2014年02月28日(金) |
かならず春はやってくる |
とうとう二月も最後の日、明日からは弥生三月と思うとなんだかわくわくする。
今日も気温が高くなりすっかり春を思わす陽気となった。 土手の土筆の坊やたちも気持ちよさそうに背伸びをしている。
あれはいつのことだったのだろう。 土筆を食べてしまったうさぎの童話のようなことを書いたことがあった。 たくさん泣いて赤い目になってしまったうさぎが土筆の坊やたちと出会うのだった。
「ぼくらを食べてよ」「おなかいっぱいになるまで食べてよ」
泣き虫のうさぎはぽろぽろ涙を流しながら「ごめんね、ごめんね」って 言いながら土筆の坊やたちを食べてしまったのだった。
でもね。また春が来ると土筆の坊やたちとちゃんと会えたんだよ。
泣きたいだけ泣きなさい。どんなに辛くてもかならず春はやってくる。
今日は先月亡くなった伯父の35日の法要があった。 実際にはまだ35日にも満たないのだけれど、三つきに渡るといけないのだそうだ。 本来なら49日が正当だけれど、35日でも三つきになってしまうのだった。
どうして三つきに渡るといけないのだろう?不思議に思って調べてみたら 「身を切る」という言い伝えがあるのだそうだ。 身内に災いが降りかかるというような意味だろうか、なんとなく納得する。
いとこ達がみな集まりにぎやかな法要になった。 伯父の笑顔の遺影を見ていると、いまだに亡くなったことが信じられない。 みんなと一緒になって大好きだったビールを美味しそうに飲んでいるような気がした。
時はそうして流れていく。何事もなかったかのように流れていくものなのだろう。
どしゃ降りの雨のあと一気に青空が広がる。 気温は20℃を超えすっかり春の陽気となった。
今日も川仕事を諦めてしまって山里の職場に駆けつける。 ばたばたと走り回る忙しい一日だったけれど、なんだか楽しい。 することがたくさんあるのはとても嬉しいことだと思うのだった。
出来ることを出来る日にといつも思う。 明日は月末なのに何も手伝ってあげられないのが少し心苦しいけれど。
「なんとかなるよ」母のその一言がとても頼もしかった。
もうすぐ76歳になる母、いったいいつになったら楽をさせてあげられるのかしら。 会社を続けている限りその苦労も続くのだと思うとふっと憐れでならなくなる。
同時に母が頑張っている限り私も頑張ろうと思える。 母は偉大なり、ずっとずっと母の背中を見守っていきたいと思っている。
「ごめんね」「ありがとうね」母と交わす言葉はそればかり。
けれどもそれさえも言えずにいた若いころをふっと思い出すことがよくある。
2014年02月26日(水) |
ほらほら「かりんとう」をお食べ |
お天気は下り坂、午後からぽつぽつと小雨が降り始めた。 気温は高めなのになんとも肌寒く感じるのが不思議に思える。 一雨ごとに春が。そう思うと雨の日もまた楽しみのひとつでもあった。
今日も早朝より川仕事に出陣したのだけれど 潮が引き過ぎていて収穫が出来ずに諦めて帰ってきた。 干満の差が激しくなるのも春の兆しであり季節の移ろいを感じる。
予定変更になり作業場で出荷の準備をしていた。 三月三日が海苔の「お嫁入り」の予定である。 例年よりもずいぶんと少ないけれど、精一杯頑張ったのだと思う。
午後は炬燵でうたた寝。とろりんとろりんと時が流れる。 可愛い猫にはなれなくて、大きなトドだと夫が笑っていた。 若い頃には思いもしなかったけれど、年を重ねるごとにそんな時間が愛しい。 だらしなく怠惰に過ごす。すっかり怠け者になるのも心地よいものだ。
「よっこらしょ」やっと起きだせばもう5時近くになっていた。 ぽつぽつと小雨の中をお大師堂にお参りに行っていた。 満開近くなった寒桜もしっとりと雨に潤っている。 土手には土筆の坊やたちが可愛い頭をならべて微笑んでいた。
お大師堂で手を合わせながら、ただただ平穏無事に感謝するばかり。 これ以上の何を望もう。足りないものなど何ひとつないのだと思った。
「ほらほらかりんとうをお食べ」お大師さんが引き止めてくれて お供えしてあったかりんとうをごちそうになる。
