ぶらんこ
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仕事を辞めることになった。今の職場よりも自宅に近い、ある病院に勤めるのだ。 ただひとつ、懸念することがあった。 もう随分前だが、あるDr.の診察を受けたまま再診に行かずじまいで放ってある問題があった。 新職場であるその病院で、その医師と顔を合わせずにいることは無理だろう。 さてどうしたら良いものか。。。
再診の予約をとるべく、思い切って電話をかけた。受付の女性から看護師に替わり予約日が設定され、仕事の始まる少し前に受診が決まった。
しばらくして、その医師から電話がかかってきた。 「実はこっちから連絡しようと思っていた矢先だったんだ」
一患者に対し、医師からわざわざ再診を促すなんてことはまずない。それほど酷いケースだったのか? 「いや、きみの体調のことじゃない。頼みたいことがあってね。 近いうちに会えないだろうか。美味しい店を知っている。こころさんも連れて来るといい」
彼とは面識があった。若い頃に一緒に仕事していたのだ。新米看護師であったわたしに彼は色々とよく教えてくれた。 他のどの医者よりもとっつきやすかったせいもあり、とても親しくさせて貰った。もちろん個人的に付き合ったということではなく。
約束の場所へ行くと、彼はスーツ姿の老齢の男性数人と一緒だった。 彼らはわたしたちに気付くと、彼の肩をポンポンと叩き、去って行った。
「帰りのバスを予約しておくよ。そのほうが安心だろう。ここで待ってて」 バス?バスで帰れるんだっけ?何かが間違っているような気がしたが、「良かったねぇ〜これで帰りの心配はなくなった。良い人じゃん」 こころがにこにこ顔で言うので、まっいいか、と思う。
小さなランプの灯るテーブルで、橙色のやわらかい光に揺れながら、彼は言った。 「この本のことは知っている?」
題名は聞いたことがあるような気がしたが、読んだことはなかった。内容も知らない。売れている本なのかどうかもわからない。 そう答えると、彼はほっと安堵の表情を見せた。
「良かった。読まなくていい。読まないほうがいい」 その後の彼の話は、にわかに信じ難かった。この人ちょっとおかしくなってしまったのだろうか?
新しい職場では、彼と顔を合わせることが殆どなかった。 科が違うからかと思っていたが、それにしても妙だった。もしかしたら出勤していないのだろうか?
「あれが彼の言ってた子だよ。かなりの信頼をおいていたようだが・・・」 医者同士が遠くでひそひそと話している。どうやらわたしのことらしい。嫌な予感がした。彼はやっぱりここにはもう来ていないのだ。
ーこの本には何かが含まれている。そして僕もそれに含まれてしまったらしい。 彼はそんなことを言っていた。話を聞きながら、彼の周囲に黒い煙のようなものがじわじわと立ち上ってくるのが見えた。ような気がした。
しかし彼はわたしに何を頼みたかったのだろう? 思い出そうとするのだが、あのときの彼の言葉はどんどん小さくくぐもっていき、まったく聞こえなくなってしまう。
後ろから両腕をぐいとつかまれ、ぎょっとした。 「ここは危険だ。こっちへ」 誘導された場所は、古びた長屋の角だった。
来てくれてありがとう。きみなら来れると思った。 そう言ったのは、彼だった。 と気付くのに、少し時間がかかった。 彼は色褪せた格子柄の甚平風の上下を着ている。髪が長い。眼鏡をかけていない。 しかも・・・ちょっと若返った?この人わたしより10は上だった???
何、、、してるんですか、、、? おずおずと訊ねたが、彼は辺りを忙しく調べている。わたしの右腕を強くつかんだままで。
「あの本、読んでないだろう」 一瞬、それが質問なのか確認なのか断定なのかわからなかった。 「読んで、、、ません」 「それでいい」
わけわからーん!心のなかで叫んだ。 そのとき、彼の顔が少しずつ鋼色に光り、みるみるうちにそれに含まれていった。 顔だけじゃない。腕も脚も身体全体が鋼に包まれていった。波が砂浜を覆うように。
「静かに」と彼は言った(ように思った)。鋼の奥から声が発せられた。鋼になってしまっても彼は彼のままだ。 どう、、、しちゃった、、、 口にはしたものの、自分で愚問だと思い、最後の部分は言えなかった。どうもこうも、もうどうにもならんだろう。
突然、ずんっ と近くで鈍い音がした。 見ると、大きな岩が砂煙をはきながら横たわっていた。砲丸よりもふたまわりほど大きいか? その直後、ものものしい数の矢が辺りに刺さった。火を吹いている矢もある。
サイボーグみたいな姿の彼と、時代錯誤な戦術が、なかなか結びつかないが、そんなことは考えてられない。 とにかく彼と一緒にいよう。少なくとも、彼はわたしを殺そうとはしていない。
