ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2020年06月30日(火) 母でありながら母になりたがっている

雨風ともに強くまるで嵐のような一日だった。

夕方になりやっと静かになりほっと空を仰いでいる。

曇り空だけれどもしかしたら西の空が茜色に染まるかもしれない。

そんな空を燕たちが群れをなして飛んでいるのが見える。



昨夜は深夜に息子からメール。何事だろうと一瞬不安がよぎった。

夜勤中だとのこと。あまりの雨にけい君の登校が心配だったよう。

出来れば学校まで送って欲しいとのヘルプメールだった。


病弱なお嫁さんの事も気がかりになりすぐに了解の返信をする。

頼ってくれたのが嬉しかった。出来る事なら何でもしようと。


午前7時過ぎ息子のマンションへ向かう。

けい君はすっかり準備をして笑顔で待っていてくれた。

お嫁さんの顔色も良くそれが何よりもほっとする。

いつ体調が崩れるのかわからない。倒れてしまう心配もあった。

息子がいなくてもちゃんと母親をしている気丈な姿を確かめる。


ランドセルを背負ったけい君を初めて見た。

しばらく見ないあいだに背も少し伸びたように感じる。

すっかり逞しくなった姿に感動さえおぼえる。


学校の規則で通学路までしか送っていけなかったけれど

ちょうど同級生のお友達と一緒になってとても嬉しそうだった。

傘が風で飛ばされそうになるのをはらはらしながら見送る。

けい君の通う小学校はマンモス校で大勢の児童が歩いていた。

それがなんだか大きな渦のように見えて少し怖いなと感じる。

単なる老婆心なのだろう。けい君にとっては大切な仲間なのだ。


今度はいつ会えるだろう。息子たちとの距離はなんだかせつなく

母でありながらそれを否定するかのように母になりたがっている。



2020年06月29日(月) みかちゃんおやすみなさい

晴れのち曇り。今夜から雨になりそう。

今にも降り出しそうな空を仰ぎながらこれを記し始めた。


身体にまとわりつきそうな湿気。せわしなく首を振り続ける扇風機。

歌うようなことは何もないけれどふと歌を詠んでみたくなる。

そんなふとしたことにしがみつこうとしている愚かな私がいた。



仕事は活気に満ちており今週も忙しくなりそう。

明日はもう月末。まるで駆け抜けたような6月だった。

資金繰りさえ整えばもう怖いものなどない。

支払い予定のノートを見ながら「うん大丈夫」と肩の荷を下ろす。


同僚にもほんの気持ちだけれど「がんばったで賞」を手渡す。

よほど思いがけなかったのか今日はとても機嫌が良かった。

てきぱきと仕事をこなしてくれる。なんとありがたいことだろう。

どんなに頑張っても報われないのではあまりにも理不尽におもう。

私の一存で出来る事ならばこれからもそうしてあげたかった。


帰り道に税理士事務所に寄り決算の帳簿類を手渡す。

もう30年以上もお世話になっている事務員さんと話していたら

なんと私と同じ「みか」という名前だと初めて知った。

お互いに姓で呼び合ってずいぶんと長い歳月が流れてしまったのだ。

今度からは「みかちゃん」と呼ぼう。なんだかわくわくと嬉しい。


帰宅しながらみかちゃんのことをかんがえていた。

5時まで仕事だろうなあ。それから買物をして夕飯も遅くなるだろう。

家族は何人いるのだろう。その前にみかちゃんは何歳なのだろうとか。

考えだしたら果てしなく妄想もふくらんできて愉快になってきた。


みかちゃんおつかれさま。みかちゃんおやすみなさい。





2020年06月28日(日) それにしてもよく寝ました

雨のち晴れ。思いがけずに青空が広がる。

風があったけれどずいぶんと蒸し暑い一日だった。


朝のうちにお大師堂へ。やはり活けてあった紫陽花が萎れていた。

もう活ける花もなく萎れた紫陽花をそっと川に流す。

日捲りの暦を今日にして蝋燭に火を灯しお線香を立てる。

般若心経が今日はどうしたわけか声が震えてうまく唱えられない。

途惑いながらもお堂の中には凛とした空気が漂っていた。


なにか雑念のようなものがあるのだろうかとふと思う。

自分で自分の事がよくわからない。最近は特にそれを感じる。



早めに昼食を済ませあとはひたすら寝てばかり。

時おり孫たちの声に目覚めてはまたとろとろと寝入ってしまう。

やっと起き出した時にはもう午後3時になっていた。


ふたいとこのまあちゃんが遊びに来ていてめいちゃんと水浴びをしていた。

どうりで賑やかだったこと。楽しそうなはしゃぎ声が庭中に響いていた。

水着姿の可愛らしいこと。いつまでも見ていたいような微笑ましい光景。



夕飯は手作り餃子を。娘とふたりで50個ほど作る。

ホットプレートで焼いて熱々のをはふはふと食べてとても美味しい。

孫たちはまだ餃子が食べられずレトルトのカレーを。

そろそろ大人の味もと思うのだけれど無理強いは出来なかった。

我が家の餃子はニンニクと生姜がたっぷりと入っている。


食後の後片付けを終えてゆったりとお風呂。

明日からまた新しい一週間が始まるのだなと思いながら

すっかり疲れのとれたからだが湯船でちゃぷちゃぷと嬉しそう。





2020年06月27日(土) おつかれさまそしてありがとう

つかの間の青空のあと午後からぽつぽつと雨が降り始める。

蒸し暑さも増しいかにも梅雨時らしい一日だった。


職場の庭のやまももの実が先日はとても酸っぱかったのだけれど

美味しくなっていると親戚の伯母たちがそろって採りに来る。

木の下にビニールシートを広げ義父が木に登り振るい落した。

ぱらぱらぱらとものすごい音を立てて実がたくさん落ちてくる。

義父はまるで少年のよう。伯母たちも歓声をあげて少女のよう。

そんな姿を見ているだけで楽しくてならず笑みがこぼれる。


よく熟れている実はたしかに美味しかった。とても懐かしい味。

母にも食べさせてあげたいと思うだけで届けることも出来ない。


仕事中とはいえそんなひと時もありよき気分転換になった。



一時間の残業になり帰宅。疲れはあっても心地よい達成感が勝る。

する仕事のあることはほんとうにありがたいことだと思う。

明日はゆっくりと休もう。そうしてまたぼちぼちと頑張ろう。


一日中孫たちと過ごしていたじいちゃんもちょっとお疲れ気味で

口数も少なくなんだか機嫌が悪いのが気になっていた。

聞けば近所のお友達が集まり総勢5名の子供達だったそう。

「もうほったらかしにしといた」と言いつつ気が気ではなかったのだろう。

今月はずっと私が仕事だったのでじいちゃんにはほんとうに助けられた。


夕飯はあやちゃんの好きな豚カツと肉じゃが。

娘が気遣ってくれて「あやに合わさなくてもいいよ」と言ってくれる。