黒砂糖のほんのりとした香りと甘み。すごいすごい幸せなひと時であった。
予報通りの暖かさとなる。気がつけば今週末にはもう三月だった。 まだまだ寒の戻りがあるだろうけれど、春の声に耳を澄ましている。
早朝から川仕事、午前七時にはもう収穫を始めていた。 朝陽がきらきらとまぶしい。なんて心地よい朝なのだろう。
10時半にはもうすべての作業を終えて早目の昼食。 夫が目玉焼きを作ってくれた。その姿がなんとも可愛らしい。 同じ目玉焼きでも作ってもらったほうがずっと美味しく感じる。
今日はやっと山里の職場に駆けつけることが出来る。 何日ぶりだろう、それさえも忘れてしまうほど遠のいていた。
途中の国道でいちめんの菜の花畑を見つけた。 思わず歓声をあげる。まぶたがそのままシャッターになったように風景が映る。
国道から山道に入った。そうして峠道に差し掛かったら今度はうぐいすの声が。 クルマを停めて窓を開けてしばしその初音に耳をかたむけていた。
急がなくて良いのだな。ゆっくりゆっくり行けば良いと思ったりする。
職場に着くと母がよほど思いがけなかったのだろうびっくりと大喜びしてくれた。 しばらく会わないうちにまたちいさくなったように思う。 まあるい背中、私よりもずっとずっとしわくちゃの笑顔。
菜の花のこと、うぐいすのこと、おしえてあげたいなって思いながらも たまった仕事をやっつけるのにばたばたしているうちにもう帰宅時間だった。
「ありがとうね」って言ってくれる。それがとてもとても嬉しくてならない。
今度はいつになるのかわからないけれど、いつだって精一杯の自分でありたいものだ。
春の声 母の声かと思うほど ふんわりやさしく 耳にしみこむ
久しぶりの快晴、風は少し冷たいけれど陽射しはすっかり春のよう。 川船に乗って漁場に向かっていると、川面が銀色に輝いてとても綺麗だった。 白鷺も水辺で佇んでいる。緑の海苔によく映えてまるで絵のように見えた。
今日も夫ふたり黙々と手を動かしながら精一杯の収穫をする。 「欲をいえばきりがないよ」少ない収穫でもじゅうぶんなのだと思える。 とにかくこつこつと頑張るしかない。努力していればきっと報われると信じたい。
川仕事を終えたのが午後二時、ふっと思い立って髪を切りに行ってきた。 天日干しの海苔の取入れを控えていたので、大急ぎで切ってもらった。 軽やかなハサミの音が耳に心地よい。ぱらぱらと落ちていく自分の髪は なんだかそれ自体が「憂鬱」だったようにさっぱりと切り落とされていく。
「はい出来上がり」鏡に映る自分の姿はちょっぴり可愛いおばあちゃん。 まんざらでもないななんてにんまりしたり、しわくちゃの笑顔もまた良し。
るんるんしながら帰ってきた。夫がくすくすと笑いながら言うことには 「おまえ愛子ばあちゃんにそっくりになったな」
愛子ばあちゃんは母方の祖母でもう亡くなって八年ほどになるけれど 自分でも思っていた。最近だんだんと似てきたなって感じていた。 特に笑った顔なんかそっくりなんだもの。自分の顔を見て亡き祖母を思い出す。
すごくお茶目だった愛子ばあちゃん、いちばん大好きなおばあちゃんだった。
私もお茶目で可愛らしいおばあちゃんになりたいなあ。
曇りのち晴れ、やっとおひさまに会えて嬉しい。
菜の花がぽつりぽつりと咲き始めた。
チンゲン菜の菜の花だけど緑の服に黄色い帽子がとても可愛い。
川仕事を終えるなり孫の圭人に会いに行く。 明日はもう退院でしばらくはお嫁さんの実家に帰ってしまうのだ。 そうそう押しかけるわけにもいかなくなるななんて思ったり 今度はいつ会えるのかしらと思うとちょっぴり寂しかった。
今日は初めて抱っこをする。その愛しい重みを忘れずにいたいなと思った。 同じ孫でも綾菜の時とは何かが違っている。おばあちゃんのささやかな遠慮。 厚かましい姑だとお嫁さんに思われそうで、それがとても気になってしかたない。
どこまでが良くてどこからがいけないのか、などと考えることが多くなった。
病院でちょうど定期検診に来ていた娘と偶然会えて嬉しかった。 赤ちゃんは順調で、まだ豆粒ぐらい小さいのに手をしきりに動かしているとのこと。 「元気にびちくりよるよ」って娘。びちくるとは方言で暴れまわるという意味。
