生命が途絶えること。 - 2010年03月27日(土) まだお試し版は使えるんでしょうか。ukです。 さて、先日と言うか今日ですね。親父の一周忌でした。 去年のほんとに今日この日に親父が亡くなってもう一年。 あっという間でした。色んなことがあった。変化も。 親父のことを思い出したり偲んだり悼んだり・・ というのは、ここでは控えますけれど、 この日、実家で飼っている金魚が一匹、天に召されました。 私にはそれが、大変ショックなことで仕方ありませんでした。 実家の母や弟に金魚の飼育を勧めたのは私で、 彼らが金魚に対する愛情は多からずともありはすれど、 それが実際「生命」に対する尊厳かと言うと疑問で。 明らかに病気と思われる状態に陥った一匹の金魚に対し、 既に手遅れなほどになっていることもあって、 自分が適切な処置を行えなかったことが本当に残念で、 そして何より、母や弟にその飼育を任せてしまったことも残念で。 もし自分が監視して、きっちり世話をしていれば、助かったのではないか、 そんなことを思うと、胸が痛んでしょうがありませんでした。 しかし、そういう思いは、もしかしたら、 親父の死に際にも馳せられた経験もあったのかなぁと、 今更ながらに思います。 母や祖父母が、父の思い出話をする際にはいつも、 「自分の無力さ」であったり、 「病気の偶然性(あるいは必然性)」の感情が纏われているのを感じます。 金魚と人間の生命を一緒のカテゴリに入れるのは、 もしかしたら間違っているのかもしれないし、 ましてや、それらの「重さ」なんていうものを、 それこそ天秤にかけるようなつもりもありませんが、 こうして、一つの命が終わる瞬間は、 残された人々に何かしらの心の動きを与える。 そう思います。 生命が途絶えること。それは、常ならぬ世の中において当然のこと。 しかし、それを意識するのは言葉で言うほど容易なものではなくて。 自分以外の存在のそれを見て、自分のそれを確認する。 そういった部分もあるのかな、とそう思ったりもします。 乗り越えていこう。屍を。 何事においても、そういうものに対して、尊厳を持っていられたら。 そうしたら、きっともう少し生きることに真剣になれるかな。 *** 2010/3/28 3:09 ...
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