草原の満ち潮、豊穣の荒野
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71 113人目のオンディーン

舞台は変わって深い深い海の底。


人魚の娘が10人分の食事の支度に追われていた。
古いながら頑丈な沈没船を柱代わりに作られた深海の住居。
暖かく穏やかな海流に豊かな海藻、たくさんの魚の群れ。
食べ盛りの子供7人と大人三人分の食卓。
人魚の娘の子ではない。
バラバラの年齢、種族の子供達が次々に取って来た貝や魚
拾って来た使えそうな物を抱えて飛び込んで来る。

「ちょっと、ディオ!遊んでないで
老司祭様を呼んで来てちょうだい!」

年長の少年を彼女は呼び止めて叫んだ。

「遊んでるんじゃないよ、本を読んでるんだよ」

ディオと呼ばれた少年が崩れかけた本のページを大事そうに閉じて
叫び返した。年の頃は14前後。
紺色の肩までの髪、ヘーゼルナッツ色の瞳。
肌にはところどころざらついた突起がある人魚の少年。
下半身には堅いヒレと尾。
母親は人魚だが父親がわからない。
よくある海の孤児のパターンそのままの少年はこの孤児院で
育てられている。

「なんでもいいから老司祭様にお食事だって言ってらっしゃい」

「わかったよ」


小さな海人の少女がくすくす笑って言った。

「おじいちゃまならお酒飲んで寝てるわ」

「もう、体に悪いから飲まないで下さいって言ってるのに」

「聞くわけないじゃん、あのじいちゃんがさ」

「お黙り!ディオ!」

少年は肩を竦めて笑いながら台所から出て行った。


「ねえ、アメリア、どうしていつもディオって呼ぶの?」

小さな少女が台所に立つ人魚に尋ねた。

「ミオ、そんな事よりそこの器を取ってちょうだい。
その青いお皿じゃないと母様は食べて下さらないから」

「おばあちゃま、椅子で歌ってるわ」


人魚は一瞬料理の手を止めた。

「...ええ、そうね。母様の歌は昔と同じ」

「なんの歌なのか聞いても教えてくれないの」

「仕方ないわ、おばあちゃまの耳は聞こえないの。
教えてくれないわけじゃないのよ」

「でも歌ってるよ」

「そうね...」


別室の揺り椅子で少し年を取った人魚が歌っている。
青い瞳、ゆらめく青く長い髪。
彼女は歌ばかり歌っては時折独り言を繰り返す。

『...青い髪のね...強くてとても優しい人だった...』

歌は子守唄。
彼女がかつてひとりの赤ん坊を捨てた時、立ち去りながら
振り返り振り返り歌っていた子守唄。
その事や独り言の意味を知る者は誰もいない。
心を閉ざし、老いた人魚は我が娘すらいない世界に生きていた。
そこには青い鬣のいかついが優しげな目をした男と
小さな赤ん坊がひとり。
彼女はそこで赤ん坊を抱いては子守唄を歌い続けて生きている。




「老司祭様、起きてよ。食事だって」


ディオが近所の酒場のカウンターでのびている老人を揺すった。

「最近じいさんこのまま起きないんじゃないかってヒヤヒヤするよ」

酒場の主人が苦笑いでグラスを磨きながら言った。


「老司祭様、起きててもボーっとしてるから危なくて心配だよ」

「ま、酒飲んでここにいる時はちゃんと見てるよ。
心配はいらない」

「あれ?」

「どうした?オンディーン」


少年が老人を何度か揺すった。
長い白髪と髭の老人はいつものように酒の入ったグラスを握ったまま
眠り込んでいた。

「老司祭様...」


再び少年が老人を呼んだ時、ごつごつした長い時が刻み込まれた皮膚の手が
ゆっくり落ちた。グラスが床で砕ける音が響く。


「老司祭様!!」
















夢を見ていた。

覚えられない程長い時間の夢。
既に己の名前すら自分でも忘れてしまった老人。
彼は朧げながら覚えている事をほんの僅か思い出しながら眠っていた。

そんな彼にも決して忘れられない事があった。
それはある若者が彼に言った言葉。
そして彼の名前。
その時の出来事だけの為に老人は長い夢を歩いてきたのだ。



あの若者はこう言った。



『死んでしまった彼等こそが犠牲だ。
集められた人々は昔話を信じて自らやってきた。
空へ、南へ行こう、と。
遥かな地上へ。

遠く、道は長いけれど、誰かが行きつけば
あとに皆が続いて行ける、と。

そう皆が信じたからこそ彼等は身を投げ出して
実験台になったのだ。

地上で生きられる強い抵抗力、身を守り
荒野を切り拓く強い肉体と精神力。

困難を乗り越えて導く海流神のしもべ。
その誇りを彼等は命と変えたはずだった...』














「老司祭様!しっかりして下さい!!目を開けて下さい!!」


老人は指一本動かせなくなった体でかすかに一言だけ呟いた。


「オンディーン...お前は地上へ行きつけたか....?」











夜。




人魚の娘が用意した食卓は通夜のものに変わった。
永遠に眠った老人の腕に、訪れた誰かがそっと酒瓶を抱かせた。
騒がしい子供達は皆静まり返っていた。
全員老人があちこちから連れて来た子供。
人魚の親子もそうだった。
人買いから逃れて行く当てもなく、生活する術もなく狂った母親と
途方に暮れた娘に声をかけたのがこの老人だった。
そしていつしか、孤児達は7人になり賑やかながら穏やかな日々。


