。

お願い
せめて顔くらい石鹸つけて洗ってチョーダイ

chick me

2005年03月27日(日) 母の様子7

土日で初めて軽く嘔吐があったよう。

薬で疲れてぐったりしてる時間が長くなってきたように感じる。

おそばを近所の蕎麦屋から運んだが残す。

最近あたたかいものが受け付けなくなってきている。
おちゃも冷たくないと嫌みたい。

便の色が悪くなってきているようだ。

chick me

2005年03月25日(金) 母の様子6 〜そば

会社を出て電車に乗ろうとしたところで母から着信

「卵とじそばが食べたいの」
「おそば?」
「そう おそば」
「わかった」

で、もっていきました。

ちょうど入れ替わりで父が帰るところでした。

母は結構な勢いでおそばを食べた後「食べられたあ」とうれしそう。
実は夕方すごく気分が悪くて父が病室に顔を見せたとたん気が緩んで大泣きしてしまったとか。

母は割と強い人だと思っていたけど病気になってつくづく解かった。
すごく甘えん坊なのね。
父がよしよしってしてくれるのを解かってるから泣いてしまったのだろう。

おかーさん がんばろうよ

*---------

ところで今日は結婚記念日。5年目に突入です。ぐふ

chick me

2005年03月24日(木) 歯のお値段とエルメスの価値

上の糸切り歯のとなりの歯が虫歯になっているのはわかっていた。
いつもは義弟の病院で治してもらうのだが 今は会社と病院の往復でとてもそこまで行く暇がなく仕方なく会社のそばの病院へ。

HPみたときから「んー」って感じだったのよね。
インプラントや審美が前面に出ているクリニック。

前歯に近いから銀はいやだと初診の際の問診表に書いたらセラミックかプラスチックを薦められる。
セラミックは1本5万以上。

「高い」って顔をしたら院長先生はこう仰いました。

「僕だったら奥さんや家族にプラスチックは使いません。
エルメスのバッグだって人によっては1万の価値もないでしょう?
歯も価値判断は人それぞれということです。」

はっはっは
えらい例えだしてきましたね。

私の歯は義弟にメンテしてもらうようになってから えらい金のかかった治療をしてもらっている。
ので「もう一本くらい入れてもいいでしょ」って思われたかな?

ともかくその5万がボッタクリではないことを妹に確認とれたので いれますが。

2回の通院ですむのはありがたいし、治療時間も短いんだけど なーんか変なの。
削る前に院長が「びっくりしないでね」とか。削る音のことか?
あと麻酔の前の塗り薬とかも「苦いですよね」ってしきりに言われたり。苦いっつったらやめんの??
名前じゃなくて「患者さん」って呼ばれたり。そりゃ患者ですけども本人に向かって???

まあいいんだけどね

chick me

2005年03月22日(火) 母の食欲

抗癌剤は使う日と使わない日があるのだが 使う日はぐったり。
熱が出て食欲もなく水分もあまり取らず。

でも母は今なんでも食べて消化しているので、食べられるときに食べて欲しい。

一人だと絶対に食べないので 夕方いけないとわかっている日は朝会社を遅刻して母と昼ごはんを食べる。
母の食べられそうな惣菜を買って一緒に食べると 割とよく食べる。
だいたい買っていった量の2/3くらい?

人がいて、起き上がって話しをして 少しでもちゃんとしたご飯を食べる。

病室についたとたん「ウメボシがほしい」といわれればコンビニのではなくちゃんとすっぱいウメボシを買いに数百メートル先にあるデパートに駆け足でいく。
それでも食べてくれるならそれでいい。

今日は油物はダメだと思って避けていたのに、うっかり買ってしまったひれカツサンドを一切れ(大き目の食パン半分くらいの大きさ)を食べた。
うれしかった。

残りは夕方来るであろう父のおやつにおいていく。

今姪っ子が風邪でダウンしていて妹は身動きが取れないので 私と父が見舞いに行っている。
入院した翌日一日だけ行かなかっただけで母の具合は悪化していた。
それに懲りたので私は毎日てくてく向かう。

