一月最後の日は春を思わすような暖かさとなる。 立春も近くなりなんだか心が浮き立つような気分だった。
春は名のみの風の寒さやと歌われているように まだまだこれから寒い日があることだろう。
けれどもめげないでいよう。まけないでいよう。 きっときっと春は来る。もう少しのしんぼうだ。
先日の雪の日から少し風邪気味だったけれど 昨日はとうとう熱を出してしまってダウンしてしまった。 今年になってもう二度目の風邪にとまどうばかり。 これも年のせいだろうか。なんともなさけないことだった。
安静にしていたのが良かったのか今朝は熱も下がって仕事に行く。 月末の慌しさもあり体調の悪さも忘れるほどだった。
昨日は行けなかった散歩。今日はいつも通りに行く事が出来る。 あんずも尻尾を振りながらとても嬉しそうに歩いていた。
お大師堂でお参りを済ませ西日があまりにも暖かかったから。 石段に腰掛けてしばらく日向ぼっこをしていた。
静かな川面。傾きかけたおひさまがたくさんの光を映している。 なんて穏やかな風景なのだろう。こころがどんどん和んでいく。
そうして見つけたのはたんぽぽの花。その時の嬉しかったことか。 もう咲いてくれたのね。思わず声をかけたほどだった。
可愛くて優しくてまるで野原の天使のように見える。
ありがとうね。またあしたね。たんぽぽとゆびきりげんまんして帰る。
ありがたいことに寒気が少しゆるむ。 昨日の雪が嘘のようにあたりは冬の陽射しであふれていた。
そんな陽気に誘われたように紅梅のつぼみがひらく。 ぽっかりと一輪。にっこりと微笑むように咲いてくれる。
こころにもそんな花を咲かせたい。ほんの一輪でいいから。 ひっそりと静かに。咲いたよって決して誰にも告げないで。
なんだか花を見たような気がするって出会った人が気づくような。 そうしたらその人のこころにもふっくらとつぼみが佇むようになる。
そんなふうに人と出会えることが出来たらどんなにいいだろうか。
あれはいつのことだっただろう
こころに種をまいたことがあった
私はちゃんと世話をしてあげたかしら
水をあげたり肥料をあげたりしたかしら
それはもしかしたらもう枯れているのかもしれない
こころにそっと手をふれてみると
とっくんとっくんと私は生きている
つぼみのありかを手さぐりでさがしながら
こころは生きながら春をまっている
いつのまに降ったのか目覚めたら雪が積もっていてびっくり。 西の空には名残の満月がぽっかりと浮かんでいてとても綺麗だった。 月明かりに雪景色も良いもので寒さも忘れてうっとりと見入る。
早朝、母より電話があり仕事は自宅待機となった。 こちらから電話しようと思っていたところでほっと一安心だった。 実は以前にスリップ事故を起こしていてそれ以来雪道が怖くてならない。 母もそのことを覚えていてくれたのだろう。ありがたいことだとおもう。 仕事のことも気になりながら内心はほっとしてすっかり寛いでしまった。
夫の運転でいつもの喫茶店へ。それから海苔の漁場を見回りに行く。 もう何人かは収穫を始めていて我が家もそろそろだなと言うことになった。
長年、家業を優先してきたけれど。いつもいつもその時が来ると複雑な気持ちになる。 山里の職場をほったらかしにすること、それがどんなに無責任なことか。 だからといって家業を疎かにするとたちまち暮らしが成り立たなくなる。
二束のわらじを履くことは出来なくて我が身はひとつの現実だった。
だいじょうぶ、なんとかなるよといつも言ってくれる母に。 今年も甘えなければいけなくなるのだろうか。
年々老いていく母に申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら。
私は自分に与えられた道を突き進んで行くしかないようだ。
今日も強い北風。山間部では雪が降っていたようだ。
寒い寒いが口癖のようになってしまってすっかり冬篭りの一日となる。
炬燵のありがたさ。一度もぐりこむとなかなか出られないけれど。 「炬燵のおもり」をしているのだと思ってずっともぐりこんでいた。
