草原の満ち潮、豊穣の荒野
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ここは深い海の底だ...
青い髪の少年は漠然とそう思った。 さっき自分は何処だかわからない場所で されるがままに流れていた。
はっきりした事なんか知らない。 ただ、自分の指先が見知らぬ少女の肩先に触れた瞬間 風穴が空いたのだ。 だんだん記憶がはっきりしてくる。
あれは冷たい氷に覆われた懐かしい街だった。 泣いているのはリラおばさんじゃないだろうか... いや....違う女性だ。 誰なのかはよく見えない。 遠くで片腕から血を噴き上げた男が喚き散らしている。 長い白い髭のじいさんが見つめている...
それから....
「わあっ!」
青い髪の少年、ルーは自分の叫び声で目を覚ました。
「いてっ」
起き上がろうと倒れている床に置いた手が 何かに弾かれるような痛みを感じた。
「気を付けなさいルー君。そこには見えない壁がある」
「........」
黒髪に銀色の棍を持った司祭がルーの前に立っていた。 傍には年配の女性....そうだ、さっき自分が触れた少女の母親...が倒れている。
「あ、あの子は!?」
「外へ行ってしまった」
「じゃあ、大丈夫だったんだ...」
ルーはほっとしたように顔を上げたが司祭、カノンの顔を見ると その表情に黙り込んだ。 家の窓と言う窓は閉められ、何かの文様が焼き付けられていた。 倒れている女性の傍にもそれはあった。 祭りで賑わっていた外は相変わらず騒がしい。
「君は何か覚えているかい?」
カノンは窓の外を眺めながらルーに尋ねた。 その横顔にいつものにこやかさはなく、右手の銀棍は 微かな発光を繰り返している。 ルーは膝を抱えて座り直し、横を向いた。
「いつのこと?」
ルーのぶっきらぼうな呟き。 カノンは少年の前に屈んで続きを促した。
「君が思い出せる事すべてだ」
ルーが口を押さえた。 吐き気が込み上げてくる。 彼の脳裏には人の腹から腸や肉を引きずり出す 自分自身がはっきり甦って来る。 尖ったものでザクザク刺すように凶暴な記憶が 刻み付けられて苦しい。 引きちぎった腕の重さや味。 生暖かいはらわたの匂い... 粉々に砕け散った女神像と金貨のきらめき... あとからあとから溢れ出して来る記憶。 声、情景、匂い、味、感触、温度、すべてが 叩き付けるように押し寄せてきた。
「げえ!」
ルーが見えない何かを何度も吐いた。 カノンの目にはそれがドス黒い怨念や怨恨の残りかすに見えた。 彼はすぐさま短い呪文と共にそれを焼き捨ててしまった。
「君は僕が渡したお守りを何処かに置いて来てしまった。 これを今度こそちゃんと持っていなさい」
カノンは自分の司祭服の下に忍ばせていたペンダントのような物を取り出した。 以前、ルーに渡した物に似た作りだが、これは半分つぶれかけたように 曲がり、煤けている。
カノンは慎重にそれを結界に封じ込めたルーの前に置いた。 青い髪の少年は赤い石がはめ込まれたペンダントを 手に取ると、まじまじと見つめた。 煤け、変形していながらもその石はゆらりと光を複雑に放っている。
「何?これ」
カノンはルーがペンダントをなんの抵抗もなく掌に置いた事に ひとつの結論を出した。 ペンダント、聖印には守護、破魔の呪文が施してある。
「君はこれから自分を 自分自身で支配しなければならない」
カノンはそう言うと自らの前髪を後ろに流し かけていた眼鏡を外すと色違いの目を曝け出した。
「....」
常に前髪で遮られた右の「邪眼」は血のように紅く 左の薄い青の「浄眼」と異様なコントラストを作り上げていた。 いつもはにこやかな笑顔に穏やかな物腰の司祭。
「僕の眼は命をも奪う刃だ。 だが僕は『刃』の使い方を知っている」
「何が言いたいんだよ」
「わからなければ君は魔物として無惨に殺される、と言う事だ」
カノンの手の銀棍の両端に一瞬で大鎌のような白刃が閃いた。 彼はそれを一閃させながら静かに言った。
「我は灯の番人なり」
「!」
突然部屋の扉が吹き飛んだ。 カノンの声と同時に外で騒いでいた人々がなだれ込んで来る。 黒髪の司祭は情け容赦なく彼等を白刃で薙ぎ倒した。 青白い顔をした街人は悲鳴をあげて後ずさった。 すでに一閃で数人が切り裂かれ転がっている。
「お...おい、それ街の連中だろ!」
「ああ」
「ああ、って!」
目の前を黒衣の男が、銀の対になった大鎌を持って 街人を切り裂きまくっている。 逃げまどう男も女も子供も容赦ない。
