目次|前ページ|次ページ
ヒダルゴからしばらく街道を進むと、埃っぽい石畳もぞんざいな道に出る。
ブルーもかつてこの道を通ってヒダルゴの街に入った。
その頃はまだ春には少し早かった。
今は初夏。
花を終え新緑が鮮やかに背を伸ばすシーズン。
牧場だけでなく、殺風景な街道にもその緑は高らかに息吹いていた。
いつもなら馬車や旅人の足に砂埃が踊る道も
この季節ばかりは、小さな雑草が遠くまでその緑を続かせている。
小さなカフェはそんな街道の脇に唐突にあった。
本来、ごく普通に営業していたであろう旅人達の休憩所。
無人がしばらく続いたせいか砂埃でくすんで見える。
緑のラインも建物の周辺からぱったりと途絶え
赤茶けた砂や転がった石で殺伐としている。
そんな風景にブルーは立っていた。
陽も高い晴天。
彼はいつものフードを取り去り建物の外にいた。
長い髪はほとんど白に近い水色。
肌の色も瞳の青も薄く、全体に色あせた感がある。
ただ、頬の傷跡だけは跡形もなく、そしてその立ち姿は
いつもの陽を避けた前屈みではなかった。
まっすぐに前を向き、やや顎を天に仰向けた姿勢。
彼は砂埃の舞う中にじっと立ち、太陽を見ていた。
「お待たせしちまって...」
街道からひとりの男が声をかけた。
茶髪のやや小太りで鼻の下に髭をたくわえた中年男。
彼は緑のラインから、赤茶けた砂地を踏みながら入って来た。
肩にはいくつかの瓶が覗いた荷物。
ブルーは何も答えず空を見たまま動かない。
「いや、待っていたのは私の方ですがね。
あなたが来られるのをずっと待ってましたよ。
この建物はすぐに直させます」
髭の男は荷の中から透明な瓶を取り出して笑った。
ようやくブルーは振り向き、彼を見ると建物に入って行った。
後に髭の男が続く。
彼の手にある瓶には液体が入っていた。水のように見える。
ブルーは暗い室内の扉を開け、椅子に腰掛けた。
「では...」
髭の男は室内に転がったバケツを取ると丁寧に埃を払い
瓶の水を注ぎ始めた。
何本かの瓶が全て空になるまで彼は注ぎ続けたが、小さな古い木製のバケツは
いつまでたっても水が溢れる気配もない。
ブルーは黙ったままそれを眺めていた。
以前、ブルーはこの男に会っている。
ヒダルゴに入る前、妙な雛鳥を売りつけた物売りだ。
そのせいでブルーはカノンに大馬鹿者の烙印を押される羽目になったのだ。
どちらも忘れる程そう時間は経っていない。
それでもふたりはまるで、主人と従者か何かのようにしか見えなかった。
ブルーにお前は臭い、風呂に入ったのはいつだ?と問いかけたのは
間違いなくこの髭の男だ。
その時、彼は自分の事を『アルファルド』と名乗っていた。
ブルーもまた、胡散臭い親父だとぞんざいな態度でへらず口を叩いていた....
「まだあまり集められませんでしたが、焦る事はありません。
順調です。ご心配なく」
アルファルドが注ぎ終えた瓶を丁寧に端に並べた。
ブルーは沈黙したまま、何かを待つようにバケツを見ている。
「ああ...」
唐突にアルファルドが声を上げた。
仄暗い室内の天井から、雨漏りのように水が一滴、また一滴と落ちてくる。
それはだんだん量と激しさを増し、しばらく続いた。
外は先刻となんら変わらず晴天。
ブルーはその滴り落ちる水の中に座っていた。
数分のち、水滴は室内のあちこちに水溜まりを残して止んだ。
時折ポトリ、ポトリと水の音が響く。
ブルーの足下にもいくつか小さな水溜まりが出来ていた。
「まるで取り残された磯のようですな...」
アルファルドはそれだけ言うと、椅子の男に一礼をして出て行った。
座ったままのブルーは見向きもせず、何事か小さく呟いた。
室内の水溜まりから青く小さな焔が立ち上がる。
まだあちこち濡れて水滴の音が響く室内に、青い火が反射して揺れる。
それは蝋燭の灯りのようにブルーの顔を照らし出した。
青い光に浮かび上がったその顔は、感情というものを
微塵も持ってはいなかったが...
