草原の満ち潮、豊穣の荒野
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街道の空の青。 夕方を控え、赤い日差しの気配と遠い黒雲。 翼竜のような姿の影の下を黒い鷲がまっしぐらに飛んで行く。 黒い鷲はヒダルゴの街を目指し翼竜より先に飛び去った。
「アレかいな。ま、カーくんにはまだがんばってもらわんと...」
翼竜の影はそう呟くと黒い鷲を追うように街へ。 太陽が赤く膨らみ、青い空に黒い雲が流れ込み始めている。 荒れ地のカフェから街道を引き返す形で進むと、商業都市ヒダルゴはある。 かつては名馬の名産地であり、都市間を結ぶ交易の街として賑わっていたが 今、大半の住人が青い肌と青黒い髪や目をした幽霊のような人間ばかりが歩く。 繋がれた馬達は彼等が通る度怖れるようにいななき頭を振った。
街の中央から山並みの静かな場所へ向かう途中に橋があった。 しかしそこは今、焼け落ち、歩く者は誰もその向こうへ行く事が出来ない。 多くの元の住人達はその場所に肩を寄せ合い、助けを待っていた。 街のまわりは深い山が囲み、唯一の出口は賑わった街道へ続く。 橋はそこへ行く道を遮って、また同時にもとの住民達の無事を保証していた。
「このままじゃらちがあかない。水、食料のあるうちになんとかここから出て 隣の街へ逃げないと」
「隣街までは馬でも一昼夜軽くかかる。 それにあの山あいを分け入って誰が行くというんだ?」
あちこちで聞こえる似たようなやり取り。 祭りの飾り付けも残されたままの公園。 着飾った数千ばかりの人々があちこちに座り込んでいる。
「あの橋を越えられる獣人なんかいないのか」
数人の若い男が聞こえるように喚く。
「いいのよ、イザック。あんたは気にしなくて」
火傷を負った少年に濡れた布を貼りながら橋で助けられた女が呟く。
「空を飛べる奴とかさあ」
無責任な放言は差別的な言葉を交え続けられた。
「行きましょ」
火傷を負った銀髪の獣人、イザックをかばうように女は声の聞こえない場所まで 歩いて行った。 泉のほとり。
「具合はどう?」
冷たい水に足の裏をつけてイザックは親指を立て笑った。
「魔法、もっと上級な講義受けてりゃ良かったなあ」
「あんたバイトばっかりでそんなに勉強しないじゃない」
「だって休むと店長が泣くんだもん」
長い銀髪を泉の水で洗い、彼は素っ裸で水に浸かった。 あちこちが火傷でひりひりする。 足の裏と手のひらが特に痛んだ。
「つめたきもちいい〜」
「いつまでも浸かってるとナマズになるわよ」
「ナマズ獣人てか」
「ナマズは魚でしょがバカ」
女は笑いながら桜色のドレスを渡した。
「あんた、どうせ着るもの他にないんだからこれ着てなさい」
「ありがと」
イザックは水からあがるとドレスを頭から被った。
水辺はひと気もなく静かに鳥が鳴いている。
「あんたの実家、遠いの?」
「うん。これじゃいったん帰った方がいいかもなあ。 勉強どころじゃないみたいだし。 ねえ、ここから出たら一緒に来ない?少しく落ち着くまでくらいならさ」
「あたしはこの街から出たくないわ。街の暮らしが好きなの。 この騒ぎが終わったら新しいドレスの仕立て注文さばかなきゃ」
イザックは桜色のドレスの裾をつまむとくるりと回って笑った。
「うん、コレいいよ。きっとよく売れる」
和やかに笑う二人が突然黙った。 鳥の声がぴたりと止み、泉に黒い影が何度も旋回するように差し込んでいた。
空を見上げれば大きなあの黒い鷲が飛んでいる。
「あーっ!!女神の使いの...」
イザックが立ち上がり手を振った。 黒い鷲は泉の上空を通り過ぎてはまた戻りうろうろして見える。
「おおーい!降りておいでよ!」
桜色のドレスの『娘』は空に向かい、手を大きく広げ鷲を呼んだ。 鷲は迷うように何度か行き過ぎだんだん低空飛行してくる。 やがて決心したように黒い鷲は泉のほとりに舞い降りた。
「あ、やっぱりあの時橋で助けてくれた鷲...」