この一週間録画していた番組を片っ端から見ていた。 喫茶店から戻って来た夫が「おまえもテレビっ子になったな」と笑う。
自分でも不思議なくらい。以前はほとんどテレビを見なかったから。 それが今では面白くてたまらない。変われば変わるものだなと思う。
散歩の時間になりやっと炬燵から抜け出した。 万歩計を見てびっくり、わずか100メートルしか動いていなかった。
これではいけないと気合を入れて大風のなかを飛び出して行く。 風がとても冷たい。土手に上がると立っていられないほど強い風だった。
それでも元気なあんずにずいぶんと励まされて前へ進むことが出来た。 お大師堂でお参りをしてそのまま帰ろうかと思ったのだけれど あんずに相談すると「まだまだ行けるよ」ってすごく頼もしかった。
おかげでほんとうに久しぶりに大橋のたもとまで行く事が出来た。 万歩計は2キロ。それでじゅうぶんだと思える散歩になった。
あしたはあしたの風が吹くことだろう。
今日という一日は一生に一度だけの一日だとある本に書いてあったけれど。
炬燵のおもりもよかろう。テレビっ子もよかろう。たくさん歩けなくてもよかろう。
ほんの少し夜明けが早くなり ほんの少し日暮れが遅くなる。
そんなちょっとしたことが嬉しくおもうこの頃。
今朝は風の音で目を覚ます。 一瞬、地震ではないかと思い怖かった。 強い北風が暴れ放題に暴れているようだった。
早朝、娘から電話がかかってくる。 もしや?と思った不安が当たってしまって 綾菜が熱を出してしまったという知らせだった。
そんなことがありませんようにと 毎日手を合わせていてもそんなことがあるもの。
娘はどうしても仕事が休めず私を頼ってきてくれた。 だいじょうぶ、すぐに行くからと応えたものの 私も仕事で気になることがあり大急ぎで職場に行く。 その間、お婿さんが綾菜を看ていてくれて助かった。
はらはらしながらやっと娘の家に行き着くと てっきりぐったりしていると思った綾菜が笑顔で迎えてくれる。 娘が出掛ける前に座薬をさしたのがすぐに効いたらしかった。 熱もすっかり下がっていてお父さんと一緒に機嫌よく遊んでいる。
これにはほんとうにほっとした。どんなに心配したことか。
夜勤明けのお婿さんを休ませてそれからはバーバと遊ぶ。 あまりにも元気な綾菜を見ていると今朝の熱が嘘のように思えた。
突然の発熱。そういえば昔々の子育て中にもそんなことがよくあった。 はらはらしたりほっとしたりしながら子供も親も成長してきたのだと思う。
午後からもよく遊び、バーバの添い寝でお昼寝もした。 以前は母親を恋しがり大泣きすることがよくあったけれどそれもなし。 託児所に通い始めて少しずつ成長しているあかしでもあった。
夕方、娘が帰って来る。その顔を見るなり甘えて泣き出してしまう。
まだおしゃべりは出来ないけれど「おかーさん、おかーさん」って声が聞こえる。
2013年01月24日(木) |
急がず慌てずのんびりと |
陽だまりでうたた寝をする猫になりたいような日だった。 おひさまってほんとにありがたい。空には光があふれている。
仕事は相変わらずざわざわとしていたけれど 今日はのんびりいこうと決めるとずいぶんと気が楽だった。
昼間の暖かさに誘われたように母が庭の手入れを始める。 枯れ草をかき集めては焚き火のように燃やしている姿を見ながら なんだか母がひどく年老いてしまったように感じてならなかった。 どうしてだろう。よくわからない。うまく言葉に出来ないけれど。
そんな母を手伝いもせずに定時になるとさっさと帰路についた。 作業の手を休めて母が庭先から笑顔で手を振ってくれる。 なんだか今生の別れみたいな気がしてせつなくてならなかった。
母さん無理をしないで。母さんもゆっくり休んでよって心で叫んだ。
帰宅するとまたあんずの叫び声。私が帰るのを待ちかねている証拠だった。 待っていてくれることはありがたいこと。おかげで毎日散歩に行く事が出来る。
