Allegro


2004年06月29日(火)

本間依子 -1-

 最初はそれを地震と思った。この微かなぶれは地震のはじまり、予震であって、いまにもっとずっと大きな波が来る。脳と心臓がいっぺんに跳ね上がり、つま先がしびれるか否かのタイミングで世界の大きなうねりに巻き込まれ、飲み込まれる。そんなふうにして消えてしまいたいっていつも、思っているのよ。枕の下に手を差し込んで携帯電話を取り出すと、アラームのバイブレーションを止めた。
 ぼさぼさの髪を掻きあげながら、ベランダへと続く窓を開ける。ベランダに設置されたエアコンの換気扇の傍らに、赤い目覚まし時計が佇んでいる。「目覚まし時計なんてこの部屋に置くな」と、情事を邪魔されたあの人が怒って壁に投げつけたものを、部屋に置くわけにもいかず、捨てることもできずに、私が置いたものだ。針を見つめると、まだカチカチと時を刻んでいる。けっこう派手に床に叩きつけられた割に、フレームのプラスチックにひびは入ったものの、中身は壊れてないらしい。意外と頑丈なものだ。
 バスルームへ向かい、シャワーの栓をひねって、熱いお湯を体に浴びる。一日中、何度も化粧を直して、汗をかいたら服を取り替えて、いつ来るか分からない、来るかどうかも分からない来客を待つのはなかなかに体力を消耗する。シャワーを浴びたら体にローション、パウダー、爪を塗り直して、化粧して、髪を整えて……。タイルの壁面に取り付けられた水色の時計を見やると、もう7時半だった。私はため息をついてお湯を止めた。バスタオルを体に巻きつけて洗面所へ出る。最初の3つは帰って来てからでいいだろう。コットンに化粧水を含ませて顔を叩きながら、今日は何曜日だろうと考えた。昨日は朝からずっとベッドの上にいた気がする、月曜日かと思った。


 上司の藤島にこのマンションの一室を買い与えてもらって、だいたい1ヶ月くらいになる。それまでずっと狭いワンルームで一人暮らしをしていた私は、有り余るスペースに落ち着かなかった。置くものもさして無いし、私一人には広すぎる。けれど、彼が初めてこの部屋に泊まった夜、彼の存在感でこの部屋はいっぱいになった。空間が彼という要素によって濃縮されたかのようで、こういう人間にはこれくらいの広さがちょうどいいのかもしれないと思った。いまだに私はここを自分の部屋とは思えないので、彼の部屋に私という家具が置いてあると、そう意識している。
 適当に化粧をして、髪を巻いた。窓の外で見たことのない鳥が鳴いている。この時間、自分以外の人々は何をしているのだろうか。昔は自分が朝起きると、隣の部屋からも慌しく支度をする音が聞こえ、顔を洗い、食事をとり、ドアを開ける、時おり子供の声が聞こえたりもした。けれど今は、この部屋の厚い壁の向こうで誰が何をしているのかなどまるで分からない。私がけたたましくセックスしていようと、ひとり寂しく泣いていようと、もはや誰の知るところでもないのだろう。
 そういえば。ふと思い出して、ブラウスのボタンを留める手を休めた。昨日は隣室の住人が騒がしくてなかなか寝つけなかった。壁に寄りかかってぼんやりしていたら、突然ぱん、という衝撃音が響き、あれはおそらくクラッカーの音だろう、それからどたばたと複数の人間が動き回る音が聞こえた。私は驚いて、パーティでも始める気だろうか、本格的に騒がしくなる前に寝てしまおうと思ったのだが、すでに遅かった。声は聞こえないのだが、しきりに何かが壁にぶつかる音や、人が床で飛び跳ねている音がして何度も眠りを妨げられた。それでも目の下にくまのないのは、たっぷりと昼寝したおかげだろう。冴えない顔で会社へ行って、藤島に非難の目を向けられることを想像したら、自分の惰性に感謝したくなった。
 貰い物の靴に足を通して玄関のドアを開けると、ちょうど隣室のドアも開かれた。そこから出てきたのはなんと白い夏服に袖を通した学生で、どこからどう見ても高校生、それでなければ中学生の男の子だった。昨晩、いったいどこの陽気な金持ちだ、と心中で悪態をついていただけに、思わず目が離せずにじろじろと見つめてしまった。金髪で細身の、軽薄そうな少年だった。私がずっと見つめていると、彼は口を開いて「おはようございまーす」と軽快な動作で頭を下げた。彼はエレベーターのボタンを押して私が乗り込むのを待っているようだったが、なんとなく気まずくて足を動かさずにいると、やがてドアは閉められた。
 家族と暮らしているのだろうか、まさか一人で? 世の中にはいろんな金持ちがいるものだわ、当たり前のようなことを考え、藤島にこのことを多少大げさに話せば、「そんな隣人はこの部屋に持つな」なんて言って、今度はマンションを丸ごと買ってくれたりするのかしらと思った。私は階数のランプが11から1まで下がるのを眺めた後、指先で下降のボタンを軽く叩いた。


2004年06月27日(日)

