2005年02月27日(日) |
どこふく風、の風になりたい。 |
昨日早くに寝床へ入りすぎたせいか、夜中に2度目が覚めてしまう。
今日はスーパー銭湯の日。
冷え切った体を熱いお湯でじんわりとあたためる。
と、見知らぬおばさんから「今日のお湯はいつもよりちょっと熱いわねぇ」と
話し掛けられる。
「そー、そうですねぇ」と愛想笑いしながら、
ここへ来たのは今日が2度目だから本当はよくわからないんだけどな、
と内心で思う。
関西のおばちゃんは、連帯を好む。
目が合うとにっこり笑ってくれるし、
子供がいればその子を見て、「かわいいわねぇ」と目で話し掛けてくる。
ドライヤーで髪を乾かしていたら
顔を真っ赤にしたおばちゃんが「湯に浸かりすぎて顔が真っ赤だわ。
お姉ちゃんと全然顔の色が違う。」鏡越しに話し掛けてくる。
私もにっこり笑って、でも上手い言葉が見つからないので
笑っておくだけにする。
お風呂に浸かると必ずのぼせて眩暈がするので、
露天風呂で風にあたってから出る。
くもっていた眼鏡が、すっと晴れる。
*
来週は送別会。
春からまたさびしくなるなぁ。
2005年02月26日(土) |
ピッツア・マルゲリータ |
京都を満喫した土曜日。
イルパッパラルドに行って1890円のランチを食べて、
その「はっとする」味つけに、ちょっと感動する。
自分が想像していた味よりも、もっと素材をいかしたあっさりした味で、
すんばらしくおいしいと思ったわけではないけど、でも、
どこにでもある普通においしい味ではなく「個性」を感じる味だった。
うん。また行こう。
友達とずっと、「あの”耳”のところがおいしかったね。」と言い合う。
「いやぁ、耳じゃないんだけどさ(笑)」とその度に訂正しながら。
マルゲリータが大好きで、ピザといえばそれを注文するのだけど、
イルパッパラルドのマルゲリータの、
縁のところが(食パンでいえば「耳」のところが)
もちもちして香ばしくて、ほどよく塩が効いていて、
すごくおいしかった。
イタリアの田舎のおばあちゃんの味みたい。
ふところが深くてあったかくて素朴で。
バジルもトマトも新鮮な味と香りがして、
あっというまにパクパク食べてしまった。
上品に整えられた微妙な味の妙というものもあるけれど、
もっと勢いがあって単純においしかった。
びっくりした。
*
そのあと国立博物館へ。
伊藤若冲の鶏をじっくり見る。
伊藤若冲の鶏って、とってもユーモラスな表情をしている。
眼がとぼけていて、漫画みたい。
へぇ〜と感心しながらながめる。
博物館の中はおじいちゃんおばあちゃんが多くて、若者は少し。
国立博物館って入ったことがなかったけど、
中のお庭みたいなところに噴水もあったりして、のんびりしていて
なかなかいいところだった。
また来よう。と思う。
博物館を出たらちょうど3時で、甘春堂で白玉ぜんざいを食べる。
「甘泉堂」と「甘春堂」を勘違いしていて、
友達に嘘の情報を吹き込んでしまったことに後で気付いたんだけど、
ともかく「甘春堂」もおいしかった。
あまい白玉ぜんざいに、塩昆布が添えられていて、
ぜんざいをすすっては、塩昆布を食べ、
ちょうど舌の味がかわって、最後までおいしく食べられた。
お店の中は古い民家のような感じで、靴を脱いで玄関を上がって
和室に通されて座布団でお茶をいただく、という感じ。
「こちらでご自分でお茶を点てていただくことも出来ますが・・・?」
と問われる。
首を横にぶんぶんふって、「お願いします」と言う。
店の中にいたお客の誰も自分で点てている人はいなかった。
「足がしびれたよ・・・」と言いながら席をたち、
わらび餅をお土産に買って帰った。
*
夜、今日は和食にしよー!と思って肉じゃがを作っていたら、
夫から電話。
夫の高校時代の友人と一緒に焼き鳥屋でごはんを食べることに。
結局、一日中外出の日になってしまった。
明日はスーパー銭湯で、リラックスの予定。
2005年02月25日(金) |
「なかなか春はやってきません。」とアナウンサーが言う。 |
明日はまた寒いらしい。
けれども、もうすぐ暖かくなると思うと、寒い寒い日が名残惜しく、
しっかり寒さをあじわっておこう、と、そんな風に思う。
*
明日は友達とおでかけ。
「イルパッパラルド」というお店でお昼を食べようと約束する。
本当は家にとじこもって、
スポンジケーキをどうしたらふっくら焼くことができるのか
研究しようと思っていたんだけど、
たまには外にも出ようと思い直し、出かけることにした。
*
うれしい人からメール。
うれしげに返事をおくる。
*
夫は偏頭痛のようなものにおそわれ、横になっている。
女満別の寒さにやられたか?