毎日奇跡だけを祈りつつ。

今日の血液検査の結果 どうだろうか。
明日 きく。

chick me

2005年03月18日(金) 母の様子5 〜うどん

今日の夜は病院にいけないので今朝早起きして行った。
ドアを開けて「おはよー ご飯食べられた?」と聞いたら「天の助けだぁ」と弱弱しい声。
聞けば ごはんが喉を通らなくてほとんど食べられず うどんだったらいけるかも。と思いつめていたところだったらしい。

ナースセンターに行って昼食を断ると 看護婦さんたちが一様に
「ああ なにか食べる気になったのね」
とやさしく微笑んでくれた。
その様子を見て きっと私や父が帰った後母は苦しみ、看護婦さんたちはそれを見ているのだなあと。

隣の建物にうどんやさんが入っているので出前を頼みに行くと 出前はしてないけど持ち出していいとのこと。

リクエストの卵とじうどんをもって帰ると 本当においしそうに食べる。
ほとんど全部母が食べた。

食べ終わった後 母は泣いた。
「うどん食べて泣いたってIちゃん(妹)にいいなさんなよ。」
と照れくさそうに。

夕べからずっとうどんが食べたかったこと
食べたいけど食べにはいけないから 売店でインスタントを買おうとまでしていたこと
今日は誰もお見舞いにこられないと思っていたこと
なのに朝いきなり私がきてうどんを買いに行ったこと

そういうのが全部まぜこぜになった母の涙

私もつられて泣きそうになったが、看護婦さんが点滴のために入ってきたので我慢できた。

副作用は変わらず辛いし、今夜は誰も来られないかもしれないけど きっとうどんの温かさを思い出すだけで母はさびしくないだろう。

明日もまた顔見に行くよ おかあさん

chick me

2005年03月16日(水) 母の様子4&わたしのこと

ビリルビン値は12を超えているそうだ。
正常値は1.0以下だから すごくきついって そりゃそうだよね。

体中にかゆみ止めを塗ってあげると「手のひらがあったかいから気持ちいい」とうれしそうにする。
ふいに泣き出したりする。
母は今回の入院はそう長いものではなく 肝臓の状態をさっさと戻すためだけのつもりだったので こうも長引いていることが予想外だったらしい。

このあいだの日曜の夜酸素マスクを使いながら涙が止まらなかったと。

母は家族ほどには死を覚悟していなかったことになる。
具合が悪くなりつつも 自分は大丈夫なんじゃなかろうかと。

それを証拠に今回の入院では一か月分の家賃しか妹に渡してこなかったという。
さらに父の衣替えもしていないし。

母の涙は「まだ嫌だ」の涙なのだろう。
母がなくと切なくて 一緒に泣いてしまいそうになるけど 気休めの励ましを言うわけにもいかないので私は黙ることにしている。
ただ母のそばで黙って座っている。
白い巨塔の財前じゃないけど、今死ぬのは無念でならない気持ちがいっぱい伝わってくる。

---

会社をしょっちゅう早抜けするのに何も言わないわけにはいかないので直属の上司と同じ業務をしているチームの2人に言った。
1人はF@一つ上の男子 もう1人はR@元同級生/私の所属する会社の女子。
Fは黙ってる。
Rは仕事いっぱいふっていいよ お母さんにあう時間作れるように と気遣ってくれる。

Fの態度もRの態度もどちらも正しい。
正しいけどありがたいのはFの態度かな。

なるべく母といる時間をもとう、とは思っているけど 私は自分の生活の全てをそれ中心に費やさないようにしようとしてる。
自分の生活のペースも守ろうと思ってるしそうしてる。
たとえば本当に母をすべての一番にするなら、八王子近辺にホテルとって朝と夜顔見ていくよ。
でもそれをしないのは もしも母を失ったとき 私の心にあく穴が尋常じゃなくなるって解かってるから。

