ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2010年04月29日(木) すくっと前を向く

川辺には野ばら。その棘を忘れさすかのように。
やわらかく今にもとびだしそうな蝶々のように。

そんな野ばらにこころをうばわれつつ歩く散歩道。

かんがえてもかんがえてもどうしようもないことが。
かたわらの川のみずにさらさらと流されていくようだ。



午前中は久しぶりの川仕事だった。
とはいっても。もう収穫は出来ない。
一昨日の大雨にすべて流されてしまった。
最後の収穫を待ち望んでいただけに。
さすがにショックが大きかったけれど。

それが欲なのだとしたらきれいさっぱり。
もう未練どころではないほどの最後だった。

海苔網の撤去作業を始める。後数日もすれば。
今期の川仕事もすべて終わる事になりそうだ。

昨日はショックで気が動転していたけれど。
これも試練なのだろうと受け止められるようになった。

自然相手のこと。もうじゅうぶんに恵まれたのだと思う。



これからの暮しはなるようになるだろうと。

腹をくくるようなおもいですくっと前を向く。

前を向いてさえいればきっとまたよいこともあるだろう。



2010年04月28日(水) しりめつれつ

清々しい青空。くうきがとてもおいしい。

そんなくうきで胸がいっぱいになる。
シャボン玉みたいにふわふわとなる。

このままどこかにとんでいけたらいいな。
でもすぐにぱちんとわれてしまうのかな。

そうしたらまたくうきになればいいんだ。




ありのままってむつかしい。むりしてる。
じこけんおにおちいりそうで。くしゃっと。
それをまるめてほうりなげてしまいたいな。


わけわかんないね。こんなんじゃいったい。
なにをつたえたいのかじぶんでもわからない。



とにかくなんとかなるらしいからなんとかしよう!


しゃぼんだまとんだ。やねまでとんだ。

やねまでとんで。こわれてきえた〜っと。



2010年04月27日(火) 春の嵐

どしゃ降りの雨と強い風。まるで嵐のような朝だった。

とことん降ればいいのだと思いつつ激しい雨音をきく。
そんな雨に打たれたい衝動にかられるには少し老いすぎ。
むかしむかしずぶ濡れになった少女の頃をふと思い出す。



そんな雨もとうとう力尽いたかのようにぴたりとやみ。
午後には薄く陽が射し始めた。それは優しい春の太陽。
雨上がりのなんともいえない水のにおいがただよって。
そこには光の精が手をつなぎあって踊り歌っているようだ。

わたしも踊れるかもしれない。歌だってうたえるかもしれない。


とても清々しいきもちになって散歩に出掛けた。
ご近所の庭先の紫陽花。もう花芽が見えている。
そうしてそのかたわらにはなんとコスモスの花が。
先日からの寒の戻りを秋だと感じたのかもしれない。
とても不思議な光景ではあったがその花のかわいさ。


お大師堂には昨日のお遍路さんがとどまっていた。
今日の旅をあんじていただけにとてもほっとする。
よい休息日になりましたとにこやかに微笑んでくれた。

しばし語らっているとミニバイクに乗ったお遍路さんが。
なんと長崎からバイクに乗って旅を続けているそうだ。

ひとりよりふたりがいい。今夜のお大師堂はにぎやかになりそうだ。

今日の雨がなければ出会えなかっただろうふたり。

これもささやかな縁なのだと思うとわたしも嬉しかった。




2010年04月26日(月) 明日は雨のようですね

晴れのちくもり。明日はまた雨になるらしいけれど。
移り変わる空の機嫌にもすっかり慣れてしまったようだ。

四月もあとわずか。やがては五月晴れの空が続くことだろう。
新緑の季節。さわやかな春風。そっとそっと待っていようと思う。



午前中に海苔の二回目の出荷があった。
とはいえ例年の半分にも満たない少なさ。
考えないでいようといくら思ってみても。
やはりどうしても暮しの不安がつのってくる。

なんとかなる。もっともっと気楽にかまえていたい。
なるようになる。ああそれってどんなふうになるのか。
なってみなければわからないことにふりまわされてしまう。

欲を言うなと彼は言う。これが欲なのだろうかと考え込んでしまう。
自然の恵みをじゅうぶんにうけたのだと感謝しないわけではなかった。



やめようこんな話。どうして書いてしまったのだろう。ごめんなさい。



いつもの散歩。お大師堂で東京から来たというお遍路さんに会った。
ちょうど晩御飯の支度をしているところで。豚肉とおうどんで。
煮込みうどんのようなものを作っていた。それはたくさんの荷物。
自炊道具まで提げて歩き続けるとはなんて大変なことだろうと思う。