単純に疲れがたまっているんだろう。
週1日しか休みがないというのは、やっぱりつらいはずだ。
布団乾燥機であたためられた布団に、
あごのあたりまですっぽり覆われて眠っている。
*
心も体も、眠って疲れを癒すにかぎる。と思う、今日この頃。
2005年02月22日(火) |
お互いの時間がクロスするのは、確かに素敵だと思う |
寒い、よく晴れた朝。
夫は今日から女満別へ一泊二日の出張。
女満別?
そう、北海道の女満別です。
女満別ってどんなところでしょうか。
網走の近くだっていうんだから、もんのすごい寒いんだろうな。
豪雪地帯かな。ということくらいしか想像できない。
だいたいどうやって行くんだろう?と思ったら、
伊丹空港から一日一便飛んでいるらしい。
へー。
それできのう、夫に頼まれて靴の底につける滑り止めを買いに行った。
山岳用品売り場で「こうこう、こういうのください。」と説明する。
「どちらにいかれるんです?」と気のいいよくしゃべる店員さんに尋ねられ、
「女満別・・・です」と答える。
ひとしきりメリットやデメリットを教わったのち、
「タウン用に開発されたスリップ防止、なんとかかんとか」を買う。
その横に「アイゼン」と書かれた商品があり、
これがアイゼンというものかぁ、と、しげしげと眺めた。
すると「それは山用でね、アスファルトの上だと意味がなくてね…」と
またひとしきり説明をうける。
「日々の足跡を、読んでいる人とシェアする」とは、まさにこれだなぁ。と思う。
アイゼン。
ああ、こんなところでも何気なくクロスしている。
クロスしていますよ。
*
夫は今ごろ空の上だ。
伊丹の空と、女満別の空。
同じ日本でもその姿はまったく違うのだろうか?
向こうもお天気だといいけど。
*
4分の3拍子くらいで、時間がまどろむ。
*
今日の締めくくりとしてひとつ、
私の中で、心の氷が溶ける出来事がひとつあった。
じんわりと溶け、一瞬のうちに熱く広がった。
でもまた、最終的に、小さく縮こまって凍りはじめた。
せっかく溶けたと思ったのに。
この人と心を通わせることができるかもしれない。
私さえ素直になれば、
しっかりと言葉を口に出して話せば、
できるのかもしれない、と思える瞬間だった。
あの人の瞳は真実を語っていて、
嘘偽りなく、感じたままを、私に対する気持ちを、
まっすぐ真摯に話してくれていると思えた。
こんな風に、ちゃんと話してくれる人って他にいないって。
でも。
途中から、それは違う。と思い始めた。
あの人の見ている私は、誤解された私だ。だなんて。
でも。
でも、って。
どういうんだろう。
後から後から湧きあがってくる負の感情に覆われて、
熱く溶けたはずのものも、周りから徐々に凍り始めてしまった。
やっぱりだめだ。
楽になるためには、あの人はあの人、私は私。と思うしかなくて。
相手がこの人でなければ、
私の口もやわらかくいろんな言葉をつむげるのに。
・・・。
そんな風に負け惜しみみたいなことでしか、
今の自分を励ますことができない。
がんばれ、わたしー。
そんなに悪くないよ。
たぶん。ないよ・・・?
