ぶらんこ
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こころさんはインターナショナル時代の友人と今でもたまに電話やPC上のチャットで交流を続けている。 また、フェイスブックだのマイスペースだのというSNSのおかげでお互いの近況を簡単にシェア出来るらしい。
昔々、こころが保育園を卒園するときのこと。担当の保母さんが写真やイラストに楽しい言葉を添えてカラフルなアルバムを作ってくれた。 今の子達は、「それ」を自分で作っているようなものだと思う。自分の好きなもの(だけ)を、好きなように。 考えてみるとなかなかマメな作業だ。そこへ投入する気持ちの量・強さというものも相当なものだと思う。 とは言え、適当に力を抜いている様子もあり、それはそれで面白いなぁ・・と思いながら見ている。 ・・・余談だった。
さて、この前彼女はある友人から「変わった」と言われたらしい。Less Japanese=日本人らしさが少し消えた、と。 (チャットでは英語・日本語どちらも使っているようだが、どのように使い分けているのかはわからない)
それを聞いて、なるほど会話のなかでそういうの感じるようになったんだ、成長したモンだなぁ・・・と感心していたら、 「マミィはどう思う?わたし、変わった?」と訊かれた。
変わった・・・・・・・・かどうか・と言われると・・・うん・変わったでしょ。いいことじゃん。 すると彼女は、えーーー、、、少し困った顔をした。少なからずショックを覚えたようだ。 (はて、それはどういうことなのか)
日本人らしくなくなった、ということじゃない。その辺りは変わってないと思う。 けど、あなたが英語を喋ってるときはアメリカ人的だなぁ・・と思うよ。発想というか思考というかね。
彼女はしばらく考えていたが、妙に納得したようだった。そして、思いついたように色んなことを話し始めた。
最初に日本に引っ越したの、本当はすごく嫌だったけど、今はずっとあそこにいなくて良かったと思っている。 もしも引っ越さなかったら(・・って、こういうのマミィは考えないと思うけど、わたしはダディと一緒だからたまに考えるのよ) わたしは今のわたしとは違って、それこそ本当に100%American-Teenaigerになってたと思う。
・・・と、ここでベラベラと英語でまくし立てること数分・・・
要約すると、アメリカだけではなく、日本での「暮らし」を体験できたことは結果的に良かった。ということだった。 わたしもそう思う。彼女のなかにある「日本人としてのアイデンティティ」は、あれがなかったら培われることはなかったかもしれない。 日本人。ということだけじゃなく、かごんま人・島っちゅという部分も。 あれもそれもこれも。全部ひっくるめての、こころさんなのだ。
だが、興味深いのは、実はこの後。
わたしは何度も引越ししたから、自分で言うのもなんなんだけど、adaptするのがうまいの。そうしなきゃいけなかったからね。 自分でも、自分を客観的に見ると、ちょっと大袈裟かもしれないけど「二重人格」みたいな部分はあると思う、日本人・アメリカ人って。 でも、それが「自分」だから。それでいい、って思う。 人間さーーー誰でも多かれ少なかれそうやって周りに合わせてるでしょ。 それは悪いことじゃないし。いいじゃん、それで。 つまりーーーー わたしはわたし!ってことよ。
面白いなぁ。。。最高!おおいに笑ってしまった。 いやはや・・・色んなことを考えるようになりました。 人がどう思うかじゃない。『自分が』どう感じるか。だ。 どんどんムンカンゲしなさい。もっともっと思考するべし。 常に変化はやってくる。 そうやって「自分らしさ」は形成されていくのだよ。
ところで、話は変わるが、こんなこともあった。 ハリーポッターのある場面について、このように解釈している読者もいるという話をわたしがしたときのことだ。 以下、わたしの話の要約。
・・・・・・ マニアックなサイトで読んだ話で、作者自身はそのことに対し何も言及していない。 だから、それが作者の意図することであったかどうかはわからない。 けど、本というものは・・・本だけじゃないけど、読者の手に渡った時点で、その解釈は読者に委ねられるわけだ。 だから、読者がどう感じようと、そんなの作者の知ったことじゃないし、たとえ意図することじゃなかったとしても別に残念とも思わないかも。 読者が何かを感じる。(内容は関係なく)「感じる」ということこそが本の面白みだと、思う。 ・・・・・・
するとこころさん、いきなり鼻息荒く同調しはじめた。
わたしもそう思う! だから「国語」とかReadingとかって大嫌い! 『この文章の、作者の意図することは何か述べなさい』とかってさーーー。それ本当に作者の意図することか?って思う。 っていうか、そういう問い自体、ナンセンス!って思うーーー。 たとえば一読者の解釈を、何をもって「間違い」とするのよ? そう考えると、答えるのがバカらしくなっちゃう。
なるほど。。。おもしろい。。。「考えすぎ」な感も拭えないが、おもしろい。笑 しかし熱いなぁ〜!これが若さというものか???