けれどもそんな自炊を楽しんでいるようにもみえた。
おいしい煮込みうどんをはふはふしながら食べる姿が目に浮かぶ。

明日は雨のようですね。そんな言葉も少しも苦にはきこえなかった。



2010年04月24日(土) あおぞら

久しぶりの青空。なんて清々しいことだろう。
こどものように嬉しくなって何度も空を仰ぐ。

どこからか山鳩の鳴く声。雀たちのはしゃぎ声。
低空飛行をするツバメたち。空たかくトンビかな。

そうしてなんとにんげんも空を飛んでいた。
すぐ近くの河川敷でイベントがあったらしく。
あれはなんていうのだろう。パラグライダー?

高いところは苦手だけれどあれは気持ち良さそう。
ひとも鳥のように空を飛べるなんて素敵なことだ。




今日もいちにちのんびり。ゆったりと時が流れる。
村上春樹を少しだけ読む。ほんの少しの違和感が。
まさかこれでは終わらないだろうと期待しつつも。
なかなか先に進めない。続きは明日にとっておこう。



ゆうがた散歩。観光船がとてもにぎやかだった。
きらきらと光る川面にそのシルエットが映えて。
しばらく立ち止まってその船の姿を眺めていた。

汚染のすすんでいる大河。どうか今のままでと願う。
また来たいねと言ってくれるような川であってほしい。

そんなことを思いながらあんずとふたり川辺をあるく。




2010年04月22日(木) 雨がやんだら

今日も雨。とても元気な雨だった。

じめじめとした鬱陶しさを通り越してしまい。
その雨音に励まされているようにさえ思った。

ふるときはふる。とことんふるそのすがたがすきだ。



今日もひきつづき怠惰に過ごす。
読みかけの本もひらかずにいて。
午後は3時間も寝入ってしまった。

寝起きはさすがに気だるいけれど。
その気だるさも心地よくおもえる。

わたしは怠け者だ。そう決めると。
気も楽になる。がんばることなど。
なにもない。ただ生きてさえいれば。


窓の外をみると雨も小休止だった。
よし散歩に行こうと表にとび出す。
あんずもお昼寝をしていたらしく。
のそのそと犬小屋から這い出てきた。

行くの?って問うように私の顔を見る。
雨止んでるよ!とおしえてあげたら。
ちょっと嬉しそうに尻尾をふっていた。

雨上がりのくうき。なんておいしいのだろう。

しんこきゅうをいっぱいした。すってはいて。

もしも鬱々としたものがあるのだとしても。

すってはいて浄化してしまえるのだとおもう。


クローバーに真珠の雨粒。とてもきれいだった。



2010年04月21日(水) これでいいのだ

どんよりとした曇り日。ときどき小粒の雨が落ちる。

とくにこれといった用事もないのだから。
山里の職場へ行くことも出来たのだけれど。
やはり気が重くなり怠惰な時を過ごしてしまう。

いったいわたしはどうしてしまったのだろう。
どうやらすっかり怠け者になってしまったようだ。

これでいいのだ。これでいいのだと天才バカボンの歌をうたう。

かんがえたくないことがある。ただ逃げているだけかもしれないけれど。



ゆうがたいつもの散歩。しっとりと潤った土手の道を歩く。
野あざみと名も知らぬ黄色い花。白つめ草の花もかわいい。
四葉のクローバーをさがしてみたけれど見つからなかった。