やっぱり、ドーナツには珈琲だと思う。
ドーナツおいしいなぁ。
珈琲おいしいなぁ。
きょう3杯目の珈琲。
無性にドーナツが食べたくなって、
自分で揚げたドーナツを食べながら珈琲をすすっている。
雨の日。
フローリングの床は底冷えがして、
台所でドーナツを揚げながら立っている両足のくるぶしあたりに、
冷気がまとわりつくのがわかる。
けれども手指の先は、油の匂いであたたかい。
*
あの地下の喫茶店で、珈琲とドーナツを注文するところを想像する。
私はひとりきりでいちばん端のスツールに腰掛け、
カウンターの向こう側のひどくごちゃごちゃとした、
私にはさっぱりわからないCDの群れやウィスキーのボトルを眺める。
何度も読み返した文庫本をぱらぱらとめくり、
印象的な言葉のつながりをいくつか目で追い、記憶の中にある物語を追う。
そしてふと、思い出したように珈琲を口に運び、
ドーナツを小さなフォークで切り分ける。
ドーナツは甘く、しっかりとしていて、それでいて軽い。
物語の中の時間と、喫茶店の中の時間とを、見比べるように店内を見回す。
アルバイトの女性。珈琲に神経を注いでいるマスター。
私はひとつ、深く息を吐き、ここは満たされる、と思う。
**
左眼が不調。
黒目と白目の境に、赤い血がぽつりとある。
水曜の夜あたりから目が赤くて、木・金と、違和感を感じながらも
コンタクトレンズを装着して仕事にはげむ。
違和感はあるし、まぶたは変なふうにしまりがなくなって、
二重まぶたのはずが、幾重にも細かな線がはいってる。
かゆくはないし、それほど痛くはない。
コンタクトさえしていなければ、さほど問題ではない。
だからきょうは朝からずっと眼鏡をしている。
眼科に行こうと思っていたけれど、あいにくの雨で、
私の足は家からまだ一歩も出ていない。
*
愛知万博に行こうと思って、前売りを買った。
そういえば中学生の時、行事委員というのをしていた。
おまつりごとを、「やろうやろう」と言い立てるのが好きらしい。
なにかにつけ、イベントごとが好きなのだと思う。
愛知万博。
全然盛り上がってないみたいだけど、私は今からとても楽しみ。
キッコロとモリゾーって、案外かわいいと思うんだけどな。
**
そろそろ「お花見」をしたいなぁと思うのだけれど、
まだみんなの心はそこまで行っていないだろうか。
もちろん今すぐじゃなくて、3月末とか4月あたまにやるんだけど、
今からお花見の打ち合わせをしたいなぁって。
気が早すぎるだろうか。
どこでやるか、とか。いつやるか、とか。
夜桜も素敵よね、とか。
桜の見えるカフェでお茶会なんてどうだろう、とか。
みんなで一品持ち寄りなんていうのも素敵よね、とか。
お酒はどういうのを揃えようか、とか。
もちろん桜が一番肝心要だから、桜の咲きぐあいを日々うかがって、
今週末だ!とねらいを定めたりするのとか。
考えただけでうきうきする。
そういうのを、今から誰かとわいわい話して気分を盛り上げていくのが
また楽しいと思うのだけど。
こんなにうきうきするのは私だけだろうか。
*
外はまだ雨。
うすらさむそうな空の色をしている。
2005年02月13日(日) |
小麦粉三連休 3日目 |
日曜日。豆乳スープの朝食。
一日中家から一歩も出ずに過ごす。
お昼は明太子スパゲティーと野菜スープ。
(この間のおもてなしメニューと似通ってます)
そうして、午後からは小麦粉三連休のしめくくりである「パン作り」。
時間をかけてパン生地をこね、こたつの中で発酵させる。
1時間くらい発酵させている間に、台所を片付けたり、
型の準備をしたり、洗濯物をたたんだりする。
ついでに夫がマッサージをして欲しいというので、
マッサージをしてあげる。
ふっくらしたら、ガス抜きをして6等分し、型にいれていく。
それからまた、30分くらい二次発酵させる。
二次発酵の間にオーブンを180度にあたため、お風呂を洗ってお湯を溜める。
オーブンの中でパンが焼けていくあいだ、私はお風呂に入る。
夫はマッサージが気持ちよかったのか、そのまま布団でぐーぐー眠っていた。