数分でカノンの前に立つものはいなくなった。 すべて転がっている。
「さて」
一仕事終えた、と言わんばかりのカノンがルーの方に向き直った。
「え」
ルーの足下には彼を捕縛した魔法陣。 黒い髪の死神じみた司祭は無言で対の刃を少年の首に閃かせた。
「ぎゃっ!」
その頃、街の外れでは桜色の女神が蒼白な顔で少し年配の女と 座り込んでいた。
「いったいどうしちゃったんだろ」
「悪い病気でも出たのかしら?」
「病気じゃない、あんなの。だって触った瞬間皆倒れてたじゃん。 それに変わった匂いが街中に....なんだか潮くさいよ」
桜色のドレスに銀の髪を結って女装した少年は 鼻をひくつかせて犬のように頭を振った。
「大丈夫かなあ、お店や友達は...」
「皆神殿の方へ避難してるそうよ。あたし達も行きましょう」
「無理だよ。ここ森の方向だから神殿からずいぶん離れてる。 絶対変な青白い連中に見つかっちゃうよ」
ふたりは街から森へ向かう外れの路地に立っていた。 橋を渡れば森や泉の静かな自然公園への小径だ。 だがそこも祭りで飾られたくさんの人が集まっていた。
「あれ?嘘!!」
ふたりがいざ渡ろうとした橋から煙が出ている。 橋の向こうにいる者が火を放ったのだ。
「ち、ちょっと何してんだよ!」
銀の髪の女装少年は大声で呼びかけた。 だが橋の上は煙が激しく流れ出し、応える者はおろか姿も ろくに見えなくない。
「きっと逃げて来た人達よ、あれ」
「仕方ない、乗って」
少年はそう叫ぶとドレスを脱ぎ捨てた。 彼は深呼吸すると頭を振り全身を震わせた。 ゆっくりと口元が裂け上がり、豊かな銀髪は 華奢な全身を覆い尽くすようにざわざわと質感を変えながら 広がって行く。
「イ、イザック..」
年配の女が少したじろいだ。 目の前の少年は大型犬のような姿だがどこか 顔に人間の面影を宿している。 両のふたつは金の瞳。
『獣人』の少年は頭を女に押し付け背中へ誘導した。 重い。 ギャッと小さく吠えはしたが銀灰色の狼は踏ん張って持ちこたえた。
「ごめんね。ダイエットしなくち...きゃっ!」
狼は女を乗せて走り出した。 しかし狼と言ってもまだ若く小さい。 お世辞にも軽いと言えない女を乗せて走る馬力もなく 慣れない乗り手は必死で喉や胸にしがみついて苦しい。 何より走る為に必要な呼吸が激しい煙や熱風で遮られ あっという間に前のめりに転倒してしまった。
「あたし自分で走...熱ッ!!」
自ら走ろうとした女が滑って倒れた。 木で出来た橋に油がまかれている。 風が火の粉を運ぶ度にあちこちで焔が上がった。
「おい!何やってるんだ!!」
ようやく向こう側の人間が彼等に気付いたものの 早く渡れ、と叫ぶ以外なす術もない。 鼻が利く狼にとって煙や熱風は辛かった。 眼も開けていられない。 普段、よく歩くほんのひと走りの橋がまるでサーカスの 火の輪くぐり。 そしてまた、そこはいつもブルーがブツブツと独り言を呟いては うろうろしていた迷い橋でもあった。
『渡れなきゃ死んじゃう....』
咳き込む女のスカートをくわえて灰色の狼が立ち上がった。 一歩踏み出す事すら絶望的に熱風と煙が阻む。
せめて風さえ反対に吹いてくれたなら... 青空の下にたなびく煙。 それはすべて灰色の狼に向かって吹いて来る。
「も...もうだめイザック行って...」
女が咳き込みながら呻いた。
「あたしはおデブさんだから後から行くわ」
狼は無視してスカートをくわえたまま歩き出した。 ズルズルと移動して行く。 人間が立つ位置よりイザックの頭が低かった事も幸いした。
『喉が焼ける....』
狼の呼吸は熱風を吸い込んで悲鳴のような音に変わっている。 銀灰の長い毛並みはあちこちが焦げていた。 対岸の者はとうに駄目だと諦めていたし、橋を落として自分達の安全を 図る事の方が大切だった。
「遅れて来たんだ、仕方がない...」
誰かがそう呟いた時。 青い雲ひとつない空にぽつんと黒い染みが現われた。
「なんだ、あれ?」
ひとりの男が空を指差して見たそれはみるみるうちに大きくなって 巨大な黒い鷲の姿で下降してきた。
「わあっ!なんてデカい鳥だ!」
それは通常の鷲の2倍はあっただろうか。 黒い羽に金の眼の怪鳥は高い場所から真っすぐイザック達に向かって 降下し、激突寸前で目的の対岸へ方向を変えつんざくような叫びをあげた。
「ああ..」
黒い鳥の声とその大きな翼の起こした風は一気に焔と煙の方向を変えた。
今だ!!
