最高気温が26℃まで達しまるで初夏のような陽気となる。
黄砂と花粉の影響だろうぼんやりと霞がかった空であった。
明日もまた同様とのこと。洗濯物の外干しが出来そうにない。
週末には寒の戻りがあり「花冷え」となりそうである。
「花曇り」「花散らしの雨」どれも桜の季節の奥ゆかしい日本語だった。
今朝も出勤すると義父の友人達が勢揃いしており
また育苗機の苗をハウスに運ぶのだそうだ。
義父はそわそわと落ち着かず工場の仕事の事も話せなかった。
昨日の大型車も路肩に停めたきりで牽引どころではない様子。
お客さんの身になればほったらかしにされたような気分だろう。
気の毒でならなかったが義父を急かすことも出来なかった。
同僚も車検整備を頑張ってくれていたが飛び込みのお客さんが多い。
予約制にしてあっても急な修理を断ることが出来なかった。
わざわざ宿毛市から来てくれたお客さんもいて
出直して来て欲しいなどとどうして云えるだろうか。
仕方なく車検整備は滞り今日の予約の車検整備は明日に持ち越さねばならない。
私がいくらあがいてもどうしようも出来ないことであった。
「何とかなるだろう」と自分に云い聞かせても「どうなるのだろう」と思う。
着実に前へ進んでいる実感が少しも湧いて来ないのだった。
何だか荒海で転覆してしまいそうな危機感を感じずにいられない。
あれこれと思い悩んでも何も解決はせず今日も定時で退社した。
自動車専用道路を時速90キロで走り抜ける。
ラジオからは好きな曲も流れずむしゃくしゃしていたようだ。
帰宅したらお向かいの奥さんが新鮮な野菜を届けてくれていた。
新玉葱、ほうれん草、サラダ菜もあり嬉しくてならない。
買えば高値の野菜ばかり家庭菜園は素晴らしいことである。
お向かいの奥さんがまるで神様のように思えたのだった。
夫は茶の間でぼんやりと「子連れ狼」を見ていた。
大五郎の何と可愛らしいことだろう。
残虐なシーンが多いが大五郎のおかげで安心して見ていられる。
けれどももし大五郎が殺されてしまったらと思わずにはいられなかった。
それは決してないのだと夫が笑い飛ばしてくれほっとする。
今日もたくさんの悪者が惨殺されたが
「ちゃん」と駆け寄る大五郎の笑顔に救われる思いだった。
幼い子供の笑顔には不思議な力が宿っている。
そのあどけなさにほっと微笑む人も多いだろう。
大人だって微笑むことは出来るのだ。
けれども愛想笑いであったり思惑を纏った笑いもある。
心の底から純粋に微笑めば心にも花が咲く季節なのではないだろうか。
曇り日。陽射しは無かったが気温は20℃に達していた。
晴れていたら夏日になっていたことだろう。
山里の桜も蕾が膨らみ始め明日にでも開花しそうである。
今日は東京が開花。能登の被災地は4月9日の予想であった。
田植えの準備は着々と進んでいるが困ったことに水不足なのだそうだ。
まとまった雨が降ってくれないと田んぼに水が張れない。
今日も米農家のお客さんが順調に田植えまで漕ぎつけるかと嘆いていた。
義父は毎朝ハウスの稲苗の管理に行っており
ぐんぐんと育っている苗に焦り始めている様子である。
その上に今日はまた高知市で理事会があり朝食も食べずに出掛けた。
せめてもと栄養ドリンクを手渡し見送ったことだった。
工場は今日も忙しく同僚が一人で頑張ってくれていたが
午後に警察署から電話があり驚く。
お客さんの大型車が走行不能となり県道で立ち往生しているとのこと。
警察官が交通整理をしているので早急に動かして欲しいと要請があった。
義父は会議中であったが連絡が取れ同僚が現場へ駆け付ける。
どうやらクラッチが焼け付いているようで匂いが出ていたようだ。
会社の運搬車で牽引に行き何とか路肩まで動かすことが出来る。
後は明日義父に任せ工場まで牽引することになった。
林業のお客さんはすっかり困り果てており気の毒でならない。
工場は車検の予約でいっぱいになっており直ぐに修理出来そうにないのだ。
何とかしてやらねば。段取りで頭を悩ますことになった。
同僚一人では手に負えないことは見えており義父の助けが必要だが
田植えの事で頭がいっぱいになっているので困ったものである。
しかし彼は社長である。ここは優先順位を考えて貰わねばならない。
気ばかりが急いていたが残業をしても何も変わらなかった。
とにかく明日のことにして定時で帰路に就く。
少しパニック気味になっていたせいかラジオの「石川さゆり」が好かった。
「さよならあなた私は帰ります」と口ずさみながら帰る。
帰宅したら大相撲ロスの夫がぼんやりと佇んでいた。
なんだか憐れでならない午後4時である。
仕事帰りの息子も久しぶりに顔を見せてくれたが
疲れもあったのだろう愚痴と弱音の嵐であった。
けい君が春休みとなり昼食の準備に困っているのだそうだ。
もう6年生になるのだものカップ麺くらい作れるはずなのだが
息子がわざわざ昼休みに帰宅していると聞きおどろく。
まだ春休みが始まったばかりなのに「俺はもうしんどい」と嘆く。
市のシルバー人材センタに頼めば家政婦さんを雇えるらしく
息子が帰宅してから電話で提案してみたらへらへらと笑い飛ばすのだった。
息子はただ弱音を吐きたかっただけなのだ。
愚痴を聞いて欲しかっただけだったのだ。
娘と夫に話せば「それを真に受けたのか」と大笑いされてしまう。
けれども辛そうな息子の力になりたいのが母心でなくて何だろう。
男手一つで家庭を守り子供を育てて行くことがどれほど大変なことか。
たとえそれが息子が選んだ道であっても気遣わすにはいられない。
息子もけい君もやがて逞しくなるだろう。
父と母はそうして老いていく定めである。
彼岸明け。最高気温が23℃まで達し汗ばむ程の陽気となる。
暑さ寒さも彼岸までとはよく云ったものだ。
隣町の宿毛市では全国一の早さで桜が開花したそうである。
ぱあっと目の前が明るくなるようなニュースであった。
四万十市もすぐ後を追うだろう。わくわくと楽しみでならない。
今朝は寒さが和らいでおり春物の衣服を着た。
まだ寒の戻りがあるかもしれないが思い切って衣替えをする。
去年はいったい何を着ていたのだろうと思うが
押し入れから出して見ればけっこうな衣装持ちであった。
春の装いとなれば気分も晴れやかに明るくなることだろう。
午前中に市街地の商店街へ。昔からある老舗の精肉店である。
ノロ騒動で夫の誕生日祝いをしていなかったので今夜は焼き肉であった。
娘のお腹の調子もすっかり良くなり大賛成である。
精肉店のご主人も奥様もとても愛想が良く何とも好ましい。
「お花見にも行かないと、お肉も食べんといかんね」と笑い合った。
商売人はこれでなくてはと思う。笑顔こそが基本なのだ。
午後はしばらく寝ていたが3時頃から大相撲の千秋楽を観る。
相撲好きの夫が興奮しておりそれもまた愉快な光景であった。
5時を過ぎれば高安と大の里の優勝決定戦となり手に汗を握る。
大の里はこれまで2回も優勝経験があるが高安は悲願の初優勝だった。
何としても勝たせてやりたかったが優勝は大の里の手に渡る。
現実はとても厳しい。勝負の世界とはそう云うものなのだろう。
