僕らが旅に出る理由
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小さい頃、大叔母さんが好きだった。 父の叔母(父の父の妹)にあたる人で、父が若い頃から慕っていたそうなので、私にも父のその思いが乗り移っていたのかも知れない。 父は大叔母さんをおばさん、ではなく親しみを込めてねぇちゃん、と呼んでいた。 「おばちゃんて呼び!お小遣いやるから!って、言うんや」 と父は笑っていたが、ねぇちゃんと呼ぶことをやめなかった。 幼い頃兄弟から離されて、子供のない親戚に預けられた父にとって、近所に住んでいた大叔母はほんとの姉のように思えたのだろう。
大叔母は優しい人だった。 それでいて茶目っ気もある人だった。 この人は、いつも私を温かく迎えてくれるという直観が子供心にあった。 だから1年のうち数えるほどしか会う機会がなくても、私は大叔母に何の垣根も感じることなく、会いに行けた。
大叔母は家庭を持ちながら、地元の病院で看護婦をしていた。 大叔母の年代でそのように働いている人を知らなかったので、すごくかっこよく見えた。家で野良仕事などをしている時はどこにでもいそうな田舎のおばあちゃんなのに、病院ではキリッと白衣を着て、別人のようだった。しかし、どこの場所にいても大叔母は変わることなく、いつも優しい人だった。
ある時、大叔母さんがうちに遊びにきていて、夜、テレビを一緒に見ていた。 その頃流行の刑事ドラマが流れていて、いつもは(流血シーン等の嫌いな)母に止められるのだが、その夜は何となく特別だったので、見ても怒られないかも、と思った。大叔母さんにドラマの説明をすると嫌な顔もせず、あらそう、45ちゃんが好きなドラマなのね、と言い、あの茶目っ気たっぷりの目で微笑んでくれた。
が、母はそのドラマを見る事を許してくれず、おまけにさっさと寝なさいときつく叱られた。決まり悪くなった私は大叔母がきっと助け舟を出してくれるものと思って期待したが、大叔母はどうしてよいか分からぬ風に曖昧に笑っているだけだった。たとえ弁護してくれなくても、「まぁ、お母さんがそう言うならしょうがないねぇ」とか、「もう夜も遅いから、おばちゃんと一緒に寝ようか」とか、何でもよかったし、ほんの一言でよかったのだが、大叔母は一言も発しなかった。そしてその場に似つかわしくないニコニコ顔をやめることもなかった。それはちょっと異様な光景だった。
たぶん大人の世界ではいろんなことがあったのだろう。 大叔母さんが父の実家から長年絶縁されているとか、それは誰にでも優しくしすぎて実家の誰それの機嫌を損ねたからだとか、なんだかそういう込み入った話は親戚中集まったお酒の席などで、小さな私の頭越しに繰り返されていた。 何かそういう事情が、大叔母さんを必要以上に控えめな人にしてしまったのだろうか。しかし当時の私に理解できていたわけではなく、その時は大叔母さんがかばってくれなかった、ということだけが強く心に残ってしまった。それから、大叔母は私の中で急に遠い人になり、その後自分の学年が上がるにつれて、親に連れられて親戚を訪ねるようなことも減って行った。
父が亡くなった時、私は大学を出て東京で働いていて、実家に戻った時にはもうお通夜の準備ができていた。 あまりに急なことで、私は父の体に触ることもできなかった。それは、大好きだった父そのものでありながら、もう私たちのいる此岸の人ではなく、その意味で他の遺体と変わりなく、よく知ってるようでまったく知らないような、誰かだった。生きてるのか死んでるのかさえ、よく分からなかった。私は混乱していて、父の体のそばに行くことさえ、怖かった。 私の家族全員、多かれ少なかれ同じように戸惑っていた。 その時、大叔母さんがやってきた。
大叔母さんは私とは正反対だった。 何のためらいもなく、がばと父の体に取りすがっておいおいと泣いた。 いつも物静かな大叔母からは想像もできない激しさで、父の顔に自分の顔をくっつけたり、父の頬を何度も撫でたりした。 弔問の人からお悔やみの言葉があると、 「あんた!聞こえてるぅ」 と聞こえるはずもない父の耳に口を寄せ、叫ぶように言った。
私はそれを見て、肉親とはこういうことだ、と急にその言葉の本当の意味を知った。その時はあまり行き来のない親戚のひとりに過ぎなかった大叔母が、父にどれほど深いつながりを感じていたか、また父もそうであったか、に気づかされた。その絆を通して、父が送ったさびしい青年時代が透けて見えるような気がした。他の親戚も続々と来てくれたが、誰も大叔母さんほどのことはしなかった。伯父さんも、伯母さんも、私の母でさえ。
大叔母さんはその数年後、亡くなった。 看護婦だった大叔母は自分の体の状態もある程度分かった上で、入院はせず、亡くなる前々日まで畑仕事をしていた。 一度母と大叔母さんを訪ねた時、笑いながら話していたのに、急に 「あれがいってしもうてから、瀬(せ)が無(の)うて…」 と苦しそうに泣き始めた。その痩せた体のどこかにまだ水分が残っているならどうか涙として出てきてほしい、というような、苦しい泣き方だった。 大叔母さんは長く患わなかった。死期まで他人に気を遣って、極力迷惑をかけないようにあっさり逝ったのだろうか、と思えるような最期だった。 お葬式の日は、雨だった。 誰もとりみださない、静かなお葬式だった。
大叔母さんの家は今でもその子供にあたる人が住んでいるが、ほとんど交流はない。でも、家の前は時々、通りかかることがある。 県道のそばで、すぐ裏手が小さな山で、山が陰になってあまり日当りのよくない家だ。 県道は大叔母さんの家の前まで来て反り返るように進路を変えており、大叔母さんの小さな家は県道に押されて山すそギリギリまで引っ込まされているように見える。家自体も古く、壁の漆喰は県道を通る車の排気ガスで汚れ、黒い瓦は埃にまみれて白っぽくなっている。
他人の家なら、何度そのそばを通ってもほとんど気づかないだろう。それほど存在感のない、つつましい家だ。むしろ廃屋に近いかも知れない。 父と昔訪れた時も、2度に1度は返事がなかった。 玄関を入ると土間があり、その右手に小さなお座敷がある。お座敷には畳一枚分くらいの、古い水墨画が描いてあるような衝立が立ててあって、その陰に仏壇がおいてある。 衝立があるので、家の奥があまり見えない。私はいつも、その衝立の向こうに声が届くようにと思いながら、おばちゃあああん、と呼んでいた。 それがひんやりとした土間に響き、しばらく待っても返事がないと、私はそっと 「おってないんちゃうん」 と父に言う。 でも父は知っている。 「おらへんなぁ。裏の畑やろう」 と言ってずかずか上がり込み、家の反対側の畑を見に行った。
裏の畑は小さくて、腰をかがめて農作業をしている大叔母さんがすぐ見える。 こちらに気づき、いつものように笑って、麦わら帽子を取りながら 「45ちゃん、元気けぇ」 と言いながら私たちに近づいて来る。
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