お風呂から上って、夫が目を覚ました頃、パンはこうばしく焼きあがった。
ふわふわのミルクパン。
ちょっと甘い、やさしい味のパンだ。
一日家にいてパンを焼くなんて、幸せだなあ・・・。
なんだか優雅。
夕食は焼きたてのパンとサラダとチキンカツを食べる。
夕方にお風呂に入ってしまったので、
夕食後はまったり。
江國さんの「赤い長靴」を読んでいて、はっとする文に出会う。
それはこういうところ
結局のところ言語は人格なのだし、人格にない言葉を無理に発音したところで、それは音にすぎない。
(「赤い長靴」P173より)
結局のところ言語は人格なのだ。
言語は人格。
人格にない言葉・・・。
人格にない言葉を無理に発音しても、それは音にすぎない・・・。
人生の中に思い当たるふしのある言葉だなぁと思う。
私という人格の中に、いったいどれだけの言葉があるだろうか。
昔、江國さんが講演会で「豊かさ」について語っていたけれど、
言葉の豊かさというのは、そのままその人の人格の豊かさにも
繋がる・・・とかそういったことだったように思う。
もっと違う言い方だったようにも思うけど、
文化、とは、言葉が豊かであるということは、感情が、人生が、豊かであるということは・・・
確かそんな話題だった。
逆に、言葉が貧しい、貧困だ、ということについても語れていた。
その時の話題とまざりあって、
また、私自身の生活の中の出来事とまざりあって、
なんだか奥深い一文だ。
何気ない言葉の、
「ありがとう」
「いってきます」
「おはよう」
「いただきます」
「ごちそうさま」
そういうことの大切さ。
結局のところ、言語は人格なのだ・・・。
2005年02月12日(土) |
小麦粉三連休 2日目 |
土曜日。
夫は朝早くから出勤し、私はひとり実家へ。
休みの日に一人だとだらだらしてしまう。
朝のうちにスーパーへ行って買い物をし、それからようやく実家へむかう。
かばんの中にはお菓子作りの本と、コーンスターチ、ベーキングパウダー、
クッキングシートを忍ばせていく。
あまったコーンスターチを使いきりたくて、実家でクッキーを焼こうと思い立ったのだ。
ついでに最寄り駅で江国香織さんの「赤い長靴」を購入する。
実家につくなりお昼ご飯をいただく。
最近、実家の玄関先で「ただいま」というか「おじゃまします」というか悩むようになった。
結婚したばかりの時や一人暮らしの時は「ただいま」と言って帰っていたのだけど、
一度考え出すとなんだか「ただいま」ではおかしいような気がして、
なんと言ってよいかわからず、今回は「おなかすいたー」と言いながら部屋に入った。
遊びに行くことは前もって言ってあって、父親が「いらっしゃい」と出迎えてくれ
る。
「いらっしゃい」ってことは私はお客か・・・?と考えてみたり。
コーンスターチを使った「さくさくクッキー」を作ってから、
父親と梅を見に行く。
さくさくクッキーはおいしく焼けたけれど、家族の反応はいまひとつ。
母親は相変わらず仕事で、兄は相変わらずだらだらしていて、
父と私だけ寒さに負けず外出した。
久しぶりに父親とふたりきで散歩。「城南宮」まで行く。
梅は3部咲きにも満たない状態で、ぽつりぽつり咲く梅を申し訳程度に眺める。
時計回りに境内をぐるっと一周してから、また家に帰る。
帰る途中で、今夜は兄もいないことだし、4人で飲みに行こうということになる。
父が母に連絡をとり、私が夫に連絡をとった。
こういうとき、携帯電話って本当に便利だなと思う。
行きつけの飲み屋にそれぞれ集合し、
いいだこのお刺身としめじバター、それからだし巻き玉子を注文する。
手羽先、ねぎ焼き、もう一回しめじバター、お刺身盛り合わせを追加。
生中二杯とにごり酒コップに半分で、なんだか妙に酔っ払ってしまい、
大きな声で、いろんな話をした。
新聞のクイズをどうやって解くか議論したり。
前回、年末にこの4人プラス夫のご両親とで忘年会をしたとき、
にごり酒にずいぶんやられてしまったので、
お互いちゃんと家にたどり着くんだよと励ましあいながら店を出た。
そこから、記憶はとぎれとぎれなのだけれど、ちゃんと二本足でたどり着き、