今度はもしかしたら男の子かもしれない。とにかく元気いっぱいの赤ちゃん。
秋には三人目の孫が生まれる。なんだかすごく不思議で信じられないような気持ち。
「長生きをしなさいよ」って天からの声が聞こえてくるようなこの頃だった。
二十四節気の「雨水」ほんの少し春が近づいた気がするのだけれど 大雪で孤立した町の様子などをニュースで見ているとなんとも気の毒でならない。
自分がどれほど恵まれているのか思い知る。 あたりまえのように暮らしている日々が決してあたりまえではないのだと。
四万十は曇り日。雲の上にはおひさまが微笑んでいることだろう。 川仕事を終えてひとやすみしてから日課のお大師堂参りに行く。 てくてくと歩けばこころも一緒についてくる。 ああ気持ち良いなって思えば疲れた足もちょっぴり軽くなる。
楽しみにしていたご近所の寒桜がほっこりほっこりと咲いていた。 足をとめてしばし愛でる。いち早く春を知らせてくれてありがたいこと。
お大師堂で手を合わせながら、今日も平穏無事に感謝する。 綾菜はそろそろ保育園から帰ってくる頃だななんて思ったり 圭人は今日もすやすやと眠っているかななんて寝顔を思い浮かべる。
今すぐ綾菜に会いたいな。圭人に会いたいな。欲張りなおばあちゃん。
とんとんとんとまるで何かの機械が動いているように日々が流れていく。 故障しないかな壊れてしまわないかなってふっと不安になることがよくある。
どんなに手を合わせてもどんなに祈っても「ある日突然」はあるのだと思う。
そう思うと毎日がほんとうにありがたくて愛しい日々なのだなと思うのだった。
2014年02月17日(月) |
もしくじけそうになったら |
「春に三日の日和なし」と言うけれど、もう春だということなのだろうか。 お天気はまた下り坂で夕方からぽつぽつと雨が降り始めている。 優しい雨音に耳をかたむけながら今日の平穏無事をかみしめているところ。
川仕事の疲れもあってここ数日夕食後のウォーキングをお休みしている。 「昼間の仕事でじゅうぶんじゃないか」夫がそう言ってくれてほっとしたり。 日課だからと頑張りすぎないのも良いかなと少し自分を甘やかしている。 出来ることを出来る日に、何事もぼちぼちがいちばんなのかなと思う。
青さ海苔の収穫は相変わらずで、今年は不作と言っても過言ではないだろう。 きっと今までが恵まれすぎていたのだろうと思う。天からの多大な恵みを あたりまえのように思っていたのかもしれない。どんな時もあるのだと 受け止めながら毎日とにかくこつこつと出来る限りのことを頑張っている。
不安の数をかぞえていたらきりがない。「なんとかなるさ」が口癖になった。 そうそう、綾菜が大好きなアンパンマンの歌にもあるではないか
「もしくじけそうになったら、良いことだけ良いことだけ思い出せ」
綾菜と圭人、二人の孫に恵まれて幸せいっぱいのおばあちゃんだった。
寒さも和らぎ日中はまるで春のような暖かさになった。 庭のかたすみに野すみれの花が咲いているのを見つけてほっと嬉しく思う。 コンクリートで固められた庭だと言うのに、その隙間からそれは咲く。 野に咲くすみれ、かつて土手から種が風に吹かれて根付いたものだと思う。 雑草だと始末してしまわずにずっと見守っていてほんとうに良かった。
昨日の早朝のこと、息子からメールがありお嫁さんの陣痛が始まったとのこと。 とるものもとりあえずすぐに病院へ駆けつけたけれど初産は時間がかかるものだった。 お嫁さんのご両親と息子に後を頼み一度は帰宅したもののなんとも落ち着かない。
川仕事どころではなく自宅待機をしながら息子からの連絡を待っていた。 お昼過ぎになって分娩室に入ったと知らせが来る。また大急ぎで駆けつけた。
けれどもちょうど同じ時間に産気づいた妊婦さんがもうひとりいて お嫁さんはまた病室に帰されてしまっていた。陣痛がすごく今にも産まれそう。 大丈夫かしら、このまま病室で産まれてしまうのではないかとはらはらするばかり。 陣痛の痛みもピークに達し、うめき声をあげほんとうに辛そうだった。