けれども昨夜みたいに悲しいのはいや。やっぱり喜んで欲しいから。


ちゃんと出来ない日もいっぱいある。手抜きばかりの時だって。

でもおばあちゃんだってちゃんと出来る日もあるよね。


あやちゃんが美味しそうに食べながら「ありがとう」って言ってくれた。



2020年06月26日(金) あるがままに

曇り日。時おり思い出したかのように薄日が射しひどく蒸し暑い。

しばらくは梅雨空が続きそう。あるがままの空を受けとめてあげよう。


わたしもあるがまま。もう背伸びをするような年でもないし

ひっそりと自分の殻に閉じこもっているのも良いかもしれないと思う。


羽ばたこうとも思わない。だって生きているだけでじゅうぶんだもの。

たとえまだ自分の知らない世界があるのだとしても

そこはきっと自分にはふさわしくない場所なのだと思っている。


身の程を知るという事はそういうことなのだ。




ぐったりと疲れて帰宅。あやちゃんがまた夕飯が気に入らないと言う。

いつものことなのに今夜はなんだか涙が出そうになる。

口にこそ出さなかったけれど「いいかげんにして」とこころで叫ぶ。

苛立っているのが自分でわかる。なんと大人気ない事だろう。


娘がすぐにフォローしてくれておにぎりを作ってくれた。

よかった。あやちゃんが笑顔になってくれてほっと嬉しくなる。



外はまだ薄明るいけれど早めに床につこうと思う。

ごろごろしているうちにすぐに眠くなるだろう。

明日のことはまたあした。きっとちょこっと元気な朝が待っている。



2020年06月25日(木) 気にしない気にしない

霧のような雨が降る。優しい雨でよかった。

午後にはやみずいぶんと涼しく感じる。


紫陽花の花が盛りを過ぎ少しずつ枯れ始めてしまった。

やがて化石のようになることだろう。目をそらしてはいけない。


私は花にはなれないけれど枯れるせつなさを知っている。

おそらく土なのだ。踏みしめられて踏みしめられてつよくなる。

そんな土でも老いるせつなさにふと涙する時があるのかもしれない。



さっき二階に上がろうとしていたらあやちゃんが

「もう日記書いた?」と訊いてくれた。「まだ今からよ」

「よくもまあ毎日書くことがあるわね」と娘があきれたように言う。

気にしない気にしない。だってあやちゃんが応援してくれている。


何よりも書きたくてたまらないのだから中毒みたいなもの。

書けなくなったらもう私の人生は終わりとさえ思っている。



決して老体にムチを打っているわけでもないのだけれど

木曜日になるともうすっかりくたびれてしまっている。

気力はあるのに体力がついていかないのがなんとももどかしい。


あと二日なんとか乗り切ろう。だいじょうぶそんなに脆くはない。











2020年06月24日(水) こころが風に吹かれている

雲が多かったけれどおおむね晴れ。

梅雨時とは思えないほどの爽やかな風。

午後にはまるで秋の空のようなうろこ雲が見えていた。


ゆらりゆらりともの思うことが多いこの頃。

こころが風に吹かれているのだろう。

一処にとどまらずつかみどころがないような安定のなさ。

はっきりとした芯がない。かと言って折れもしないでいる。



仕事が怒涛の忙しさ。同僚にかなりの負担をかけている。

月末までぎっしりと詰まった予定表を見ながら

私は段取りをするばかりで何の役にもたっていない気がする。

もはや経営側に居る自分にいったい何が出来るだろう。

せめてお給料を上げてあげたいものだと思うばかり。

私の一存でそれが出来る。それも私の仕事なのだった。



仕事を終えて家の近くのサニーマートで買い物。

今日からセルフレジになっていてびっくりとおどろく。

初めてのことで店員さんがおしえてくれたのだけれど

食品のバーコードを探すのにあたふたと手間取ってしまった。

でもなんだかとても楽しかった。これはいいなと癖になりそう。


帰宅して娘に話したらパート従業員のことを心配していた。

店側が人件費の削減を考えているとしか思えないと。

それを聞くとやはり複雑な思いが込み上げてくる。

お客さんが皆セルフレジに慣れてきたら店員さんが不要になる。

便利になればなるほど裏では苦境に立たされる人が居るのだ。


娘に言われて初めてきづく世の中のかなしい現実だった。

いつも笑顔で応対してくれた店員さんの顔が目に浮かんだ。







2020年06月23日(火) ソウルメイト

雲ひとつない青空。涼しくて爽やかな朝となる。

今年の梅雨はなんだかさっぱりとした性格の人のようで

いつまでもぐじぐじしないと言うか女々しさを感じさせない。

そんな空が好きだ。人もみなそうであってほしいものだ。



友の命日。ずいぶんと歳月が流れもう20年目の夏になった。

今朝は形見の「貝殻」を洗い手のひらにのせて声をかける。

生前は水中カメラマンだった。海の底から綺麗な貝殻を見つけて来ては

ガラスケースに飾り眺めるのをとても楽しみにしていたのだった。

ある日そのひとつを無理やり貰って来た。よほど気に入っていたのだろう

「それは駄目だ」と言ったのを奪うようにして持ち帰ったこと。

まさかそれが形見になるなんて思ってもいなかったあの頃。


懐かしい思い出を胸に私は生き永らえている。

また来世でもきっと巡りあえるだろう。それが縁というものなのだ。



今はもう死語なのかもしれないけれど私は「ソウルメイト」を信じている。

「ツインソウル」という言葉もある。より深い魂の出会いを言う。

たとえば夫婦、家族がそう。前世からの深い縁でつながっているのだ。


中島みゆきの「糸」に歌われているような縦の糸と横の糸

手繰り寄せるために生きていると言っても他言ではないだろう。

しあわせは「仕合せ」その根本は縁だと私は思っている。


私はそんなうんちくを並べ立てるほどの人間ではないけれど

今夜はふっとそんなことを思い浮かべながらこれを記してみた。


この日記を読んで下さっている皆さまともご縁があったのでしょう。

とても励みに思っています。ほんとうにありがとうございます。






2020年06月22日(月) ある日突然かもしれないこと

朝から爽やかな青空が広がる。涼しくてなんとも心地よい。

日中は気温が高くなり真夏日となる。きらきらとまぶしいおひさま。


職場のやまももの実がすっかり紅くなったのでひとつ千切って食べてみた。

それは口が曲がるほど酸っぱくてとてもふたつは食べられない。

少し残念に思いながらもやはり懐かしい味だった。


おてんばだった子供の頃には木に登って口いっぱいに詰め込んだっけ。

それから種をぷぷっと飛ばして遊ぶのだ。それがとても楽しかった。




仕事で隣町のお得意様まで集金に。手土産に地鶏の卵と木耳を持って行く。