誕生日のお祝いとは名ばかりで夫と二人だけでハラミを焼いて食べる。
家族6人が揃って夕食を食べることは全くなくなっていた。
それも慣れてしまえばどうと云うこともなく美味しさには変わりない。
夫が嬉しそうに食べている姿こそが幸せに思えた。
やがては夫婦二人暮らしになるのだろう。予行練習のようなものである。
気分は春でありながら何となく物悲しさを感じるのは何故だろう。
ふと来年の春も生きているのだろうかと思う。
光が溢れるほど影になる。心細くてならないのだった。
生きて貫きたい事があるほど不安が襲って来るこの頃である。
彼岸が明ける。その彼岸とはいったい何処にあるのだろう。
穏やかな晴天。最高気温は20℃を超え汗ばむ程の陽気となる。
庭先の桜草やビオラが辛そうに水を欲しがっていた。
葉牡丹には花が咲き今にも蝶々が飛んで来そうである。
むくむくと何かが動き始めているがその正体は分からない。
もしや私も春になろうとしているのだろうか。
朝ドラ「カーネーション」の最終回を見終わり感慨に浸る。
再放送であったがこれ程心に残るドラマがかつてあっただろうか。
老いることを怖れてはならない。それ以上に死を怖れてはならない。
そこにはきっと思い残すことのない人生があるのだろう。
10時からはカーブスであったが心地よく汗を流す。
私の汗はやはり異常のようで扇風機が欲しくてならなかった。
身体の中に灰汁のような物があり蒸発しているとしか思えない。
綺麗さっぱりである。そうして心も浄化されて行く。
午後はひたすら寝て過ごしていたが玄関のチャイムが鳴り
あやちゃんの担任の先生が花束を届けてくれた。
もう二度と会うことも叶わないだろうにあやちゃんは姿を見せない。
応対に出た娘は涙ぐんでいたようだった。
娘にとっても辛い一日だったことだろう。
これまでどんな思いで見守って来たことか。その心中を察する。
「卒業祝い」どころではなかったがせめてもとあやちゃんの好きな
ポテトサラダを作った。茹で卵の黄身を裏ごしして載せる。
娘とめいちゃんはダンス教室があり5時半には出掛けて行った。
夫と先に夕食を済ませていたがあやちゃんも空腹だったのだろう。
鶏の唐揚げとポテトサラダをこっそり子供部屋へ運んでいた。
独りぼっちの夕食であるが慣れているとは云わせたくはなかった。
やっと卒業式が終わった。あやちゃんはもう小学生ではない。
どれほど思い悩んでいたことだろうか。解放されたのだと思いたい。
中学生になっても葛藤は続くだろうがほんの少し羽ばたくことが出来る。
誰も無理強いはしないのだ。自分の選んだ道を進んで欲しいと願う。
今日の陽気で桜の蕾も一気に膨らんだことだろう。
咲かないことを選ぶことがどうして出来ようか。
咲けるのに咲かないことを選ぼうとしている12歳の少女がいる。
朝の肌寒さもつかの間、日中は19℃まで気温が上がり
すっかり春の陽気に思えたが何故か風だけは冷たかった。
おそらく冬がかくれんぼをしていたのだろう。
「もういいかい?」「まあだだよ」と声が聴こえる。
今朝は義父の友人夫婦が勢揃いして何と6人も来てくれていた。
稲の発芽がどんどん進んでおり育苗機からハウスへと移動する。
それが終わればまた新たに種籾を蒔く仕事が待っていた。
義父一人ではとても無理な作業である。
6人もの助っ人にどれほど助けられたことだろうか。
義父は上機嫌でいつも以上に張り切っている様子だった。
持つべきものは友人か、これも義父の人望の厚さであろう。
工場は車検整備が一段落しており今日は定期点検が2台だった。
どちらも公用車で3ヶ月ごとに必ず点検を行っている。
一般のお客さんには殆ど点検をする人が居なくなった昨今であるが
公用車ともなれば法律を守るのが当然のことだろう。
おかげで商売繁盛である。大型車となれば尚更の事だった。
整形外科のリハビリがある日で3時前に退社する。
ラジオからは「桜」に因んだ歌が次々に流れていた。
誰もが桜の季節を待ち望んでいるのだろう。
今日は診察の無い日だったので医師とスマホ越しに面談をしたが
義父の事を気遣ってくれとても心配していた。
田植えの準備を始めていることを話すと「それはいかんぞ」と言う。
首の骨が折れているのにとんでもない事だと言うのだった。
しかしいったい誰に義父を止めることが出来るだろうか。
とにかく米作りを止めさせることなど到底無理な話である。
もはや義父は鉄人であった。決して老いぼれの老人ではない。
4時半に帰宅。娘が洗濯物を畳んでくれており大助かりである。
つかの間であったが夫と大相撲を観ていた。
優勝は高安だろうか。千秋楽が楽しみでならない。
夕飯には娘がシチューを作ってくれた。
私と夫は先に食べ始めていたが「おばあ出来たよ」と器に入れてくれる。
最近の娘はとても優しく会話も随分と多くなった。
けれども再就職の話は一切しない。それほど焦ってもいないようだった。
今更ながら病院の勤務がよほど辛かったのではないかと思われる。
何も話してはくれなかったが母親だからこそ感じることがあった。
いつまでも無職とはいかないだろうが今度は好きな仕事に恵まれて欲しい。
夕食後、めいちゃんが明日着ていく服に迷っていた。
卒業式なので在校生の送辞もあり生徒会福会長の責任も大きい。
緊張するかもしれないが立派にやり遂げることを願って止まない。
姉であるあやちゃん不在の卒業式であっても寂しくはないだろう。
もしかしたらあやちゃんの複雑な心境を一番理解しているのではと思う。
幼い頃からずっとずっと仲良しの姉妹だったのだ。
今ではふれあう姿も見られなくなったが一心同体なのかもしれなかった。
明日も春の陽気とのこと。桜の蕾も一気に膨らむことだろう。
寂しい思いをする人がどうか一人もいませんように。
今朝は霜注意報が出るほどの冷え込みとなる。
日中はよく晴れていたが風が冷たく感じられた。
国道沿いの白木蓮を仰ぎながら山里の職場に向かう。
祭日なのでいつもよりずっと交通量が少ない。
山道も対向車がなくスムーズに峠を越す。
工場は午前中に車検整備が完了していたが
義父が多忙のため車検が出来ずひたすら帰りを待っていた。
昼下がりにお客さんが「牡丹餅」を持って来てくれる。
手作りの牡丹餅などもう何年も食べたことがなかった。
餡子も小豆から煮たそうでそれはそれは美味しそう。
義父にへと届けてくれたのだが一個だけ頂くことにした。
何とも懐かしく祖母の牡丹餅を思い出す。
母も大好きだったので事務所の遺影の前にお供えした。
お客さんも「良かった、良かった」と喜んでくれる。
2時過ぎにやっと義父が帰って来てくれて車検に取り掛かったが
昼食も食べておらずどんなにか空腹だったことだろう。
牡丹餅を一個だけ平らげ「これは美味いな」と大喜びである。
車検は2台あり一台はスムーズに完了したが
二台目はヘッドライトを改造しており車検に適合しない。
これは最近の流行りなのか若いお客さんに多かった。
ホームセンター等で手軽に購入出来るらしい。
ハロゲン球には「車検対応」と記されているが実は違法なのだ。