病棟に産声がひびく。生まれたね、やっと分娩室に行けるよと思ったのだけれど 助産師さんが来てくれてもうしばらく待っていてねと言うからみんなでパニックになった。
大丈夫だと思っていてもこんなに緊張したことはかつてなかったと思うほど。 特に初孫のお嫁さんのご両親はどんなにか不安だったことだろう。
午後4時過ぎまで待ってやっと分娩室に入ることが出来た。 そうして午後5時30分、辛い陣痛を乗り越えて元気な産声があたりにひびく。
3020g元気な男の子が誕生した。なんとも感動的な一瞬であった。
病院からの帰り道、夜空にはぽっかりと満月が浮かびきらきらと輝いていた。 お月様からさずかった命なのかもしれないねと夫ふたりで微笑みあう。
どうかすくすくと元気に育ってくれますように。月の光に手を合わせながら祈った。
2014年02月14日(金) |
ふれあえばふれあうほどに |
またまた各地から雪のニュースが流れてくる。 四国も山間部では雪になっているようだけれど 幸いなことに四万十は冷たい雨のみにとどまっていた。
そんな雨も午後には降りやみ、ほっと空を仰ぐ。 ご近所の寒桜のつぼみが薄紅色にふくらんで明日にでも咲きそうだった。
川仕事の疲れがそろそろ出て来たのか、午後は炬燵でうたた寝ばかり。 一度寝転んでしまうとなかなか起き上がることが出来なくなった。 寒さのせいにもしてしまって日課のお大師堂参りも休もうかなと思う。 けれどもそんな日に限って何か悪い事が起こるのではと不安になってしまう。
よっこらしょ。やっと炬燵から抜け出せた時はもう4時を過ぎていた。 お大師堂に着くと自転車が停められてあってそれがお遍路さんのものだとわかる。 どんな出会いが待っているのだろう。わくわくしながら扉をノックした。
そうしたら私のことを待っていてくれたらしく思いがけずに嬉しかった。 先にお参りに来ていた従兄弟が「もうひとりおばさんが来るよ」って。 そうです。そのおばさんが私ですと笑顔で語り合うことが出来た。
その青年自転車遍路さんはなんと遠く北海道から来たとのこと。 それにはほんとうにびっくりした。自転車で四国まで辿り着いたなんて。 とてもすんなりとは辿り着けない距離だと思う。どんなに大変だったことか。
けれどもお遍路さんはすごくあっけらかんとした顔をしてその楽しさを語ってくれた。 お四国もお寺だけではなくあちこちに寄り道をしては観光を楽しんできたとのこと。 37番札所のある町ではとある民家にお世話になって五日も泊まらせてもらったとか。
いろんな出会い、たくさんの縁にめぐまれて四万十に辿り着いたのだなと思う。 私は何のお接待も出来なかったけれど、ただただ笑顔がお接待だと思うことにした。
すべての出会いが一期一会である。その日、その時でなければ叶わなかった出会い。
ふれあえばふれあうほどひとのあたたかさを感じる。
笑顔にはかならず笑顔がかえってくる。それはとてもありがたいことだった。
2014年02月11日(火) |
こころはもうすっかり春 |
いかにも冬らしいきりりっとした寒い朝。 氷点下ほどではなかったけれどクルマのフロントガラスが凍っていた。
早朝から川仕事、川船も真っ白になっていたけれど今日も出撃である。 水の中は思ったよりもずっと暖かい。朝陽が差し始めるとほこほことしてくる。
作業中に娘から電話があって綾菜を連れて遊びに来てくれるとのこと。 それを聞いただけで嬉しくなって動かす手も勢いを増すほどであった。
川から戻り作業場で仕事をしていると娘たちがもう来てくれた。 ひだまりのなかを綾菜が駆け回る。ちょこちょことまるでひよこのように。 それがなんとも微笑ましくてふっと胸に熱いものが込み上げてきた。 幸せだなって思う。笑顔の花がたくさん咲いて心はもうすっかり春だった。
作業を終えみんなで帰宅。ありあわせのお昼ご飯でもとても美味しかった。 綾菜の食べている姿を見ているだけで心も満腹になるのだった。
午後はみんなでお昼寝。一番先に綾菜が眠ってその寝息が子守唄のよう。 みんなでとろんとろんとする。とても平和なひと時であった。
幸せをかみしめるたびにその幸せがこわくなるときがある。 ある日突然大きな落とし穴に突き落とされそうな不安が襲ってくる。