イザックの言葉が止まった。 女は驚いたように木陰に身を隠している。
降り立った黒い鳥は着地と同時に溶け、 そこから黒マントの男がすっくと立ち上がった。 青い髪に青い瞳。肌は薄く青い。
「イザック!あ、青い人間!!」
女が悲鳴のような声をあげた。 黒マント装束にフードをすっぽり被った男はイザックを黙って見ている。 何もしてくる気配はない。
「あ...あの」
イザックが恐る恐る声をかけようと彼を見て吹き出した。 黒マントの男の頭のてっぺんに鳥の足が一本にょっきり突き出していた。 イザックはあわてて両手で口を覆った。 男は不機嫌そうな顔で桜色のドレスの『娘』の視線の先に手をやる。
「!!」
男は気の毒なくらい狼狽して鳥の足を引っぱったり押し戻したりしていた。 あまりにもその姿がおかしくて木陰に隠れた女も出て来た。 しばらく格闘したあと、男はようやく余計な足を頭に押し戻し納めた。
「くっ.....」
「笑いたきゃ笑え!」
「い、いやその」
女は情け容赦なく笑いこけ、イザックは困ったようにごまかし 男はしょんぼりした様子で後ろを向いた。
「あ、あなた、あの男の子に似てるけど親戚?」 イザックはルーを思い出しながら男の背後に近付いた。 男は黙り込んで背を向けたまま。
「と、ともかく、橋で危ない所を助けてくれてありがとうございました!」
桜色の『娘』はぺこりと深く頭を下げた。 両者ともにしばし動かない。 男は背中を向けたまま、『娘』は頭を下げたまま。 根負けしたのは男が先だった。彼はちらりと後ろを見て何事かもごもご呟くと 頭をがりがり掻きながら『娘』の頭を上げさせた。 銀の長い髪によく似合った薄い上品なピンクのドレス。 『娘』はにっこり笑って言った。
「おれの名前はイザッ..」
男がイザックの口を手で塞いだ。
「いいか、オレの前で二度と余計な事を言うな、娘さん」
「?」
イザックはパン屋で本物の少女と間違われた時、よく同じ事を言われていた。 彼は自分のドレスを見てああ、そういうことか、と苦笑いで頷いた。
「そんな事より、ここから出たいんじゃないのか? 娘さん、あんたひとりならオレは連れ出せるがどうする」
青い髪の男は唐突にそう持ちかけた。
「娘さんて..いや、まあいいや。 ええと、鷲さん、あなたの名前..」
「名前なんかどうでもいいんだ。行くか行かないかどっちだ。 ここもじきに連中が来るぜ」
イザックは連れの女を見て言った。
「ひとりじゃ行けないよ」
青い男はイザックをじっと見て言った。
「もう一度言う。 オレは細かい事は言わないが、あんたを助けてもいいと思ってる。 行くか行かないか決めろ」
「...助けてくれるのは嬉しいけど、おれひとりでどうして行けるのさ。 ひとりだけ助ける、なんて言われて」
「もう一度言う。行くのか行かないのか」
「.....」
「ねえ、イザック、あんたが行って外に助けを求めるってどう? あたしは重いし、一度助けてもらったものね」
イザックは女の顔を見てきっぱりと言った。
「行かない。だって間に合わなかったら見捨てたようなもんじゃん」
「もう一度言う。行くのか行かないのか」
「行かない」
「行くのか行かないのか」
「だから行かないってば! あなたが助けてくれるって言うのなら隣の街へ知らせてよ」
「嫌なこった」
「.....」
冷たい返事に桜色の『娘』は項垂れて座った。
「鷲さん、多分おれ、行ったら一生後悔する。 だから行かないよ...」
青い男も泉のほとりに座り込んだ。 かつて同じような事をしていたような曖昧な記憶。 『ブルー』のかつての言動はところどころ抜け落ちている。 祭りの前夜、会った狂女の抱いた赤ん坊の死体を見てからだ。 ちょうどそれと符合するように『ルー』の記憶がはっきりしてきた事は彼も知らない。 在るべきものがあるべき場所へ戻されて行く。 その中で些細な事はどんどん振り落とされ、 『ブルー』は『ブルー』であった頃の強烈な想い出だけしか持っていなかった。 魔法の浜辺の物語、北の海の想い出、地上でのいくつかの出来事、そして桜色の少女の金の瞳。 彼はなんとかこの少女だけは助けるべきだと、信じ込んでいる。