山里の「じまんや」と言うお店で買い求めたもの。

いつ行っても山里の特産品があって今日は何にしようかなと選ぶ楽しみ。

地鶏の卵でたまごかけご飯をしたら美味しいだろうなあとか

木耳はさっと湯がいてポン酢醤油で食べたら最高だなあとか。

そんなささやかな手土産を喜んでもらえてとても嬉しかった。



いま午後7時40分。外はまだ薄明るくて西の空が茜色に染まっている。

あやちゃんが私の部屋へ入って来て「何してるの?」と訊くので

「日記を書いているのよ」と応えるとふ〜んと不思議そうな顔。

おばあちゃんにも宿題があるのかときっと思ったのだろう。


もう長いこと書いているからあやちゃんが生まれた日もあるよ。

めいちゃんが生まれた日もあるよ。昨日の事も今日の事もね。

そう言ってからつい「おばあちゃんが死んだら読んでね」と。


「うん、わかった」とあやちゃんが言ってくれてほっとする。

いつかきっとそんな日が来るだろう。ある日突然かもしれないこと。


ただこの日記スペースがいつまでネット上に在り続けてくれるか。

それがいちばんの不安でもあり在り続けて欲しいと願うばかり。


消える事だけはしたくない。たとえ最後の日記だったとしても。



2020年06月21日(日) 自分の人生は自分で決めなきゃ

曇り日。梅雨独特の蒸し暑さもなくとても涼しく感じる。

夏至。日食。そして新月となんだか空が主役のような一日。


朝のうちに久しぶりにお大師堂にお参りに行っていた。

コロナ騒動が始まってからなんとなく足が遠のいていたので

3ヵ月ぶりではなかっただろうか。ずいぶんとご無沙汰していた。


荒れ果てているのではと心配をよそにそれは綺麗にしてあって

Sさんやお参り仲間さんのおかげだとほっと嬉しく思う。

Sさんだろうお堂の周りの草刈りもしてくれていた。

それが浜木綿の花まで根こそぎ。Sさんらしいなと少し苦笑い。

以前から「この花は好かん」と言っていたのを思い出す。


花枝を新しくし紫陽花の花を一輪添える。

お供えのお菓子。手水鉢の水も入れ替える。

私に出来ることがあって良かったなとありがたく思った。


またこれからも少しずつお参りに来ようと決める、

こころがとても清々しくなる。それがとても大切なことに思えた。



父の日でもありじいちゃんが「夏用の帽子が欲しい」と。

なんだか子供のようにおねだりをするので可愛らしいものだ。

一緒に買物に行くことはめったにないけれど今日は特別だった。

気に入った帽子を被ってみるけれどことごとく小さい。

どうやら昨年の手術からこっち頭が大きくなってしまったよう。

「まだ腫れているのかもしれん」と言うのでちょっと心配になった。

やっとひとつだけぴったり合う帽子が見つかる。

薄いベージュ色で夏らしくよく似合っていた。


嬉しそうに帽子を被ったじいちゃんと少しだけドライブ。

宿毛市から大月町へ行き道の駅で田舎寿司を買って車中で食べる。

それから海沿いの道を走って土佐清水経由で帰って来た。


曇り日の海も良いもの。真っ青な海と違って少しせつない。

波もなく穏やかで水平線に大きな船が浮かんでいるのが見えた。



帰宅したら我が家は大変な賑わいになっていた。

あやちゃんのお友達、めいちゃんのお友達も遊びに来ていて

総勢6人の子供たち。あやちゃんはお友達と「人生ゲーム」をしていて

「う〜んどうしようかな」とお友達が迷っていたら

「自分の人生は自分で決めなきゃ」と助言していて愉快に思う。


そうね。その通りとおばあちゃんも思った。

たった一度きりの人生だもの自分の決めたように生きなくちゃね。

ゲームは何度でも最初からやり直しが出来るけれど

ほんとうの人生はほんとうに一度きり。

ただ失敗しても後悔してもまた前に進めるのがいいね。







2020年06月20日(土) 私に出来るたったひとつのこと

庭でバーベキューをしていた。まったくの予定外で急きょのこと。

娘むこが素潜り漁で伊勢海老とナガレコ(貝)を獲って来ていたので

「庭で焼こうよ」と娘が言い出しあらあらと言う間に準備が整う。

思いがけないことでとても楽しかった。孫たちも大喜びの夕食となる。



午後7時半を過ぎたけれど外はまだ明るい。

明日はもう夏至。いよいよ夏も盛りになることだろう。

めいさん(白井明大さん)の本を開く。

「日本の七十二候を楽しむ」という本は私の宝物でもあった。

季節ごとにわくわくしながら手に取る一生大切にしたい本である。


めいさんと出会ったのもネット空間でのことだった。

もうずいぶんと昔のことように思う。あれはいつ頃だったのだろう。

ある日私のHPの掲示板に訪ねて来てくれたのだった。

経緯は定かではないけれどどこからか辿り着いて来てくれたのだろう。

その時のことをずっと忘れられず歳月ばかりが流れてしまった。

いまだに白井さんとは呼べず「めいさん」と呼ぶ私をゆるしてほしい。

めいさんはきっと気を悪くしているのではないかと思っている。


出会った頃にはまだ無名だった彼は努力を重ね今は立派な作家さんになった。

そうして私の大好きな詩人さんでもある。世界一と言っても他言ではない。

彼の詩ほどわたしのこころにすうっと溶け込んでくる詩を他に知らない。


有名になればなるほど苦しい時もあるだろうと思う。

プレッシャーも大きいことだろう。いつも表舞台に立たされている。


そんなめいさんのことをかげながらずっと応援し続けている。

がんばれがんばれと。もうその声を届けることも出来なくなったいまも。

もしかしたらとありったけの拙い言葉で詩を書いたことがあった。

めいさんが「いいね」をしてくれた。たぶん最初で最後かもしれない。

ああちゃんと伝わったのだなと救われたような気がした。


こころを込める。それが私に出来るたったひとつのこと。



2020年06月19日(金) あとは這い上がるだけだ

雨のち晴れ。雨あがりの青空のなんと爽やかなこと。

夕陽の空から吹いてくる涼風に身を任せながらこれを記し始める。


あがきや焦りや憤りや昨夜の私はどうかしていたのだと思う。

とことん書いて気が済んだのか時には愚かな自分をゆるしてあげよう。

堕ちるところまでおちてしまえばあとは這い上がるだけだ。



昨夜眠りにつく前に先日本を出版した友と少しだけ話をした。

心の底から素直に感想を伝えられてほんとうに良かったと思う。

同じ時代を生きて来てともに老いを感じながらも

あがくことも焦ることもしながらとにかく前を向こうとしている。

私たちは「同志」なのだとあらためて思った夜のこと。


今日も仕事の合間に友の本を読みながらなぜか涙があふれていた。

その涙の訳を誰が知ろう。まるで友と私だけの秘密事のように。



仕事を終えて帰宅すれば日常の事が待っている。

