僕らが旅に出る理由
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2009年01月09日(金) My Only London - 若い力

もう名前も覚えてないのだが、いつもニット帽をかぶっていたので帽子のBくん、としてみる。
Bくんは確か大学生くらいで、ジーンズのズボンをいつも極端に下げて歩く、普通の若い男性だった。というか、「普通の」人なんていないと思うけど、私とは世界が違いすぎて、普通にしか見えなかった。合コンで好みの女の子の電話番号を上手く聞きだすのが自慢で、彼女持ちでも他に可愛い子がいたらちょっと浮気しちゃうかも、芸能人でも年相応の娘が好きで、30過ぎたら女は終わりでしょ、というような、やっぱり普通の男の子だった。音楽が好きでUsherなどのR&Bをよく聞いてて、R&Bを「アールンビー」と発音した。

そんなBくんと私が付き合うわけはないのだが、私はとにかく焦っていた時期だったし、Bくんからもアリのようなナシのような、微妙な空気を感じたので、とりあえず一緒にお茶をしたり、買い物に行ったりはした。ノリが近くて話すと楽しいのだが、Bくんからはやっぱり、私みたいな女に対する戸惑いみたいなものが伝わってきた。

そういう戸惑いが私の中で段々クリアに見えてきたので、これはないな、とそのうち悟ったんだけど、それでもBくんとはよく喋った。喋ると楽しいからだけど、Bくんは、私がもう持ってない、いいものを持っていたから。

Bくんは先に書いたとおり、どこにもいそうな若い男性で、ちょっとズルいところもあるけど愛嬌があるから許されてしまうような、そういう人だから、見るからに真面目というタイプではない。
だけど、彼の中には一種の真面目さがあった。真面目さというか、まっすぐさというべきだろうか。若い人特有の、「よいこころ」のようなものが。
それはたとえば、ある有名なスポーツ選手がうちの学校に語学研修に来たので、下心アリアリで食事に誘い、二人じゃ気詰まりなのでBくんを引っ張りこみ、日本料理屋で2時間過ごした後に、話があまりにつまらなくて愕然として、別れた後にBくんとその選手の悪口でも言おうかと思ったのに、
「いい人っすね、あんな有名なのにエラそうじゃないし、フレンドリーだし」
などと思いがけないリアクションをされた時・・・なんかに、思った。(これを言われた時は、さすがに自分がちょっと恥ずかしかった)

ある時、Bくんが何気ないお喋りの時に、戦争博物館に興味があると言った。帝国戦争博物館は、ロンドン南部にある。ゲートから建物までまっすぐな道が延びて、前庭は結構広いのだが芝生だけが敷いてあって、ストイックで近寄りにくい雰囲気がある。私もバスで傍を通ったことはあるけど、中に入ったことはなかった。
その話はほんとに何かのついでで、すぐに他の話題に紛れてしまったのだが、私は妙に覚えていて、ある時、彼を誘ってみた。
あのかる〜いBくんがなぜ戦争博物館に興味があるのか。それに、私自身、いつかは見ておかないとな、と思っていた。自分一人でわざわざ行くと思うと気が進まないが、何かにかこつけてなら行ってもいい。だから、Bくんが行ってくれればちょうど都合がよかったのだ。私たちはウォータールーで待ち合わせ、バスに乗った。

帝国戦争博物館は、当時の戦闘機や銃器も間近で見られて、じっさい「博物館」的だった。清潔で明るく、陰惨とはほど遠いが、やはり神妙な気分にならざるを得ない。私たちはわりと時間をかけて、展示物を見て回った。
3階建くらいの建物の最上階に、ホロコーストの資料があった。
アウシュビッツのミニチュア模型などもあり、私がこれまで見た中では最も詳細な資料がそろっていた。
生存者が当時の状況を語るビデオが、繰り返し流されていた。
写真もふんだんにあった。

戦闘機などが置かれた1階は来館者も多くざわついていたが、3階まで上がって来る人は少数だった。Bくんと私はそれぞれ分かれて見学した。2人で一緒に見て感想を言い合うのではなく、自分の為だけに見たほうがいい、と思った。たぶん、Bくんもそう思ったのだろう。
そうこうするうちに、閉館時間のアナウンスが流れて来た。
ふとBくんを見やると、名残惜しそうにまだ見ていた。

私はホロコーストの資料は、イギリスは当事者じゃないんだから痛い資料いっぱい飾れるのは当然だろう、と思った。それでも、そこに提示されている事実自体には目を向けようと思ったのだが、邪念が多すぎてあまり上手くいかなかった。これまでに、あまりにも多くの人がホロコーストを語り過ぎ、そこへ心を寄せ過ぎていて、今さら私が何を思えばいいのかが分からない。
だけど、それは口にせず、だまって博物館を出た。
間にお茶を挟んで、たっぷり、2時間半くらいいたと思う。

博物館を出てから、Bくんに、何が一番印象に残った?と聞いてみた。
Bくんは、ホロコーストの資料だ、と言った。
「すごく重かった。ガツンと来た」
と言い、でもああいう資料が公開されてるのはいいことだ、日本もあまり隠さずに、南京大虐殺でも、もっとはっきり出せばいい、と言った。

その時の表情が、ふだんのBくんに似つかわしくないほど真摯で、印象に残った。「日本ももっと出すべきだ」という言葉を、自分自身がもっと出すべきなのだ、というのと同じ痛みで語ること、それが真摯ということだと思う。Bくんのその時の言葉は、そうだった。

それを聞いて、私はそういうことに対して、おおむねBくんと同じように感じるけれど、Bくんほど力強い言葉はもう持たないと思った。そして、Bくんをうらやましいと思った。若くまっすぐで、感じたままを口にでき、たとえそれが自分の見た目とちぐはぐでも照れたりしない。そういうのって、とてもいいな、と。

Bくんとはそれからも時々、ほかの友達を交えて遊んだ。
彼が帰国するとき、2人の共通の友達が
「Bくんと45さん、これからも連絡取り合うんでしょ?」
と聞いた。それで彼にそのまま、
「私たち連絡取り合うのかな?」
と聞いたら、彼は微妙な笑い方をして首をかしげた。

もちろん、連絡はなくなった。
今や彼の名前を忘れ、顔も定かではない。
でも、彼がホロコーストについて言った言葉だけは今も鮮やかに覚えている。半ば閉じた戦争博物館に、イギリスらしい薄い色の夕陽が当たって、もうちょっと早くくればよかったなと私は少し後悔しながら、その言葉を聞いたのだ。


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