けれども毎日感謝しながら手を合わせているとそれが救いとなってくる。
あたえられた日々をそうして全うすること。それ以外に何があるのだろう。
おやつの時間になるとアンパンマンのお菓子を綾菜がみんなに分けてくれる。
「どうぞ」って言いながらみんなの口にお菓子を入れてくれたのだ。
「おいしいねー」って言うんと「おいちいねー」天使の声がこだましていた。
2014年02月10日(月) |
ほっこりと手を合わす |
昨日の晴天がうそのように今日はまた冷たい雨になる。 一雨ごとに春が近づいているのかもしれない。 そう思うと冷たい雨も春の使者のように思えてくる。
早朝から川仕事、夜明けを待ちかねるようにして出掛けた。 雨合羽を着ると寒さも気にならず夫とふたりで今日も精を出す。 やはり海苔の生育は芳しくなく今年はあまり期待が出来ない。 けれども少ない収穫でもこつこつと努力するほかないだろう。 なんだか不安と希望がごちゃまぜになっているようなこの頃だった。
午前中に作業を終え、早目に昼食を済ませて山里の職場に向かった。 母からヘルプメールが届いていた。頼ってくれてありがたいことだと思う。 一つきりの身体で思うようにいかないこともあるかもしれないけれど これからも出来る限り助けてあげたいと思う。それが親孝行だと思う。
幸いなことに今年はまだ身体の不調がなかった。 「動ける」ということはほんとうにありがたいことだと思う。
出来ることを出来る日に。元気がいちばん、健康がいちばんだった。
冷たい雨は降りやまず、帰宅の車でそのままお大師堂にお参りに行く。 日捲りの暦は昨日のまま、やっと月曜日ですねと暦に語り掛ける。
ろうそくの灯り、お線香のまっすぐなけむり。私のつたない般若心経。
今日も平穏無事をありがとうございました。ほっこりほっこりと手を合わす。
2014年02月09日(日) |
幸せひとつまたひとつ |
各地から大雪のニュースが流れているけれど 今日の四万十は穏やかな晴天となりほんとに恵まれているのだと思う。 毎年何度かは積雪があるのだけれど今年はまだ一度もなかった。 暖冬とはとても言えないけれど、このまま春になってくれないものだろうか。
今日も川仕事はお休み。夫が地元の中学校の体育館の落成式に出席していた。 「お餅投げ」があるということで娘と綾菜と一緒に出掛ける。 それがものすごい人が集まっていてびっくりしたのか綾菜が泣き出してしまう。 困ったね、諦めようかと思っていたら、背広姿のジージが駆けつけて来てくれた。
ジージと綾菜は見学、私と娘は大はしゃぎできゃあきゃあ言いながらお餅を拾った。 「お餅投げ」なんてほんとに久しぶりのことでとても楽しいひと時であった。 もう少し大きくなったら綾菜もその楽しさがわかるようになることだろう。 アンパンマンのバックに紅白のお餅を入れてあげる。「まんま?」と首をかしげていた。
実はつい先日のこと、娘が第二子を懐妊していることがわかったばかり。 予定日はまだはっきりとわかっていないけれど9月頃になりそうだった。 綾菜がお姉ちゃんになるなんてまだ実感がわかないけれど これからだんだん娘のおなかが大きくなってそれが現実になっていくのだなと思う。
母親に甘えたいさかりの綾菜にとっては大きな試練になるのかもしれない。 弟かな、妹かな、綾菜はきっと優しいお姉ちゃんになってくれるだろうと信じている。
今月末には息子のところにも男の赤ちゃんが生まれる予定なので まさに孫ラッシュの一年になりそうだった。
ジージもバーバも元気でいなくてはね。いっぱい長生きしなくてはね。
今日も相変わらずの寒さ。みぞれのような冷たい雨がずっと降り続いている。 雨でも休まないよと言っていた川仕事も、夫と相談のうえお休みになった。 山里の職場も気になり、急きょ出勤することにする。
連絡もせずに行ったものだから、母がとても喜んでくれた。 仕事も忙しく張り合いがあって来て良かったなとつくづく思う。
今度はいつになるのだろう。母と約束が出来ないのが心苦しい。 せめて半日だけでも助けてあげられたらどんなに良いだろうか。