仕方なくお客さんに相談し標準のハロゲン球と交換する。
同僚は急ぎの一般修理と格闘しており義父の手によるものだった。
やっと車検が完了したがもう4時である。
随分と遅くなってしまったが義父と書類作成に取り掛かった。
帰宅が遅くなりそうなので娘に電話したら大丈夫とのこと。
家事は娘に任せとにかく「今日の事」をと精を尽くす。
5時に退社。山里の食料品店で卵だけ買って帰る。
峠道を下り国道が見え始めるととてもほっとした。
5時半過ぎに帰宅したら夫は大相撲を観ながら既にビールである。
娘が冷蔵庫にあるものであれこれと作ってくれていた。
まだ少し腹痛があるとのことで無理をさせてしまったようだ。
めいちゃんも無事に帰宅しており何よりに思う。
昨夜は心配したが特に異変はなく元気そのものである。
今週一杯異変がなければもう大丈夫だろう。
あやちゃんは寝ているのか夕飯時にも姿を見せなかった。
もしかしたら卒業式の事で悩んでいるのかもしれない。
私の思い過ごしかもしれないが老婆心が疼くのだった。
その卒業式も明後日になった。どんなにか複雑な心境だろうか。
けれども誰も無理強いはしていない。出席しなくても良いのだと思う。
真っ赤なランドセルを背負って入学した時を思い出す。
いったい誰に今の現実が想像出来ただろうか。
繊細な少女の心に宿る葛藤を未だ誰も知らずにいる。
春だからと咲く必要は決してないのではないだろうか。
弥生つめたい風。陽射しはたっぷりとあったが冬の寒さが続いている。
そんな寒さも明日までだそうで明後日からは一気に春らしくなるようだ。
東京では名残り雪、高知も山間部では雪が降っていた。
そうして季節が真っ二つに引き裂かれていくのだろう。
桜の開花予想は23日と思い込んでいたが高知は25日らしい。
高知よりも先に東京の桜が咲くそうで何だか不思議でならない。
蕾はまだ固いが今か今かと春を待ち侘びているようだ。
山里では田んぼに水が張られるようになり田植えの準備が進んでいる。
義父はすっかり焦り始めており気が気ではない様子。
早い農家では4月の上旬に田植えを始めるのだそうだ。
稲の成長は凄まじく8月にはもう稲刈りとなる。
米不足で今年は高値が予想されその期待は大きかった。
消費者にとっては安いに越したことはないが米農家の苦労を思うと
少しでも高値でなければその苦労は報われないのだと思う。

工場の仕事は少しずつ順調に捗っているが今日は車検が出来なかった。
義父はそれどころではない様子で血眼になって田植えの準備に追われている。
そんな義父に「今日は今日の事をね」と声を掛けたら笑顔を見せてくれた。
あれもこれもと気が急いていたのだろう。気が楽になったのに違いない。
明日は春分の日で祭日であったが仕事をすることにした。
私の一存であったがとても休んではいられない状態である。
同僚が渋々ながら頷いてくれとてもほっとした。
とにかく臨機応変に仕事をこなしていかなければいけない。
誰かが段取りをしなければ一歩も先に進めないのだ。
「明日があるさ」と2時過ぎに退社した。
娘の体調も気になり早めに帰宅した方が良さそうであった。
帰宅したら娘が洗濯物を畳んでくれておりほっと一安心する。
まだ腹痛があるらしく本調子ではなかったが二人で夕飯を作った。
めいちゃんはふた従姉妹のまあちゃんの家にお泊りに行くことになり
夕食を食べ終わるなり嬉しそうに出掛けて行く。
まさかと思ったがもし突然の嘔吐に襲われたらと心配でならない。
まあちゃんのお母さんにも迷惑を掛けてしまうだろう。
どうか何事も無く楽しい夜を過ごして欲しいと願うばかりであった。
娘は止めなかったのだ。きっとそんな不安もなかったのだろう。
心配性の私だけがはらはらとしているだけなのかもしれない。
ここ数日のノロ騒動で平穏無事が決して当たり前ではないことを
思い知らされたような気がしている。
コロナ、インフルと乗り越えてきたがまさかノロとは思ってもいなかった。
家族の健康を第一に考えているがいつ落とし穴があるか分からない。
桜の季節がやってくれば皆が元気に春を満喫出来ることだろう。
今日も冬型の気圧配置。朝のうち晴れていたが午後から雨となった。
もう少し気温が低ければまた雪になっていたことだろう。
桜の開花予想日は23日だったか冬の最後のあがきだと思われる。
午前中に外回りの仕事があり近くの「星ヶ丘公園」へ寄ってみた。
冬の間は訪れることもなかったがすっかり春の装いにおどろく。
早咲きの桜は「河津桜」なのだそうだ。薄桃色の花が満開である。
その傍らには「雪柳」が純白の花を風になびかせていた。
まるで別世界のようであり身も心も春一色となっていく。
職場のすぐ近くにあるのに遠のいていた足がふと憎らしく思う。
公園内には珍しい草花も多くありまたきっと思いがけない出会いがあるだろう。

義父は高知市内で理事会があり朝から出掛けていた。
同僚と二人のらりくらりと仕事をする。
それでも工場の仕事は順調に捗り何よりだった。
法務局へ行く用事があり2時に退社したが待ち時間が長かったので
帰宅はいつもとさほど変わらない時間であった。
洗濯物を畳み終え炬燵に潜り込み大相撲を観る。
とうとう娘が昨夜発熱。嘔吐は無かったが腹痛を訴えていた。
我が家で無事なのはめいちゃん一人となってしまう。
それにしても感染力の何と強いことだろう。
一番小さいめいちゃんが無事なのが奇跡のように思える。
何としてもこのまま守ってやりたい気持ちでいっぱいになった。
娘婿もあやちゃんもまだ本調子ではなく
胃に優しい夕食をとそれなりに準備していたが
娘が寝込んでいるせいか娘婿もあまり気が進まないようだった。
「後から食べるけん」そう言ったきり部屋から出て来ない。
あやちゃんもめいちゃんもやはり母親が必要なのだろう。
私は娘の代わりにはなれないのだなと今夜ほど思ったことはない。
今朝は涙を流しながら登校の準備をしていためいちゃんだった。
その泣き顔が今も目に浮かび可哀想でならない。
たかが「ほたるいか」ではなかった。
今日も店頭に沢山並んでいたがもう二度と買うものかと思う。
どうかどうか我が家に平穏が帰って来ますように。
彼岸の入りには必ずと云って良いほど「寒の戻り」がある。
此岸と彼岸が最も近くなる頃である。季節が引き裂かれるのかもしれない。
冬の痛みはどれ程のものだろう。あがき苦しみながら去って行くようだ。
今朝は山里に着くなり小雪が舞い始め驚く。
強風に煽られ空を切るように降っていた。
午後には陽射しがあったが何とも冷たい一日であった。
体調はまずまずでまだ少し胃に不快感があったが
仕事の事で頭がいっぱいになっており休むわけにはいかない。
なんとしても月末を乗り越えねばと気ばかり急いていた。
しかし思うようには行かないもので順調には程遠いスタートである。
同僚や義父の助けがなければ到底無理な話であった。
後から後から難題が降りかかって来て頭を悩ますばかりである。
午後にはすっかり気力がなくなってしまい早目に退社した。
帰宅するなりあやちゃんに声を掛けたが眠っていたようだ。
