草原の満ち潮、豊穣の荒野
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90 魔獣    1 流れ落ちる涙

ルーはカノンから全力で逃げ出した。

違う!あの男はカノンじゃない。
あれは..間違いなく海の者だ....

砂塵が舞う街を転がるように駆ける。
閉ざされた街。
湿った風は腐った魚のような匂いと瓦礫の粉塵を噴き上げる。

ルーは鼻を押さえて走り続けた。
彼は、長い悲劇の生き証人だった。戦闘人魚とカテゴライズされ
幼い姿のまま、いつかの願いを叶える日を待っている。
ひとりめの完成例。
白髭の海の老人はルーをブルーと共に地上へ行かせ
童話を実現のものにする手助けにしようと試みた。
又はブルーの代わりにそこから成長するはずだった。

だがしかし、ブルーはふたりめの戦闘種の完成。
オンディーンは無数に奪った命をスペアにしてそれを完成させたのだ...



ルーは必死でブルーを探して走った。ブルーが海に裁かれる。
それではだめだ。


「おい、ガキ、何ちょこまかやってんだよ」


唐突にブルーの声がした。
そこは先刻、逃げて来た場所だった。
ブルーはカノンにドつかれた場所でそのままうずくまっている。


「ああ、暢気な事を!」

「うるせえ、体の調子が悪いんだよ。全身の骨がギシギシ言ってバラけっちまいそうだ」


ブルーは少し大きくなっているように見えた。
背中はこぶのように盛り上がり少しずつその姿を変え始めているのがわかった。
明らかにバケモノじみて今までのどんな変態より酷い。

「ああ、だめだ、ブルー、がまんしないと」

「がまんしろったって...オエッ」

「うわ!なんだよこれ」

ルーが鼻を覆った。ブルーが吐き出す吐瀉物から死んだ魚の匂いがする。
いや、違う。これは死んだ海の匂いだ....


「オレ、もう気分悪すぎてちょい寝るかな」

「ブルー...今どういう事になってるのかわかってる?」

「ウオエエエエエエエ!知らんわ、そんなもん」

「わーっ!ゲロが動いてる!!」

「うげえ」


ブルーも流石に青ざめた。自分の吐いたものが嫌な匂いをまき散らすばかりか、もぞもぞ動いて
自分の体に這い登って来るのだ。


「は、剥がして!...ぎゃ!」


ルーが剥がそうとしたそれは少年の体にも取り憑こうと絡み付いた。


「なんだこりゃ」

ブルーの体に貼り付いた汚物は青い皮膚の上で鱗状に固まった。

「たまんねえ、ゲロの中に突っ込んだ最悪の二日酔いみてえだ」

暢気な言葉と裏腹に倒れ伏したブルーの体が内部から盛り上がって行く。
激しい骨のくだけるような音が響く。
彼は口から腐りかけの肉塊のようなものをごぼごぼと吐いては取り憑かれた。

「チクショウ!!獣化かよ」

「.......」

ルーが目を丸くした。
ブルーはもはや海牛のような姿になっていた。
下半身だけが中途半端な海棲ほ乳類。
青い髪は片目を隠し凶悪そうな人相に変えながら逆立っていく。
両腕や胸は雄牛のそれのよう。


「フウウ」

ブルーが荒々しく息を吐いた。
一面の植物が一瞬でしおれ、隠れていた虫と共に黒く変色して溶けた。


「ああ、なんかオレ、えらい事になってねえか?」

「魔獣みたいだ...ブルー」

「へえ、そうか。でもよ、魔獣ってのは悪かねえな」

「なんで!」

ルーが呆れて怒鳴った。



「鳥なんぞより、向かうとこ敵無し、って感じでいいじゃん」

「そういう問題じゃない!!」


ブルーはふてくされながら空に思い切り吠えてみた。
ルーが耳を押さえて転がる。
あたりの瓦礫がいっせいに崩れて粉々になった。


「ブルー、今そんな姿になったら大変な事に...」

「何を今更」


瓦礫に奇怪な魔獣が陣取って座る。
気分の悪さも落ち着いたようだ。どうやら変態が完成したらしい。
黒い鳥に変化した時のそれより、もっと以前、
死にかけの体が復活していった時の感触に似ている。
太陽に当たって焼け焦げた事もあった。
ルーが現われてからは、和らいで忘れ始めていた痛みだ。


「ああ、もういちいち悩んだり指図されんのには飽きた。
いっそこのままトンズラこくか」

瓦礫に座ったブルーの後ろに揺らいだ赤い月が輝いている。
魔獣は冗談まじりで爪と牙を閃かして高笑いした。
もはや笑う以外にどうすればいいんだ、と自嘲のそれだったのだが。


「ブルー...もう遅いよ」


ルーは絶望的に呟くと座り込んでしまった。
黒い男が追いついたのだ。

「ふふん、今更何が来ても驚かねえよ」


ブルーはゆっくり背後を見ようとしたが、後頭部に鈍い衝撃を受けたのが
先だった。


「ぎゃっ」


「貴様はどこまで恥を晒せば気が済む」


『カノン』がブルーの頭に銀棍を貫通させて怒りに全身を振わせていた。


「その胸クソ悪い声は....」


ブルーは貫かれた頭部の右目に手をかけてそのまま頭部を引きちぎり銀棍から逃れた。
血は流れない。痛みもない。
泥の固まりのようなものが壊れて落ち、再び這い登り損傷した部分を再生させた。
命のスペアがまたひとつ消費されるのだ...