人魚の娘は兄の一件をどうしても許す事が出来なかった。
老人はそんな彼女に特に諭す事もせず酒を飲んでは
狂った母親人魚の歌を聴いて過ごした。
どんなに人魚の娘が兄の事で怒りをぶつけても黙って聞いていた。
娘は言いたいだけ叫び、泣き疲れて眠る事を繰り返すうち
過去の事として少しずつ荷物を置くように
整理できるようになっていった。

やがて彼女は老人を家族のように受け入れた。
小さな頃から母親の心がどこか遠くにある事を感じ続けていた少女。
兄を憎みながら、孤独に苛まされ続けた。

老人と子供の大所帯に年月を重ねた彼女はやがて恋をした。
近所に酒場を開いて老人の面倒を見ていた店主はまだ青年。
飲んだくれて眠った老人を迎えに通う人魚の娘と
海人の青年は、ふたりで将来の夢を語り合うようになった。




通夜で青年が娘に詫びた。
見ていながらすまない、と。

かつてこの老人に、彼の父親が世話になっていた事と
自分の名付け親でもある礼もあって
彼は田舎の辺鄙な地に酒場を開いた。
彼の父親は中央都の街でやはり酒場を開いていた。
かつてブルーに『おっさん』と呼ばれた親父である。



「仲人と赤ん坊が出来たら名付け親を、と考えていたのに...」


恋人とその父が嘆くのを見ながら人魚が言った。


「老司祭様ったら男の子には同じ名前しかつけやしなかったわ...」


ヒゲ親父が苦笑いで息子とその恋人に言った。


「流石に父親と同じ名前は付けなかっただろうよ。
全く面倒くさいとすぐ酒の名前を付けるからなあ。
なあ、オンディーン」

「僕の名前を考えるのが面倒だったわけ?」

「いや、じいさん、酒が何より好きだったからそうでもない。
俺も流石にあの若造にそう付けた時は呆れたけど...」


「アンディ、お義父様に泊まって頂くお部屋こちらに用意したわ」

人魚が話の腰を折った。


「アンディ?」

「はは、父さん、ここじゃ僕はアンディだよ。
その子も同じ名だから混乱するからね」

ディオが肩を竦めて見せた。


「アンディとはこりゃまた強引な...」


ヒゲ親父が息子にそっと耳打ちした。

「なあ、アメリアの顔見てるとよく似た奴思い出すんだよ。
そいつの名前がお前と同じっつうか、あのじいさんがな...」

「は?誰の事?」


「あ、ああ。いや、なんでもない。
それよりお前らいつ式をあげるんだっけ?
じいさん死んじまったけど別れる前に報告しとけ...」







ディオと呼ばれていた少年は地上へは夢を抱かなかった。
人工の灯がもたらす穏やかな気候の海を出る理由もなかったし
彼は何より大人になったら学校の先生になりたいと願った。
平凡な『オンディーン』は祖父のような老人の死に顔に呟いた。

「老司祭様、僕は学校の先生になるよ...」


平凡で穏やかな日常と人々。
老人の長い時間はそこで途絶えた。
彼が長い長い夢を出た日。






『...祈りが誰かの幸せを願うのなら
それは化学という名の方法で叶えよう。

...信仰が誰かを想ってなされるのなら
それは世界を護るものでいられるだろう。

そしてそれらはすべて誰かの犠牲など
必要としてはならない....』



70 砂塵の荒野 1〜浸食

ブルーは小さなカフェの前に立っていた。
深く被ったフード姿はいつもと変わりない。
背後の歩いて来た街道に赤茶けた埃が舞い上がる。

「頼まれてたもんは運んであるよ」

街道の脇にある空き地に唐突に立つカフェ。
正確にはカフェだった空き家。
街道に舞い上がる赤い砂塵にざらついて寂れた看板。
入り口の階段はところどころ踏み抜かれたまま。
窓ガラスは割れてこそいないがたっぷりと枠に土がたまっている。
階段に腰掛けていたごつい人相の男がふたり、足下で煙草を踏み消すと
ブルーに鍵を投げ寄越した。