娘に訊けば順調に快復しているようでほっと胸を撫で下ろす。
娘婿も昨夜から嘔吐が始まり今日は仕事を休んでいた。
すべて私の蒔いた種で心苦しくてならない。
幸い娘とめいちゃんは無事で「どうかどうか」と祈るばかり。
今日は夫の73歳の誕生日であったがお祝いどころではなかった。
夫もそれは承知であったがせめてもと好物の「八宝菜」を作る。
めいちゃんが「お手紙」を書いてくれて何と嬉しそうな顔。
目を細めて読んでいる横顔はとても幸せそうだった。
めいちゃんがなんだか天使のように思える。
亡き母も生きていれば87歳の誕生日であった。
今頃は黄泉の国で飲み友達と酒盛りをしていることだろう。
先立った友の多いこと。決して寂しくはないのだと思う。
ふと思うのは「ゆるやかな坂」であった。
私も歩んで行かねばならずやがては黄泉の国へと辿り着く。
桜の季節だろうか。坂には花弁が散り始めているだろう。
生きた証を見納めるように振り向いているのかもしれない。
雨のち晴れ。午後から強風となり気温が下がり始めている。
明日は彼岸の入りだが寒の戻りがありそうだ。
金曜日に帰宅するなり突然の嘔吐があり
夜には発熱、その後下痢となり寝込んでしまっていた。
嘔吐は何の前触れもなく襲って来て驚く。
茶の間や寝室の床を汚してしまい夫に迷惑をかけてしまう。
熱は微熱であったが下痢は水便でこれも間に合わず大変な有り様。
昨日は意を決して病院へ行っていたが「感染性胃腸炎」とのこと。
一番代表的なのは「ノロウィルス」なのだそうだ。
数日前の夫も私と全く同じ症状だったので感染したのだろう。
実は夫の食べ残した「ほか弁」をもったいないと食べてしまっていた。
食あたりそのものが感染するとは思ってもいなかったのだ。
病院では詳しい説明がなかったのでネットで調べてみたら
ノロウィルスは牡蠣などの二枚貝に多く含まれているのだそうだ。
夫の場合は「ほたるいか」だったが鮮度が落ちていたので
菌が繁殖していたのではないかと思われる。
どちらにせよ半額のほたるいかに飛びついた私が悪かったのだ。
昨夜のうちに症状は軽くなり今朝は少しだけ朝食が食べられる。
それが美味しいと思えたからもう大丈夫だろう。
しかし困ったことに今度はあやちゃんに感染してしまったようだ。
空気感染はしないそうなのでおそらくトイレが原因だと思われる。
私が便器を消毒さえしていれば感染は防げただろう。
何と迂闊な事で娘に散々叱られてしまった。
おまけに今日はめいちゃんのダンス発表会がある日で
嘔吐を繰り返しているあやちゃんを残して出掛けてしまう。
病院へ連れて行く必要はない薬も飲まさないで良いと言う。
辛さは私自身が一番知っており可哀想でならなかったが
余計なことをすればまた娘に叱られてしまうだろう。
布団を汚したりズボンを汚したりしていたが一切手出しが出来ない。
「お母さんが帰るまで待つけん」と何と健気なことだろう。
発表会は4時には終わっていたはずだが娘達の帰宅は遅かった。
あまりに遅いので電話すれば外食をしているとのこと。
それにはすっかり呆れてしまいあやちゃんが憐れでならなかった。
どんなにか首を長くして待っていたことだろうか。
普段から我慢強いあやちゃんだがとても心細かったと思う。
一切の口出しは禁止である。娘達の方針に逆らってはならない。
幸い発熱はなく今は嘔吐も下痢も治まっているようだが
元を正せば全て私が原因の事で心苦しくてならない。
どうかもうこれ以上の感染が広がりませんように。
ただただ祈るばかりの夜になった。
追記:毎日が日課の日記が二日も書けずご心配をお掛けしました。
寒暖差が激しく体調を崩し易い時期です。
皆様もどうかお気をつけてお過ごし下さい。
いつも読んで頂き本当に有難うございます。
少し体調を崩しています。
明日の夜には日記再開出来たらと願っていますが
本調子でなければお休みするかもしれません。
曇り日であったが気温は20℃近くなり春らしい一日。
梅の花は満開となっており仄かに風を匂わせていた。
桜の開花予想日は23日とのこと。後10日である。
帰り道に平田町の桜並木を仰げば小さな蕾が見えていた。
希望でなくて何だろうと思う。日に日に膨らむことだろう。
今朝は夫の熱が下がっておりほっと安堵する。
少しであったが朝食も食べることが出来た。
しかし下痢が始まったようでやはり食あたりだったようだ。
悪い事ばかり考えていたので救われたような気分になる。
正露丸で下痢は治まるだろうといつも通りに山里の職場に向かった。
義父も胃の調子が良くなっており至って元気である。
午前中に車検を2台済ませてくれて大助かりだった。
工場にはまた大型車が入庫しており車検整備待ちの車が3台もある。
同僚は一生懸命にやってくれているが今週中にはとても無理だろう。
お客さんにはそれぞれ代車を貸しているがそれも限界かもしれない。
苦情がないことを祈るばかりで気は急き焦る気持ちが高まる。
もう一人整備士が居れば助かるがお給料を支払う余裕がない。
義父は検査員なので車検整備を行ってはいけない規則になっている。
私が勤め始めた37年前には5人も整備士が居たのが嘘のようだ。
世の中の景気も良かったのだろう。仕事もいくらでもあった時代である。
整形外科のリハビリと診察がある日で2時半過ぎに退社した。
骨密度の検査がありついこの前もしたのにと技師に伝えたら
何と前回は昨年の9月だったそうで驚く。
月日の経つのが何と早いことだろうか。
「骨粗しょう症」は殆ど改善されていなかった。
カルシウムが足らないのかも知れないが喫煙が一番の原因かもしれない。
それは医師には言えなかった。言えばきっと叱られたことだろう。
いつものように骨を強くする薬を処方してもらい病院を後にした。
もう5時前になっており買い物は諦め「ほか弁」に走る。
6人分のおかずを買い求め大急ぎで家路に就いた。
夫の下痢は少し治まっていたがビールはまだ早いようだ。
ほか弁の焼き肉を美味しそうに食べてくれたのでもう大丈夫だろう。
めいちゃんが学校で手紙を書いたらしく照れ臭そうに手渡してくれた。
「おじいちゃん」「おばあちゃん」ととても丁寧な字である。
私の手紙には朝晩の挨拶の事が書いてあった。
おばあちゃんのように進んで言えるようになりたいのだそうだ。
それはとても大切な事と締めくくってあった。
もうすぐ5年生である。その手紙に随分と成長した事を感じる。
毎晩の「おやすみい」毎朝の「おはようさん」
めいちゃんは学校へ行く時大きな声で「行って来まあす」と言う。
「は〜い行ってらっしゃい」私と夫も大きな声で応える。
日常のほんのささやかな事だがそれが幸せでなくて何だろう。
午前中は今日も霧雨。午後には止み薄く陽射しがある。
気温は20℃と高くなり4月並みの気温だったようだ。
そろそろ桜の開花予想があるのかもしれない。
今朝は夫が体調不良で朝食も食べられなかった。
食あたりのような症状で胃の不快感と吐き気を訴える。
どうやら昨夜食べた「ほたるいか」が悪かったようだ。