歯だけ磨いて眠ったように思う。
時間的にはそれほど遅くなかったはずで。
けれどもあまりの眠さに撃沈。
あっという間の一日だった。
またお米をあんまり食べなかったなぁと思う。
2005年02月11日(金) |
小麦粉三連休 1日目 |
前の晩、旦那さんは会社の人と飲み会があったので、
私は前々から予定していた通り、ひとりぶんのお好み焼きを
フライパンで焼いて食べる。
フライパンで焼いたお好み焼きって、おいしいと思う。
実家にいたころはホットプレートで焼いていたけれど、
一人暮らし及び結婚してからはもっぱらフライパンで焼いている。
蓋をして、じっくり弱火で焼く。
生地づくりのポイントは、野菜からでる水分を考えて、
粉っぽいかな?というくらい水分を少なめにしておくこと。
関西だからか、お好み焼きが晩御飯、ということがよくあるのだけど、
関東方面の方は晩御飯がお好み焼きってことあるのでしょうか。
どうでもいいことだけれど、子供の頃はお好み焼きはおかずで、
白いごはんもお茶碗についでちゃんと食べていました。
今はお好み焼きオンリー(プラスお味噌汁とか)ですが。。
夕飯の後、9時くらいからがんばってチーズケーキを焼く。
フードプロセッサーをつかって混ぜてみる。
うーん、どうだろう。
*
そして今朝、きっちりしっかりしまったチーズケーキを食べる。
いちおう、彼の誕生日ぱーちー第2弾。
手書きのマッサージ券(本当に作りました)と、
少し早いけれどバレンタインのチョコ(普通にスーパーで売っている
おいしいチョコたちの詰合せ「小枝」とか「アーモンドチョコレート」とか
「チョコフレーク」とか)をあげる。
ケーキにろうそくも立てなければメッセージも添えられていない、
ただのチーズケーキを二人でむしゃむしゃ食べる。
ハッピーバースデーの歌だけは歌う。
11時ごろおでかけ。あてもなくドライブ。
「休日に本屋で立ち読み」というのが夫にとっては至福の時であるらしく、
古本屋に「クッキングパパ」を探しに行く。
私もつられて立ち読み。久しぶりに「紅茶王子」を読む。
近くまで来たから、という理由でエフラットカフェーに向かう。
そこは「関西一おいしいロールケーキ」が食べられるという触れ込みで、
実際のところ、こりゃ関西一かも!と思うふわふわのおいしさ。
持ち帰りはいつも予約でいっぱいで、すぐに売り切れるという。
どうやったらこんなにふわふわの生地をつくることができるんだろう?
そのカフェにアルバイト募集の張り紙があったけれど
「18歳〜25歳まで」と書いてあり、
「なんと!私たちもうあかんやん!」と嘆く。
なんだか他人事のように思っていた年齢制限。
そこで働くわけでも働きたいわけでもないというのに、
実際枠からはずれてみると妙に悲しい。
家についてからチーズケーキをまた食べる。
夜は夫が「だんご汁」をつくってくれる。
小麦粉を水でといて、味噌仕立てのお鍋に、スプーンでひとつひとつおとしたもの。
三連休一日目はそうして終了。
夕飯の後は「クッキングパパ」を読みふける。
2005年02月09日(水) |
思い出とか、そんな甘い響きの記憶ではなくって、ただそこにある日常の記憶の |
昨日はスーパーで買ってきた生カキで、
牡蠣フライなんてしてみたり。
外はサクッと軽く、中はジューシーであたたかい、海からの恵み。
結局のところ、すべての揚げ物は揚げたてが一番おいしいのだ。
と、おおげさにそう思う。
うーん、なかなかおいしいねぇ。
にっこり。と、しながら、
私むかしは牡蠣フライ苦手だったんだよなーと、ふと思い出したり。
そしてついでのように、何年か前に食べに行った串揚げ屋の串の、
上品すぎちゃってなんだか場が盛り上がらなかった飲み会のことを思い出す。
イメージとしては揚げたてをはふはふとほうばって、合間にキャベツをかじり、
みんなでワイワイと生ビールを飲む。というものだったんだけど、
そのお店に行ってみたら、なんとも上品に揚げた串(小さい)が
ちょろりと皿に盛られて出てくるというスタイルだった。
もちろんキャベツなし。