それはきっとさがしてはいけない幸福なのかもしれない。

ある日ふっとぐうぜんのようにそこにあるものだとおもう。

これいじょうのなにをと思うこともある。私は幸せだった。






2010年04月20日(火) さちこかえる

二十四節気のひとつ『穀雨』だという今日。
昨日の肌寒い雨とはちがうのはそのせいだろうか。
しとしととやわらかな雨が静かに降りつづいた。

穀物の生長にはひつような雨だということ。
もしかしたらひとにもひつような雨かもしれない。

そんな雨も午後にはやみほんの少し青空がみえた。


「け〜んちゃん」父の事をそう呼びながらサチコが帰る。
ほんとうに愉快な娘だ。我が家の茶の間も一気に晴れた。

おみやげに資源ごみをたくさん持って来てくれたりで。
それもまた笑いの種になりしばしにぎやかに語り合う。

すこしふっくらとした。なんと5キロも太ったそうだ。
仕事と家事の両立でやつれはしないかと心配していたけれど。
家に居た頃よりもずっと健康そうに見えてほっとする。

春物の衣料などを袋に詰め込んであわただしく帰って行く。
庭に出て見送るときはやはりほんの少しさびしくなった。

そうして家に入ってもまだサチコの残したふんわりとした
まるで春風のようなくうきが漂っていてふとせつなくなる。


父も母もまたこんな日をずっと待っていることだろう。

春風がやがて夏風にかわり向日葵のように咲く娘のことを。



2010年04月19日(月) ふるさと

春に三日の晴れはなしで今日もまた雨になった。
先日ほどの冷たさはないけれどもやはり肌寒い。


川仕事が一段落したので山里の職場へ顔を出す。
二週間ぶりの峠道には山ツツジがたくさん咲き。
山肌からこぼれるように咲く花に心をうばわれた。

民家が近くなると大きな銀杏の木が見えてくる。
裸木だったその木にも新芽があふれるように芽吹き。
思わず歓声をあげてしまうほどその緑が美しかった。

田んぼには植えられたばかりのちいさな稲が並ぶ。
まるで雨を嬉しがっているかのようにそこにある。

懐かしいなとおもう。まるでじぶんの故郷のようだった。



母は相変わらず血圧が高く足の痛みも訴えていた。
いくら気丈とはいえやはり無理がたたっているのだろう。
なんとか助けてあげたいと思うけれどほんの少し気が重い。

いったい私はどうすればいいのだろうと悩んでしまうのだった。

暮らしのことをかんがえるともう限界かもしれない。
とにかく収入のある仕事をしなければ食べていけない。

それを母に言い出せなくてそれが悩みの種になっていく。


「すまないねえ。ありがとうね」母のことばがあたたかくて。

涙があふれそうになりながら。逃げるように家路をいそいだ。



2010年04月17日(土) そんざい

ここ数日の寒さもやっと峠を越えたのか。
空から光の天使が舞い降りてきたように暖かくなる。

寒いあいだ姿の見えなかったツバメも嬉しそうに飛び交う。
空を仰ぎつつそれはとてもほっとする光景だった。

どんな日もあるものだ。寒の戻りにそれを思い知らされて。
ふつうだとかあたりまえだとか決めつけるのをよそうと思う。

なにがあってもおかしくない。とまどうことなどなにもない。



午後久しぶりに読書。村上春樹の例の新刊が昨日届いた。
アマゾンはほんとに便利だ。予約さえしておけば発売日に届く。
けれども一気にとはいかず。ほんの少しだけ読んで本を閉じた。
これまでのあらすじを思い出しながらゆっくりと読みたい本だ。