半額物だったので鮮度が落ちていたのだろう。
安さに飛びついた私にも落ち度がある。
ちょうど内科の通院日だったので安心して仕事に出掛けたのだが
帰宅したら発熱しておりとても辛そうな様子である。
それでも私の帰りを待っていてくれたのだろう。
「もう限界じゃ」と呟きすぐさま寝室のベッドに潜り込んでしまった。
内科では胃薬と吐き気止めを処方されていたが
解熱剤はインフルエンザの時の残薬がありそれを服用させた。
もしかしたら食あたりではないのかもしれない。
悪い方に考え出したら切りがなく脳の異常ではないかと思う。
数年前に「硬膜下出血」で手術をしており再発も考えられた。
まさかまさかと不安を払いのけているところだ。
原因は「ほたるいか」に違いない。きっとそうだと不安を宥めている。
とりあえず明日の朝まで様子を見るべきなのだろう。
山里の義父も今日は突然の胃痛に苦しんでいた。
胃薬を飲ませ背中をとんとんと叩いたりして何とか痛みが治まる。
友人達が籾の種蒔きを手伝いに来てくれていて気負い過ぎたのだろう。
最初は顔色が青白くなっており何とも心配でならなかった。
木の芽起こしの頃である。身体の不調が著しくなる頃でもあった。
何でもその人の一番弱い部分が変調を起こすのだそうだ。
私の場合は「頭」であるが今のところ正常のようである。
頭は使うほど良くなるらしいがこの老いぼれに何が出来よう。
もうこれ以上もこれ以下もないくらいに追い詰められている。
努力もせずに背伸びをしようとしている愚か者に他ならない。
ああ嫌だ嫌だ。どうしてこんな日記を書いてしまったのだろう。
静かに霧雨が降る。まだ春雨とは呼べず肌寒さを感じた。
国道沿いの白木蓮の蕾が日に日に膨らんでおり
あと数日もすれば花が開くだろう。
幼子が手のひらを合わせたような純で無垢な花であった。
東日本大震災から14年。未だに心が痛んでいる。
今朝は14年前の3月の日記を読み返し胸が詰まりそうになった。
平穏な日々があれほど心苦しかったことはない。
「普通にしていればいいよ」と言ってくれたのはRだったが
音信不通になってからもう随分と歳月が流れた。
大勢の尊い命が失われ未だ行方不明の人が2500人を超す。
どんな姿でもいい帰って来て欲しいとどれほど祈ったことだろう。
まだ終わってなどいないのだ。どれ程の春であっても変わりはしない。

職場に古い友人のるみちゃんが訪ねて来てくれた。
先日新車を購入してくれてその支払いに来てくれたのだった。
電話では時々話すことはあったが会うのは14年ぶりである。
共に汗を流したバドミントン仲間であり何とも懐かしくてならない。
るみちゃんは私よりずっと若いがそれなりに年を重ねていた。
70歳が近くなった私はどんな風に見えたのだろうか。
亡き母にそっくりになったねと言ってくれたのが意外だった。
それもそのはずるみちゃんは70歳頃の母しか知らなかったのだ。
仕事が忙しくつかの間の再会であったが「また会おうね」と
るみちゃんは車の窓から手を振って帰って行った。
嬉しいような切ないようなもしかしたらもう会えないのかもしれない。
また歳月に押し流されてしまうだろう。そうして私は老いて行く。
やがて最後の春を迎えれば桜が散るように逝かなければならない。
けれどもそんな儚さに挫けていてはいけないのだろう。
負けない程の勇気はないが立ち向かうことは出来るかもしれない。
一歩一歩踏みしめるように与えられた道を進むことは出来るだろう。
終らない人生など在りはしない。けれども精一杯に生きることは出来る。
晴れのち曇り。陽射しの無い午後は少し肌寒く感じる。
お天気は下り坂で明日、明後日と雨が降るようだ。
催花雨になるかもしれないが桜はまだ蕾も見えていない。
朝の道を行けば山肌からこぼれるような白い花が見えた。
「馬酔木」に違いない。早春に花を咲かすツツジ科の低木である。
葉には毒があり馬が食べると酔ったようにふらつくのだそうだ。
綺麗な花には毒があると云うが鈴なりの花は何とも可憐である。
私も馬だろうか、今朝は少し鼻息が荒くなっていた。
仕事の事で頭が一杯になっており気負い過ぎていたのだろう。
義父は機嫌よく田んぼの草刈りに出掛けて行ったが
あまりの忙しさに胃がきりきりと痛んでいた。
工場の仕事の段取りもしなければならず同僚だけが頼りである。
月曜日から飛ばし過ぎてはいけないとお昼休憩をしようとしたら
義父が帰って来てすったもんだが始まった。
田んぼの事だけ考えていれば良いのに工場の仕事も気になるのだろう。
二足の草鞋を履くと誰しもそうなるのに違いない。
わあわあととにかく五月蠅い。耳を塞ぎたくなった。
空腹でもあったのだろう。昼食を終えるとまた直ぐに出掛けて行く。
「やれやれ」である。けれども休憩は出来ずもう一時になっていた。
義父の留守を良いことに2時過ぎに帰路に就く。
取引先の中古部品屋さんに寄らなければならなかった。
また息子の職場の目と鼻の先である。
ずっと音沙汰の無い息子も気掛かりであるが
便りのないのは元気な証拠なのだろう。
今夜は夜勤かもしれないと想像するばかりの母であった。
4時前に帰宅。夫と大相撲中継を観る。
途中からいつの間にか寝入っていたようだ。
5時になり夫は大相撲を観たくてたまらない様子だったが
私の車をダイハツに持って行ってくれた。
今日からまた一週間の入院である。
何でも整備士が大喜びするような不具合なのだそうだ。
何としても原因を追究しようとする整備士魂を感じる。
きっと完璧に直って帰って来るだろう。楽しみなことだった。
娘が牡蠣フライ、海老フライ、新玉葱のリングフライをあげてくれる。
揚げ物が得意な娘に再就職先はお惣菜屋さんだと言って笑い合った。
帰宅した夫が代車が凄いぞと興奮気味である。
新車なので私は運転に自信がなく夫としばらく交換することにした。
明日からは夫の車で出勤である。煙草は絶対に吸ってはならない。
目まぐるしい職場から帰ると何と穏やかな我が家なのだろう。
まるで天国と地獄のように思うが地獄を怖れてはならない。
必要とされることほど有難いことはないのだと思う。
そんな地獄にも桜の花が咲く季節がきっとやって来るだろう。
2025年03月09日(日) |
待てば海路の日和あり |
朝は少し冷え込んだが日中は穏やかな晴天となる。
気温も15℃まで上がりすっかり春の陽気であった。
昨年暮れにお向かいの奥さんから頂いた葉牡丹の寄せ植えが
ぐんぐんと育ちもう少しで花が咲きそうである。
ろくに水遣りもせずにいたのに何と健気なことだろう。
今朝は労うようにたっぷりと水を与えた。
そろそろ土筆の坊やが顔を出しているかもしれない。
かつての散歩道だった土手の風景を目に浮かべる。
あの頃は随分と歩いたものだ。思い出すと切ないものである。
医師からは手術をしない限り完治は在り得ないと云われているが
リハビリの効果だろうか最近は杖に頼らずに歩けるようになった。
しかしほんの数十メートルが限界で土手まではとても無理である。
緑のよもぎ。可愛らしいたんぽぽ。土筆の坊やにも会えはしないだろう。