アル・ファルド
別名 『Cor Hydrae』
「蛇の心臓」の意味を持つ。うみへび座にある二等星の名称。
その頃、ヒダルゴでは夜通し続くお祭り騒ぎで賑わっていた。
ルーは夜も眠ったのか眠らなかったのかはっきりしない頭で
あちこち引き回されていた。
着飾った服の重さ、窮屈さにげんなりする。
傍には豊満な胸の女神、少し離れて黒髪の司祭、その他何故いるのかよくわからない
たくさんの人、人、人、プラス馬。
皆が同じように自分を見ては微笑み頭を下げた。
青い髪の小さな少年はブルーと同じように、誰かの言う事を黙って聞くのが一番嫌だった。
最初はムカムカして中指を立ててみたり、鼻の穴をこれ以上無理な程広げてみたり
拝む老人にあかんべえをして見せたりしていたが、あまりにも数が多い。
しまいにはどうでもよくなってしまった。
皆、何をしてもただひたすら拝むのだ。異様な微笑みの渦。
頭に来て彼は鼻くそを掘って飛ばしてみた。
ひとりの男が目ざとくそれを見てあわててキャッチする。
彼等に伝わっているのは、目の前のこの少年がありとあらゆる福を
約束している『生き神』だということ。
生き神ならば髪の毛一本から吐き捨てた唾に至るまで価値がある。
彼はそう判断し、大事そうにルーの鼻くそをハンカチに包んで持って帰った。
「...マジかよ」
ルーは調子に乗ってそれなら、とズボンを降ろしてささやかなものを放り出した。
中途半端な小便小僧。
流石にこれは後ろからカノンの手が、素早くズボンを引っぱり上げ未遂に終わった。
思わず睨みつけたが、カノンの表情が渋面になっていたのを見て
唯一のまともな反応だ、と少しばかり安心した。
「あはははは!!」
背後を笑い声が通り過ぎた。
ざわめきや歓声に混じって誰の声だかよくわからない。
ルーが振り返った一瞬、あの銀色と桜色の女神が笑いこけながら手を振ったのが見えた。
だがそれもあっという間、押し寄せては流れて行く人々やパレードの波に消えた。
一方デライラ、豊満な胸の黒い女神は
一番顔立ち、体共に端正な若い神官を見つけ、猛禽がげっ歯類に襲いかかるように
アタックしている。ルーの事などすっかり頭から消えているようだった。
ルーはもうすっかり面倒になって、大欠伸を連発しながら揺られて行った。
終わらないパレード、街の大通りを何往復したかも覚えていない。
途中で降ろされては熱狂的な歓声が響くのを他人事のように聞いていた。
すべては勝手に誰かがやってくれる。
関係ない。
ルーは取っておいたパンを探した。
飾り帯の間に半分つぶれかけたパン。
桜色の女神の胸にあったそれを、彼はけらけら笑って平らげた。
カノンはにこやかな表情をキープしたまま見ていたが
探し物をするルーの胸元に渡したものが無い事に気付いた。
この人出の中、置き去りにされたルーの素朴な衣服と聖印はもう、探しようもない。
当人はそれすらまだ気付いてもいない。
それでもカノンは表情も崩さず、軽く己の胸元に手を当てただけだった。
「きれい....」
その頃、聖印はひとりの子供に拾われていた。
小さな幼女は誰にも見つからないように、急いで人の少ない小径に入った。
兄弟でもきっと彼女からそれを取り上げてしまうだろう。
幼女は複雑な文様を施した銀細工を光に当てては
きらきらと光らせてはしゃいだ。
何度も取り出しては空に向け、陽光を反射させ壁に虹のような
光を映し出して遊んでいた。
数分程それを繰り返した頃だったろうか。
空に黒い染みが突然湧いた。
その染みは大きな鷲のようで幼女の近くまで舞い降りてきた。
鷲のような黒い鳥は、しばらく金色の両目で
彼女の様子を見つめていたが、聖印が高く空に差し上げられた瞬間
待っていたかのように素早くかすめ取り、青空高く舞い上がった。
両親が子供の悲鳴に駆けつけた時、既に鳥は遠く空の彼方
その聖印の存在や意味さえ知られないまま
何処かへと消え去っていた。
人の噂話はすぐに広がる。
奇跡の子供の話は神殿にも伝わっていた。
正確さを著しく欠き、都合の良い解釈を加えられたそれ。
神官達は女神とやってきた子供に美しい装飾品と衣類を用意した。
デライラは当然のように『奇跡の子供』とセットで恩恵にあずかった。
奇跡の事は知らなかったが、彼女の頭脳は素早くブルーが連れていた子供に
利用価値を見いだし、計算して動いた。
青い子供、ルーは相変わらずぼうっと柔らかい女の肌に惚けている。
別にグラマー美女にわざわざ逆らう理由もなかったし
御託を並べる男にあれこれ指図されるくらいなら美女に付く。
ただそれだけの理由で小鬼のような悪ガキはおとなしくなった。
何も知らない神官は理想通りの奇跡に小躍りしながら急遽
祭りのプログラムを変更した。
「あの子は傷を癒すそうだが」
「病気の者を起き上がらせたそうだ」
「歩けない者が立ち上がったと聞きましたが」
「司祭の説教の後にあの子供を出そう。