名取義春 -1-

 寝返りを打ったら右腕がやわらかな感触に包まれた。何事かと思って目を開けてみるとそこにはサラと呼ばれている女の子が眠っていて、僕の右腕をぬいぐるみでも抱くみたいにして細い両腕にくるんでいた。いつもの部屋のいつもの居間の、いつもの丸いラグの上で、僕とサラは一枚の毛布を分け合っている。僕はサラのあらわになった胸と腕のあいだから慎重に右腕を抜き取った。サラは小さな胸をふくらませてわずかに鼻を鳴らしたが、目は覚まさなかった。サラの鎖骨の少し下あたりに茶色いほくろが二つ並んでいる。女の子の裸を見慣れているわけじゃないけれど、サラは酔っ払うとすぐに脱ぎたがるので今では誰も彼女の裸を気にしたりしない。
 わずかに痛むこめかみを指先で押しながら僕は立ち上がった。空き缶やお菓子の屑や髪の毛や吸殻の散らばった床の上では、数人の友人たちが各々いびきをかいたり丸まったりしながら眠っている。中には、友人の友人もいて僕はそいつの名前がわからない。けれどもそんなことはどうでもいい、僕にとって重要なのはそこにいるのが誰か、ではなくて、そいつがどんなやつで、何をするか、ということだ。
 何人かの体を跨いで洗面所へ行き、鏡を覗き込んだ。ひどい顔だ、と思わずつぶやいてから髪にからみついたクラッカーのテープをつまみあげた。ばしゃばしゃと適当に顔を洗う。冷たい水が心地よかった。アクリル製のコップに水を汲んで歯ブラシを口にくわえたら、急に吐き気がした。トイレに駆け込んでコップの水を飲み干すと、指を舌の奥に突っ込んで吐いた。
 ゆうべはいったい何の日だったのだろう。よく思い出せないが、結構な量のアルコールを摂取したらしい。ひとしきり吐いたあとで口をすすぎ、再び歯を磨き始める。ごみの収集車が流している音楽が聞こえてきて、きょうが月曜日だと気がついた。
 寝室のドアを開けると僕のベッドではクラスメイトの成田と知らない女の子が頭を寄せ合って熟睡していた。ゆうべ僕がベッドで眠ろうとして寝室を訪れたとき、そこはすでに彼らに占拠されていたのだった。それを邪魔するほど野暮ではないので僕は居間で眠ったわけだが、頭をくっつけ合うようにして眠っている二人の顔を見るとやはり邪魔をしなくてよかったなあと少しだけ幸福な気分になった。
 クローゼットから制服を取り出していると成田がくぐもった声をあげた。「ナトリ? 早起きだな」僕は振り返らずに「もう八時だよ」と言い、寝室を出た。きょうが月曜日だと教えてやったところで、彼は昼過ぎまでは登校して来ないに違いない。


 僕が住んでいるのは学校に近い高層マンションの十一階で、金を湯水のように使うことを自分の正しさだと勘違いしている父親が買い与えてくれたものだ。僕の父親はわりと大きい製薬会社の社長をしていて、要するに資産家というやつだ。こんな僕も中学までは私立の進学校に通って一挙手一投足を家庭教師に監督されていたのだが、十歳離れた兄が留学先で地元の資産家の娘と結婚したのを機に英才教育から解放された。出来の悪い次男坊に無駄な労力を使うよりも、適当に隔離しておこうという方針に変わったらしい。僕の父親は本当に、有り余っている金の使い方が上手いと思う。
 一ヶ月前に拾った猫のクシナダは玄関マットの上で丸くなっていた。「行って来るよ」と声をかけると彼女は目を覚まして僕の足に一度だけ頭をすり寄せ、それから食事の置かれているキッチンのほうへとのんびり歩いていった。それを見送ったあと、ほとんど中身の入っていないデイパックを背負って玄関のドアを開けると、同時に隣の部屋のドアが開いて、中から出てきた女のひとと目が合った。
 頬と唇がふっくらとした、おとなしそうな感じの女のひとだった。幾分そっけない服装だったが、履いている靴はフェラガモだ。年齢は僕と大して違わないように見えたので、おおかた僕のように金の出る蛇口を持っているのだろうと思っていると、そのひとは僕を見て忌々しげに眉を寄せた。ゆうべのばか騒ぎを怒っているのだろうか、と言うよりもばか騒ぎをしたのはゆうべに限ったことではないので、ここぞとばかりに憎悪をぶつけて来ているのかも知れない。
「おはようございまーす」
 次の瞬間、僕は軽快な動作で頭を下げ、エレベーターに駆け寄ってボタンを押していた。相手が怒ったり悲しんでいたりするほど笑顔が上手く作れるのは僕の特技だ。到着したエレベーターに乗り込んで振り返ると、隣人は憮然とした顔のまま立ち尽くしていた。しばらくボタンを押したまま待ったが乗り込もうとしないので、僕は仕方なくエレベーターの扉を閉めた。

2004年06月01日(火)

アレグロ

■はじめに■
リレー小説「アレグロ」は菅原と高坂の二名で構成されるユニット「バタコ」(てきとう)によって書かれています。

■主な登場人物■
名取義春<なとりよしはる>
16歳 この物語の主人公
本間依子<ほんまよりこ>
26歳 この物語の主人公

クシナダ<くしなだ>
?歳 名取義春の飼い猫 メス
成田<なりた>
16歳 名取義春のクラスメイト

藤島<ふじしま>
51歳 本間依子の上司
阿佐野<あさの>
26歳 本間依子の友人


随時更新(last updated 2004/08/23)

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