ほんの3年前には出来ていたことがもう出来なくなってしまった。

今朝は朝刊を開いていた夫が「おい、出ているぞ」と教えてくれた。
これでもかこれでもかと投稿し続けていた短歌がやっと入選していた。
諦めることは容易いがまるで執念のような投稿であった。
これまでどれ程踏みにじられて来たことだろう。
やっと光が射し込んだようで救われたような気分になる。
もしかしたらお情けだったかもしれないが素直に嬉しさが込み上げて来た。
どれ程の荒波でも船を漕ぎ出して行くべきなのだろう。
まさに「待てば海路の日和あり」である。
昼食を食べ終わるなりまた炬燵に潜り込み寝ていた。
浅い眠りだったらしく一時間程で目覚める。
夫が大相撲の春場所を観ておりしばし一緒に観戦していた。
幕下の取り組みも興味深くけっこう見応えがある。
今日から2週間であるが夫の楽しみが出来て良かった。
夕食も大相撲を観ながらで大の里は勝ったが豊昇龍は負けて残念である。
新横綱としての威厳も在り本人もどんなにか悔しかったことだろう。
気負い過ぎたのかもしれんなと夫も嘆いていた。
私は豊昇龍が何だか可哀想でならない。
話しは前後するが三時頃、あやちゃんの同級生達が訪ねて来てくれた。
夫が対応してくれたがあやちゃんは部屋に閉じ籠って出て来ない。
会いたくないのだそうだ。きっと複雑な心境なのだろう。
照れ臭いのかもしれないが会わないことを決めたようだ。
中学生になれば今以上に距離が広がることだろう。
もう丸2年も学校に行っていないのに誰も忘れてはいない。
それがどれ程有難いことなのかあやちゃん自身も分かっているのだと思う。
けれどもおとなが考える以上にその「殻」は強固なのかもしれなかった。
「ねえねえ、今夜は何?」階下へ降りて来たあゆあちゃんは
いつになく朗らかで明るい笑顔を見せてくれたのだった。
午前中は雨、気温は10℃に届かず肌寒い一日だった。
そうして一雨ごとに春らしくなって行くのだろう。
明日は穏やかな晴天とのこと。ほっこりと楽しみでならない。
ダル重の朝。背中に針金が刺さっているように痛む。
肩凝りも酷くとても元気とは云えなかった。
それがカーブスへ行って筋トレをしたら一気に楽になる。
普段はそれ程効いているとは思えなかったが今日はてき面であった。
身体はぽかぽかと温まり心地よく汗を流す。
週に一度しか出来ないがこれからも続けなくてはと思った。
帰宅するなりダイハツから電話があり修理が長引くとのこと。
ラジオは聴こえるようになったがパワーウインドウがまた作動しない。
配線がショートしている可能性があり詳しく調べたいと云う。
取り合えず車を引き取りに行ったが再度月曜日にまた預けることになった。
一週間ほど掛かりそうだが今日は代車が無いのだそうだ。
またまた灯台下暗しとなるが山里の工場に頼むよりずっと気が楽である。
仕事は休ませてもらっていたが今日も忙しかったようで
義父から3回も着信があり同僚からもある。
何から何まで私に報告しなければいけないようで責任を感じた。
もう雇われの事務員ではないのだ。れっきとした専務なのだろう。
昼食後は炬燵に潜り込みひたすら寝て過ごす。
3時頃に一度目を覚ましたが結局4時まで寝ていた。
今夜は娘達が夕食不要とのことでローソンで買い物を済ます。
食器洗いも少なく随分と楽をさせてもらった。
あやちゃんが珍しく階下へ降りて来てあれこれと話す。
テレビのニュースで大船渡の山火事の様子が流れていて
ほぼ鎮火となり避難していた人達が帰宅する様子であった。
帰っても家が焼けて住む場所を失った人達も居ることを話すと
真顔になりしばらくニュースを見入っていた。
「お家が焼けてしまったらどうする?」と問えば「それは嫌だ」と応える。
親身になる気持ち。気遣う気持ちがあるようだった。
今は自分の事で精一杯だと思うが災害や事故は他人事であってはならない。
成長する過程においてそれはとても大切なことだと思う。
娘達がめいちゃんのダンス教室へ出掛けて行った。
「行ってらっしゃい、早く帰って来てね」あやちゃんは大きな声で見送る。
寂しくてもそうとは言えない健気な12歳の少女であった。
雲一つない晴天。気温はそう高くはなかったが陽射しが暖かい。
来週には春の陽気になるとのこと楽しみなことである。
朝の山道の途中に小さな集落があり道端に良心市を備えている。
毎朝覗くのが日課だが今朝は新鮮な野菜が並んでいた。
春キャベツは150円、ブロッコリーは100円の安さである。
その上に無農薬で身体にも優しく買わずにはいられなかった。
料金入れは小さなマグカップを置いてあり何とも無防備であるが
おそらくこれまで盗難にあったことはないだろう。
良心を問われているのだ。それでこその良心市だと思う。
直ぐ近くには桜の木がありやがてタラの芽の季節がやって来る。
「タラの芽あります」の看板が立つのが待ち遠しくてならない。

今朝も義父の機嫌が良かった。笑顔で「おはよう」を交す。
今日は快晴なので「種籾」を天日干しにするのだそうだ。
鉄工所のKちゃんが暇らしく手伝ってくれて義父は大喜びである。
工場の仕事も捗り今日も車検が一台完了した。
おかげで明日は休めそうでほっと肩の荷が下りる。
今週は気疲れもあったが体力的にもかなり疲れているようだ。
血圧はやはり高めで肩凝りと背中の張りが辛い。
来週も忙しくなりそうなのでとにかく休養が必要であった。
今日は仕事中にパソコンが詐欺被害に遭い焦りまくる。
いきなり警告音が鳴り出し「ウィルスに感染しました」と声がするのだ。
「直ぐに電話を」と画面には電話番号が表示されていた。
そこで何となく不信に思いシステムサポートに相談したところ
詐欺なので絶対に電話してはならないと教えてくれる。
対処法はパソコンの電源を強制終了するのが一番なのだそうだ。
おかげで5分もしないうちに解決した。
他人事のように思っていたがまさか会社のパソコンが狙われるとは。
油断できない怖い世の中になったものである。
仕事も一段落していたので2時過ぎに帰路に就いた。
そうしたら不思議なことに今朝は聴こえなかったラジオが聴こえる。
ダイハツに修理を予約してあったのでどうしようかと迷ったが
取り合えず行ってみたら店先でまた聴こえなくなった。
接触不良だと思われるが「これは面白い症状ですね」と言われる。
夫に迎えに来てもらって愛車を預け帰宅した。
月曜日までに直るだろうか。通勤には無くてはならない車である。
帰るなり炬燵に潜り込み至福のひと時であった。
「三匹が斬る」は終り先日から「大岡越前」を放送している。
これも見ていれば面白くまたはまりそうである。
娘が「今夜は何を作るの?」と今日も笑顔であった。
メインは「牛肉とにんにく葉の炒め煮」であったが
あやちゃんが食べないかもと云うのでいささかショックである。
メニューにはいつも頭を悩ませているが今日は花丸とはいかなかった。
どんな日もあるもので思い通りにはいかない。
あれもこれもと考えることが多過ぎるこの頃であった。
怠け者の私でも精一杯の日々が続いている。