ゆうがたの散歩。川面がきらきらと光りとても眩しかった。

歩きながらいろんなことをかんがえる。ながれるということ。

こんなふうにひかりながらながれてうみにたどりつくみずや。

そのかたわらをにんげんになっていぬとあるいているじぶん。

けっしてひとつではないけれどともにそんざいするということ。





2010年04月15日(木) つぶやき

つめたい雨がふりやまぬ。

春の雨は優しいはずだけれど。
そんなうたがむかしあったね。

みんなこの寒さをうけとめているのかな。
わずかにのこった桜の花もふるえながら。
藤やツツジや野アザミも泣くこともなく。


しごとがおやすみになってまったりしている。
あるいみたいくつ。そうして少しこころ細い。

じぶんがしょうめつしてしまいそうなきがする。
たとえばどこかの空間にすいこまれてしまうように。

いたいかな。ううんちっともいたくなんかないんだ。

でもいやだな。こわいな。そういうのやめてほしい。


つめたい雨がふりやまぬ。

うたれもせずに濡れもせず。

ここにいることをたしかめるようにつぶやいてみた。



2010年04月13日(火) さんぽ

久しぶりの青空に清々しい風が心地よかった。
雨上がりの緑は艶やかでなんて綺麗なのだろう。
土手の雑草さえもきらきらと輝いてうつくしい。

ああわたしも草になりたい。

なまえなんかなくてもいい。

だいちにつよく根をはって。

雨の日はあめにうたれては。

風の日にはそよとうたって。

晴れの日の太陽に恋をする。


草だ。もうそれしかないと決めつけるように思った。


けれどもにんげん。なまえだってちゃんとつけてもらって。
にんげんだからしかたないけれど。けんかだってするんだ。

今日はあんずとけんか。もうはらがたってしょうかなかった。
そうしてぶった。かわいそうだけれど叱らないといけなかった。

久しぶりのお散歩で彼女もはしゃぎたかったのだろう。
リードを外してあげて好きなように走らせてあげれば。
けんかなんかしなくてすんだ。けれども自由ってなに?

私にぶたれたあんずはいっきにしゅんとなりおとなしくなる。

ゆっくり歩こうよ。ほらアザミの花がたくさん咲いているよ。



2010年04月12日(月) 雨音

菜種梅雨というのだろうか雨も今日で四日目となる。
さすがに桜も散り時を知りわずかにその花をのこす。

けれどもそんな桜から春をうけつぐように。
藤の花が咲く。つつじも綺麗に咲き始めた。
お天気はぐずついていても今が春爛漫なのだろう。

ありがたいことにどの花もこころを和ませてくれる。


早朝からの川仕事を終えると午後はひたすらのんびりで。
テレビを見たりうたた寝をしたりと怠惰に過ごしている。

日課のお散歩もずっとさぼっているのだけれど。
あんずも諦めているらしくせがむ様子もなかった。

明日は晴れの天気予報。青空が待ち遠しくてならない。

てくてくと歩こう。しんこきゅうしながら歩こう。

あしたのことをかんがえながら雨音とともに夜が更ける。



2010年04月10日(土) 平穏

昨日のどしゃ降りの雨が
桜をすっかり散らしてしまったと思っていた。

けれども桜はまだ残っていてくれていたのだ。
ほんの少し誇らしげに薄桃色の微笑をうかべ。

もうおしまいだなんて決めてしまわないでと。
儚いものをあわれむこころにまた花を咲かす。

ことしの桜はとてもつよい。それが嬉しかった。


わたしはすぐにあきらめてしまう性分だから。
ああ駄目だなって思ったらどんどん駄目になる。

時々そんなじぶんをコントロール出来なくなって。
悪いほうへ悪いほうへと押し流されてしまうのだ。

なにごとも気の持ちよう。なんども言い聞かしている。
病も気から。負けないぞって強い意志がなくてはならない。

そうしてもっとあっけらかんと生きていきたいと思う。
なるようになることはそっと見守るようなきもちで。
なんとかしなくてはならないと思わないでいたいものだ。

むつかしいけれど。少しずつそんな自分になっていきたい。




ゆうがた。玄関先のツバメが二羽になっていた。
このところ姿が見えなかったので心配していたけれど。
どうやらお嫁さんをさがしに行っていたらしい。

またこれからが楽しみになるな。老い始めた夫婦と老犬。
若きツバメ夫妻とともに。今日も平穏な一日をありがとう。






2010年04月08日(木) 母子草

母子草の花が咲いていた。
なんともかわいらしい花。

すこし背の高いのがお母さん。
まだちいさいのが子供かしら。

こんなふうによりそえることが。
しあわせというものかもしれない。



あの頃の母はまだとても若くて。
小学校の用務員をしていたのだった。
その日はいつも土曜日だったと思う。
自転車を押しながらの母と一緒に帰る。
子供心にそれがとても嬉しかったのだ。