いつもの散歩道。すっかり元気になったように見えるあんずだけれど お大師堂までが精一杯だった。帰り道はちょっとよろけたりもする。 今日は土手の石段を踏み外して真っ逆さまに転げ落ちてしまった。 それでもすくっと立ち上がって一生懸命に歩こうとする。
私はちょっと歩き足らないのだけれど、あんずのペースに合わせている。 そういえば「お遍路万歩計」が今日でちょうど一年になった。 一年で四国一周が出来るかなと単純に考えていたけれど それはとても無理で今は54番の「延命寺」に向っているところだった。
毎日少しずつ。急がず慌てずのんびりと。それで良いのだなと思う。
あんずと一緒だから「同行三人」それも楽しい旅だった。
朝からずっと曇り空。 おひさまが顔を出してくれるのを待っていたけれど 灰色のベールがすこし重すぎたのかもしれない。
わたしはちょっぴりしょんぼりとしてしまう。 元気出さなくちゃって思うだけおもって ありのままで良いのだよってゆるしてあげることにした。
浮いたり沈んだり晴れたり曇ったりこころは空とよく似ている。
先週からずっと仕事が忙しくて嬉しい悲鳴をあげている。 知らず知らずのうちにやたらと張り切っている自分がいて もしかしたらまわりのみんなを振り回しているのかもしれない。
気がつけば母が不機嫌だったり、同僚が笑顔を見せなくなったり そんな時はっとする。自分がいけないのかなってやっと気づく。
みんなそれぞれ自分のペースがあるのだなとつくづく思う。 まわりのペースに合わせてこそまあるくおさまるのではないかしら。
明日からはちょっぴり肩の力を抜いてゆったりとした気持ちになろう。
朝の峠道を進みながらふっとさびしく思うのは このところまったくと言っていいほど お遍路さんの姿を見かけなくなったこと。
真冬にお遍路をされる方がそれだけ少ないのだろう。 野宿にも辛い季節、みんながお宿に泊まれるわけではない。
勇気と元気をさずけてくれるお遍路さん。 春になったらきっとまた出会うことが出来るだろう。
お大師堂もちょっぴりさびしい。 お参りするたびにお遍路さんが来てくれていたらいいなって 思うけれど、扉を開けるとし〜んと静かな静寂が待っている。
そんな時はお大師さんとおしゃべりをする。 今日はねこんなことがあったよっていつも聞いてもらう。 そうか、そうかそれは良かったと微笑んでいるお大師さん。
ほっこりとあたたかいきもちになって手を合わすと 感謝の気持ちが込み上げてきて目頭が熱くなるときもある。
今日も平穏無事。それが当たり前だなんて決して思えない。
いちにち。一日をいただいているのだと思わずにはいられなかった。
ありがとうございました。また明日ねってゆびきりげんまんして帰る。
「大寒」の声を聞いたばかりだけれど、 今日は思いがけずに暖かい一日だった。
午後からぽつぽつと雨が降り始める。 まるで春先のような優しい雨だった。
ふと見つけたのは紅梅のつぼみ。 ちょうどマッチ棒ほどのふくらみで 冬枯れていた木にぽっかりと明かりを灯す。
先日の菜の花といい、季節はゆっくりと春に 向っているのだと思うとなんだか 励まされているような気持ちになった。
どんな日もあるけれどそんな日々を受けとめながら すくっと前を向いて歩いていけば きっと春にめぐり会えるのだと思う。
だからいかなくちゃ。元気を出していかなくちゃいけない。
大好きな詩人「柴田トヨさん」が101歳で亡くなった。
何かを始めるのに遅すぎることは決してないのだと おしえてくれたほんとうに素晴らしいひとだったと思う。
私もトヨさんのように人生を全うできたらどんなにいいだろう。
がんばれわたし。人生はまだまだこれからじゃないか。
氷点下の朝だったけれど日中はぽかぽかと暖かくなる。 冬のおひさまほどありがたいものはなかった。
洗濯物を干しながら語りかけるように空を仰いだ。 光の天使たちが踊るように空から舞い降りてくる。
思わず抱きしめたくなるようなひかり。 私も生かされているんだなってすごくすごくおもった。
家の中に閉じこもっているのがもったいないなと思ったのだけれど 結局どこにも出かけることもなく茶の間でテレビばかり見ていた。 息子が買ってくれたブルーレイのおかげでいろんな番組を見る事が出来る。 それは決して無駄な時間ではないのだとつくづく思ったりした。