泉のほとりは日が暮れ暗闇に包まれた。
「...なあ、娘さん、あんた獅子座を知ってるかい?」
『ブルー』は泉を眺めたまま、背後のふたりに問いかける。
「獅子座って星座の?」
「ああ、オレがガキの頃見た星がそれだ。 獅子の心臓星って言う奴が妙に印象的でさ、ずーっと憧れてた」
青い男は空に現われはじめた星を見上げたが獅子座は見当たらない。
「海で獅子と言えば強くて力のある奴を指すんだ。 オレはずっと強くなりたいと思ってたからさ、まっくらな地上の空に デカい獅子座があるのを知った時、これだ!って思った。 つまんねえ子供の思い込みって奴だろうけどよ」
青い男はイザックを振り返り肩を竦めて見せた。
「なんで強くなりたいって思ったの?」
イザックの問いかけ。 『ブルー』はぼそぼそと答えた。
「かっこいいからだ」
「は?」
「.....強ければなんでも出来るだろ。 助けを求めて泣く事もなければ、卑屈に誰かを恨む事もねえ。 きっぱりひとりで立っていられンだよ。 そういうのってかっこいいと思わねえか?」
イザックは女と顔を見合わせた。 何故この男はこんなことを言うんだろう。ほとんど知らない相手に。
「.....」
「獅子の心臓がオレにあったらどんなに強くなれるだろう、ってガキの頃 手を伸ばした事がある。 届くわきゃないのはわかってたがそうすりゃ少しは強くなれるような気がしたんだ」
ブルーは暗闇の中、イザックを振り返ってはっとした。 曖昧ながら鮮明な記憶の理由が電撃のように彼の心に刻まれた。
「そうか...あんたの」
「?」
ブルーは空を仰いで笑い出した。 暗い水辺で獣人の金の瞳が星のように見えた。
そうだ、オレが欲しかったものがここにあったからだったんだ....
「レグルス」
「え?何」
「星の名前だよ」
「星って獅子座の?」
「ああ、そうだ。難破船に積まれた本で読んだ。 獅子座の胸には『レグルス』と言う名前の心臓星があるって。 決めた」
ブルーは唐突に立ち上がりイザックに近付いた。 獣人の少年の顔を至近距離で覗き込み、その瞳を見て笑った。
「あんたが少女じゃ無かった事が悔やまれるが、まあいい。 オレのやるべきことはこれではっきりした。 助けてやるよ」
「え、じゃあ、知らせに行ってくれるの?」
「いや、そんなまどろっこしい事はしない。 いいかい、娘さん、オレは『影』だ。幽霊みたいなもんなんだよ。 オレはちゃんと生まれなかったし、死にもしなかった。 誰かの記憶をいくつも渡り歩きながら長い時間をちゅうぶらりんでいた亡霊さ。 だから確かなものがほしい。 現在、未来、過去、オレはそのどれでもない。 ただ、ただ願いが歪んで生まれた化け物だ。本体に戻されちまう前にやっとかねえとな」
「どういうこと?何言ってんだかわからないんだけど」
「うるさい。いいか、こういう事だ。オレはあんた達を守ってやる。 それをやる事はオレが強くなった証明になるんだ。 オレはレグルスを手に入れる。 中途半端にオレを生み出した奴への落とし前だ。 この街の人間は全員『入れ替わる』予定だったんだが気が変わった。 ふたりくらいなんとかなるさ」
「ふたりだけ?」
イザックは不満そうに呟いた。
「何が気に入らない?」
「だから自分達だけ、なんて嫌なんだもの。後味が悪すぎるよ。それにそれじゃ これから元の生活に戻れないじゃないか」
「うう...」
ブルーは己の素晴らしい思いつきをあっさり崩され呻いた。
「街の連中まで助けろってのか?そりゃ無理だ。オレにも事情や都合がある。 第一、オレだけでなんでも出来るなんて思わないでくれ。 オレはただの幽霊なんだから」
「ずいぶん前向きな幽霊だよね」