「少しだけ驚いた。誰かと思ったらガレイオスじゃねえか。
あの司祭の面してるなんざ、奴さん死んだのか?」



ルーはうろたえた。
このバカな魔獣は何もわかりもせず、ただ悪戯に殺されるのを待っている。



「生きる価値もないクズがのうのうと...」

「へっ、クソライオンこそ、こそこそ地上の奴に取り憑いて情けねえな」

ブルーは口元を耳まで裂いて笑うと再生した右頭部を指差した。

「てめえのその体の持ち主は一撃で頭を吹っ飛ばしやがったからな。
この程度じゃ欠伸が出る。
海の支配者マーライオンも地上じゃヤキが回ったか?」



ルーは驚いてカノンの姿をしたガレイオスを見た。
マーライオンが地上とは言え、魔獣くらい瞬殺する力は持っている筈だ。
ガレイオスは屈辱のひと言に赤い目をギラつかせた。
邪眼の力もない。
ただ黒髪の司祭、カノンと同じ姿をしているだけだ。


「ははははは!!今まで散々えらそうな事をブっこいてきやがって。
オレはもう誰の言う事も聞かねえ。誰にも負ける気がしない。
見ての通り不死身って奴よ」


「ブルー!ちゃんと聞いてよ!それは死なないんじゃなくって...」

「ああ、わかってる」


魔獣はガレイオスを睨んだ。


「100万回くらい死なねえと消えねえ数の悲しみだ」

「わかってるならなんでだよ!」

「わかってても回避できねえから人間は泣くんだろ」


ルーが目を見開いた。魔獣の傍らにオンディーンの影が揺らいでいる。
影は無表情な目で魔獣を見ていた。


「おい、てめえの言う事も聞くのはやめだ」

ブルーは影に向かって爪を閃かせ怒鳴った。
虚しく宙を切った腕。実体はそこにない。


「ガキ、てめえは街道沿いのオンボロカフェへ行け。多分水脈があるはずだ。
こいつは街を水没させる気だ。違うか?ガレイオス」


「......」


「てめえがわざわざ現われたって事はそういうことだろ?」

影のオンディーンの表情が険しく歪んだ。


「ブルー!だからケンカしてる場合じゃないよ!一緒に...」

「バカたれ!オレがのこのこ行ってどうすんだよ。
海で一番デカい面してやがるマーライオンが地上にいるって事は誰かが呼んだに決まってんだろ。
ふんぞり返ってられねえ状態が地上に起きてるって事さ。
多分、結界なりいっぱいいっぱいで崩壊寸前、と見たね。
そこへオレみたいな怨念背負いまくったバケモノが近付いたらどうなる」

「いや、だからこそ貴様が必要なのだ」

ガレイオスが嫌な笑い方で言った。

「海も手狭になったからな」


「げえ!」


魔獣は一瞬で海の獅子に大地に叩き付けられていた。
銀棍も使わない素手、しかも片手一本で。

「生かす価値もないが殺しては役に立たなくなる」

「て...てめえクソライオン..」

「手加減するのも胸が悪いわ。この人喰らいのバケモノめが」



ガレイオスは続けざまにルーを打ちのめした。

「邪魔されては鬱陶しい」

「ルー!!」

ガレイオスはカノンの銀棍でルーを胸から地面に縫い付けた。

「生身になったのが仇になったな、戦闘種。
いや、過去の遺物よ。消えてしまえ」


ルーは胸から流れ出す血に染まった銀の聖印を呆然と見つめた。
一瞬で横たわったまま動く事もできなかった。
心臓の位置を正確に銀の棍は貫いている。


カノン達からもらった銀の聖印。
これを身に付ける事で人として限られた命を生きるはずだった...
ガレイオスは叫ぶ魔獣をあっさりと引きずり去った。



赤い月の空の下、ブルーの言葉が脳裏をよぎる。


『わかってても回避できねえから人間は泣くんだろ』



血と一緒に涙がとめどなく流れ落ちた。

....そういえば、僕は最初泣く事が出来なかった。
おじさんが白髪になるまで泣いている横で笑う事しか...
あの鬼になってしまったオンディーンも
ずっとそれまで泣いていたんだろうか。

...ブルーも泣くのかな......


ルーは歪んだ空に最後の力を振り絞って手を伸ばした。
湿った風は死んだ海の匂いを激しく吹き付け通り抜けて行く。
嵐の始まり。