灰色の若い狼はもう一度しっかり咳き込む女の服をくわえなおし 渾身の力を足に込め、歩き出した。 今度は息を吸い込んでも大丈夫だ。 そう確信したイザックは乱暴ながらひとりの人間を引きずって 一歩一歩しっかりと進み始めた。
黒い鳥は不思議な『声』を上げながら何度も狼の上を旋回した。 彼等が橋を渡り切るまで煙や熱風は行く手に向かって吹き 待っている人々の方が避けて逃げ出した程だった。
ようやく灰色狼の足が土や植物の感触に触れた瞬間、『彼』は倒れ込み そのまま人の姿に戻っていった。 引きずってきた女はあちこち傷だらけになっていたが 焼かれるよりはマシだっただろう。
「大丈夫か?」
あちこち火傷した素っ裸の少年に人々は水をかけながら 口々に言った。
「獣人は力があるからこんな時には頼りになる。 あんたが間に合って良かった」
「悪い病だか妖魔だか何もこんな祭りの時に...」
「街はもうダメだ。変な連中でいっぱいになっちまった。 神殿はさっさと閉めちまって誰も入れようとしないから わしらはここで自衛するしかない...」
イザックが起き上がって焼け焦げた髪をぐしゃぐしゃ掻いた。 傍に大きな黒い鳥が佇んでいるが、街の者は危害の有無を図りきれず 遠巻きに見ている。 軽く青年の背丈はある巨大な鳥だ。 黒い鳥は燃えるような金色の瞳でイザックをじっと見ていた。
「あれ...」
黒い鳥の足下に何かが絡まっている。
「ねえ、これ!見て」
自分の行く先を先導して飛んだ鳥に少年は躊躇なく近付き ありがとう、と笑いかけ足下を覗き込んだ。 怪鳥は見動きすらしない。
「この鳥、神殿の紋章のお守り持ってる!」
人々がいっせいに振り向いた。 まるでゾンビばりな出来事の連続。 神聖な存在には藁をもすがる心境だった。 獣人の少年に助けられた女が服を抱えて飛んで来た。 それは女物だった...が裸の少年にひっかぶせ 彼の名を大声で呼んだ。
「イザック! いつまでそんな格好をしてるの。 ちゃんと隠しなさい!コラ!」
「あ、いやああん」
少年はいつものようにふざけてクネり、スカートを身につけた。 怪鳥はそれを見るや否や、一声叫ぶと羽ばたきして 青空へ飛び去ってしまった。
「あ、待って...あれ? もしかして怒らせちゃった??」
せっかく神聖なシンボルを持った存在が来たのに、と 人々は皆、憤った。
「女神の使いになんて失礼な!」
老人が口から泡を飛ばして怒鳴る。 流石にイザックもしょんぼり黙り込んでしまった。 途端にあちこち火傷の痛みが襲って来る。 年配の女が彼の髪を手櫛できれいに整えてやりながら 慰めた。
「気にしないの、イザック。 そういえば思い出した...どこかの風習で体の弱い男の子に 女の子の格好をさせて長寿を祈る、ってあったわね... あんた、とっても優しい男の子よ。 だからきっと女神が助けて下さったんだわ...」
イザックは黒鳥が飛び去った方を眺めながら少しだけ笑った。 後ろの自分達が渡ったあの橋は真ん中で焼け落ち、対岸では遠目からも 青白い人々がゆらゆらと夢の行進のように行き来していた。
空は青く雲ひとつない。
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