容態が「今日にも危ない」っていうわけじゃなければ 携帯はいつでも繋がるようにして友人とも会う。
平日は基本的には17時には会社を出て母と1時間半話す。
休日は午後から面会時間終了までずっと。

後になって、それで後悔しないか といえばウソだ。
だって京都の桜を一緒に見に行きたいし GWは私のツテで予約した両親と妹夫婦の温泉旅行にもいって欲しい。
また銀座や長崎のバーで一緒に飲みたいし、おうちでワインのみながらだらだらと話したりしたい。

だから どんなことをしたって悔いは残るんだ。
力の限り精一杯、でなくても 私は私にとってベストの時間を母と過ごせればいいと思う。
母と会わない時間も黙ってたら母のことでいっぱいになってしまうんだもん。

「今のうちにいっぱい会っておきな」
とかあまり言われると 私は自分にできることを疎かにしてるように言われてるみたいで辛い感じだ。

親しい友人が同じ立場になったら
「気晴らししたくなったら言って。付き合うから。」と言ってあげたい。
とある先輩@女子が言ってくれた言葉なんだけど そのヒトコトは肩の力が抜けてほっとした。

所詮は他人事なのだから「自分にできるのは話を聞くことと飲みたいときに付き合うこと」というスタンスで向き合ってくれる人がいるというのは ありがたい。

今日もあと2時間したら病院行きます。

昨日は便が白から緑に変わったということだった。
でも少し鼻血が出たらしい。
シスプラチンは腎臓を弱らせTS-1は肝機能障害を引き起こす。
抗癌剤は 本当に使い方が難しいね。
諸刃の剣だ。

chick me

2005年03月15日(火) 母の様子3

月曜に予定されていた血液検査やCT検査をしなかったそうだ。
もう計ってもしょうがない状態なのか

17時ごろ会社を出て病院に行くつもりで14時ごろ母に電話をした。
声を聞いて私はすぐに会社を出た。

そのまま病院には向かわず新宿の伊勢丹にいき、喪服を試着した。
喪服ってすごく高いのね

遺族はちゃんとした喪服を用意しなくちゃいけない

もってない

喪服ってまともなの買うと5〜7万くらいする

4/10くらいからフォーマルウェアのバーゲンがある

バーゲンで買えば安い

でもそれまでに必要となる可能性がある

そもそも買いたくない

で、買わずにいたけど もう買わなくちゃいけないと思った。
しかし高い。
どこれもこれも8万はする。
私が気に入ったのは10万。

もしこれを買って着るとなったら間違いなく母の葬儀のときだ。
5万弱のもあったけどけちらずにいいのを買おう。
そしてそれで母を見送ろう。
そう思って選んだ。

ジャケットのサイズはちょうどだったのがワンピースはちょっときつい。
ここ1週間ほど晩御飯を食べていたら(母の見舞いの帰りについ食べて帰る癖がついてた。
母は食べられる量がどんどん減っているのでまた痩せてしまった。
私は母を見た後は食べるようにしている。負けるかって思いながらちゃんと食べる)
1週間で3キロも太ってしまった。

単に過食に走っているだけのような気もするが。

取り寄せになると言われたので これが1週間先っていわれたら 喪服に縁がないってことだと思った。
でも「明日の夕方に入ります」だって。
くそ

試着室にいるときに妹から「おねえちゃん できるだけはやくきて」と電話。

病室にいったら2日前より小さくなった母とそばでアンパンマンのDVDを見る姪と妹と立ったまま母を見守っている父。

母の目を見て涙が出そうになった。
ここまでひどい黄疸は これまでなかった。

妹がぐずり始めた姪を連れて駐車場に行くときついていって妹と少し話した。
「今日お母さんがね花瓶の水をかえてっていったの。
あんなにお花が好きでどんなことがあっても水かえだけはしてたのに自分じゃもうできないんだね。」
と言ってワンワン泣き出した。
「おうちの冷蔵にお母さんの食べかけの鮭フレークがあるの。
居間に使いかけのニベアがある。そういうのみてるとたまらなくて毎晩泣いちゃうんだよ。」
と号泣した。
私は姪を抱きかかえたまま妹も抱きしめて泣いた。
「お姉ちゃんに喪服かえって言っておきながら、私も買えずにいるの。いやだよいやだよ。」