一気に夫と一緒に過ごす時間が増えた。それはとても良いことだと思う。 以前の私は自室に閉じこもってばかりいて、それが自由だと勘違いしていた。
ほんとうの「自由」とは?うまく言葉に出来ないけれど ふたりでいて感じるささやかな幸せのなかにも自由はあるのだと思う。
あと10年あるのか。20年あるのか。 もしかしたら残り少ないのかもしれないふたりの人生をおもう。
「おまえは俺より長生きしろよ」夫の口癖がとてもせつなく感じるこの頃である。
山里へ向う朝の道で菜の花畑を見つけた。 いったいいつのまに咲いたのだろう。 朝の気忙しさにまぎれて気づいてもあげられなかった。
いちめんの菜の花畑。なんとあたたかいなんと優しい。 こころがほんわかとぬくもってすっかり春の気分になった。
真冬だからとあきらめてはいないか。 もしかしたらちいさな春が生まれ始めているような気がする。
今週は仕事がとても忙しくて気がつけばもう金曜日。 少し疲れてしまったけれど、それも心地よく感じる。
母の仕事を手伝うようになってかれこれ25年にもなる。 その間ほんとうにいろんなことがあった。 若かった母も今年は75歳になってしまう。 もうこれ以上苦労をさせたくない。楽をさせてあげたい。 どんなに思っても、母は死ぬまで頑張るのだと言ってきかない。 そんな母をどうして見捨てることができようか。
少し残業になり帰宅するのがすっかり遅くなってしまった。 待ちかねたあんずはひいひい悲鳴のような声をあげている。
いつもの散歩道を歩きながらいろんなことを考えていた。 先のことは何もわからない。明日のことさえもわからないのだもの。
一日、いちにちを織り成すように過ごしていくこと。 それがいまの自分にあたえらている使命のようなものなのかもしれない。
2013年01月17日(木) |
冬がなければ春はなし |
昨日の暖かさが嘘のように、また冬将軍が活動を始める。 どんな日もあるものだと寒さを受け入れようと思うのだけれど 寒暖の差についていけず身体が悲鳴をあげそうになってしまう。
負けないぞ、負けないぞ。それが口癖のようになった。 冬がなければ春はなし。いまを乗り越えなければとつよく思う。
仕事から帰宅すると夫が「今日は参ったぞ」と嘆いていた。 どうやら姑さんに頼まれて金柑ちぎりを手伝っていたようだ。 姑は金柑が大好きで毎年この時期を楽しみにしているのだった。 けれども年々身体が不自由になり思うように千切れなかったのだろう。 母親が息子に頼みごとをするのはとても微笑ましいことに思える。 それなのに息子はきっとぶつぶつ言いながら手伝ったことだろう。
「そろそろ電話がかかってくるぞ」夫の言うとおりだった。 姑は大きなお鍋で金柑の甘煮を作って私を呼んでくれた。 それはそれはアゴが落ちそうなほど美味しい金柑だった。
「すごく美味しいよ」って私が言うと。 夫は自慢げに「俺が全部千切ったんだからな」と胸を張っている。
なんとも愉快な気持ちになって思わずくすくすと笑ってしまった。
これも冬の楽しみ。冬にありがとうってちゃんと伝わるといいな。
ありがたいことにまるで春先のように暖かな一日だった。 ふりそそぐ陽射しのなんと優しいことだろう。 空が微笑んでいる。にっこりと微笑んでいるようだった。
先週はお休みばかりだった仕事、昨日から出勤している。 憂鬱だとか億劫だとか、それは私のいつもの悪い癖。 けれどもうまくスイッチを入れることが出来たらしい。 やれば出来るんだな。なんて少し悦にいったりしている。 仕事イコール親孝行だと思って明日も頑張ろうと思う。
いつものように四万十大橋を渡って帰宅すると。 あんずが犬小屋から跳び出して来て「おかえりなさい」の一声。 いつからかワンワンと言えなくなったあんずはきゃいんきゃいんとなく。
「お待ちかねだぞ」夫の声が聞こえる。 「はいはい、ちょっと待ちよってね」大急ぎで洗濯物をたたんだ。