いいなぁ・こころさん。これからもますます楽しみ。
以前、ある方の日記に「初めて使った外国語を記憶している」というのが書かれてあった。 そのときの状況、心の動き、そして自ら発した言葉。それらを鮮やかに覚えていることがまた嬉しい、とも。
なんとなくわかる感じがして、にこにこしてしまった。 こころにも「それ」があったからだ。
当時、彼女は6歳。 幼い頃からある程度の英語を聴かされて育ってきたせいもあり、耳からの理解力はあったと思う。 でも、日本語環境において自ら英語を発することは殆どなかった。少なくとも、母親に対しては。 (興味深いことに、父親とは「それなりに」英語で話していたらしいけれど)
そんなこころさんがアメリカの小学校へ行き始めて間もない頃。確か、初めて「ランチボックス」持参で学校へ行った日だった。 わたしは彼女のためにお弁当を作った。日本から持ってきたお弁当箱におかずを入れ、小さなおにぎりを別に2個。
学校からの帰り道、ランチどうだった?と、こころに訊いた。 実を言うと、少し不安があったのだ。 他の子供達はサンドイッチだろう。こころの変わったお弁当を見て、からかったりはしないだろうか。 とか。
意外にもこころは「お弁当、すぅごく美味しかったよ!」と即答した。あぁ良かった。でも、気になったのでさらに訊いてみた。 「みんな、こころのお弁当見て、何も言わなかった?」
言われたよ。 こころがお弁当開けたらみんなジロジロ見て ya---k!! って言った。おにぎり食べてたら stink! っても言ってた。だから教えてあげたの。
なんて?
stink じゃない。これはすっごく美味しいの。おにぎりっていうのよ。わたし、大好き!って。
あなた、それ、英語で言ったの?
うん。
マミィにも言ってみて。
嫌だ〜〜〜。(恥ずかしそうに)
じゃぁ、「おにぎり」っていうのはなんて言ったの? onigiri?
rice-ball.
おぉ〜〜〜〜〜。 と、ここでわたしは感動した。すっごい!よくそんな単語が出てきたモンだ。 かっこいい! と、こころを褒めると、だって本当に美味しいんだもん。みんな知らないくせにさー。と言っていた。
思うに、あのとき彼女の中で、英語⇔日本語のスイッチが出来たのではないだろうか。 英語から日本語、日本語から英語の、「訳」という箇所を通る流れではなく、もっとスピーディーな何か。
もう随分前になるが、米原万理さんの『不実な美女か貞淑な醜女か』という本を読んだことがある。 その中に、「耳から入ってきた言語は記号化されて脳のなかを渡り、言葉としてクチから出る」というようなことが書かれていた。 それを読んだとき、なぜかもう瞬間的に、まさしく!そのとおり!と、納得した。
こころさんのおにぎり体験は、それをよく表していると思う。 あのときわたしが、そんな言葉知ってたんだーと言うと、ううん・口から勝手に出てきたの、合ってるよね?と言っていた。 きっと、彼女のなかの英語の発想がrice-ballという単語を引き寄せたのかもしれない。 (余談だが、逆に今、日本語の「おにぎり」という成り立ち、響きもまた良いなぁ・・・と、あらためて思う)
ところで、こころにその話をしてみたら、彼女はすっかりと忘れてしまっていた。 何年か前に話したときには、しっかりと覚えていたのに。 人間の脳(心?)って、面白い。
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