曇り日、気温は10℃に留まり寒い一日となる。
明日は朝から晴天となり少し暖かくなりそうだ。
寒の戻りももう少しの辛抱だろう。
あと二週間もすれば春彼岸である。
朝の国道を行けば白木蓮の木に蕾がいっぱい見えていた。
毎年楽しみにしている春を告げる花である。
樹齢は定かではないが随分と昔からある木だった。
そのてっぺんは二階建ての民家の屋根よりも高い。
残念なのは国道沿いなので写真を撮ることが出来ない。
花が咲く期間は短く直ぐに散ってしまうのも切ないものだ。

ここ数日の心労だろうか今朝は血圧が170と高く驚く。
おまけに職場に着くなり胃がしくしくと痛み始めた。
義父の姿が見えるなり緊張で逃げ出したいような気分になる。
とにかく余計な会話をしないことだと言い聞かせていた。
それがどうしたことだろう。「さあやるぞ」と義父の明るい声がした。
車検整備の終わった車が5台もあり次々に検査を始める。
まるで何かを吹っ切ったような義父の姿であった。
訊けばまだ左腕の痛みが治っておらず辛い様子である。
けれども無理をしてでもやるべきことをやろうとしていたのだった。
あの不機嫌はいったい何だったのだろう。まるで狐につままれたようだ。
おかげで仕事は順調に捗どり私も肩の荷が下りた気がする。
胃の痛みも無くなりおそらく血圧も下がっていたのだろう。
終始上機嫌の義父に救われたような一日だった。
車検完了の事務仕事に追われ3時半に帰路に就く。
途中でラジオが突然聴こえ始め嬉しくてならない。
けれどもトンネルでライトを点けたらまた聴こえなくなるのだ。
まるで義父みたいなラジオだなと可笑しくなってしまった。
買い物を済ませ4時半に帰宅。娘の車を見ると何ともほっとする。
夫は生乾きの洗濯物を乾燥機に入れてくれたのだそうだ。
それを自慢気に話すので娘と一緒に笑い転げていた。
「おじいやんはえらいね」とよいしょよいしょしておく。
娘はまだハローワークには行っていないとのこと。
ネットで求人情報は確認しているがまだ迷っている風だった。
実は私も仕事の合間に求人情報を見ておりそれとなく娘に話す。
余計なお世話だと叱られると思っていたが娘が頷いてくれて嬉しかった。
けれどもいくら母親でも老婆心は程々にしなければならない。
私はフルタイムで働くよりもパートの方が助かるが
娘はどちらを選ぶのだろうか。それも口出しは禁物である。
あやちゃんの卒業式も刻々と近づいているが
やはり出席する気はないようで娘も諦めているようだった。
昔は卒業式には中学の制服を着るのが習いだったが
今はどうなのだろう。女の子は袴姿なのだろうか。
あれこれと叶いもしない姿を想像するばかりであった。
何とも侘しいものである。こんなに切ないことはないように思う。
変わること変わらないことの間で人は皆精一杯に生きている。
何が正しくて正しくないのかも誰にも分からないだろう。
日常が繰り返される真っ只中で季節は移り変わっていく。
二十四節気の「啓蟄」
春を感じた虫達が土の中から出て来る頃。
いかにも春らしく心がときめくような節気である。
虫に限らずあらゆる生き物が動き出す季節でもあるらしい。
人もそうでなければいけない。私も土を払い除けられるだろうか。
昨日とは打って変わって義父の機嫌がすこぶる悪い。
お昼になっても居室から出て来ないので心配になって電話したら
「何だ?」とその語気の荒いこと。もう何も言えなくなった。
「啓蟄」らしく「いらいら虫」が動き始めていたのだろう。
思うように仕事が出来ないこと。特に田植えの準備のようだった。
他の米農家さんよりも「種蒔き」が随分と遅れているらしい。
友人達が心配してくれるので余計に焦っているようだった。
その上に工場の仕事も順調に捗らず焦りに拍車を掛けている。
とにかく当たり散らすので同僚も私も精神的に辛かった。
けれども一番辛いのは義父だろう。どうすれば救ってやれるのだろう。
気長に見守るしかなくひたすら耐えるしかないように思う。
山あり谷ありであるがいつまでも高い山が聳えている。
ここは体力ではなく精神力である。もっともっと強くなりたいものだ。
整形外科のリハビリのある日で義父に声も掛けずに退社した。
なんだか後ろめたかったが逃げるのが得策である。
ラジオは全く聴こえない。私もいらいら虫に食べられてしまいそうだった。
週末にはまたダイハツである。ラジオの修理を予約してあった。
また灯台下暗しになるが義父はもちろん同僚にも頼むことは出来ない。
リハビリを終え4時半に帰宅。持つべきものは娘であった。
殆ど会話の無い日が続いていたが最近はよくしゃべるようになった。
それだけ娘にも余裕が出来たのだろう。何とも嬉しいことである。
台所に笑い声が響く。夕飯の支度も楽しくてならない。
私の「いらいら虫」は何処に行ってしまったのだろう。
羽根が生えて空を飛んでいるのだろうか。
冷たい雨の一日。時おり激しく降る時間帯もあった。
梅の花が満開になっており震えているように見える。
やがて春の雪のように散っていくことだろう。
菜の花も所々に咲き始めているがまだこれからのようだ。
四万十川の河川敷では毎年「菜の花まつり」が行われている。
それは見事な一面の菜の花でほっこりと心を和ませてくれるのだった。
掛かりつけの病院の直ぐ近くなので通院日に行ってみようと思う。
行動力が無いと嘆くより自ら進んで動くことが肝心だろう。

さて義父のご機嫌は如何なものか。少し緊張気味の朝であった。
右腕の痛みは治まったが左腕がまだ痛むようである。
「なんぼか痛いろう、苛々するね」と先手を打っておく。
その効果があったのか昨日のような苛立ちは全くなかった。
その上に義父の友人が「種籾」の手伝いに来てくれていた。
あまりの雨に作業は中止になったが義父の話し相手になってくれる。
それがよほど嬉しかったのだろう。意気投合し昼食も食べに行く。
ずっとまともに食事を摂れない日が続いていたので
どんなにか美味しかったことか。上機嫌で帰って来た。
お昼過ぎにお客さんからヘルプ要請があり故障車の運搬作業に行ってくれる。
村外なので運転が心配だったがいざ運転席へ座ると何とも頼もしい。
2時間程で帰って来てそれからもずっと上機嫌であった。
昨日は悪夢を見ていたのかもしれない。何と辛かったことか。
穏やかな義父の顔が神様のように見えた。
事務仕事も一段落しており2時半に退社する。
義父の友人が「もう帰るのか」と笑っていた。
私にはちょうど6時間のパート仕事が最適であった。
忙しい時には臨機応変に残業をすることにしている。
4時前には帰宅していたが娘が居てくれるので何と楽なことだろう。
思い起こせばこの9ヶ月間よく頑張ったものである。
娘の再就職が決まればまた忙しくなりそうだが
つかの間でも楽をさせてもらえて有難くてならなかった。
母親と過ごす時間が出来たせいかあやちゃんも一気に明るくなった。
もう12歳であってもやはり母親に甘えたいのだろうと思う。
今日はカレーが食べたいと言ったそうで娘が材料を買って来ていた。