いつもの散歩道。リードを長めにしてあんずの後をついて行く。 ふっと試してみようかなと思ったのだ。目的地がわかるかしら。
そうしたらちゃんと一目散にお大師堂に向っているではないか。 これにはちょっと感動した。「あんずえらいね」ってほめてあげたい。
今日もお大師さんからお菓子をいただいた。 一緒に食べようね。私も石段に腰をおろしてお菓子を食べる。
その場所から見える風景がとてもとても好きだった。
ゆったりと流れる大河。ひたひたとささやくような水の音。
まるで穏やかさを絵に描いたような風景であった。
ありがとうございました。もう一度お大師さんに手を合わせずにはいられなかった。
今週は仕事を休んでいたせいもあってとてもながく感じた。 やっと日曜日。喜び勇んで娘の家に駆けつけたのは言うまでもない。
禁断症状なのだろうか。綾菜の夢を見る夜が多くなった。 やわらかな手の感触などがそのまま残っておりなんとも恋しくてならない。
孫と過ごせる一日がどんなにありがたいことか。 今日は今まで以上にそれを感じて胸がいっぱいになる。
抱っこした重みがそのまま愛しさにかわり。 笑顔に頬擦りしたくなるほど愛くるしくてならなかった。
託児所に預けるようになって一週間が過ぎたけれど。 心配をよそにお友達と輪になって機嫌よく遊んでいるそうだ。 今日はお母さんがいるよ。おばあちゃんも来たよ。 幼心にもそれがわかるのだろうか。少し興奮気味で大はしゃぎだった。
そんな綾菜と一緒にたくさん遊ぶ。高い高いをしたり。 いないいないばあをしたり。そのたびに声をあげて笑ってくれる。
私が毛布を被っておばけさんになると、綾菜がその毛布をはぎとって 私の顔をばしばし叩いたり髪の毛をひっぱったりするのだった。 ちょっと痛いけれどそれがとても嬉しくて何度もおばけさんになった。
そろそろお昼寝の時間。娘に言われて仕方なく帰ることにする。 どっと寂しさが込み上げてくる。もっともっと一緒にいたいなと思う。
バーバって欲張りさんだね。また日曜日が来たら会えるのにね。
帰路に着きながら込み上げてくる熱いもの。
愛しさってかたちには出来ないけれどこれなんだなってすごくすごく思った。
天気予報では今日も暖かくなるということ。 なんだかむずむずと動き出したい気持ちの朝だった。 夫が「どこかに出掛けてみるか」と言ってくれて大喜びになる。
西に行くか東に行くか。さてどちらを選ぼうかと迷う。 「おまえの行きたい方へ行くぞ」それも嬉しい一言だった。
結局西を選ぶ。どこを目指すのかその時は目的もなかったのだけれど。 「ぶらり旅だな」って夫が笑った。「それも良いね」って私も笑った。
西へ西へとクルマを走らせ隣町の宿毛市へ着く。 今度はそのまま愛媛県に進むかまた迷ってしまった。 「次の信号までに決めろよ」すっかり私まかせの夫が微笑ましい。
「じゃあ次の信号を左!」今度は大月町という海辺の町に向う。 その時はっと頭にひらめいたのは足摺岬だった。
思えばもう何年も行ったことがなくてわくわくと嬉しくなる。 穏やかな海を眺めながらくねくねとした道を辿り足摺岬に着くことが出来る。
真っ先に四国霊場38番札所の金剛福寺にお参りをした。 本堂から大師堂へ行くと扉が開かれておりにっこりと微笑むお大師さん。 その姿になんともいえない感動をおぼえた。心を洗われたような清々しさ。
行き当たりばったりの「ぶらり旅」だったけれど お大師さんが呼んでくれたよう気がしてならないそんな嬉しい旅になった。
おとうさん今日はありがとうね。言葉には出来なかったけれど
夫の背中に手を合わせているとその優しさに目頭が熱くなってしまった。
風もなく穏やかな晴天に恵まれる。 ずっと寒い日が続いていただけに天からの贈り物のような一日。
家の中に閉じこもっているのがもったいない気がして 庭掃除をしてみたり歩いて近くの地場産市場へ出掛けたりした。
市場からの帰り道、従姉妹が庭先で里芋を洗っていて。 「食べんかい?」と聞くので遠慮なくいただいて帰る。 この時期の里芋はほくほくとして最高に美味しいとのこと。 晩御飯が楽しみになってスキップするようにして帰って来た。