仕事を終えてその足でお大師堂に向かった。 昨日のお遍路さんのことも気になっていたけれど 今朝の冷たい雨の中を旅立って行ったようだった。 その代わりに顔なじみのお遍路さんが到着していて再会を喜び合う。 川仕事に行っていたら会えなかったことだろう。 これも縁あってこそ、会えない人には会えない。会える人には会える。
帰宅すると札幌に住む友人からゆうパックが届いていた。 毎年雪まつりの季節になると絵葉書を届けてくれていたのだけれど 今年はゆうパックだったのでおまけつきかなとわくわくしながら開ける。 なんと可愛い雪だるまのぬいぐるみとチョコレートが入っていた。 箱の宛名をよく見ると「綾菜」の名前も添えられてあってすごく嬉しかった。
明日は綾菜が来てくれたらいいな。きっときっと喜んでくれそうだった。
これも縁あってこそのこと。私はとても恵まれているのだとつくづく思っている。
夕方からみぞれのような雨が降り始めた。 しんしんと底冷えするような寒さである。
歳のせいかお風呂に入るのがとても怖い。 ヒートショックで亡くなる人が多いと聞いてからだった。 脱衣所をヒーターで温めてから入るようにしているのだけれど 肩までお湯につかると心臓がぱくぱくして気が遠くなる。 寒い夜のお風呂がいちばんの楽しみだったと言うのに なんとも情けないことになってしまったものだ。
無事に入浴を終えるとほんとうにほっとする。 はだかんぼうで死ぬのだけはなんとしても避けたいと思う。
こんなに生きていると言うのにいつも死と隣り合わせ。 歳をとるということはこういうことなのだろうか。
「そんな人に限って長生きするもんだぞ」いつも夫に笑われる。 もっともっとあっけらかんと生きていられたらどんなに良いだろうか。
今日も午前中にお大師堂にお参りに行って、それから川仕事だった。 作業場で作業をしているとお大師堂仲間のいとこがやって来て お大師堂に若いお遍路さんが来ているよとおしえてくれる。 会ってみたいなと思ったのだけれど、そのまま行けず終いになってしまった。 明日も冷たい雨の予報。もしかしたら会えるのかもしれない。
大橋を渡るお遍路さんの姿もほとんど見かけることのないこの頃。 暖かくなったら春遍路さんも多くなるだろう。春よ来いはやく来い。
寒い冬のおかげで春の喜びを感じることが出来る。
ご近所の寒桜のつぼみが日に日にふくらんでいる。
今朝のこと庭の掃き掃除をしていておや?と思った。 節分の夜にたくさん撒いた豆が一粒も見当たらなかったのだ。 きっと小鳥たちが喜んで食べてくれたのだろう。 その姿を思い浮かべながらなんとも微笑ましく思ったりした。
川仕事の潮待ちをしているあいだにお大師堂へお参りに行って来た。 日捲りの暦を千切って一日が始まる。とても清々しい朝であった。 無事に朝を迎えられたことに感謝。そうして一日の平穏無事を祈る。
綾菜は元気に保育園に行ったかしら。山里の母も笑顔でいてくれるかしら。 手を合わすとみんなの顔が目に浮かんできてちょっぴりせつなくなる。
帰り道、河川敷に散乱するゴミを拾いながら帰った。 今の時期はウナギの稚魚である「しらす漁」の最盛期でもあって 毎年のことだけれど漁に来た人達がゴミを捨てて行くのであった。 マナーの悪さはとどまることがなく、どうしようも出来ない現状。
かといって腹も立たず、黙々とゴミを拾うのもまた私の楽しみでもあった。 しらす漁が終わればまた綺麗な河川敷が戻って来ることだろう。
午前11時、早目の昼食を食べ終え「いざ出陣!」と川仕事に向かう。 今日は昨日ほど風が強くなくてずいぶんと暖かく感じた。 明日からお天気は下り坂のようだけれど、雨でも休まないからなと夫。 私もうなずく。どんなに悪天候でもとにかく頑張らなくてはいけない。
収穫は二時間足らずで終わるのだけれど、作業小屋での仕事がまた二時間。 それも少しも苦にはならず今日も達成感でいっぱいになった一日だった。
夜になると、ああ今日も生きていたんだなってつくづく思う。
生きているから幸せなんだなって。ほっこりほっこりこころがあたたかい。
2014年02月04日(火) |
春は名のみの風の寒さや |