私はそんな日常のなんでもないようなことが愛しくてならない。

いつもと変わらないこと。それがどれほど幸せなことだろう。


夕飯のチキンナゲットを「マックのとちがう」と拗ねるあやちゃん。

お姉ちゃんが食べないならわたしが食べると喜ぶめいちゃん。

イカのお刺身を分け合う父と娘。昨夜の南瓜煮をせっせと食べる私。

娘むこが帰って来るとイサギのお刺身。彼はイカが苦手なのだ。


流し台にはてんこ盛りの食器。それも幸せのカタチをしている。

我が家には我が家のカタチがある。パンダ柄のお皿を優しく洗った。







2020年06月18日(木) ひとからどう思われようと

大雨の予報が出ていたけれど幸いそれほどでもなかった。

ただ気温がぐんと下がり半袖では肌寒いほど。


夜明け前いつものようにパソコン画面に向かいながら

「さげすまされる」ことについてふかくかんがえていた。

それがどれほど愚かな事かとっくに知っているつもりだけれど

ぐるぐると堂々巡りのようにそれがおそってくるのだった。


まだ私が若かった頃、とある文学賞の表彰式に出席したことがある。

佳作入選だったけれど生まれて初めての事でとても嬉しかった。

どきどきしながら自分の順番を待ちつつ隣の席の女性に話しかけた。

そうしながら緊張を少しでも和らげようと思っていたのだと思う。


その女性は何も応えてはくれなかった。「ふん」という顔をして

一瞬私をにらみつけてから真っ直ぐに前を向き胸を張り続けていた。

同じ仲間ではなかったのだ。見あげるほどの高い場所に居たひと。

私は哀しくてたまらなくなった。場違いな場所に居る自分を感じながら

堂々と胸を張れない。こんなに嬉しいのにどうして哀しいのだろうと。


そんな昔話をどうして今頃と思うかもしれないけれど

あの時と同じ哀しみをいまあじわっている。それは毎日まいにち。


「ひとからどう思われようとじぶんを貫くこと」そんな言葉を信じる。

信じるしかないと思ってただただ書くことを諦めずにいる日々。


胸に勲章を付けた歌人でもなければ詩人でもない。

だからこそ書けることがあるのかもしれないと一縷の望みを捨てずにいる。

負けるもんかと思う。そうつぶやきながら自分の背中を押している。


私は蔑まされるために生まれて来たのではないのだと思う。

どんなに見下されても私はわたしであることを貫き通してみせよう。



2020年06月17日(水) 儚いネット空間でのこと

曇り日。時おり薄く陽射しがあったけれどずいぶんと涼しく感じる。

早朝のこと台所の窓から燃えているように紅い朝焼けが見えた。

綺麗な朝焼けが見えた日はお天気が崩れると聞いたことがある。

その通りなのか明日はまとまった雨になりそうだ。


SNSでは会話を控えめにしているのだけれど

今朝はとある詩人さんから声をかけて頂き思いがけず嬉しかった。

少しだけ会話をしているうちに大阪豊中の方だと知りおどろく。


豊中と言えば「たくちゃん」「けいちゃん」の住んでいる町。

ネット空間での出会いとは言えふたりのことは一生忘れられない。

どれほど心を通い合わせたことだろう。縁の深さを感じたことか。

まだ20代だったふたりのことを我が子のように想っていた。


たくちゃんは今年46歳になった。けいちゃんは41歳になる。

今はもう音信不通になっているけれど誕生日が来るたびに

歳を数えることでささやかに繋がっていられるような気がしていた。

きっとこの先も私は生きている限りふたりの歳を数え続けることだろう。


たくちゃんは逞しいお父さんになっているかな。

けいちゃんは目指していた教師になっているかな。

もしかしたらけいちゃんもお父さんになっているかもしれない。

いろんなことを想像しながら懐かしさで胸がいっぱいになってくる。


儚いネット空間でのこと。深く関われば関わるほど辛い事もある。

顔が見えないから「言葉」だけが頼りだったようにも思う。

その言葉で誰かを傷つけてしまったことも少なからずあった。

ちゃんと目を見て向かい合って謝ることの出来ない世界なのだ。

去る人は追わない。どんなに追いたくてもそれは不可能なこと。


たくちゃんとけいちゃんは羽ばたいて行ったのだと思っている。

ふたりがいちばん苦しかった時にそばにいてあげられて良かった。

ふたりの人生のほんの一部分に「わたし」がいるのなら救われる。


私がふたりを忘れられないようにふたりが私を憶えていてくれたなら。

そんな儚い願いを今夜はそっと記してみました。



2020年06月16日(火) どこか抜けているのが好き

今朝はずいぶんと涼しく感じたけれど午後から晴れて真夏日となる。

からりっとした暑さ。きらきらと輝く太陽はすっかり夏の顔をしていた。


うなだれているのは紫陽花。なんだか可哀想に見える。

向日葵にはなれないけれどそうなれたらと思っているかもしれない。

いえいえそれは違うと紫陽花に叱られてしまいそうだ。

日照りを受けとめる紫陽花はつよい。負けるもんかとなお咲き誇る。



仕事は今日も活気があって嬉しい悲鳴をあげていた。

このところ何もかもが順調でとてもいい感じなのだった。

そのうちに落とし穴もあるだろうけれどその時はその時の事と

また這い上がって行けばよいこと。とにかく日々を大切にと思う。



買い物をして帰宅。じいちゃんが洗濯物を取り入れてくれていたけれど

例のごとくで洗濯カゴに押し込んでありしわくちゃになっていた。

そのことを言わずにおこうと思いつつ言ってしまって後のまつり。

むっとしているじいちゃんに精一杯に感謝の気持ちを伝える。

良かれと思ってしてくれたことを決して咎めてはいけないのだ。


「ただいまあ」汗をいっぱいかいてふうふうとあやちゃんが帰宅。

二階は暑いので茶の間に居るように言うと素直に従ってくれる。

ゲームは「どうぶつの森」なのかな?とにかく夢中になって遊んでいた。


絶対に頑張らないと決めて肩の力を抜き夕食の支度。

あやちゃんが心配してくれて枝豆があれば何も要らないと言ってくれる。

冷凍の枝豆をチンする。鯵をお刺身にしてピーマンとベーコン炒め。

木耳の酢の物。あとは3割引きでゲットしたステーキ肉を焼く。


焼きあがった頃に娘が帰って来てくれたけれど

ステーキを焼くのにニンニクも忘れ塩胡椒も忘れていた。

「惜しいねえ、もうちょっとで完璧だったのに」と娘。


でもそれがなんだか褒められているようで嬉しかった。

だって私は完璧があまり好きではないしどこか抜けているのが好き。

たとえば「やっちまった」と笑い飛ばせるようなことが。


完璧でなくてはならない理由などない。

それは自分で決めているのか誰かから求められているのか

期待に応えようと頑張り過ぎてはいませんか?