姪は初めて私の泣き顔を見たのですこし驚いたのだろう。
私と妹の顔を交互に見ながら妹の腕に抱かれにいった。
道路でしゃがみこんで泣く私たちの間で黙っていたが、そのうち妹の目に自分の手をやり涙を拭いていた。
その後おどけ始めた。
「こうやって、この子はいつも私が泣き止むようにしてくれる。」と妹が泣き笑いになった。

この小さな子も数10年後同じ涙を流すのだろうか。

親の死は皆経験する。たまに逆になる不幸な人もいる。
私たちだけに起こる特別なことではない。
死は平等に訪れる。

でもあと3ヶ月でいいから 普通に食べられて生活できる時間が欲しい。

chick me

2005年03月13日(日) 母の様子2

ビリルビン値は上がりつづけている。
便も白くなってきていて この間は少し血が混じっていたと聞いたとき顔には出さずに血の気が引いた。
食道静脈瘤ができてるのか?

黄疸は日増しにひどくなり、全身の痒みはおさまらず 夜も睡眠薬なしでは寝付けないらしい。
土曜日は発熱して とてもきつかったという。
もうダメか ここまでか と覚悟したと。

そう話す母の様子をみて叔父は「今それだけしっかり話せるんだから 少しほっとした」と言った。

私は真逆のことを考えていた。
「もしかしたら 母はそろそろ頑張れなくなるかもしれない。」
と。

肝臓の調整をするための点滴を1週間続けて効果が出なかったので月曜から抗癌剤(TS-1ともう一種類)が始まる。
そのもう一種類はいわゆる抜毛が伴う副作用が出るものだ。
父はうすめて使用してくれるよう担当医に頼んだ。

母の豊かな髪が眉毛が睫が抜け落ちていく姿をみたくない というのもひとつの理由だが 父としては母の様態は完全復活することはないのだから、抗癌剤の効果も最低限であればいい&副作用の苦しみは最小であるよう
という気持ちなのだろう。
私も妹も賛成した。

今週から1週間の間 抗癌剤の効き目が現れず容態が悪化したままだったら
今月中に何が起きてもおかしくない ということを覚悟しなくてはならなくなった。

お姉ちゃん 喪服 ちゃんと買いなよ

と妹が言った。
そして、年末のときとは違って「そうだね」と答える私がいた。

オットは今 自分の会社がすっごく大変で(今というか先月からというか)母の見舞いにもいけないことをとても気にしている。
できれば、まだちゃんと話せる母に会って欲しいけど それも叶わないかも知れない。
個室なんだし 時間の無理はきくから オット自身が「会っておけばよかった」と後悔しないようにしてあげたい。

chick me

2005年03月12日(土) この先にあるもの

オットは私と出会う前から自分の父親と一緒にとある小さな会社を経営している。
結婚が決まったとき 私の中には選択肢があった。
1.オットの会社で事務として働く
2.システム開発関連で転職する
3.なにかアルバイトでもしてお小遣い程度は自分で稼ぐ専業主婦(本来の専業主婦とはちがう?)
で、オットに訊ねたところ「一緒の会社で働く気はない」とのことだったので1は消えた。
じゃあ3かな?と思っていたら「いつもいつも俺の帰りをじっとり待たれるのもなんだし、専業主婦になってほしいとも思ってないな」
で、自動的に2となった。

私は97年4月から01年1月末日まで とある会社に勤めていたのだが 98年春くらいから99年4月末までの1年とちょっとの間 とんでもない社員だった。
最初の上司は「午後にならないと出社してこない&来たと思ったらすぐ他社に行ってしまう」人だった。
つまり私は仕事にはまったくのノータッチで1年近くだらだらとC++の本を読んだり小さなプログラムを作って遊んでいただけだった。
それから2,3ヶ月ほど別の上司の下についたがこの人も教える気ゼロのひとで、となりでソースを一緒に見てくれるもののデータベースのことなどなにひとつ説明してくれないので 私は「テーブル」といわれても勉強机しかイメージできずにいた。
挙句の果てに「人を教えるのは無理」と言われ放置。
放置されても困るので最初の上司に相談したら 別のチームに入ることになった。

