ぶらんこ
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友から手紙が届く。 用があるわけではないけれど、と。 なんてことない四方山話がしたくなっただけ、と。
友の言葉はとても素直だ。彼女の心くらいに。 わたしは、会いたいなぁと思う。 いつも待ってばかりだもんなぁ・・・と思う。 それが良くない、というのではないけれど。 ただ会いに行きたい、と願う、今のこの心を大事にしたい。 静かな、でも、確かな想い。
友がいつもわたしにしてくれるように、わたしもそうありたいな、と思う。
「会いたい」という気持ちは、心を豊かにしてくれるみたい。
迷うなら 思う存分迷えばいい
決められないなら うだうだぐだぐだしてればいい
きみの気持ちだ きみしか付き合えないだろう
きみの心だ きみしか抱きしめられないだろう
誰のものでもない きみだけのものだろう
訪問看護の仕事を始めた頃は、患者さんの家を覚えるのに必死だった。 ポケットにはいつもメモ帳を入れておき、同行のナースの隣で紙に道筋を書いた。 バイパス直進、ゴルフ練習場手前左折、下り坂、橋を渡って道なりに直進、郵便局パス、二つ目の筋を右折、両側は畑・・・などなど。 とにかく地理がわからない。その上わたしは方向音痴。 地名を言われてもピンと来ないのだから、わたしなりの方法で覚えていくしかなかった。
いちばん最初にひとりで訪問に行ったとき、(メモ通りに進んだにも関わらず)道に迷った。 途中で、ん? と思ったのだけれど、拡がる畑や牛舎、豚舎、サイロがある(メモに書いてある通りだった)から大丈夫なはず。 が・・・違ってた。 まったく見当違いなところを走っていた。どおりで辿り着かないワケだ。 結局人に聞きながらなんとか患者さんのお宅へ訪問出来たのだが、帰り道、どこでどう間違ったのかがわかった。 どうやら一箇所、右折しなければならないところを左折したらしい。 たぶん、道なりにまっすぐだと感じて、書き留めなかったのだろう。 (うっかり見逃してしまう程の小さな道を、わざわざ左折するわたしもわたしだ。。。)
そのことを教訓に、小さな筋でもなんでもすべて書き留めるようにした。 おかげで、どんな遠い辺鄙なところでも、なんとかひとりで行けるようになった。 地元人しか知らない抜け道のようなものもそれなりに覚えてきた。
知った道。店。畑。橋。標識。ゴミ置き場。 今まではただの目印でしかなかったものが、馴染みのあるものへと変わってきた。 馴染むって、あったかいものなんだなぁ、と思う。 経験や記憶といったものが熱を持つのかなぁ? その熱は自分のなかから発せられるのかそれともそのモノ自身が持つものなのか?(ややこしい、)
点と点が繋がって線になる。 少しずつではあるけれど、わたしなりの地図が出来てきたように思う。 そこでは親しい人たちが暮らしている。まだ知らないけれど、出会うかもしれない人たちが暮らしている。 それぞれの暮らし。それぞれの苦労。それぞれのしあわせ。 それはあったかいものだ。繋がった線がまぁるい輪になるように。
時々、ふっと空を飛んでいるような気分になることがある。 空のうえから、この鹿屋の町を眺めているような感じ。妄想だけど。 それにしても鹿屋は広い。そのうえ、我が訪問看護ステーションのエリアは大隅半島全域と言っても良いくらいに、広い。 もっと高く飛ばなきゃならないなー。 同時に、細部(点)をもっと知らなくちゃいけないなー。
そうやってどんどん高く飛んで、地球も眺められるようになったら、そしたらどんな気分だろう。。。 今でさえ、なんだかあったかくて嬉しくてにこにこしてしまう感じなのだから、それはもう最高に素敵な心地だろうなぁ。
Happy Anniversary!