肩の力を抜きましょうよ。それが自分を守る一番の近道です。



2020年06月15日(月) このコロッケはどこの?

曇り日。晴れて暑くなる予報だったので思いがけなかった。

気温も27℃ほど風がありずいぶんと涼しく感じる。

同じ四万十市でも江川崎は31℃を超えていたそうだ。

故郷の暑い夏。ふと子供の頃を懐かしく思い浮かべていた。



職場の庭ではやまももの実がほんのりと紅くなる。

今週中には食べられるようになるかもしれない。

あの甘酸っぱさがたまらない。楽しみに待っていよう。


ふと隣のねむの木を見あげたらもう花が咲き始めていた。

天使が羽根をやすめているような薄桃色の可愛らしい花。

どちらもむかし母が植えた木。まるで母の季節のように思う。



母の年金支給日だったので仕事を終えてから入居料の支払いに。

相変わらずまだ面会は出来ないけれど施設の看護師さんに会えた。

母は元気過ぎるほど元気になっていると聞き愉快に笑い合う。

なんでも車椅子に座らずに押しながら歩いているのだそうだ。

食事も大好きなカレーが甘過ぎると文句を言ったそうで

「もっとおとなのカレーを作ってね」となんと母らしいこと。

口はちょっと悪いけれどお茶目ぶりを発揮しているようだ。


母の様子をたくさん聞けて良かった。ほっと安堵するばかり。

けれどもあまりに元気過ぎるとまた施設を追い出されてしまうかも。

もうこれ以上の環境の変化を与えたくはなく複雑な気持ちもあった。



帰宅してひとやすみ。再放送の「ひよっこ」を見てからぼちぼちと

夕食の支度に取りかかる。娘が帰るまで最低限の事をと思っていた。

それがなかなか帰って来ない。早くビールが飲みたいとじいちゃん。

鰹をお刺身にして野菜炒めを作る。孫たちにはお惣菜のコロッケ。

まあこんなもんで良いじゃないとやれば出来てしまった夕食だった。


あやちゃんが「お母さんたちが帰ってから食べる」と言うので

じいちゃんとふたりで先に食べる。ふたりっきりは寂しいけれど

娘たちもたまには家族4人水入らずが良いかもと思っていた。


それがその通り家族4人でそれはにぎやかに食卓を囲んでいた。

あやちゃんが「このコロッケはどこの?」と訊くので

へらへら笑いながら「めっちゃおいしいでしょ」と言うと

ちょっと苦笑いをしながら「まあ丸にしてあげる」と言ってくれる。

バッテンじゃなくて良かったと喜んでいたら「二重丸にしてあげる」と。

ほんとは気に入らなかったことをとっくに気づいていた。

それなのに私を喜ばせようと気遣ってくれたことも。


今度おばあちゃん手作りのコロッケをきっと食べさせてあげるね。

それはあやちゃんが生まれて初めて食べる最高のコロッケなんだから。





2020年06月14日(日) 頑張らなくてもいいね

今朝は思いがけずに青空。それもつかの間の事で午後にはにわか雨が。

湿度が高くとても蒸し暑い。今日もエアコンのお世話になるばかり。


昨夜は不思議な夢を見て優しい手のひらの感触が確かにあった。

仕事の疲れもあったのだろう肩凝りがひどく背中に痛みもあったのを

その手のひらがずっとさすり続けてくれたのだった。

おかげで目覚めた時にはずいぶんと身体が楽になっていた。

なんとありがたいことだろう。誰の手だったのか私にはわかる。

もう何年も会ってはいないのに私を忘れずにいてくれたのだろう。




日曜日は怠惰に。そう自分で決めたとおりに過ごす。

肩の力を抜いてひたすらのんびりとごろごろするばかり。

それはほんとうにだらしないことなのだろうけれど

自分の限界を知ることも大切なことではないだろうか。

やれば出来ることを敢えてしない。それを言い換えれば

しなくても良いことはしなくても良いことなのだった。

したければすれば良いししたくなければしなければ良い。

たとえば掃除。埃で死ぬ人はいないとある医師が言っていた。



夕飯のメインは海老の天ぷら。あやちゃんが喜んでくれて嬉しかった。

娘が明日から3日ほど帰りが遅くなるのだそうで

「母は一人では何も作れないよ」と弱音を吐いて見せる。

「私が帰ってから作ればいいよ」と笑い飛ばしてくれる娘だった。


そっかじゃあ頑張らなくてもいいね。すいぶんと気が楽になる。



2020年06月13日(土) 出来ない時もあるんだよ

曇り時々雨。霧のような雨で濡れることも気にならず。

むしろ蒸し暑さが和らぎ心地よく感じる。


昨夜の雨で水溜りが出来ていて雀が水浴びをしていた。

なんとも可愛らしい。見ているだけでこころがなごむ。


雨あがりの朝は紫陽花がいちだんと鮮やかになり

山里に向かう道に彩を添えてくれてなんだかとても嬉しかった。

梅雨の季節ならではのこと。ありがたいことだなと思う。



仕事はとても忙しく2時間の残業の末やっと片づく。

疲れは確かにあったけれど心地よい達成感のほうが勝っていた。

やはり仕事が好きでならない。とても遣り甲斐を感じている自分がいた。


すっかり帰りが遅くなりいつものスーパーに寄る時間がない。

よっしと思いつくように国道沿いの「ちきん館」と言うお店へ。

ローストチキンで有名なお店なのだけれどお惣菜も売っている。

豚カツとハンバーグを買う。ローストチキンは高くて買えない。

家族が喜ぶ顔は全く期待出来ないのがなんだか愉快でならなかった。

「なんじゃこりゃ」と言いつつ我慢して食べてくれるだろうと。


あやちゃんが笑いながら手でばってんをして面白かった。

いくら大好きな豚カツでもこれは駄目だと言う合図。

それなのに文句を言わない。それがどれほどありがたいことか。

決して責めることをしない。そうして優しさや思い遣りを学んでいる。

「出来ない時もあるんだよ」言わなくてもちゃんと分かってくれるのだ。


家族がみな笑顔でいてくれるのが私にはいちばんのごちそう。

作り置きの胡瓜の浅漬けをぽりぽりかじりながら私は幸せだった。





2020年06月12日(金) ただ書きたいだけなのに

曇りのち晴れ。青空が見え始めると一気に真夏日となる。

蒸し暑さに耐えきれずとうとうエアコンのお世話になった。



夜明け前いつものようにパソコン画面に向かいながら

なんという空白だろうとまたひどく追い詰められてしまう。

いったい自分に課しているものはなんだろうと思った。

書かなければいけないのではない。ただ書きたいだけなのに。

ことばが宙に舞うのをやっとの思いでつかまえていた。

それなのに読んでくれるひとがいる。それが励みでなくてなんだろう。



金曜日。もうひとふんばりかなと思っていたけれど

仕事が片づかず明日も出勤することに決めて帰って来た。

同僚にばかり負担をかけるわけにはいかない。

する仕事のあるのはありがたい事と自分に言い聞かす。