牡蠣フライを食べながら、ふいにそんなことまでとりとめもなく思い出した。
なんだか書いているうちに、また大阪の地下で安い串を食べたくなってくる。
今度行こう。
*
さて今朝は、
テイエの紅茶を飲みながら眠い頭をゆるゆると目覚めさせていく。
電車の中で二度寝をしてしまうと、いつもの倍も眠たくて、
ちっともしゃっきりしない。
おいしい紅茶は午後までとっておきたかったけど、誘惑に負けてしまう。
うん。負けてもいい。
それにしても、記憶の連鎖って不思議だなと思うのだけど、
ちょっとした事柄に、瞬間的に様々なことを思い出している。いつも。
紅茶。
というひとつの言葉に対しても、書きながら、江国さんの小説の事とか、
友人のこととか、レピシエという紅茶屋さんの店先の風景とか、
いろんなことが脳裏をよぎっている。
その中で、
私はきまぐれにここにいくつかを書き記し、
いくつかを心の中だけに留め、書き記さないことを選んでいる。
それはなんだか、自分の(きまぐれではあるけれど)意志というより、
無意識に近いなにか刷り込まれたDNAのせいというような気がする。
これを書いて、これを書かない。
それはきっと、文章の癖ということでもあるんだろうけれど。
まだ幼かったあの頃、「おかあさ〜ん、紅茶いれて〜」と言うと、
毎朝コーヒーが飲めない私のために母が入れてくれた紅茶。
出勤前のばたばたとした時間だったろうなぁと、今なら思うけれど、
あの頃は、母親が朝ごはんを目の前に並べてくれるのが当たり前だった。
学校まで徒歩10分の私は、ぎりぎりの時間までぐずぐずとしていて、
早く飲んでしまいなさい。と、よく急かされたものだ。
紅茶といっても、ティーポットで飲むような洒落た紅茶ではなくて、
スーパーで大量に安く売っているデイリーパックのような紅茶で、
それにたっぷり砂糖が入っていた。
今では考えられないけど、
ごくあまの、紅茶というより甘いシロップを飲んでいるような、
そんな紅茶だった。
でも、それが好きでおいしいと思っていた。
ちょっと渋かったり、甘みが足りなかったりしたら、
「お母さん、もっと甘くして」と不機嫌になって言っていた。
懐かしいなぁと思う反面、でもそれはついこの間のことのような気もして、
「ときめきトゥナイト」みたいに、
過去の扉を開けてそこに行くことができるような、
そんな遠くて近い記憶でもある。
その時その時は、粗雑に扱ってきた食べるという行為が、
実はいろいろなところで強烈に記憶として残り繋がっているんだなと思う。
毎日毎日のことなのに、あからさまに雑多なこととして葬られている行為。
少なくとも私の生活の中ではそうだ。
でも、食べるということが、物語の中に現れたとたん、
すばらしいこととして印象に残る、その不思議には気づいていた。
何気ない朝食のシーン。
熱いコーヒー。サラダ。こんがり焼けたトースト。
たったそれだけのことが、
書き記されることで明確な意図をもち、何かしらの感情や記憶を誘引する出来事になる。
私の朝は、やかんでたっぷりのお湯を沸かすところから始まって、
それをコーヒーに変身させたり紅茶にしたり、スープにしたりするのだけど、
あまったお湯は、車のフロントガラスの氷を溶かすために、
ポットに移してとっておく、ということをする。
毎朝何気なくしている行為だけれど、
きっとそれもまたどこかである種の記憶と繋がって留まるのだろう。
そしてふいに、「アラジン」の魔法瓶の鮮やかな赤色を、思い出すことになるんだろう。
薄暗い朝の部屋の空気。キッチンのオレンジの明かり。
ステンレスのシステムキッチン。
壊れかけたオーブンレンジ。
あんまりこげ色のついていないトースト。
テレビからもれ聞こえる華やいだ笑い声。
そして赤い魔法瓶。
そういうことをひっくるめて、瞬時に思い出すのだろう。
またいつか、きっと。
こうやって書いている間も、いろんな場面がゆきすぎていく。
それは、あろうことか私の毎日だけでなく、
このエンピツ日記で読ませてもらっている人達の、
見たことがないはずの日常の風景までも、一緒にゆきすぎていく。
