ぶらんこ
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2006年09月29日(金) はじまり

先日、去年の暮れに亡くなられた患者さんの奥さまと久しぶりにお会いした。
ようやく片付け始めました、と、笑いながら泣いておられた。
懐かしい笑顔だった。
わたしもまた、くしゃくしゃになりながら笑った。

ちょうどその日は、受け持っていた患者さんの初七日だった。
不思議な繋がりというか、大きな流れみたいなものを感じた。
抗う。逆らう。流される。 流れる。
行きつくところは「終わり」なのか「はじまり」なのか。


今日から受け持つことになった患者さんもまた、そのときを迎えようとされている。








2006年09月20日(水) しぇあ

  
      水平線を見ながら焼きそばをほうばるリゥちゃん

      “もう一口”欲しさにリゥちゃんから離れられないふたり


                              ・・・従兄妹たち@国直海岸






あー 「限度」を共有することの素晴らしさよ!!





2006年09月19日(火) ひき潮

ひどく悲しいことがあった。
心なんてモンは、弱っちくてへなちょこでふにゃふにゃでちっとも役に立たないものだ。
ということを、存分に思い知らされた。


悲しみを溶かしに夕陽を見に行こう。
重い気持ちを海へ還そう。
そう思って車を走らせたのだけれど、だんだん、晩御飯の仕込みが気になり始めた。
料理長は食材を無駄にはしないものでしょう?


どんなに悲しみが深くとも、それがなんだっていうのだ。
悲しみはいつまでも続かない。
満ちてはひいていく潮とおんなじだ。


だから何よりも今夜の食事。
ちゃんと作りしっかり食べてぐっすり眠る。
今日が過ぎ、明日が生まれ。


甘えるな。
顔をあげろ。
わからないことを嘆くな。

自分は自分であれ。





2006年09月17日(日) 三角ブロック

   

   
                   






中学の頃、新聞配達をしていた。
なんでそんなことを始めたのかすっかり忘れていたのだけれど、この前ふと思い出した。
あのとき、島を離れるひとつ上の従兄弟から譲られたのだった。
「新聞配達やる?」と聞かれて、「うん!やるやる!」と答えた。なんも考えず、いとも簡単に引き受けた。
もちろん、お小遣い稼ぎになると思ってのことだった。
なのに、当時いくら貰ったのか、まるでちっともでんでんまったく、覚えていない。
綺麗さっぱり、忘れてしまっている。


大丈夫、すぐに覚えられる。と、クン(従兄弟のことをそう呼んでいた)は言った。
クンとは2回くらい一緒に行って、配達の方法やルートを教わった。
まず村の入り口あたりにある家へ行って、そこのおばちゃんに挨拶をする。
おばちゃんは既に起きていて、何人かの人と一緒に、配る新聞をまとめてくれている。
そして、「はい、これね。」と渡される。
わたしの分は、大体50件分くらいだったように記憶している。
配り先は、鳩浜(はとばま)という新しい埋立地の集落だった。

自転車で順番に配っていくと、約1時間くらいで終了した。
一軒家が殆どだったが、何件かはアパートやマンションだった。
1階部分にポストのあるところは良いが、階段を昇ってって、それぞれのドアに差し込まなければならないところもあって、ちょっとキツかった。


新聞はいつも幾つか余分に入っていた。
その分は、「家に持って帰っていいよ。」とおばちゃんから言われていた。
なのに、まったく余らなかったり、逆に余り過ぎたりした。
つまり・・・・実を言うとわたしは配達先をきちんと把握していなかった。
この家、そうだったかなぁ。。。。。そんな風に感じながら配っていた。
だから、余っているとどうも不安になって、最初の方へと戻って反芻しながら、余らぬよう適当に配っておいた。


翌日になって何度か、「新聞が配達されなかった」という苦情をおばちゃんから言われたことがあった。・・・ように思う。
あまり覚えていないけれど、確か、怒られた記憶がある。
苦情がないワケがない。毎朝、ギャンブルをしているような気持ちで配っていたのだから。


寝坊して、おばちゃんから電話が入り、母に叩き起こされたことも何度かあった。
そんなときは、学校には遅刻しても、新聞配達を休むわけにはいかなかった。
なんで起きれなかったんだろう、、、と悔やみながら、これまた適当に配った。

なんて「てげぇー」なバイトだろう。
これでよくお金をいただけたモンだ。(たぶん、貰えていたと思う。)



わたしが新聞配達をしていた埋立地は、当時は新興住宅地だったのに、今ではかなり古びた集落になってしまった。
堤防近くにあるアダンは自生なのか植えられたものなのか、もう区別が付かないくらいに大きく育っている。
埋め立てられてから・・・ざっと計算しても35年くらいになるのかな。
人が移り住むようになって30年くらい。。。。
あの頃とおんなじ風景は、堤防から見る水平線くらいだ。


新聞配達を終えて、太鼓橋を渡って家に帰る頃、ときどき会う少年がいた。
彼も新聞配達少年だった。
そう言えば、当時新聞配達をしていたのは、陸上部の連中が多かった。
考えてみたらクンも陸上部だった。
みんな、体力づくり・トレーニングとして、配達していたらしい。
わたしは・・というと、帰宅部だった。
ときどき会う少年はテニス部だったが、退部して帰宅部になった。
アウト・サイダーという点で、妙な親近感を持っていたんだった。。。。


なーんてことまで思い出した、三角ブロックの上。



   


2006年09月12日(火) reading

     意識の向こうにあるものを
     見たり聞いたり感じたりできることを
     羨む気持ちはなかったが
     もしも自分にそれが出来るのであれば
     あなたの世界を見たい
     聞きたい
     感じたい
     あなたの想いを受けとめて
     あなたの愛するひとに伝える
     ただその
     「媒介」になりたい



  


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