「ま、少しばかり修理が必要だろうが
家財道具は前の奴がそのまま残してある。
水はそこに井戸があるから汲むなり引くなり好きにしな。
ま、馬が飲んでたらしいけどよ」

ブルーが鍵を差し込むと、ドアはきしんだ音をたてながら開いた。
差し込んだ光と流れ込んだ風にたっぷり埃が踊る。
積まれっぱなしの食料品や酒瓶、寝具。
枯れたままの一輪挿し。
ブルーは椅子の埃を払いもせず腰掛けた。


「アルファルドがそのうち顔出すってよ。
それとそこに置いた小瓶、そいつは酒じゃねえから間違えるなよ。
どこかは知らねえが海の水を適当に詰めたんだってよ。
頼んでたろ」


男達は面倒そうに言うとそのままブルーの顔を見て固まった。
ブルーの青い目がふたりの男をじっと覗き込んでいる。
感情の無い目。
男がひとり突然倒れた。
もうひとりは脂汗を垂らして震えていた。
顔を反らしかけて男は短い叫びをあげ、倒れた。
ブルーは微動だにしていない。
彼等には外傷もなく呼吸もあった。動かないだけで。


少しばかりそのまま転がっていた男は、やがて何事も無かったように立ち上がると
もうひとりを起こしブルーに軽く頭を下げた。

頭を下げられた青い髪の男はいつのまにか両の手を握って立っていた。
彼はそのまま手に何かあるような仕草でテーブルに転がったグラスに目をやった。
ひとりの男は素早くそれを察するとグラスの埃を拭い差し出した。
もうひとりはさっき己が海水を詰めてある、と言った小瓶をグラスに注いだ。
掌を握った男はグラスにその手をひとつずつ開いて何かを滑り落とし
飲み干した。

「まだ、たりない」

彼の呟きにふたりの男は顔を見合わせると素早くカフェを出て
どこかへ立ち去りそのまま戻ってこなかった。
ブルーは夕方近い陽の光が差し込む窓の外を眺めている。
まともに陽の光を浴びる彼にはなんの変化も起こらなかった。

やがて日が沈み星空になった。
近くに人家は無く、カフェはおろか街道にも灯りは無い。
星だけが瞬いている暗闇。
ナタクは街道の壊れかけた看板で遮るように立ち
じっと見ていた。
灯りの無いカフェの上空を黒い鳥がふたつの金の目を
星のようにちかちかさせながら旋回している。




「憑かれたんとちゃう...
ありゃ自分から呼んだんや...」


ナタクは黒眼鏡の奥の目で、起こった出来事を見ていた。
普通の人間の目には映らないものがそこにあった。
いくつもの黒く長い手のような影が、波のように近付いては
ある地点を境に引き戻される。
空に向かって噴き上がっては限界のように崩れ落ちる人影。
カフェを中心にゆらゆらと揺れては消える。
黒い鳥はそれを避けるように旋回していたが、やがて何処かへ飛び去った。

「こらあかん」

ナタクは急いで街道に飛び込んだ。
いつのまにかブルーがカフェの外に立ってナタクを見ていたのだ。
扉が開けられた気配もない。
彼はどこまでも感情のない穴のような目で、黒眼鏡の竜人の背中を見ていた。
ブルーの青かった髪は下から薄い白銀の青へ変わり始め
顔の傷は跡形も無い。

ナタクは見えない手が届かない所まで転がるとそのまま走り出した。
翼は用心して出さなかった。
そこからヒダルゴまで歩けば半日はたっぷりかかる。
彼は充分な距離まで離れると、ようやく翼を使って舞い戻った。


「聖印渡したんはルーくんで良かったかもしれんな....」

ナタクは顔をしかめブツブツ呟いた。

「ことによっちゃルーくんも....」


彼は嫌な想定を頭の隅に押しやるとカノン達の姿を探して
夜も尚賑わう街を走った。
すぐさま彼等は見つけられたが、ナタクの目に飛び込んで来たものは
派手な女神の胸に挟まれてふにゃふにゃになっているルーだった。

「ええかげんにせえ〜」

酒屋がどさりと座り込んで呻いた。
カノンは横目でナタクを睨んだが何も言わなかった。

「アホはどうやらほんまもんらしいわ...
カーくんも平和ボケ返上やで...ってわかっとるか」

カノンの手には何処から出したのか愛用の銀棍。
銀に刻まれた呪言が召還を受け、現れた名残の光をかすかに放っていた。

明るい夜。

花火がいくつか上がっては群衆が歓声をあげる。
踊り子の手足で鳴る鈴の音、飾られた駿馬の嘶き。
酔っぱらいの放歌...
ブルーがよく訪れていた静かな泉は岸辺の灯りで水面を
赤、青、緑と華やかに彩られている。

何もかもが暗闇の静寂のカフェとは正反対だった。