そして そこから 私の最悪サラリーマン時代が幕開けとなる。

上司がいくら教える気がないといっても 私は新入社員。
それまでは9時前に出社して17時半頃に帰るという生活をしていた。

「さぁやっと仕事っていうものに触れるんだ」とワクワクしていた私を待ち受けていたのは
「チーム全体がまともに教える気がない」という状態。
今思えばC++でMFCライブラリを使った開発だった。DBはオラクル。
オラクルもインストールまではやってくれたが オラクルとは という基本も説明無。
ライブラリとは とか ライブラリの使い方 とかも勿論ゼロ。

チームに入ったとき最初の挨拶のときに入社5年目くらいの女の先輩に言われたことを私は絶対に忘れない。
課長が「彼女に教えてやってね」と誰というわけでもなく全員に向かっていったとき。
「えー あたし教えるの苦手だから無理」
私はそのときから嫌な予感はしていた。

そして予感は現実となった。
人にモノを教えるというのは難しい。しかも相手は新入社員な上にパソコンに触ったのは入社してからの初心者。

さぞかしもてあましたことだろう。

だけど、今考えたってあの対応はほんとうにひどかった。

私が『何一つわからない上に何を聞いたらいいのかも解からない』状態だったのは一目瞭然だったのに 彼らは私という存在を無視したに等しい。
プログラムのとある部分を任されたが「テーブルって何ですか?」と聞いた私にした説明はこうだ。
「列と行の箱。何行目の何列目のデータが欲しい というのは列と行の名前を指定すればいいから。」
ねえ
ちょっと
それで解かると思って言ってないよね 確信犯だよね

でもなんとか「こうかな?」というコードを作り上げ(間違ってたけど)おそるおそる先輩に聞くと
「あ、もうそれ作って出しちゃったからいいよ。」
これが2回繰り返されたとき 私は切れた。

つまり「さぼる」ことにしたのだ。

会社には午後から行くか ほぼ行かない。午前中から行ったときは16時半には帰る。
毎月定められた勤務時間からマイナス60時間ほどしか仕事をしなかった。
実家にいたので最低限必要な家賃とかも稼ぐ必要もないし。
月給が10万を切った月もあった。それでもよかった。

自分からやめるのは癪だからクビにしろ と本気で思っていた。
チームの人や上司はそんな私に「どうしたの?」とは一度も聞かなかった。一度もだ。
自分たちのチームにくる前まで勤怠だけはよかった私がいきなりこなくなったのは「仕事についてこれないから」と判断していたのだろう。
自分たちが最初からはじき出しておきながら。

これを被害者意識だ 自分の努力が足りないんだ という人もいるだろう。
でもそれから数年を経て結局同じ業界で仕事してきて思うけど、彼らの取った対応は最悪だ。
彼らのチームはチームワークはとてもよかった。
つまり初めから私などいなくてよかったし、お荷物を押し付けられただけだったのだから面倒をみるわけもない。

そういう生活が半年以上続いて 99年の4月頭。
とうとう課長(今はなんと社長だ)に呼び出された。

課長は「どうして会社にこないの?」と言った。
私は何もいえなかった。
「会社が嫌い?」と更に聞いた。
このヒトコトで堪えていたものが全部あふれ出た。
入社してから1年近く 仕事内容さえ教えてもらえない状態でいたこと。
次の上司には教えること自体を放棄されたこと。
今のチームで感じてきたこと。
全てぶちまけて「会社もチームも大嫌い!」と私は言い切った。

これでクビになるな と私は思った。

しかし課長は「何かしたいことある?」と聞いた。
私はきょとんとしながらも
「もう2年くらいエディタでがつがつタグを組んでホームページ作ってます。
やれるんならインターネットとかネットワーク絡みの仕事がしてみたいです。」
と答えた。