病気の者を集めろ、負傷者もだ。なるべく重い者にしろ。
ああ、献金を集めるのは奇跡を一度見せてからにしよう。
恩恵を受けたい者は後日改めて来るように通達しろ。
勿論パレードで回るのも忘れるな」
「献金の下限はどうします?」
「バカ者、神が金額を設定してどうする。
そういう時はどうするべきかよく知っている者に任せろ。
品位を落とすな」
若い新人らしき神官に太った中年の司祭がもっともらしく言い渡す。
後ろで数人の神官達が密かに笑った。
「つまり上品にやれっていう事さ...」
黒髪の若い司祭、カノンは離れた場所でルーを見ていた。
左手には愛用の呪言を刻み込んだ銀の棍。
いつもなら白い手袋に銀棍という出で立ちは暴力的だと苦言が出る。
夜間の外出に限って護身用、と称して黙認されていた。
彼の祖父が神職の高位にある事は一握りの者にしか知らされていない。
それでも敏感な者はカノンが特別扱いされている事に気付く。
何故なら彼が夜間、神殿にいる事は珍しかったし、酒場で淡々と酒を飲んでいる姿は
街の者なら日常の光景だ。かと言って気付いたところで
なまぐさ坊主は珍しいものではなかったからどうという事もない。
うまく立ち回る神官や司祭は女を囲う者までいる始末だった。
尤もカノンの場合、酒場の女に言わせれば『唐変木』ということであったが
酔っぱらいのケンカを笑っただけで片付ける司祭として
彼が来ると歓迎をもって迎えられた。
「あんた、ずいぶん大事にされてんじゃない。
ブルーのとこに行くよりここにいた方が美味しいんじゃない?」
デライラがそっとルーに耳打ちした。
「ブルーって誰?」
「ははん。あんたここにいる気なわけ?とぼけちゃって
ま、あたしはその方がわざわざ街を出てクソ田舎道なんか
歩かなくてすむから助かるわ。
親父にはあとでそう言っとけばいいわね」
カノンはにこやかにそのやり取りを見ていたが何も言わなかった。
ナタクが頭を掻いて呟く。
「そやな。カノン、ルーくんは神殿から出すな。
正体はわからんばっかやけど、その方が無難かもしれん」
「ブルー殿に会ったのか?」
笑顔で顔を反対に向けたままカノンが尋ねた。
「それなんやけどな。
カーくん、まじめな話なあ、お前は関わるな」
「この期に及んで若造扱いか?」
「そうやない。ブルー殿がおるとこは管轄外やし、わざわざ行く事はない。
ルーくんさえここで動かんならひどい間違いは起こらんやろ」
「それは僕の手に余るという事か」
「お前、どう思う」
カノンはナタクの方に向き直るときっぱり、繰り返した。
「いつまで若造扱いするつもりだ」
「お前がルーくん、ちゃんと扱えるまでや。
ガキにガキは扱えん。なんぼ腕上げてお前が強うなっても
そんだけじゃオトナの男の色気は出んのよお」
ナタクが小指を唇に当て、しなを作って見せた。
普通にゴツいオカマのようで男の色気云々の説得力はない。
にこやかだった司祭は露骨に嫌な顔をした。
「誰が色気の話をしている。真面目な話だ。
僕は今までずっと、それなりにやってきたつもりだし
彼と同じ位置に立つ事以外、何の目的も関心もない」
「俺もマジやてさっき言うたやろ。
お前、まだわかっとらんのか」
「だから僕はヴァグナーのようになる事以外...」
珍しく異議を訴えるカノンを酒屋は半オカマのまま遮った。
「邪眼持ちの根性曲がったクソガキ叩き直したんは誰や?」
「....」
カノンは手の中の銀棍を見て沈黙した。
「まっかいマジで言うで。厄介ごとが管轄外におるなら放っとく選択もある。
やっと元に戻ったお前にはなんの保証もない。
自信あってなんぼ大丈夫や思うても予測でコトは動かんから
あん時、俺は間に合わんかったんじゃ」
黒眼鏡をずり上げると酒屋は静かに言葉を締めくくった。
「お前が一番ようわかっとるはずやろ...」
カノンは何も言わず銀棍を見つめている。
刻み込まれた呪言は持ち主の過去。
全体に渡っていくつものそれが繊細かつ、注意深く刻み込まれていた。
一番古い物はかつて、ある人物から教わった護りの呪言。
その人物も既に亡いが、時間の経過をカノンは自分なりに淡々と刻んでいた。
ヴァグナー・ハウライト。
かつて邪眼を持ち、この世を氷のような目で見ていた少年を
助手に連れ、生き、死んだ男。
少し間を置いてカノンはぽつりと言った。
「ああ。あの時の事は忘れはしない。自信も保証もない。
だが手伝える事があるなら、いつでも言ってほしい....」
ナタクは小さくすまん、と呟くと煙草に火をつけながらルー達を眺めた。
既に神官達が迎えに来ている。
彼等は勿体ぶった仕草でいかめしいデザインの長衣を差し出し
高価な宝石があしらわれた首飾りをかけるよう青い子供に促した。
ルーは人前でも意に介さず服を脱いだ。
彼は素っ裸の胸にかけられた大きめの聖印を
脱いだ服と一緒に外してしまったが
それをかけていた事さえ気付かなかった。