彼の鋼の体躯に隠れながら、あちらこちらを移動した。敵は相当な数だったが、彼にも同じくらい仲間がいた。 仲間はみな農民だ。鍬や鎌を持ってはいたが、石ころを投げて応戦していた。 彼だけが鋼の姿をいている。でも、誰もそれを不審に(不思議にも?)感じている様子はなかった。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。 あちこちで炎が燃え盛り噴煙があがり、怒声や叫び声が絶え間なく続いていた。 敵は圧倒的な強さでその差は歴然だったが、あちら側もかなり疲労しているのは明らかだった。
「どうだろう!ここらで食事休憩としようじゃぁないかー!」 鋼の彼が立ち上がり、大声で叫んだ。敵もすぐに了承し、やがて、皆それぞれが武器をおろし、どやどやと集まってきた。
そこは茶屋のような場所だった。 屋内外に、敵も味方も入り混じって座り、お茶をすすり始めた。 鋼の彼は、敵の頭首と思われる男と話している。彼の表情はうかがえないが、相手の男は大きな口で笑っている。 当然ながら休憩中は敵とか味方とかない。それは大昔からの高貴な決まりごとだ。
わたしはふたりを交互に見ながら、「やっぱり休憩は大事だね〜」と、嬉しく思う。
そして、自分の姿が黄金色に包まれているのに気付く。
ある老女が聴覚を失った。 元々、酷い難聴があり、補聴器でなんとかコミュニケート出来ていたのが、ある日ぱったりと聴こえなくなった。 それは、彼女の発する声が突然異常に大きくなったので周囲の人にもすぐにわかった。 諸検査の結果、医師の診断は、失った聴覚はもう回復しないだろうとのことだった。
彼女はこどものような女性である。 感情の表現がとても素直で、屈託がない。ユーモアのセンスもあり楽しい女性だ。 傍目から見るとややいき過ぎなほど華美な服装を好むが、それはいわゆる彼女らしさなのだと思う。 故・淡谷のり子氏ほどの貫禄はないが、彼女によく似ている。 独自の世界を行く。そんな老女である。
彼女には家族がいない。 生涯、独身だった。(彼女曰く「どの男性も自分には不十分だったから結婚を決断できなかった」らしい) 親戚はわずかにいるが、親しくはない。むしろ、疎まれている存在らしい。なぜなら彼女には莫大な財産があるから。
たまに遠いところから遠い親戚が訪ねて来ることがある。 「みんなお金が欲しいの」と彼女は言う、ときに憤慨しながら、ときに淋しそうに。 彼女には金持ち特有の雰囲気がある。人を使うことに慣れきった態度とでも言おうか。何かを頼むとき、それは依頼ではなく命令調となる。 しかし彼女自身はそのことにはまったく気付いていない。そのように育ったのだから仕方がないだろう。
多くの人はそんな彼女の態度に気分を害する。 そして、出来る限り彼女と関わらないよう努める。また、彼女をつまはじきにしようとする人々もいる。 そうすることで、彼女に報復しているかの如く。
これまで、そういう人たちによる彼女への「嫌がらせ」は、彼女には通用しなかった。 彼女に対し悪口を言っても、彼女の耳には届かなかったからだ。 人が彼女のことを噂しているとき、彼女はにこにこ笑って「ハァーイ!」と声をかけていた。
負の感情はどこからわき起るのだろう。 人の心に潜んだそれは、一旦表面に出ると、周りのエネルギーをも奪って、さらに大きくなる。 ひとりひとりのそんな感情が、混ざり合い絡み合い大きなうねりとなって、とうとう彼女を痛めつけた。
彼女の目に涙が光った。 しおれた花のように頭を垂れ身体をちいさくして、彼女は泣いた。初めて見る、彼女の打ちひしがれた姿だった。
彼女を打ち負かした(と思っている)老女たち数人はどんな気分だったろう。 幸せになったか?
そんなことはない。 彼女を抱きしめるわたしの背中に向かって、感情的な言葉を繰り返していた女性のうわずった声は怒りに震えていた。 けっして、しあわせに満ちたものではなかった。
自分の抱える不満は、何かを攻撃することで納まるものではない。 それは、自分自身を幸せに満たすことでしか、解決しないだろう。
わたしは彼女のことが大好きだ。 彼女は暮らしのなかで楽しみ、喜びを見つける天才だと思う。 車椅子の生活を強いられ、聴覚を失い、周囲の人に疎まれながらも、ちいさな発見に心から感嘆し、素直に喜ぶことの出来る女性。
そんな彼女の姿勢(性質)こそが、人が最も羨み妬むものではなかろうか。
住み慣れた家を離れ施設で暮らすという現実は、どの居住者にとっても辛い選択だったろう。 どんなに受け入れたように見えても、心から満足して暮らしている人はいないだろうと思う。
攻撃する側の老人たちの心の痛みも忘れてはならないなぁ・・・。
老人になったら皆、仙人のようになって、強い風にも嵐にもなびかず平穏に暮らすのだろう。 ーというのは、わたしの勝手なイメージだった。
年寄りには年寄りの世界があり、色んな刺激を受けては何かしらのアクションを起こして生きている。 わたしたちと、なんら変わりはない。
このような辛い出来事もまた、それぞれの暮らしに心に色が付いて、豊かに彩られる。 ということなのかもしれない。
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