あたま
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2009年05月31日(日) フレンチとか食べると思いだす本


一皿一皿 くったらくったら食べるフレンチにあたると、
いつも思い出すシーンがあって、
長いけれども短くなんて譲れないのでそのまま引用。

いつか 食べてるだけで一日が過ぎ去るような食事をしてみたい。

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大台所での季節巡りは、毎年判で押したように決まっていた。
「春は病人の世話」――たとえば淡色の春野菜を舌で潰せる柔らかさに煮たもの、牛乳粥、半熟の落とし卵、残った殻で濾したコンソメに浮き身を散らしたもの。軽くて薄味のもの、柔らかいものから始めてまずは徐々に慣らしていき、白身の魚の香草焼き、薄切り肉とじゃがいものフライに走りの夏野菜を添えたものなどが食卓にのぼる晩春の頃はほぼ平常食、回復期の終わりと言ってよかった。
 しかしそれでも夏までの食事は日に三度で、合間に咽喉を潤す冷菓のたぐいや軽い発泡酒を積んだ銀盆が頻々と通っていく程度ならば、忙しさは取り立てて言うほどでもなくまずまずといったところだった。氷室への往復が増える盛夏の頃になると、砕いた氷で飾った前菜の後を追いかけて脂の爆ぜる骨付きの肋肉が数人がかりで運ばれていくこともあり、暑気払いにぴりっと刺激のある香辛料や酢の隠し味はどの料理にも欠かせない。また日暮れてからの晩餐は揺れる蝋燭の火が銀器やグラス類に映えて夢のように美しいのだが、庭を越えてテラスまで往復する給仕たちは湿った芝で靴底が滑ってくたくたになり、夜更かしの遊びが始まる夏の終わりごろにはそれに夜食が加わった。……深夜の食事がしだいに二度目の晩餐と呼べるほど重く充実していくのと競い合うように、深まる秋の甘菓子や肉詰めパイなどの軽食もまたむやみに皿数を増しながら午前と午後の二度に増えていくのだった。

「ラピスラズリ」  山尾悠子



幻想文学なんて、山尾悠子さんがいればそれでいい。


CQ

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