その時、従姉妹が「今日はコーヒー行かんが?」って聞いたので。 思わず「行くけん!」と応えてしまったのだけれど。 帰宅するなり夫と行こうと思っていたら、先に行かれてしまっていた。 急いで電話をして夫を呼び戻すと迷惑そうな嬉しそうな顔をしていた。
それから従姉妹達もすぐにやって来てしばしおしゃべりの花を咲かす。 コーヒーはもちろん美味しいけれど、その後のお茶もまた美味しい。 お茶が出てくるのは高知県だけだと聞いたことがあるけれど。 「ゆっくりしていってね」って意味が込められているらしい。 そんなお茶に甘えるように二杯もおかわりをしてしまった私であった。
人と会う。人とふれあっているとなんだかすごく元気が出てくる。 そのためにはやはり動かなくてはとつくづく思ったりした。
午後は茶の間でのんびりと過ごし、散歩の時間を待っていた。 ほんの少し暖かいだけで歩くのがとても楽しみでならない。
幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだよ。
歌いながら歩く散歩道。あんずのしっぽも踊っているようだった。
ひだまりであんずがとろりんとろりんとしていた。 なんとも微笑ましい光景にこころがほんわかとあたたまる。
日向ぼっこっていいな。わたしも一緒にしたいなって思った。
さて、いただいたお休みをどうやって過ごせば良いものか。 特にあてもなく結局だらだらと怠惰に過ごしてしまった。 けれどもその気楽さが癖になる。のんびりを絵に描いたような時間。
それはまあるい絵で好きなように落書きをしてあるような絵。
これわたしが描いたのよってみんなに見せてあげたいような絵。
世間はそんなに甘くないよ。もっともっと厳しいものだよって。 叱られてしまうかもしれない。けれどもほんの少しでも良いから。 肩の力を抜いてみることも必要なのかもしれないって伝えたかった。
午後三時。あんずがきゅいんと呼んで散歩をせがむようになる。 それは元気になった証拠でもありとても嬉しいことだった。
土手にあがると北風が思いのほか冷たくて首をすくめる私に 母さん頑張れと言っているようにぐんぐんと先を歩くあんず。
ありがとうね。母さんはいっぱいいっぱい元気をもらっているよ。
お大師さんに今日もお菓子をもらって大喜びのあんずだった。 母さんも「いただきます」ってもらったよ。
美味しいねえ、美味しいねえってふたりでポリポリお菓子を食べた。
おひさまと北風小僧が仲良くふれあっているようないちにち。 決して競い合っているのではないのだなと思った。 冬のおひさまは優しくてまるで北風小僧の母親のようだった。
昨日から少し風邪気味。私はめったに風邪をひかないのだけれど。 昨夜は熱が出てしまって早々と布団にもぐりこんでしまった。 なんだかとても悔しかった。風邪なんかに負けないぞって思った。
幸いなことに今朝は熱も下がっていて山里の職場に行く事が出来る。 そうして同僚のお父さんが昨夜遅くに亡くなったことを知った。 病気で入院していることは同僚から聞いていたけれど こんなにあっけなく亡くなってしまうなんてなんとも残念でならない。
覚悟はしていたかもしれないけれど同僚もどんなにか気落ちしていることだろう。 すぐにでも駆けつけてお悔やみの言葉を届けたくてならなかった。
母と一緒に行こうと思っていた。けれども母はすぐに行くとは言わなかった。 私は苛立つ。こんな時にも平然としている母が信じられない気持ちになった。
「ひとは死ぬのよ」「いつか必ず死ぬのだから」口にこそ出さないけれど 母はそう言っているように思った。それはどうしようもないことなのだと。
結局お昼前になり、とうとう私ひとりで同僚の家にお悔やみに行った。 同僚は「ありがとう」って言ってくれた。私は母が来ないことを詫びる。
そうして職場には戻らずそのまま帰路についてしまった。
風邪のせいにして今週はもう仕事を休ませてもらうことにする。
どんな時にも優先すべきことがある。それは人としてとても大切なこと。