稲穂の写真がすごく良い〜〜〜! と、某カメラマンに称賛されたので せっかくだからこちらにアップ。 農美展に出展予定(ウソ)。 でも、わたし的にはそのカメラマンが撮影してくれた 「もぐらよけと笑顔」の一枚のほうを 出展したい。かも。。。笑
Hi! 我が家のオムライスは いつも すまいる(^^)
今日、みかん狩りに行った。 年に一度行われる訪問看護ステーション企画のレクリェーション。 とっても楽しかった。 家から外へ出かけること、自然のなかで緑や土に触れること。 参加できた患者さんとご家族の素敵な(でぇっかい)笑顔を載せたかったけれど、それが出来ないので・・・・
上の写真はその代わり。笑
稲刈りをした。 生まれて初めての経験。 あっ という間に過ぎた 素晴らしい一日だった。
写真は、刈った稲の干し場を作る「お父さん」。 メチャクチャかっこいい。ますます大好きになりました!
黄金色に輝く田はとてもとても、美しい。 青空の下で、垂れた稲穂は静かに刈り入れのときを待っているように見える。 実りの秋。 こんな風景を見られるなんて、訪問看護という仕事って本当に素晴らしい!と、運転しながらにっこりしてしまう。 それから、自分の田でもないのに(田のことをまったく知らないくせに)、稲刈りはいつなんだろう・・・と、気になって仕方がなかった。
稲がすごく強いものなんだということを、わたしは今日、初めて知った。 刈られた稲は青いビニールの紐で束ねられ、干しやすいように並べられている。 束ねるまでは、稲刈り機が行ってくれるらしい。(知らなかった!) そして、並べるのは人の手で行われる。 また、田の端っこは機械では出来ないので、手(鎌)で刈る。 手で刈った稲は、ビニール紐ではなく、藁で束ねられる。 そんな稲の束たちを手作業で干す。 根っこの部分を真ん中あたりからねじり、前に半分、後ろに半分として、竹竿に干していく。
やり方を教わって、おそるおそる始めた。 最初はおっかなびっくり。こんなやり方で、お米がマズくなりやしないか、と心配したりして。 でもだんだん慣れてくると、なんとなく大胆になってくる。 なぜって、無造作に行っても、稲はしっかりと付いているから。 それに、投げたり放ったりしても、大丈夫。 馬鹿みたいだけれど、そんなことに感心してしまう。 そんな強い稲たちを触っていると、なぜだか嬉しくなってしまう。 この一粒一粒がお米になる、とか、そういった直接的なイメージではなく、もっと大きな、心の底から溢れてくる何かがある。 それは感謝の気持ちであり、喜びであり。
今日初めて稲に触れるわたしがそうなのだから、ずっと世話をしてきた彼は、かわいくて愛しくてたまらないだろうなぁ・・・と心から思う。 一粒一粒が、彼の子であり、生命であるのだろうなぁ・・・と、思う。
「刈り入れのとき」という言葉が好きだ。 ゆったりと深呼吸したくなる。 それでいて、どこか背筋をしゃんと伸ばしたくなるような、これまでの自分を振り返るような気持ちにもなる。
今日、「刈り入れ」というものにほんの少し触れたような気がした。 気が遠くなるような準備のときを経てやってくる「刈り入れのとき」。 草を取ったり鳥を追い払ったりもぐらよけを立てたり。 雨の日があり、風の強い日があり、日照りの日が続いたり。 それらすべてが必要なことだった、と、受け入れるような、大きな心。 自然のなすことに、そのまま心を沿える、ということ。 訪問先でぼんやりと感じていた、田を持つ農家の方々の「おおらかさ」をあらためておもう。 稲を干しながら、わたしもそうありたいなぁ・・・と、祈るような気持ちになる。
「ぼち、ぼち、やってくださいよー」 彼のにこやかな笑顔が、心に深く優しく灯っている。
真夏日となった、暑い一日だった。 日焼け止めを塗ったつもりだったのに、頬が火照ってチリチリする。 それでも気分爽快。 こんな経験が出来たことを心から嬉しく思う。 次はこころも連れて行きたい。
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