Allegro


2004年07月04日(日)

名取義春 -2-

 カーテンの隙間から差し込む午前の光を、誰かが窓際に置いたガラスの花瓶が反射している。隣の席の女の子が下敷きをぱたぱたとはためかせ、そのたびに校庭の萌えた緑の匂いが彼女の甘ったるい香水混じりで僕の鼻をくすぐった。日本史の教師が小さ過ぎる文字を几帳面に黒板の上に並べているあいだに女の子たちは手紙を回している、時折どこからともなく忍び笑いが聞こえる。くすくす、くすくす、絶えず揺れている草花のように落ち着きのない空気。僕はあくびを噛み殺しながらも、何一つ見逃すまいとじっと目を凝らしている。
 過ぎて行く毎日は、変わり映えしないものだ。出来るかぎり騒々しくそれがあればいいと僕は思う。気がついたときには終わっていた、なんてのはだめだ。僕は一つ一つのことをしっかりと覚えていたい。僕の部屋のたんすの引き出しの奥に一枚の写真があってそこにはクロッカスみたいに小さな笑みをこぼしている少女の姿がある。セピア色の、地味なセーラー服姿の僕の母親だ。きょうあたり会いに行ってもいいなと僕は頬杖をつきながら考える。現在の母は、無論セーラー服など着ない。ただ、何かを取り戻したいのに手が届かないみたいに、遠くを見て涙を流す。
 そう言えば。今朝、部屋を出るときに見かけたお隣のお姉さんも、なんだか母親みたいな目をしていたな、と思った。こころここにあらず、みたいな。こころはどこかにひっそりと隠れていて、体だけをラジコンみたいに動かしてるみたいな。僕はああいう目をするひとが苦手だ。きっと僕が、まだ何かをうしなったことがないからだろう。
「ナトリ、煙草持ってる?」
 前の席の小室が振り返ってささやいた。体じゅうが細かいリズムで揺れている。こいつは突発的に禁煙だの禁酒だのに取り組む癖があって、そのたびに苛立ちながらそれを解禁にする。長くもって二週間。たぶん少々マゾヒスト寄りなのだろうなと思う。僕が頷くと小室は心底ほっとしたように笑う。
「昼休みに恵んでくれ。口寂しくて泣きそうだよ」
「キスしてくれる女の子でも見つけるんだな」
「それが出来たらおれはとっくに健康優良児だ」
「煙草が恋人? 枯れてるねえ」
「だから酒っていう液体肥料があるんだぜ」
「雑草を見習え、雑草を」
 二人でくっく、と笑っていると教師が振り向いて咳払いをした。小室は教科書を顔の高さまで持ち上げながら、「煙みたいな味の女はいないかなあ」とつぶやいた。思わず吹き出したら今度は教師に睨まれた。昼休みを告げるチャイムが鳴る。教師が授業をしめくくるよりも先に、教室の中が騒がしく動き始める。あっという間に存在感のなくなった教師が、溶けるように教室を出て行くのを僕は見ていた。黒板に残された文字の羅列、見覚えのある、しかし面識のない、歴史上の誰かの名前。僕の現実からまるでかけ離れたいつかの時代に生きていたひと、そして今はいないひと。ふいに母親の目を思い出して僕は戦慄する。
 いつかすべて消えてしまう。僕も母のように過ぎ去ったものを取り戻したくて泣くようになるのだろうか。かがやける、記憶の中の、遠いいつかの日に生きていた自分。そこから地続きの今を信じられずに遠い目をするようになるのだろうか。
「行こうぜナトリ」
 立ち上がった小室が僕を見下ろしていた。隣の席の女の子がカーテンを開けて、「ナトリくんの髪、太陽みたいね」と言って目を細めた。小室が僕の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるので、僕は小室の手の甲をシャープペンシルの先でつついてやった。隣の席の女の子はフミという名前だったと僕は思い出し、彼女に笑いかけた。まだ彼女とはあまり話したことがないけれどきっと彼女も僕の部屋を気に入ってくれるだろう。

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