そんなことを思いながら、母の涙を垣間見たようにも思った。
朝の寒さは相変わらずだけれど 日中は思いがけないほど暖かくなりとてもほっとする。
北風小僧さんも今日はひとやすみをしているようだ。 そうそうたまには休まなくてはねと空に伝言をたのんでおいた。
仕事から帰宅するとポストに年賀状が届いていた。 毎年の事だけれど元旦から数日はそれが楽しみでもあった。 もちろん一方通行もある。けれども私はそれでも良いと思う。 届けられるものがひとつでもあるということがありがたいことだった。
今日のいちまいは、古きよき友から。 寒さ厳しい福井に住んでいて雪にすっぽりとうもれているようだ。 今日の暖かさを少しでも届けてあげられたらどんなに良いだろうか。
私たちの合言葉は「のんびりと元気でいよう」 急がなくていい。ゆっくりで良いから前を向いて歩いていこう。
たくさんの苦労と苦悩を乗り越えてきた友を想う。 「死」があまりにも身近だったけれど、一生懸命生きてきた友。
私の苦労などほんの些細なことだけれど、私たちは同志なのかもしれない。
そして親友。かけがえのない縁をこれからも育んでいきたいものだ。
氷点下の朝。昨夜降ったみぞれが凍っていていちだんと寒かった。
夫は消防団の出初式があり出掛ける。 私は綾菜恋しく娘の家に駆けつけていた。
一昨日から娘が職場に復帰して 綾菜も託児所デビューとなっていた。 大丈夫かしら、すごくすごく心配していたけれど 一昨日も昨日もとてもおりこうさんだったと聞きほっとした。 朝、預ける時にはまったく泣かないのだけれど 夕方迎えに行ったらわんわんと泣き出すのだそうだ。 幼心にもぐっと我慢をしているのだろうと思う。 そうして母親の顔を見るとほっとして甘え泣きするのかもしれない。 昨夕はそんな綾菜を抱きしめながら娘も泣いてしまったそうだ。
綾菜にとっても娘にとっても大きな試練なのかもしれない。 どうか順調に、どうか平穏無事にと祈り続けるバーバであった。
娘婿も消防団に入っているので「お父さん、見に行こうか」と 三人で出初式を見に行くことにした。それはたくさんの消防車。 見物人も多く綾菜もちょっと興奮気味だった。 やがて一斉放水が始まる。なんとも目を瞠るような光景だった。 「すごいね、すごいね」の連発。とても感動のひと時であった。
娘の家に帰宅してバーバは家政婦に変身。 お婿さんの大好きな「鶏ごぼう」を作ってあげた。 仕事に復帰してから家事に苦労している娘をおもう母心。 ほんの些細なことだけれど少しでも助けてあげたい気持ちでいっぱいだった。
また今度の日曜日にね。そう約束して娘の家をあとにする。
玄関で見送ってくれる綾菜と娘。バーバはとっても幸せな気分だった。
おひさまがかくれんぼしてしまってなんとも寒い一日。 こんな日は炬燵のおもり。ほぼ一日中もぐりこんでいた。
あんずも昨夜はなんとか家の中に入ってくれてほっとする。 アマゾンで犬用の服を注文する。嫌がらずに着てくれたら良いな。 すっかり元気になったとはいえ寒さ対策はまだ必要だと思う。
午前中に息子が来てくれてテレビにブルーレイを取り付けてくれた。 我が家には贅沢品だとずっと我慢していたけれど、 「お年玉だよ」と言ってなんともありがたいことである。 これからは私も茶の間で過ごす時間がうんと増えそうだった。
子供達にお年玉をあげなくなってずいぶんと経ったけれど いつのまにかこうして息子からお年玉をもらう年になった。 なんだか信じられないようなこれも大きな「恵み」である。
散歩の時間になり、あまりの寒さにとまどってしまったけれど 元気なあんずに励まされるようにいつもの散歩道を歩く。 風こそないけれど底冷えするような寒さだった。 まるで湖のように静かな川面。岸辺の栴檀の木の実が可愛い。
冬ごもりしたい気持ちとうらはらに楽しんでみる景色に感謝。
お正月休みも終わり今日が仕事始めだった。
なんだかちょっぴり緊張していた。 いつも通りで良いのになって思っているのだけれど どうしたわけか肩にチカラが入ってしまっている。