書き記されたものの力。
食べ物の力。
そして記憶の力。
紅茶を飲みながら、ぼんやりした頭でその不思議を思う。
ここ最近、
ふと思い立って日記の題名を短くしてみているのですが、
短い題名って難しいですね。
ある程度インパクトがあって惹かれるような題名をつけたいなぁと思うものの、
短い言葉の組み合わせで、印象的なものをつくるのって難しいです。
それに題名と日記の内容とをリンクさせようとすると、
なお更私のようなだらだらとした日記は簡潔に表現しにくいものがあって。
日記はできているのに、タイトルが決まらなくてアップできない、
なんてことがたまにあります。
昼間に書いたのに、夕方に登録したりとかね。
題名は顔だから、いつもちょっとだけ気どって考えます。
いっぱしのコピーライターになった気分で。
*
そんなわけで、今日は火曜日。
日曜日(6日)は夫の誕生日でした。
前日の夜に、おいしいごはんを食べに行く。
いつもよく行く焼肉屋さん。
我が家では牛肉がほとんど食卓に上らないので、
おいしいお肉が食べたいなーという時は、焼肉屋さんへ行くことになります。
誕生日当日は、私は美容院、夫は競馬、とバラバラ行動。
夜だけ、夫の父親と3人で食事をする。
お祝いにかこつけて「クエ鍋」パーティー。
なにかしらサプライズを用意しようと思っていたんだけど、
今回はなぜかどうしてもいい案が浮かばず、
きちんとお祝いするのは今週末からの三連休にすることになった。
けれど、そんな三連休にも私は旅立ちたい衝動にかられていて、
夫そっちのけでふらふらと出かけているかもしれません。
いまだに、サプライズも浮かばないし。
バレンタインデーが近いので、そちらとも重なってしまうし、
チョコレートケーキでも焼こうかなぁと安直な考えしか浮かんでこない。
愛が足りないのか。
あんまり何も欲しいものがない様子の夫。
しょうがないので、肩たたき券でも作ろうかなぁ。
〜マッサージご優待券〜
30分3000円のところを、50円にて!
・・・みたいな、さぁ。
いいお天気。
電車の中で瀬尾まいこさんの「幸福な食卓」の続きを読む。
読んでいると自分が中学生や高校生に戻ったような気持ちになる。
あるいは、あの頃のことがありありと蘇るような。
日頃は忘れていること。
たとえば私も塾へ自転車で通っていた。その夜道のこと。
塾が始まる前や後に友達と階段に座り込んで話したこと。
上ったり下がったりした成績のこと。
ちっとも前に進まない学級会のこと。
私もそうだったなぁ。と、いっぺんにいろんなことを思い出す。
懐かしい、健やかな時間。
中学時代に通った塾の友達と、今でも年賀状だけはやりとりをしている。
学校よりも塾の方が楽しい時期もあった。
学校は、人間関係がややこしくって、
塾のほうが気楽だった。
なんだかいろんなことを思い出す。
どんどん成長していく佐和ちゃんと、
単純明快で楽しい大浦君。
お母さんの作るフレンチトーストやチーズケーキ、
ミルクたっぷりの紅茶が、私の心もあたためてくれるのです。
心がいろんなことを溜め込んでいって、
ふえ〜んと泣きたくなることがある。
そうして本当に泣いてしまって、
小学生の頃から、ちっとも成長していないんだなぁと気づく。
布団にもぐりこんで、いやいやと首を横に振ってだだをこね、
なだめられ励まされて、ぐずぐずと晩御飯を食べた。
サッカーに夢中の夫。
いつまでもぐじぐじと埒があかない妻。
私はいったい何をやっているんだろう?と思う。
*
瀬尾まいこさんの「幸福な食卓」を読み始めた。
なんだか主人公の佐和子ちゃんが知っている人に似ているなぁと思う。
あの人とこの人を混ぜたみたいな。
江國香織さんの「赤い長靴」を本屋でなぜる。
まだ買わない。なぜるだけ。
*
冬の物語がやけに好きです。
昨日あのあとPICNICAさんの小説(「徹子の部屋」の、そのあとで)を再読しました。
やっぱりいいですね。
読書スピードは人よりやや遅いくらいだと思うのですが、
それにしても、遅いなあ。
今読んでいるのは、恩田陸さんの「ライオンハート」。
