ぶらんこ
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小学校の校庭にあった遊具で、断トツのいちばん人気はなんといっても「シーソー」だった。 「シーソー」と聞いて、わたしと同じものを思い浮かべる人がどれくらいいるだろう。 いわゆる「ギッタンバッコン」とは乗りかたがまるで違う。ギッタンバッコンは低学年用。 遊具とはいえかなりスリリングな本物?のシーソーに乗れるようになったのは・・・いつだったか? はっきりとは覚えていないが、3年生になってからだったと思う。 シーソーは3年の教室の目の前にあった。確か3台、計6人が乗れる。 休み時間の度に、わたしたちは競うようにシーソーに向かって駆けて行ったものだ。
正直に言ってしまうと、わたし、ほんとのホントは、このシーソーが苦手だった。 苦手だったのだけれど・・・大好きだった。 怖いこわい、、、とビビりながら宙に舞い上がり、あぁ!と思った次の瞬間には降りていく。安堵感と新たな恐怖のくり返し。 けらけらと笑っていた自分の姿が、今となっては尚のこと可笑しい。 両腕・指の力を抜くことはあっても意識を緩めることはけっしてなく。 大袈裟な言い方だけれども、全身全霊で遊んでいた。落ちると死ぬ!と思いながら乗っていたから。 休み時間が終わる頃にはもうぐったりとバカバカしいくらいに疲れ、満足感に充たされた。 シーソーで遊ぶ・楽しめる。これは自分にとって、なんとも誇らしいことだった。 勇敢さの証明とも言える。たとえ無意識であったとしても。
よーく考えてみると、あれは本当に危険な遊具だったよなぁ・・・と思う。 あんなものが「小学校」に設置されていただなんて、今の人たちに見せると信じ難いだろうなぁ。 でも、わたしの記憶では、シーソーから落ちた者はいても、骨折などの大怪我に至る者はいなかったような。 いや・・・あったのかな???骨折しても大問題に至らなかっただけなのかもしれない。(それもある意味信じ難いことかも)
ところで、そんな危険極まりない魅力的なシーソーに軽やかにいとも簡単に乗ってしまうTさんは、密かにわたしの憧れだった。 彼女にはわたしが持っていたような恐怖感はなかったんじゃないかな〜。 順番を待っている間も余裕のよっちゃんだったし(わたしは順番待ちでも緊張と安堵感とをめくるめく行き来していた)、いつも大胆な乗りかたをしていたし。
シーソーは梯子が半分から天秤にかけられたような形になっている。 地面に着いている側にいる人がまず両手をかけ、向こう側が下りてくるように手前側を少し上へ上げる。 ふたりとも両手をかけたところで準備OK。どっちかが上へ、どっちかが下へ、となる。 さて、基本的には両端にぶら下がって遊ぶのだが、勇気が出てくると上半身を引き上げ、最初の横棒にお腹を乗せるようになる。 お腹を乗せると、その分もっと高く上がれる。地上に降りた側は、両足で地面を強く蹴る。更に高く上がっていく。 こどもの世界では当然のように行われていたこと。皆がそれぞれ、支援者であり挑戦者であるのだ。 と・・・ここまではあの頃のわたしも(一応)、出来た。 ぎゅーんっ!と上がってって、ドキッ!ドキッ! ひゅるるる〜、と下がってきて、ひゃぁ〜。ふぅ〜。。。。 このくり返しが、おしっこチビりそうなくらい(チビってたかもね)怖く、そして面白かった。
Tさんはとにかく凄かった。彼女は男子にも全然引けを取らない。 お腹を乗せるだけじゃなく、片足を引っ掛けたり両足を乗せて座ったり、後ろ向きになって乗ったり。もう曲芸さながらだ。 そのときの彼女の顔は、真剣で楽しそうで、なんとも心奪われる表情だった。 わたしはこども心に彼女のことを尊敬していた。わたし以外の子もそうだったと思う。 そういえば彼女の手のひらは大きく指の節々がゴツゴツしていて、いつも指をポキポキと鳴らしていた。チェーリングも誰にも負けない強さを誇っていたっけ。 あぁそういうこともすべて含めて彼女に憧れていたんだろうな、と、今になってあらためて思う。