それから1ヵ月後、私は今ももっとも信頼する上司の下に引き入れてもらった。
その上司は「余ってたから君をとったんじゃなくて 君を選んでとったんだ」と最初に言った。
私はそのとき「あぁそうやってやる気を出させようとしてくれてるんだな。ありがたいな。この人の期待を裏切ることだけはやめよう。」と強く思った。
それは今に至る。

99年のGW明けから01年の1月末までの2年に満たない期間だったが その上司ともう1人の同期の男の子と3人で一生懸命仕事をした。
私には一生懸命しかなかったから。
そして 結婚を機に転職しようとしていたとき 今現在も所属している会社の人が「うちにこないか」と呼んでくれたのだ。
その人にしてみれば私の信頼する上司との連絡係&2年近く一緒に仕事をしているので気心が知れてる&一から教えなくていい と便利な存在だったのだろう。

私はその時点で2社ほど内定をもらっていたが、上司や課長に相談したうえで転職した。
仕事を受注される側から発注する側へとスライドしたのは今のところ私だけだ。

ついこの間 その前の会社の人たちの大半から「アイツはお世話になっておきながら会社を裏切って転職した」と思われていることを知った。
でも私はそんなのどうでもいいと思っている。

課長や信頼している上司・同期はそうじゃないってことを知っているので、それで充分だ。

あの転職からもうまる4年が経つ。
前の会社にいるときはアプリケーション開発だったのだが、移ってからもちろんその開発はなく、3年前に私を引っ張った上司がつけた私の肩書きは「データベースアドミニストレーター」。
データ管理者ってことなんだろうけど。

移ってから2年は契約社員だったが今ではオットが3年前に作ったシステム開発会社を通して請負常駐の形で仕事をしている。
来年も契約が続くが その先は わからない。
今は目の前や数ヶ月先にきまっているリリースや開発準備のことだけを考えるようにしている。

次に立ち止まることがあったら 私は何の仕事をしようと思うのだろうか。
どんな職種についても自分に教えられることを問われたら きちんと教えよう と決めているに変わりはないが。

chick me

2005年03月09日(水) 母の様子1

先月17日:ビリルビン値1.9
今月 4日:ビリルビン値2.9
今月 7日:ビリルビン値4.1

えらい勢いで数値が悪くなっていく。
月曜に入院して昨日も夜見舞いに行ったらたった一日で黄疸が進んでいた。
先週の土曜日には確認できなかった白目部分の黄疸も。

ただ、こうやって 肝機能が悪くなる→入院して数値安定 を繰り返すだけならある意味仕方がないとも言えるが癌の転移具合・進行度合いもとどまることはないので日一日蝕まれていくのは辛い。

年末との違いは全身のかゆみ(胆汁が末梢神経を刺激するのでまんべんなく痒いらしい)と息のにおい。
もともと胃がんということもあって口臭はあったのだが、最近匂いが違う気がする。
何のにおいなんだろう。

自宅にいたときはやめていた抗がん剤も来週肝臓の状態が落ち着かなかったら再開する。
再開といっても担当医に言わずにのまなかっただけなんだけどね。
(粘膜からの出血があったとき 母は 怖くなってやめていた)
でも医者はそんなこと知らないからTS-1が効かなかったものと判断し、別の強い薬を使おうとしていた。当然か。
でもそれは抜髪をともなう副作用の強いものということで。

母は自分の髪が抜けるたびにおそらく生きる気力も抜け落ちていくタイプの人だ。
「なにくそ負けるか」
ではない。

最近オットが夜勤で夜いないのだが 眠れないで本を読んだりしているとき発作のように母を失うかもしれない恐怖に襲われる。

状態からいって今日容態が急変してもおかしくないのだ。
しかも今回は妹は赤ん坊が生まれたばかりなので前回ほど見舞いにこれないし タイミングの悪いことに今日明日私はいけないのだが 父もどうしても行けないという。
母はまる2日間たったひとりで痒みと息苦しさと高い血圧を抱えたままひとり病室で過ごす。