この前桐野夏生さんの「やわらかな頬」を読み終え、
そのあと宮部みゆきさんの「蒲生邸事件」を読み終わって、
あともう少しで、恩田陸さんの「ライオンハート」も終わる。
ずっと前に読み始めようとした村上春樹さんの「東京するめクラブ」は
まだほとんど手をつけていなくて、
おそらく恩田陸さんの本を読み終わったら、
瀬尾まいこさんの「幸福な食卓」を読むことにしているので、
村上さんの本を読むのはもう少し先になる。
村上さんのエッセイは好きなので、そちらも早く読みたいのだけれど。
読書は好きだ。
好きだけれどとても偏りがあって、
同じような人の小説ばかり読む。
小説のジャンルも限られていて、
推理やミステリー、サスペンスはほとんど手に取らない。
たまに気まぐれを起こして読んだりもするけど、
そして、それはそれでとても楽しい時間をもたらすのだけれど、
やっぱり日常に近いような、日々がつらつらと流れているようなそんな話が好きで、
だから瀬尾まいこさんの本を読むのが、
今はすごく楽しみだったりする。
*
今日はすごい雪で、朝の天気予報を見ていたら、
京都の四条大橋が中継で映し出されていて、
雪に積もられて真っ白になっていた。
ああ。
雪は粉雪のような小さな粒だったものが、
いちどきは羽が舞っているみたいな綿雪になって、
一瞬晴れたかと思うと、また粉雪が降り始め、
今、外の世界は白一色に覆われている。
雪は音をすいこむ。と、どこかで誰かが言っていたけれど、
確かにあたりはしんと静まりかえり、
鳥の鳴き声も今朝は聞こえず、
ただ、風の音と、歩くたびにこすれる自分自身のズボンの音が、
耳に届いていた。
あごや耳や鼻先が冷たくて、手もかじかんで、足先は麻痺し、
それでも、
やっぱりどこかしら雪はわくわくさせてくれる。と思う。
山は白くかすんで、その先が見えない。
屋根にも車にも道路にも、人の上にも雪は降り積もって…
なんだろう。
PICNICAさんの、オニオングラタンスープが飲みたくなるような…。
普段から雪のある地方とちがって、
たまに降る雪は心が洗われるように、すがすがしいものをもたらす。
京都の街と親しくなって、以前住んでいた街よりも
雪の頻度が増して、それでもやっぱりめったに降らなくて、
雪、というものが、ごくたまに出かけていく
心安らかになれるカフェのような存在になってきた気がする。
ふと、子供のころ家の軒先で雪うさぎを作って遊んだことを思い出したり、
ふと、高校受験の日に雪が降っていたことを思い出したり、
たあいのないことだけれど、どこか心懐かしい思い出を、つらつらと思い出す。
たしか、そんな風な、たった2行の詩でした。
今朝の京都はゆるぎのない太陽を空にいただき、
澄んだ空気はぴんと張りつめて、
太陽の光を残らずまっすぐに地面に下ろしています。
目覚めたら、屋根の上や車の上には薄っすらと雪がかぶっていました。
それは綿花でつくったにせものの雪みたいに重量感がなく、
うすく透けて、ちっとも冷たそうじゃないのでした。
*
日々を、
私のぼーっとした頭で、なんとなく暮らしていると、
いったいどうして自分はここでこうしているんだろう?
というところのあたりがわからなくなることがあります。
それでふと、そうだようなぁそうだった。と思い出したり、
特に意思もないままにここにいることになっていた。と気づいたりして、
あわてて、後ろを振り返って「えーっと、なんだっけ?」と
考え直すことになります。
そこでえーっと、結婚して3ヶ月ちょっとですが、
「そうだそうだ私はこの人の家族になりたかったんだ」と、
ふと思い出しました。
そういう意味では、自分の意思のもとにここへたどりついて、
本当によかったなぁと思うわけです。
そこでまた、
意思のもとにたどりつかずにただ流れてたどりついた結果の毎日がもうひとつ、
「お仕事」という形で横たわっているのを見るにつけ、
「私は何をやっているんだろう…。」と、
悲しくなるのでした。
3ヶ月にいっぺんくらいはやってくる「仕事いやいや病」ですが、
そろそろ本気で、別の道を切り開く必要がありそうです。