この前、久しぶりにぶらんこに乗った。 最初はゆっくり。少しずつ大きく。 両の足で地面を蹴り、身体を反るようにして両の足を挙げ、高くたかく揺らしてみた。 空に近付こうとして、公園の樹の梢が遠のいたとき、やっぱりちょっと・・・怖かった。 そして、怖い、と思った途端に、地上へと戻っていった。 くり返しくり返し。 なんだか可笑しくなって、あはははあははは大きく笑った。
笑いながら、ふと。あの頃に乗ったシーソーの感触を思い出した。揺らす気分。揺られる気持ち。
Tさんとはもう20年近く会っていない。 もしもいつか再会することがあったら、わたしが密かに彼女に憧れていたことを告白したいな、と思う。 もしかしたら彼女は知っているかもしれないけれどー。
「しくった」・・・これ、なんのことかわかりますか?「しくる」「しくった」と使うらしい。 わたしはこころが日本語を間違って覚えてしまったのかと思い、意味を聞き出した後に正しい言葉に訂正してやったのだけれど、 だいぶ後になって「やっぱり間違ってなかったよ、まみぃが知らなかっただけ。みんな普通に使ってるよ」と言われ、愕然とした。 もしかしたらかごんま弁(鹿児島の方言)なのか???それとも若い人達の言葉??? ちなみに答えは「しくじる・しくじった」。
「微妙」・・・この言葉の使い方が「微妙に」違うような気が・・・。(今の使い方はどうなのか?) 思うに、「微妙」と形容できるものとそうでないものとの区別がなされていないのでは? 或いは、『わざと・あえて』区別していないのか? なんでもかんでも「ん〜微妙〜」と言われているような気がするのはわたしだけ? どうも母ちゃんとしては、おちょくられている気分になる。
「マジンガー」・・・う〜〜〜ん。本人はウケを狙って言っているのだろうか? が、面白くない、、、全然、面白くないんですけど。。。 「かねも」・・・金持ち。「いろち」・・・「色違い」。これは単なる略語。意味を予測できたとしてもなぜか不快さが残る。
これらはいわゆる「スラング」みたいなものなのだろうな。 英語でも同じ。彼女たちティーンエイジャーの会話で意味のわからない単語は山ほどある。 どういう意味?と聞くと、すぐに答えてはくれるのだが、これまたいっこうに覚えられない。 母ちゃんとしては、教えてくれる時の、わからなくて当然ヨ・という意味ありげな笑顔が(ちょっとだけ)癪に障る。
きっと、歳をとるとはこのようなことなのだな、と思う。 わたしとこころの纏っている空気が違うだけでなく、その流れの速度が違うということ。 見ている風景が違うのだから、感覚も違ってくるのは至極当然というもの。 言葉が違う。聴くものが違う。口にするものが違う。歩く速さが違う。空の飛びかたが違う。
そして、わたしはわたしの周りの流れが心地良い。それはしあわせなことだ。 ちょっと走るとふぅーふぅー息があがるような。 「ささ、わたしのことはいいから先に行っちゃって」という感じの。 そうだなぁ〜。打てばすぐに響くのが若い人なら、わたしの場合、打った跡がへこんだまま。 あ、でも、しば〜らく見ていたら、じわじわじわとちびっとずつ、戻ってはいく。 「低反発」 おーーーなかなか巧い表現。
こころが時々「まみぃも歳とったなぁ〜!」と冗談まじりに言う。 「うん、歳とったよ。当たり前じゃん。」と、わたしは真面目に答える。すると今度は 「安心して。まみぃは若いよ」と言う。 「いいえ。立派なおばサンです」と、わたし。すると彼女はさらに慌てて 「まみぃはおばサンじゃないよ!若いよ!自分でわからないんだよ!」 なんなんだ?励ましているつもりなのか、それともいつまでも若い母親でいて欲しいと望んでいるのか?
「おばサン」って悪くないでしょう。と、本気で思う。 それからわたしは、自分自身が幼稚であることも充分知っているので、ある意味、しっかりとおばサンになりたい、と願っている。 最近になって(?)、自分のなかにおばサン的要素を垣間見ることもあるけれど、今はまだまだ発展途上の中途半端。 外見だけでなく、内面的にも、確実に、どっしりと、歳を重ねていきたいなぁ。。。と、思っている。
いつもこころに言うのだけれど、ちょうど良いところの「くたびれ加減」が目標です。 すると彼女曰く、「いみふ〜!」・・・意味不明。 チャンチャン!
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