母は「年末は死ぬかと思ったけど 今回は違う形での入院だから心配しなくていい。遠いんだからこなくていい。」と言う。
たしかに往復で3時間の道のりで お見舞いに行った日はちょっと疲れる。
なにせ会社は品川/自宅は江戸川/病院は八王子。東京都のはじっことはじっこを行ったり来たりしてることになる。
だけど私は時間の許す限り 母の顔を見て 母の声を聞き たとえ悪い数値であっても ちゃんと逐一知りたい。

夜の発作はたまに咆哮になる。
おかあさん おかあさん と枕で声を殺しながら泣き喚く。
泣いても叫んでもどうにもならないと解かっているが 胸の奥からせりあがってくるものに耐え切れなくなる。

戦いはこれからで、これは何度も起こるものなんだと
むしろ生きていてくれさえすればいい 何度起きてもいい

だから おかあさん がんばって

chick me

2005年03月04日(金) 再入院

今日の検査で即入院しろといわれ、結局月曜に再入院決まりました。母。
癌のせいで皮膚が痒くて苛ついた毎日だったみたいです。
顔色というか肌の色も黄疸というより全体的に黒ずんでて ああ腎臓にもきたか と恐れた先週末。

今月母と旅行に行くつもりだった。

負担が軽いよう 今回は食事と宿を楽しめるよう京都の高級旅館を検索しまくって 一泊ひとり6万でも2泊するか、と先月の残業代を銀行の残高をにらめっこしていたのに。

次に入院するときは もうだめかな と漠然と思っていたけど
今回の入院も体調調整であってほしい。です。

GWは妹夫婦と旅行だってあるし、5月末は誕生日だもん。


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chick me

2005年03月01日(火) 結婚式という名の出費 ふたたび

またもや今週末結婚式。
しかも大学のサークルの友達のものなので前回の結婚式と顔ぶれが一緒。

奴らは気にしないだろうがこっちは同じ格好で行くわけにはいかないのだ。
なんていうのかしら
をんなゴゴロってやつ?
ここで「乙女心」ってかけないのが三十路の哀愁よねー と、ここまでかいて読み返し なんかオカマの文章みたいになっていることに気がつく。

前回はロングドレスだったから今回はスーツか膝丈ワンピかな
スーツなら手持ちがあるんだけど パンツスーツなんで長いこと座ってるとしわも気になるのよね。

で、このあいだの日曜行ってきました 新宿。

ちらりとみたDKNYのワンピが大変可愛らしかったので試着・・・おぅっ
胸元空きすぎ。
谷間をちら見せ とかじゃないて 1/3は出ちゃうじゃん。
そんなに自分に自信もないし あの口の悪い連中の前でそんなの着てたら発情したかとか言われるに違いない。
却下。

結局無難な胸元浅めのVカットにひらひらがついてるワンピ&スパンコールがついたオーガンジータイプのカーディガンを買う。
これじゃーなんか無難すぎるよな。
アクセはビーズの、ちょうど首の真中あたりにつけるタイプのがあるからそれをして。
うーん ストッキングはちょっと遊ぶか。

で、伊勢丹一階のストッキングコーナーへ。

黒ベースならかっこいいのもいろいろあったんだけど、さすがにそれはまずいだろうからベージュ系で探す。

散々悩んだ末に足首にバックプリントで蝶の模様があるものにする。
もう一足電線用にベージュの網タイツ(複雑な花の模様)を購入。
って おい!こういうストッキングって一足2500円もするのかぃっ

結局ご祝儀とは別に5万ほどかかっちゃったよ。
これでご祝儀と二次会いれて えーと当日使うであろうタクシー代も考えると 10万くらい?

買い物は楽しいけどさー
お祝い事ってお金かかるよね 女は余分に。

まあでも今度結婚する子は大好きな子だし よしとするかぁ。

二次会のスピーチ考えなくちゃ

chick me
 < Past  Index  Future >


etsu

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