今朝はそれほど寒さを感じなかったのだけれど やはり予報通りでだんだんと冷たい北風が吹き荒れるようになった。 立春の今日、まさに「春は名のみの風の寒さや」であった。
大安吉日と言うこともあって今日から海苔漁を始める。 毎年のことだけれど身体のどこかのスイッチを押したような気分。 そうして気合を入れて頑張ろうとちょっぴり勇み足になってしまうのだった。
けれども今年は海苔の生育がいまいちでやはり不安も襲ってくる。 例年並みの収穫がなかったらたちまちどん底に突き落とされるのではないか。 心配性の私の背中を「とんとん」と叩くような夫の笑顔に励まされていた。
よっこらしょ、どっこいしょ。久しぶりの肉体労働は身体に堪えるけれど 一日の仕事を終えると清々しい達成感が待っている。 どんな年もあったけれど今までずっと頑張ってきたのだもの。 こつこつと努力していればきっとその成果があるのだと信じたかった。
目に沁みるような緑の海苔。愛しいものだなと思いつつ手を動かしていた。
これも天の恵み、ありがたさが込み上げて来てふっと胸が熱くなる。
「お父さん、明日も頑張ろうね!」
夫の背中はいつも頼もしい。その背中のおかげで今の私があるのだなと思った。
今日も20℃を超す暖かさ。梅のつぼみも一気に花開く。 つかのまの春だとわかっていてもやはりほっとするもの。 明日はまた寒波がやってくるという。名ばかりの立春になりそうだ。
山里の職場での仕事も今日で一区切り。 明日からしばらくのあいだ家業の川仕事に専念することになった。 気がかりなことがたくさんあるけれど、身はひとつの現実である。 時々は顔を見せてねと母。自分も出来るだけそうしたいと思っている。 にっちもさっちもいかない時もあるかもしれないけれど きっとなんとかなるだろう。そう信じて頑張っていきたいものだ。
帰宅してすぐに近くのダイハツへ新車を引き取りに行く。 嬉しいはずなのにどうしたことか昨夜から不安でならなかった。 いつからだろう車の運転がとても苦手になってしまっていて 新しい車をちゃんと乗りこなせるだろうかと心配になってしまったのだった。 緊張すると持病の発作が起こるのではないかとそればかり考えていた。
とにかくリラックスしなければ。どうってことないさと気楽にならなければ。 胸の鼓動がおさまらないまま新車とのご対面となってしまった。
いろんな説明を聞きながら運転席に座ってみる。 その感触は手放した今日子ちゃんとよく似ていた。 げんきんなもので「大丈夫かもしれない」と思い始める。
それはある意味自己暗示をかけるようなもので、すぐに大丈夫モードになった。 ガソリンスタンドに寄って満タンにする。そうして買い物をして家に帰る。
車庫入れもばっちりで「うんうん」と自分の頭を撫でているような気分。 ミライースだから「イースちゃん」って呼ぼうかな。今日から私の愛車。
「鬼はそと福はうち」イースちゃんのまわりにいっぱい豆をまく。
最高気温が20℃を超え2月とは思えない暖かさになった。 すっかり春のような陽気に誘われて散歩に出てみたけれど ほんの少し歩いただけで汗が流れ始めてなんだかしんどくてならない。 たくさん歩くつもりだったのだけれど早々に家路を急いでしまった。
お大師堂の川辺でたんぽぽの花が咲いているのを見つけた。 毎年同じ場所に咲いてくれるので楽しみにしていたところだった。 座り込んで話しかける。「ありがとうね」って声をかける。
たんぽぽはただ微笑むばかり。ふんわりと優しいとびっきりの笑顔。
夕食後、今度こそたくさん歩こうとたそがれウォーキングに出掛ける。 ほうずき色に染まる空にレモン色の三日月が浮かぶように輝いていた。 なんともか細くてずっと見ていないと消えてしまうような心細さを感じる。
「ここにいるよ」見守っているような気持ちになって空を仰ぎつつ歩く。
ふっと不安になる。いったい何が私を襲ってきているのだろう。 こんなにも生きているというのに何が足りないというのだろうか。
三日月に手を伸ばしても届くはずはないのだけれど
ちぐはぐなこころの穴を埋め尽くすようにその光が届くありがたさ。
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