フタゴロケット
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2008年10月09日(木) 居ない居ない

居ない居ない。

鏡を覗いて、居るかなと思ったら今日も不在だったので諦めて私はそのまま家を出た。

居ても居なくても大して変らないのかも知れないし、大層変るのかも知れない。

解らない。

暫く私は鏡の中に私が居るなんて事は無いからだ。

「何時から居なかったかな?」と私は少しだけ広葉樹が色付いてきた街路を歩きながら逡巡した。

真っ青なコートを買った。
とても素敵なコート。

海色のコートなんて滅多に売ってない。

大切なのはソノトキノ私の海色の気分をその服が持っているかどうかで、そんな確立は東京中歩いたって神戸を隈なく散策したって天文学数値で儚く成就しない。

たまたま私はその日代官山に野暮用で出かけて行き、駅から吐き出されて直ぐ、鉛色の空から雨を落とされた。

「傘、傘」

と空言のように呟きながら目に入った雑貨屋で黄色と桃色の折りたたみの傘を買った。
広げるとそうでも無くて、少々残念だった。暫くすると「ビィーン」と音を出し、傘の骨が骨折して、哀れにもぶらぶら銀色の金属が私の頬に冷たさを伴って張り付いた。雨とは違った冷気だった。私はクレームを云うのも億劫になり、屹立する灰色の牢屋のようなマンションの前のガチャピン色のゴミ箱に其れを突っ込んで濡れながらそのまま歩いた。歩いた瞬間、瀟洒な白と黒がバランス良く配色された店内の奥で海色のコートが私を見ていた。

私は少々用心しながら、獲物に近づき、照明の下で色を見て、少し暗がりでもう一度そのコートを見た。文句の付けようが無い。

其れは今日の私の気分にぴたりと当てはまった。正に天文学的な数値の上に成り立った奇跡的な事象だ。私は値段も見ずに其れをレジまで持って行き、158000円を若い男性の店員に突きつけられた。そして支払いの事も考えず私は大きな紙袋を背負い、また濡れながら歩いた。

暫く歩き、美容室の脇の階段を通り抜け更に西に歩くと、住宅街の一角に二階建ての家に少し手を加えたカフェがある。尤も外見は、看板も何も出てなくて、寧ろ苗字の表札が掛けられていたりするので、一見してカフェでも何でも無く民家である。違うのは入り口にどかどかと入り込んでも、聞こえるのは「何ですか?」という怒声ではなくて、品のある声で「いらっしゃいませ」という暖かい出迎えの言葉だ。私は此処を殆ど誰にも教えない。私の家を親しい友人にも教えないように。

私は軽く会釈をして入り、奥行きの在る店内の一番奥の席に座る。理由があって其処は高台でその奥のテーブルからは街が見え、鉄道が見える。時間が緩慢になり、電車で寝ることの無い私は其処でなら、居眠りをする事が出来、長期戦の時は店主が毛布を掛けてくれる。
私だけなら嫌だなと思っていたら先日、両腕にカラフルな猫の刺青を施術した店主が村上春樹氏の本を読んでいた男性にも同じように毛布を丁寧に掛けていたので私はますます其処が気に入った。

私は「いつもの」と店主に言い「かしこまりました」と男前の彼は言う。少し濃い目のカフェオレにブランデーを数滴垂らして貰った特性のドリンクを頂戴しながら私は本を開くと戸口が開いて、更にカラフル刺青をした男性が入ってきた。

「おうおう」

と彼は私を見て言い、「マスターいつもの」と言い、形の良いスェードのロングブーツで彼は床を軋ませながら一番奥まで入ってきた。

「何買ったのさ?」

彼は言い

「コート」

と私は言った。

「見せて」

と彼は言い、私は大きな紙袋を彼のまえにちょっと見て欲しくてわくわくしながら出した。

「格好良い!」

彼はそう言って、袋から其れを出して、立ち上がって羽織った。
そして其れは見事なくらい彼に似合っていた。

「マックィーンか?」
「何だったかな?」

私はいちいちブランドをチェックしないので分からない。
彼にしたって知っているのかどうか訝しい。この前「ユニクロ」と言って着ていたシャツはギャルソンだったし、「ノースフェイス」と言って羽織っていたブルゾンはアンダーカバーだった。どういう間違えなのか私は大変気になったが彼という人間を冷静に考察すれば不思議と気にならなくなった。

「頂戴?」
「え?」

私は大分真顔だったと思う。
真顔で聞いたら、彼も真顔でもう一度「頂戴」と言った。私はもう一度丁寧に彼の出で立ちを見た。やっぱり似合って居た。

「いいよ」
「やった」

彼は本当に嬉しそうにはにかんで、莞爾と微笑んだ。

これで私はまた長い時間を掛けて海色のコートを探す旅をしなくちゃならない。

まぁいいかと思いながら子供の用にはしゃぐ彼を見て少々羨ましく思った。
この人はきっと何時までも何処までもこの人なのだろうな。

贈与は後腐れ無い方がいい。

「何か買ってくれる?」
「いいよ」

彼は言った。こんな時彼に任せると彼は驚くほど素敵な物を見つけて買ってきてくれる。何時だってそうだ。きっと高価な物もあるのだろうけれど、彼も私も気にしない。其れを大切に使う。

店主が私と彼の分のドリンクを持って来て慇懃な態度で奥に辞した。珍しく他にお客さんが居なくて、私と彼の二人切りだった。何時だって此処はJAZZとROCKをくれる。時折みんなの耳が慣れて飽きてくると、クラッシックを流してくれる。丁寧に一枚一枚流してくれる。良い時間は、良いアルバムによって彩られて演奏者が変るごとに万華鏡のように時間も空間も姿を変える。一枚のアルバムを延々たれ流すような事はこの店では絶対にしない。窓を見ていたら雨脚がまた強くなった。

「さっきね。暫く、下北に居たんだ。たまたま雑誌を見つけて買って、本屋の近くの喫茶に立ち寄った」
「うん」
「女というのは何て我侭な生き物だろう。そして其れを許せる男は何て悲しい生き物なんだろう?」
「珍しいね?そんな事言うの」
「ううん。雑誌に誰かのコラムでそう書いてあった」
「そう思うの?」
「どうだろう・・・?」

彼は両腕を組んで大きな手で頬を挟み暫く沈思した。
「髪が伸びるの速いなこの人」と私は彼の細く華奢な指にかかる髪を見て思った。

「女の子だって許しちゃうよ。愛って許せるかどうかでしょう?よっぽどその人女の人に恵まれないんだよ」
「そうか、そういう観点か。納得行った」

彼は一人で勝手に感心して得心していた。
私はそんな晴れやかな表情を雨霞の10月の空と交互に見た。

彼は世界を埋めるジグソーパズルをまた一ピース手に入れて、私は何だか一つまた失くしてしまったような、儚いような切ないような変な気持ちになった。

「買い物行くか?」

塞ぎこみそうな私に彼は不思議な魔法で私を抉じ開けた。

明日は鏡に映るかもしれない。何だか私は漠然とそう思った。外に出ると雨はいつの間にか上がっていた。

「淡い海色のコートが欲しい。エーゲブルーみたいな」
「いいよ。探そう」


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