お店屋さんに寄って買物をする時は。
いつもコロッケを買ってくれたっけ。
それを食べながら帰るのが好きだった。

母は優しかった。そしていつも笑顔だった。



ながいながい歳月を経てじぶんも母になる。
子育てが苦手だった私は子供たちに育てられ。
いつのまにか大きくなった子供たちが巣立つ。

わたしは優しかったのかしら。
いつも笑顔でいられたかしら。


ただよりそうことはできたのかもしれない。

しあわせなじんせいだったとその時がきたら言うね。



2010年04月07日(水) むかしむかし

柿の葉のやわらかな若草色がなぜか懐かしい。
それはこどもの頃の記憶なのかもしれないけれど。

なにもおもいだせない。もしかしたらおままごと。
若草色のお皿の上に桜の花びらをそっとのせたり。



ずいぶんと遠いところまでたどりついてしまった。
これも歳のせいだろう。来た道を振り返ってみる。
そんなことが多くなったこの頃。思い出というより。
それは過去というなのひとつの道にほかならない。

あの時あの道で立ち止まった。一歩が踏み出せずに。
うずくまって膝小僧をかかえ途方にくれたのだった。

背中を押してくれたひとがいる。つきはなすように。
つよくつよく「行ってみろよ」とそのひとは言った。

あれからもう33年の歳月が流れた。むかしむかし。


そうして道というものができる。

いつだってそれはあたらしいみち。



2010年04月06日(火) ふんわりとふくらんで

やっと春らしくぽかぽか日和になる。

ここ数日の肌寒さにきゅっとしぼんでいたものが。
ふんわりとふくらんで花開いたような気持ちだった。

そうして春風に吹かれているとどこかにとんでいきそうで。
ここにいるね。ちゃんといるねとじぶん自身を確かめてみる。

ぽつねんとしているのがいい。たとえば野原のまんなか。
誰を待つでもなくひっそりと咲く雑草のようでありたい。



うぐいすがしきりに歌うのに耳をかたむけながら。
もう10日ぶりだろうかやっと川仕事を再開した。
例年の最盛期をおもうとほんとうに不作だけれど。
わずかの収穫でもありがたいのだと思って頑張る。

暖かさにうっすらと汗をかいた。心地よい汗だった。
彼とおしゃべりをしながらの作業は楽しくもあって。
くよくよとこの先の暮らしの事など考えるのはよそう。

なるようになっているのだな。いまがそうなのだなと思う。



2010年04月05日(月) 春の山里

二十四節気のひとつ『清明』
万物が清々しく明るく美しい頃だという。

午前中はどんよりとした曇り空だったけれど。
午後から一気に青空が広がりまさに清明となる。

山里ではもう田植えを済ませた田んぼもあり。
そのちいさな苗がきらきらと陽に輝いていた。

桜並木もしっかりとそこにあり目をうばわれる。
牧場では牛たちがのんびりと草を食んでいたり。

とてものどかな山里。ここが好きだなと思った。


不思議な事に体調も良くなる。憑き物が落ちたような。
そんな気さえするほど活き活きとしてくるのだった。

ここ数日の憂鬱さ。不安さえも吹き飛んでしまったようだ。
その土地により気の流れが変わるというのは本当だと思う。

しばらくは毎日というわけにはいかないけれど。
また山里へ来よう。そうして精一杯に尽くそう。

老いた母の背中を見ながら胸を熱くし家路についたことだった。



2010年04月04日(日) 散り急がずに

もう四月だというのにまだ肌寒さが続いている。
そんな気温のおかげだろうか桜は散り急がずに。
今日もほっと仰ぎ見ながら愛でることができた。

その時がくればそれは潔くはらはらと散るだろう。
あと少しもう少しなのだと惜しむような気持ちだ。



川仕事を休むようになって一週間が過ぎた。
まるでそれに合わすように体調がすぐれず。
これはゆっくりと休みなさいということか。
受け止めつつ毎日をそれなりに過ごしている。

もともと神経質な性分で気にし始めるときりがなく。
ゆったりとくつろぐ気持ちで日々をおくりたいものだ。


散歩は気分転換によく毎日続けている。
土手の緑が日に日に濃くなっていくのや。
雄大な川の流れを目にすると心が落ち着く。

じぶんもそんなしぜんのひとつなのだとおもうと。
くよくよしたりふあんがったりするのがおかしい。

なるようになるさ。ちるときはちるのだからと。
いまあるいのちをたいせつにだきしめてあげたい。


明日は久しぶりに山里の職場へ行ってみようと思う。

母はきっと喜んでくれるだろう。私も嬉しくなりそう。


 < 過去  INDEX  未来 >


anzu10 [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加