甘えられる方も嬉しいものである。母娘の絆もそうして深まるのだろう。
「あやちゃん出来たよ〜」娘が呼べば「やった〜」と明るい声がした。
外気温20℃の朝。小雨が降っていたがやがて本降りとなる。
雨風ともに強くなりまるで春の嵐のようであった。
関東では気温が急降下し雪が降っていたようである。
昨日との温度差が18℃とは驚くばかりだった。
高知県西部も明日から気温が下がり始め寒の戻りとなりそうだ。
幸い雪の心配は無さそうだが明日は大雨の予報である。
荒れる日もあれば穏やかな日もある。それも春の兆しなのだろう。

心配していた義父は腕の腫れが治まり熱も平熱になっていた。
今日は少し動けそうだと云うので何と安堵したことだろうか。
けれども一気に仕事をさす訳にもいかずはらはらとするばかり。
あれもこれもと気が急いていたのか少し苛立っているようだった。
口調も荒くちょっとしたことで機嫌を損ね雷を落とす。
それが少なからずストレスになったのか胃がしくしくと痛んでいた。
義父の入院からこっち私も同僚もどれ程苦労したことだろうか。
一番辛かったのはもちろん義父だが高慢であってはならない。
労う気持ち思い遣る気持ちが大切なのではないだろうか。
パワハラとも思える言動が多くすっかり気が滅入っていた。
けれどもそれが義父の持って生まれた性分なのだろう。
誰が何と云おうと「社長」でありお山の大将なのである。
今日の苛立ちが尾を引かないように願うばかりであった。
そうして必要以上に無理をさせないことである。
どうかどうかもうこれ以上悪いことが起こりませんように。
お昼休憩も無かったのでぐったりと気疲れして帰路に就いた。
今日はまだ序の口である。明日はもっと忙しくなるだろう。
三人で力を合わせて荒海を乗り越えて行かねばならない。
義父に母の夢を見たことを話したら
「そうか、やっぱ近くにおるがじゃな」と頷いていた。
おそらく母は一部始終を見ているのだろう。
そうして少しでも良い方向に向かうように仕向けてくれている。
「ありがとうね母さん、明日も一緒に頑張ろうね」
曇り空であったが気温は今日も20℃を超え汗ばむ程の陽気となった。
三寒四温とはよく云ったもので火曜日辺りにはまた寒波のようだ。
寒さにはすっかり慣れてしまっているがきっと戸惑うことだろう。
太っているせいか汗がハンパない。今日も夫に異常だと云われる。
衣類の調整はしているがさすがに半袖にはなれなかった。
じっとしていても汗が流れる。少し動けば大汗である。
この有り様ではこの夏の猛暑には参ってしまうことだろう。
「多汗症」と云う病気があるらしいがただの「汗っかき」だと思いたい。
もうこれ以上の病名など勘弁して欲しいものである。

暖かさに誘われたのか夫が「一風」に連れて行ってくれた。
僅か20分程のドライブであったが嬉しくてならない。
今日も「チャーシュー麺と炒飯のセット」であった。
食べながら何と幸せなのだろうと思う。
仕事がずっと忙しかったのでまるでご褒美のようだった。
夫も労ってくれたのだろう。その優しさに感謝である。
食べ終わってから山里の義父の様子を見に行こうかと思ったが
例の女性が来ているかもしれないとそのまま帰路に就いた。
明日には会えるのだ。どうか少しでも恢復していることを願うばかりである。
帰宅するなり眠気に襲われ倒れ込むように寝ていた。
久しぶりに母の夢を見る。まるで生きているようであった。
一緒に仕事をしているのだが邪魔ばかりして手に負えない。
母は母なりに仕事をこなそうと頑張っていたのだろう。
さすがに「もう一度死ね」とは云えなかったが
喫茶店へ行くようにと告げ母を追い出していた。
「コーヒー代はあるけん」その母の声の何とリアルだったことだろう。
お金の心配をしていたのに違いない。母らしいなと思った。
はっと目覚めると寝汗をいっぱいかいていた。
うなされていなかったかと夫に訊くと鼾が凄かったぞと笑うばかりである。
母に会えたのだ。死んだとは思えないほど確かに母であった。
3時を過ぎており「おでん」を煮込み始める。
無性に食べたくてならなかったのだがもう季節外れかもしれない。
台所の窓を開け放し風に吹かれながらおでんを煮た。
夕食後、夫は義妹宅に招かれ浮き浮きした様子で出掛ける。
娘夫婦とめいちゃんも後を追うように出掛けて行く。
私とあやちゃんはお留守番だが「二人きり」も良いものだなと思う。
相変わらず会話は無かったが気配を感じるのが嬉しい。
鉛筆を削る音。学校へ行かなくてもしっかり勉強をしている。
もう直ぐ中学生だが少しも迷いはないように思えた。
未来はきっとあるだろう。全力で見守るのが家族の務めである。
三月の声を聞くなり最高気温が20℃を超え四月並みの暖かさとなった。
暖かいのは嬉しいが異常だと思えば不気味なものである。
これで寒の戻りがあればどんなにか戸惑うことだろう。
職場の紅梅が一気に花盛りになった。
まるで三月になるのを待ちわびていたようだ。
生前の母が愛でいたことを思い出し少し切なさを感じる。
重機で整地をした時に義父が残しておいてくれたおかげだった。
お隣は随分と前に老夫婦が亡くなり今は空家になっている。
数日前からチェーンソーの音がしており庭の大きな木を伐採していた。
嫁いでいる娘さんも管理が出来なくなったようである。
それはそれで仕方ないことだが今日は家の前を通りはっと驚く。
何と毎年綺麗な花を咲かせていた桜の木まで伐採されていたのだ。
おそらく娘さんが幼い頃からあった木ではないだろうか。
それを惜しげもなく伐る。いったいどれほどの覚悟なのかと思う。
切り株の何と無残なことだろう。思わず涙が出そうになった。
これから蕾を付けて二十日もすれば花が咲いたのに違いない。
なんだか殺められたように思った。もう二度と咲けはしないのだ。

義父は昨日よりも少し楽になっているようだったが昨夜も発熱である。
幸い高熱ではなかったが三日目となるとさすがに辛そうであった。
食欲もなく何かを口にする気力もないように見えた。
患部を冷やすことしか手立てはなくアイスノンで冷やし続ける。
せめて例の女性が看病してくれたらと思うが今日は姿が見えなかった。
私は二階に上がるのがやっとで何もしてやれない。
心苦しくてならないが義父は「大丈夫やけん」と言ってくれる。
後ろ髪を引かれるような思いであったが2時半に退社した。
一刻も早く患部の腫れが治まることを願うばかりであった。
点滴の液漏れさえなければこんなことにはならなかったのだ。
あまりにも無責任ではないかと思い病院への不信感がつのる。
それにしても悪いことばかりどうして続くのだろう。
もしかしたら母が寂しがっているのではないかと思った。
供養も疎かにしており遺骨の埋葬も出来ずにいる。
けれども義父も私も精一杯の日々であった。
母ならばきっと理解してくれるはずだと信じたい。
義父を救ってはくれまいか。朝に晩に母の遺影に手を合わせている。
それが私に出来る唯一の供養であった。
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