「悪かったな。幽霊にもいろいろあっていいだろう。オレみたいなのもたまにゃいるさ。 ま、本体の方が嫌な感じになっちまってやがるから気に入らねえ、ってのもある。 あいつの言う通りにしてやってるがどうもすっきりしねえんだよ」
「あいつ?」
「よし、質問はそんくらいにしてくれ。これからオレは娘さんを街道へ運んで外に出す。 その次にそこの太った...おっと失礼、婦人を運ぶ。 あんた達は助けを求めるなり逃げるなり好きにしろ。あとの街の連中は出られるようにオレが適当に誘導する」
「適当....?」
「....確実に...だ」
「ありがとう!」
思わずイザックは青い男の手を握った。
「..............男かよ」
ブルーは悪態を垂れると笑いながらイザックの瞳を指差して言った。
「あんたの名前は、そう、レグルス、だ」
「え...おれの名前は...」
「嫌なら助けねえ」
「...はい。わかりました」
イザックは強引に付けられた名をニックネームだと思う事にして了承した。
「オレが惚れたのはあんたが可愛かったからじゃない。 その瞳がオレの存在理由を見つけ出させたからだ。 ...悪かったな、娘呼ばわりして」
「そんなことないよ....」
イザックはしどろもどろでそう答えた。 いきなり惚れたとか言われても困る。 だが、この状況で力になってくれると言うのだ。 事情が全く読めないが、きっとこの自称『幽霊』は敵じゃない。
「さあ、そうと決まればぐずぐずしてられねえ」
ブルーは瞬時に鷲に姿を変えるとイザックを掴んで空へ羽ばたいた。 軽くはなかったが魔鳥はものともせず街の外、街道まで少年を運んだ。 続いて連れの女。
「ありがとう。これで二度だね。 せめて名前を教えてもらえない?幽霊さん」
「一度はオレもあんたに...まあいい。 オレは名乗る名前もなくしちまった。そんな事よりひとつだけ絶対守って欲しい事がある」
『ブルー』はイザックと女に真顔で釘を刺した。
「いいか、街道沿いに一軒、古いカフェがある。 そこだけには絶対近寄るな。どんなに疲れていてもだ。出来れば街道はずっと走れ。 そして...」
ブルーは一瞬躊躇したが低い声で告げた。
「...オレと何処かで会ったら全力で逃げろ。 多分、もう二度と会う事はないだろうから」
「どういうこと?」
「時間がないんだ。オレに街の連中を助けさせたいのならもう行け」
「...わかった。ありがとう、前向きな幽霊さん」
ブルーが苦笑いで手を振った。
「今、オレは幽霊なんかじゃないのかもしんねえなあ....」
イザックがその言葉に答えようとした時、もう彼は黒い鷲に姿を変え地面を蹴って 空へ駆け上がっていた。
「あばよ!レグルス!」
夜空に黒い鷲は吸い込まれるように消え去ってしまった。 それを見上げながらイザックと女は街を見た。 灯りは燃え上がった瓦礫の焔のみ。 あんなに賑わって灯火に満ちた都市が...
ふたりはとぼとぼ歩き出した。 どこかの街で助けを求めなければ。 イザックは歩きながらふと思い出した。
「あの声...そうだ...」
一度街角で、重い小麦の袋を運んでくれた青年がいた。 彼は頭から粉を被って顔も全くわからなかったけれど、声はなんとなく似ていた気がする。 もっと丁寧な喋り方だったから気付かなかった...
「うーん、だけどおれ、何かしたっけかなあ...」
イザックはブルーに差し出した真っ白なハンカチの事など全く覚えてもいなかった。 寄り添って歩く女はくすくす笑いながら言った。
「あんたはスカートが似合いすぎるのよ」
「だってさあ...」
長く伸びる街道を、ふたりの人影は隣の街を目指して進む。 きっとあの幽霊は約束を守るだろう。 信じて自分達は今出来る事をするのだ...
夜空にはいつのまにか星座がいくつも登っていた。 星の海。 波のように黒い雲がそれをところどころ隠している。
「あの幽霊、海の方から来たのかもしれないね....」
よく晴れた星の夜のことだった。
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