とにかく優先順位を決めて行動しなければと思うのだ。

自分がするべきことは何か。いま大切なことは何かと。



帰宅して夕飯の支度までうたた寝。我ながらほんによく寝ること。

今夜は新鮮な鰹を買って来ていたので「ひっつけ寿司」を作る。

じいちゃんの大好物でうはうはと喜んでビールをぐいぐい。


夕食後また孫たちが散歩に出掛けて土手で「だるまさんがころんだ」

その姿をその声を聴きながらほっこりと微笑まずにいられない。

ああ今すんごい笑顔だなと思った。顔がほころんでいるのがわかる。


今日もいい日でした。ありがとうございました。



2020年06月11日(木) またあしたここで会いましょう

降り続いていた雨がやみ今は茜色の空。

今日は大雨の予報だったけれど幸い難を逃れられる。

ほっと空を仰ぎながらこれを記し始めたところ。


昨日は息子の41歳の誕生日だったのに何も記さずにいた。

今朝になり少し後悔する。決して忘れてなどいなかったのに。

息子には息子の家族がありもう母の出る幕ではないと思っていたのか

それにしてもずいぶんと長いこと会っていなくて音沙汰もない。

それが元気な証拠と程よい距離をずっと保ち続けている。



仕事は今日も活気があった。ほんとうに遣り甲斐を感じる。

自動車保険の更新手続きがあり業務提携先のY君と外回りの仕事。

お客さんとの談笑も楽しい。手続きはすべてY君がしてくれる。

てきぱきと仕事をこなす若いY君がとても頼もしかった。

まるで親子だけれどなかなかいい感じのコンビであった。



仕事を終えて帰り道ものすごい睡魔におそわれる。

車のルームミラーで自分の顔を見たら目がつぶれそうになっていた。

危険を感じ道端でひと眠りしようかと思いつつ走り続ける。

今までにも度々あったことだけれど何が原因なのかは分からない。

よほど緊張感がないのか腑抜けているとしか思えなかった。



夕飯は家族みんなが好きな牛丼。そのうえに娘婿が牛タンを買って帰る。

職場の近くに肉屋さんがあって無性に食べたくなったのだそう。

その牛タンを娘婿がフライパンでちゃちゃっと焼いてくれる。

あやちゃんもめいちゃんも初めての牛タンに挑戦していた。

「おいしい」とあっという間に食べ尽くしてしまっていた。

「今度焼肉屋さんに行こうか」と娘。それは楽しみなこと。



茜色だった空もいつの間にか真っ暗になっている。

今日もそうして平穏無事に暮れたのだとなんだか感慨深い。


私はもう眠い。いま8時24分です。もう寝ます。

おやすみなさい。またあしたここで会いましょう。




2020年06月10日(水) なんでもないような日常のことが

雨が降ったりやんだりそうしてつかの間晴れたりと忙しい空。

今夜遅くから明日の早朝にかけて大雨の予報が出ている。

集中豪雨にもなり兼ねずはらはらと心配なことだ。


昨夜は深夜に土佐沖を震源地とする地震もあった。

幸い大きな揺れではなかったけれど真夜中の事で慌てふためく。

のちの報道で南海トラフとの関連性は無いとのこと。

安心して良いものか。そう言われてもやはり不安はつのるものだ。

近い将来の大地震に備えなんとしても身を守らなければいけない。



あやちゃんの登校時間には雨が小降りになっておりほっと見送る。

私の通勤時も小降りのままで無事に職場に着けて何よりだった。

梅雨時の事また荒れる日もあるだろう。そんな季節をただただ受けとめる。


仕事は朝のうちに来客があっただけであとはとても静か。

決算の事務仕事も一段落し特に急ぎの仕事もなかった。

「早めに帰るよ」と同僚に声をかけ定時で帰路につく。


毎日買い物をするようになって不思議と緊張感が薄れているのに気づく。

かと言ってまだまだ油断は出来ずなるべく短時間で済ませている。

コロナはいったいどこに影を潜めているのだろうと思う。

消毒液の匂い。マスク姿の人々。それだけはずっと変わらない。


今日も平穏無事に日が暮れる。毎日がまるで綱渡りのようだ。

なんでもないような日常の事がとても愛しくてならない。

今夜もつまらない日記を書き終える。それさえも愛しいのだった。





2020年06月09日(火) だるまさんがころんだ

曇り日。山里では午後少しだけ雨が降る。

いよいよ本格的な梅雨になるのか明日からしばらくは雨の予報。

雨の季節ならではの楽しみもきっとあることだろう。

嘆かずにいよう。空も泣きたくて泣くのではないのだもの。


夕食後の散歩に出掛けた孫たちが土手で遊んでいるのが見える。

「だるまさんがころんだ」なんだかとても懐かしい。

楽しそうなはしゃぎ声を聴き微笑みながらこれを記している。



今日は仕事が面白いくらいに忙しかった。

張り合いがあって活き活きとしている自分が好きだなと思う。

昨年だったか義父にあと10年は頑張って欲しいと言われた時には

とても無理だと嘆き弱音を吐いたこともあったけれど

それも良いのかもしれないと思えるようになってきている。

義父が元気なうちはそばにいて助けてあげたいと思えるようになった。


難破船のような会社だけれどどこかの島に流れ着こうとしている。

それをしっかり見届けるまでは船を下りることは出来ない。

これも宿命だと思えば観念も出来る。私に与えられている試練でもある。



いつのまにか孫たちが帰って来ていて外はもう薄暗い。

「ほらほらお風呂よ」と娘の声が聴こえている。

焼酎のおかわりをしに台所に行ったらめいちゃんがぽつんと居て

私が「だるまさんころんだ」と言ったら後ろの正面に来る。

もういっかい「だるまさんがころんだ」と振り向いたら

私の足元にうずくまって隠れているめいちゃんが見えた。

「楽しいねえ」と言ったらにこにこ笑顔で「またやろうね」って。


そうしてお風呂に行きました。お風呂から出たらまたやろうかな。







2020年06月08日(月) こころのアルバム

今日も晴れ。梅雨入りしてからも晴天の日が多かったけれど

明日の午後からしばらくは雨の日が続きそうだ。

降り過ぎる雨は怖いけれど雨は決して嫌いではない。

梅雨らしさもなくてはならないもの。だから私は嘆くことをしない。


ほととぎすがしきりに鳴いて語りかける夜明け前。

また崖っぷちに立たされたかのように歌を詠み詩を書く。

私の誇りとはいったいなんだろうとふと思う。

無名のくせにと蔑みそうになりながらも生きようとしているのだ。

無様なことだろうか。滑稽なことだろうか。けれども負けはしない。




仕事を終えてちょこっと買物をして帰宅。

娘がお休みだったので大量の洗濯物をたたんでくれていた。

なんとありがたいこと。おかげですぐに横になることが出来る。

保育園から学校へ寄ってあやちゃんを美容院へ連れて行くと言うので

