草原の満ち潮、豊穣の荒野
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91 魔獣    2 コロナ

風が強く吹き始めた街。
街人の半数以上が消え失せた。
ルーは風と共に飛んで行く青い魂を見上げている。
湿った風の死んだ海の匂いはこれだった。
生きたまま死んでいる体はカノンの鎌に刈り取られずとも
短い時が経てば腐って崩れて行く。
生きた人間の命と引き換えた分、腐敗は深く
刈って捨てる以外ない。

ルーは風に手を伸ばし呟いていた。


こんなはずじゃ....


手から力が抜け地面に落ちた。
地面に当たった感触は感じなかった。
そればかりか、彼は思い切り空中に引き上げられ、自分の死体を見下ろしていた。


『....?』


『やあ、少年。お前さんにはふたつの選択肢がある』

背の高い男が手を握り傍らに立っていた。
どことなく出で立ちがカノンと似ているが違う。

『誰?』

『ただの幽霊』

『じゃ、ほっといてよ』

ルーは幽霊の手を払いのけ地面に飛び降りた。
自分の体にむかって。

『!』


彼は横たわった体を通り抜け地面へめり込んでしまった。
手だけが突き出て、まるで埋められた死体のよう。

『おいおい、墓穴に埋まるにゃちょいと気が早いぜ』

幽霊は笑いながらルーの手をひっぱりあげた。

『言ったろ。ふたつの選択肢があるって』

ルーは幽霊を睨んだ。

『どういうこと』

『そう睨むなよ。お前さんは死んだ。
先輩の言う事は聞くもんだぜ』

『先輩?』

唐突に風が吹いた。
嫌な匂いの風はルーにむかって吹き、通り過ぎる。
幽霊はそれを遮断するように立って笑った。

『そう、先輩のありがたーい忠告だ。
あいつら、お前さんの火を消したくてウズウズしてる』

『...?』

『まだピンとこねえだろうけどな、わかりやすく言や、魂よ、タ・マ・シ・イ。
今のお前さんを例えるなら
鮫の海に落ちた遭難者みたいなもんだ』

生暖かい風は確かにルー達を遠巻きに巻いて吹いている。

『そこでだ、死体を鮫にくれてやるのと引き揚げて埋葬するの
どっちがいい?』


幽霊はそういうとルーの胸を指差した。


『その火を消したらおわりだぞ』


風が叫んだ。泣き声や罵声が混じっているようなそれ。


『まともに生きて死んだ奴は行くべき場所へ行ける。火はその為の資格だ』

『行くべき場所?』

幽霊は空を指差した。

『太陽だよ。
今は隠れちまってるがね。魂の火は太陽に帰って永遠に燃え続ける。
人間はそいつを皆持って生まれるが、死ぬ時に失っちまう奴もけっこういてな』


ルーは嫌な予感がして周りを見た。
青い魂は次々と鬼火の最後のようにゆらめいて消えていく。
ルーの胸にいつの間にか灯った火は明らかにそれらとは違う。
幽霊はそれを見つめて頷いた。


『なくした奴らは自業自得さ。
お前さんはどうやら大丈夫らしい。
良かったな』

『...僕が...?』

『ああ。わかったら消される前にさっさと行っちまおうぜ』

ルーは唇を噛むと頭を振った。
涙が溢れて止まらなくなった少年は何度も頭を横に振った。
ブルーの言葉が木霊する。

....わかってても回避できねえから人間は泣くんだろ...

遠い昔見た慟哭の果てに白髪となった男の姿も浮かんでは消える。
頭を落とされて流れて行く若い白銀の髪の研究者の遺体...
自分の笑い声が聞こえる...

違う。そうじゃない
そうじゃなくて...


ルーは泣く事すら情けなかった。
そして恥ずかしかった。
彼は頭を激しく振って泣くまいとしたがどうにもならない。


やがて彼は震えながら言った。



『行かない。僕の行くべき場所は彼等のいる所だけだ』

『彼等?』

幽霊の問いかけにルーは声を上ずらせながら
やっと言葉を絞り出した。


『...あの童話を信じてやって来た人々...実現しようとした人々、それから..』

『犠牲になった人間達、か?』


幽霊がとても穏やかな声で言った。
それはまるでその言葉を予期していたかのよう。
彼は静かだが、きっぱりとこう続けた。


『太陽は生きているもの全てを照らす。
死んだものは生きたものを照らす焔に還る。
すべての命を生かす火には強さが必要なんだ。
燃え続け、消えないでいられる焔がね。
だから失っては駄目だ。
例えどんな事情があろうと、だ』


『..........』


ルーは座り込んで大泣きした。
小さな子供の姿そのままに泣きじゃくって叫んだ。


『じゃあ、皆は?ブルーやオンディーン達は...』


幽霊はルーの火を消そうと近付いて来る魂をしっしと追い払い言った。


『人の事はほっとくんだな。さあ...おい!』

近付いた青い魂に気を取られた幽霊は、少年の姿を見失っていた。
横たわる死体に刺さった銀棍が微かに光っている。
刻み込まれた呪言に沿って走るような点滅。

『ま、聞くまいとは思ってたがな。さあて、俺は退散するか。
カノンもそろそろカンカンになってやがるみたいだし』

幽霊は満足そうに笑うと舌を出して消えた。
消え際の幽霊の言葉。

『約束なんざ守られると思う奴が甘いんだぜ。海の連中...
守られなかった時の事くらい考えとくもんだぜ』



少年の死体の傍には誰もいない。
ただ風と幽霊の笑い声が何処からか木霊してくるだけだった。

太陽は歪んだ空に遮られて見えない。