身を引き締める。そんな感じだったのかもしれない。 それはもしかしたら良いこと。そう思うことにした。
山里の職場に着くと事務所には鏡餅とお酒が供えられていて 母が大晦日まで仕事をしていたことがすぐに感じられた。
タイムレコーダーにも小さな注連縄が添えられてあり心が和む。 そうして自分の机に座ってびっくり、PCのキーボードの上に そっとさりげなく可愛いお正月飾りが載せられていたのだった。
母らしいな。なんとも微笑ましくてにっこり笑顔の朝になった。 ほんの些細な事なのかもしれないけれど、とても大切なこと。 そんな心遣いが出来るように自分もなりたいものだとつくづく思う。
一番のりの私の後に同僚が出勤してくる。 「良いお年をおとりになりましたかね?」なんて二人で笑いあう。
そうして少し遅れて母が出勤して来る。 「あけましておめでとう」言いそびれてしまった。 「ありがとうね」それも言いそびれてしまった。
「おはようさん」母の声につられて私も笑顔で「おはようさん」
そうしていつもと変わらない一日が始まっていくのだった。
今年も山越え谷越えなのかもしれない。
けれども笑顔で乗り越えていける。そんな気がしてならない仕事始めだった。
早いもので明けてもう三日。 のんびりモードとはうらはらに時ばかりが先を急いでいる気がする。
北風つよく寒い一日だった。 年が明けてから一気に元気が出てきたあんず。 今日も自分から散歩に行きたがるくらいで頼もしいかぎり。
おそるおそるではあったけれどお大師堂まで連れて行く。 途中で歩けなくなるのではと心配していたけれど 足取りも良く元気に辿り着くことが出来た。
お大師さんにご褒美のお菓子をいただいた。 それは嬉しそうに飛びつくようにして食べていた。 食欲もだいぶ出てきたようでほっと一安心というところである。
散歩から帰るとオムツをして家の玄関で過ごしていたのだけれど、 今日はどうしたことか家の中に入るのを嫌がって困らせてばかり。 夫と二人がかりで無理やり家の中に入れたものの大きな声で泣き出した。
「もう大丈夫なのかもしれないぞ」夫と相談して 以前のように犬小屋へ連れて行くとほっとしたように潜り込んでしまった。
今夜はかなり冷えこんでおり心配でならないけれど あんずの好きなようにしてあげるのがいちばんなのかもしれない。
それだけ元気になったということ。一生懸命頑張ったあんずだった。
今年は16歳になる老犬だけれど、その生命力におどろかせられる。
負けないぞ、負けないぞって精一杯生きようとしているのだった。
穏やかな晴天にめぐまれあたらしい年のとびらがひらく。 どうか平穏にどうかみなが無事にと祈りながら一歩足を踏み入れた。
ほんとうは少しこわかったのだ。ほんとうは少し不安だったのだ。 だってあまりにもめぐまれていたから、大きな落とし穴がありそうで。 突き落とされるのではないかとびくびくしていたのだとおもう。
そんな不安をよそに「大丈夫、だいじょうぶ」ととびらがひらいた。 なんてありがたいことだろう。その時みた光が心に沁みわたるようだった。
目にはみえないなにかに守られているのだとおもう。 何度も言うけれどそれは決してあたりまえのことではないのだとおもう。
元旦。昼間は娘達が、夜は息子が顔を見せてくれて嬉しかった。 家族揃って平穏無事に新年を迎えることが出来てほんとうにありがたい。
明けて二日。今日は夫とふたり初詣に行っていた。 ここ数年、初詣は一人きりが習いだったから嬉しくてはしゃいでしまった。 今年は少し足を延して四国霊場37番の「岩本寺」へ行くことが出来た。 おみくじは「大吉」それはとても思いがけなくてびっくりと嬉しかった。
この平穏がずっと続きますように。家族みんなが笑顔でいられますように。
手を合わせ祈りながら思った。すべてがいただいている日々なのだと。
「おかげさま」感謝の気持ちを忘れずに今年も日々を愛しんでいきたい。
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