どんな髪型になるのかと楽しみにしながら帰りを待っていた。

うんとても似合っている。軽やかになって気持ちよさそうなあやちゃん。

今週はもうプール開きがあるのだそうで長い髪を気にしなくていいね。


夕食後の散歩に出掛けた孫たちの姿を窓から眺めていた。

なんときれいな夕焼け。孫たちの姿が絵のように映る。

この目がそのままカメラになれば良いのにと思った。

すぐに駆け出して行けばよいものをなんと出不精になったのだろう。


こころのままに行動が出来なくなってしまったけれど

こころのアルバムにはふたりの孫たちの姿がちゃんとあるのだと思う。


今日もいい日でした。ありがとうございました。





2020年06月07日(日) 「晴れ」っていいね

からりと爽やかに晴れる。風が涼しく過ごしやすい一日。

目覚めてすぐに窓を開けたらきれいな月が見えていた。

もう満月ではなかったけれどストロベリームーンなのだそう。

いつから月に名前をつけるようになったのだろう。

空を仰ぐ楽しみが増えた気がする。次の満月は何という名だろうか。



朝のうちに買物を済ませあとはひたすら怠惰に過ごす。

娘は仕事で娘むこも素潜り漁に行っていて孫たちを任されていたけれど

ほぼほったらかし状態で祖母の役目さえも怠けてばかりだった。

とにかく眠くて眠くてしょうがない。お昼前からもううたた寝。


孫たちの昼食もめいちゃんはカップヌードル。

あやちゃんはまだ食べたくないと言ってタブレットで遊んでばかり

「もう勝手にして食べたくなったら自分で食べて」と言い残して

そのまままた寝入ってしまっていた。目覚めたらもう午後三時。


じいちゃんは卵かけご飯を食べたそう。

あやちゃんは昨夜のハンバーグを温めてちゃんと食べてくれていた。

やるじゃんと思った。あてにされないのもなかなか良いものだ。

おばあちゃんは居るけれどいないのと同じ。そうそのとうりです。



こうしてまた今夜もつまらない日記を書き終えようとしているけれど

隣の子供部屋ではあやちゃんが宿題の日記を書いているところ。

「もう書けた?」と訊くと「あっち行って」と怒られてしまう。

国語の教科書を広げていて「晴れ」という字が見えていた。

「もう晴れと言う字を習ったの?」と訊くと「あたりまえじゃん」と。


「晴れ」っていいね。おばあちゃんもちゃんと書けたよ。



2020年06月06日(土) 継続は力なりと言うけれど

いかにも梅雨時らしい曇り日。午後ほんの少しだけ雨が落ちる。

幸い蒸し暑さは感じず過ごしやすい一日だった。


この日記もそうだけれど夜明け前に書いている短歌や詩も

なんだかマンネリ化してきたなと我ながら思う。

もともと才能などないものだからそれも当然のことだろう。

それでも書くことを諦めずにいる。もはやもう「あがき」に他ならない。


継続は力なりと言うけれどどれほどの力が私にあると言うのだろう。

生きる支えのようなものなのだろうかと思いつつまたこれを記している。



今日は急きょ仕事だった。昨夜お得意様より電話がありヘルプ要請。

同僚に任そうかと思ったけれどやはり自分が動かなければと思い直す。

義務と言うのとは少し違う。心のこもった対応が大切に思えたのだった。


午前中に一段落しほっとして午後は早めに終わらせてもらう。

あやちゃんがハンバーグが食べたいと言っていたので今日も買物。

土曜日のせいか店内が混雑しておりなんだかはらはらとするのを

ハンバーグのことだけを考えながらさっさとレジに並んでいた。

「レジ応援をお願いします」店内にアナウンスが流れて

店側もなるべく密を避けるように努めていてくれていてありがたいこと。


帰宅したらじいちゃんが「まいったまいった」と苦笑い。

めいちゃんが「ひま〜たいくつ」を連呼して困らせていたようだ。

それでもずいぶんと手が掛からなくなったこと。それが成長だった。


家族みんなでにこにこハンバーグ。あやちゃんが一番嬉しそう。


ささやかなことが愛しい。その愛しさをこうして記す。

読んでくださってありがとうございました。












2020年06月05日(金) 感謝すれば救われる

梅雨の晴れ間。30℃を超える真夏日となりとても蒸し暑くなる。

そういえば夏が好きだったなと思い出せば少しも苦にはならない。

ようは気の持ちようでひとは嘆くことをやめられるものなのだ。


むかし読んだ本に書いてあった。感謝すれば救われると。

とにかくどんなに辛い事があっても「ありがとう」と口にする。

たとえば「辛い目に遭わせてくれてありがとう」と。

相手がいることならなおさらそのひとに感謝すれば良いのだそうだ。


40代の始めだったか私は更年期障害の症状が出始めていた。

情緒不安定に加えうつ病。精神的にひどく落ち込んでいた頃のこと。

心療内科に通い医師と面談しながら泣きじゃくったこともある。

話を聴いてもらえるだけでずいぶんと救われる思いだった。

自分は弱くてとても脆いのだと信じ切っていたあの頃。


ある日の通院日に待合室でひとりの少女に出会った。

その少女は母親らしき女性に付き添われて自力で歩くことも叶わず

とても哀しそうな目をしていた。きっとどん底の辛さだったのだろう。


私はと言えば今日も話を聴いてもらおうと少し浮き浮きしていたような。

そんな自分がとても恥ずかしく愚かに思えてならなかった。


気がつけば私はそこから逃げ出していた。

その少女の辛さに比べれば自分はなんと恵まれていることだろうと。

そうしてその日を最後に私は二度とその心療内科に足を向けなかった。


むさぼるように自己啓発的な本を読み始めたのはその頃からだった。

心理学を学び自己暗示術も学んだ。まさに目から鱗のような本ばかり。


かれこれ20年近い歳月が流れたけれど私はまだ学び続けている。

更年期障害の薬も飲み続けていなければ不安でならない。

そんな弱さもあるけれど日々が成長なのだと思うことにしている。


自己暗示術はずいぶんと私を助けてくれたように思う。

それは心理学にもつながり暗示にかかりやすい自分をコントロールする。

たとえば私の口癖でもある「ぼちぼち」や「そろりそろり」もそう。

そう口にするだけで自分をコントロール出来る魔法のような言葉なのだ。


だから「ありがとう」もそう。感謝すれば救われると何度でも言いたい。

たとえどんな一日であっても「ありがとう」の一言で「いい日」になる。


今日もいい日でした。ありがとうございました。



2020年06月04日(木) ながいながいトンネルの出口に

薄曇りの空。時おりかすかに陽射しがあり梅雨らしい蒸し暑さとなる。

そんな時は風を待つ。なんだか恋しい人に会いたがっているかのように。


職場の庭に母が毎年愛でていたアマリリスの花がやっと咲く。

周りの草を引く人もいなくて荒れ果てた庭にそれは精一杯微笑む。

向かい合い語り合うようにして写真を撮った午後のこと。



職場は5月決算でぼちぼちだけれど帳簿の整理に取り掛かる。

法人登記をしてから26回目の決算。ずいぶんと歳月が流れたものだ。

その当時の事をよく憶えていて母もまだ若くばりばりの現役だった。

「おかあさん」とは呼ばず「専務」と呼んでいたのも懐かしい。

私は経理を任され一から母に教わった。貸方も借方もよくわからず

戸惑うばかりの私に母は時に厳しくそうして優しい日も確かにあった。

けれども甘えた記憶はない。母は常に上司であり専務と言う名の人。


そうして数年が経ちやっと一人前になった私と母はよく喧嘩をした。

特にパソコンが導入されてからはぶつかることが多くなる。

母は手書きの元帳を求め続けパソコンに向かう私を嫌っていた。

「そんなもんあてにならない」とよく言われたことを憶えている。

今思えばきっと悔しくてたまらなかったのだろうと思う。

やがて見積書も請求書も手書きではなくなる時が来てしまって

とうとう母のする仕事が何もなくなってしまったのだった。


母は決心したかのようにパソコン教室に通い始める。

けれどもそれを発揮できない。私がいるせいだと母は言うのだった。


泣きながら帰った日も多い。専務が母ならどんなに救われたことだろう。

私はわたしを責め続けていた。なんと親不孝な娘なのだろうと。

葛藤に葛藤を重ねながら会社を辞めようとさえ思ったこともある。


それからながいながいトンネルの出口にやっと母の姿を見つける。

昔の面影をかすかに残しやせ細った母はとても小さく見えたけれど

子供の頃の記憶のままに優しい母の笑顔がそこにあった。





2020年06月03日(水) どんなに不安でも私は怖れない

薄曇りの朝だったけれど次第に梅雨空となる。

夕方になり雨がぽつぽつ。夕散歩に行っていためいちゃんが

泣きじゃぐりながら帰って来て「もっとおさんぽしたかった」と。

あまりに大声で泣くのでご近所さんが心配して外に出て来てくれていた。


いまは機嫌を直してお風呂に入っている。やっぱりはしゃぎ声のほうがいい。



今日も仕事を終えてから買物へ。昨日決めたことだからと

もうまとめ買いをするのをやめた。ちゃんと夕食のメニューを考え

必要なものだけを買う。荷物が軽いそれだけでずいぶんと楽だった。

ちゃんと消毒液を置いてあったりレジにはビニールのカーテンが。

店員さんはポイントカードを手渡しせずに支払いはキャッシュレスで。

お店側も精一杯に感染予防に努めてくれていてありがたいこと。

まだまだ不安はあるけれど神経質になり過ぎてもいけないのだろう。

帰宅してすぐに手洗いとうがい。これだけは守らなくてはいけない。


あやちゃんの好きな牛肉。ハラミの味噌漬けが美味しかったようで

もぐもぐ食べながら「おばあちゃんあしたはなに?」ともう訊く。

「あやちゃんのすきなものね」と応えると「じゃあパスタね」と。

その時の嬉しそうな笑顔になんだか励まされているような気がした。

なんだか毎日買物に行くのが私の使命のように思えたのだった。


どんなに不安でも私は怖れない。可愛い孫のためなら立ち向かって行く。



2020年06月02日(火) なにが良くてなにが悪いのか

梅雨の晴れ間。ほぼ真夏日となったけれど爽やかな風が吹く。

今も心地よい夕風に吹かれながらこれを記し始めたところ。

春の忘れ形見のようにうぐいすが鳴いている。

からすはもうお山の巣へ帰ってしまったのだろうか。



今朝のめいちゃん。昨日の約束をちゃんと憶えていてくれて

私が出掛ける時間にはちゃんと準備をしていて笑顔で保育園へ。

ポニーテールが可愛い。後姿の写真を撮りたくてたまらなかった。

「おばあちゃんいってらっしゃい」保育士さんも一緒に見送ってくれる。

うきうきするくらい嬉しい。そうして仕事も楽しみになる。



職場では事務所に一人でいることが多くマスクを外しているけれど

今日は来客が多くそのたびに慌ててマスクをしていた。

けれどもお客さんの殆どがマスクをしていなくて戸惑う。

ほんとうにそれで良いのかと複雑な気持ちになった。

東京ではまた感染者が増えている。とても他人事には思えない。


そんな気持ちとは矛盾しているけれど今日の分だけの買物をして帰宅。

あやちゃんが夕食を喜んで食べてくれて嬉しかった。

どうして期待を裏切れようか。明日もきっと買物に行くことだろう。


なにが良くてなにが悪いのかついつい考え込んでしまうこの頃。

優先順位を決めて行動する時なのではないかと私なりに考えている。

自粛イコール不自由ではないのかもしれないと思う。

限られた暮しならば精一杯の事をしよう。そうして笑顔に会おう。



2020年06月01日(月) うけとめてあげなければ

いかにも梅雨らしい曇り日。重そうな空が落ちて来そうで

うけとめてあげなければと思う。押しつぶされはしないだろうと。


劣等感のかたまりのようで自尊心はある。

おまけに欲深く足るを知るにはまだまだ遠い。

いったいいつまで生きれば満たされるのだろう。



そうして6月が始まる。カレンダーには紫陽花の花。

季節ごとに愛でられる花があるのはとても幸せなこと。


今朝は少し早めに出勤しなければいけなくて

そんな朝に限ってめいちゃんが「おばあちゃんといきたい」と

そう言ってくれてとても嬉しかったけれど「ごめんね」

明日の朝もう一度言ってくれたらいいな。ねえめいちゃん。


毎朝保育園で竹馬の練習をしているのだそう。

少しでも早く行って練習したかったのだろう。

足の指に豆が出来てしまって痛くて泣きそうなのを

保育士さんが「がんばり豆」と名づけてくれたようだ。

一番にがんばり豆が出来たのがとても嬉しかったよう。

本番は秋の運動会。コロナ騒動がどうか治まっていますように。


あやちゃんは学校から帰るなり「ばんごはんはなあに?」

今日は買物に行かない日だったので冷蔵庫にあるもので作る。

それが気に入らなかったようで案の定一口も食べようとしない。

明日はお買物行ってあやちゃんの好きなもの作るねとなだめ

なんとか白ご飯だけは食べてくれた。文句こそ言わないけれど

我慢している様子が伝わって来てこころがちくちくと痛むばかり。


いっそのこと以前のように毎日買物に行こうかとも思う。

まだまだ油断は出来ないけれど食生活が疎かになるのも限界かも。

家族みんなが喜んでくれるものを毎日作りたいなと思う。



これを記しているうちにすっかり夜になった。

明日は晴れるのだそう。あしたのことだけかんがえて眠ろう。


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