蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 想夫恋

「珍しいね、ひとり? どうしたの?」

瀬名のマンションを訪れたさくらは、明らかに困惑している瀬名の表情に一人で来たことを後悔した。

瀬名恭二はさくらの大学在学時の同級生で、他にあと三人加えた五人が馴染みのグループだったが、卒業した今はお互いの時間をなかなか合わせられないで五人が揃うことは滅多にない。

「久しぶりだね元気だった?」
「まあまあ」
「近くに知り合いが住んでるの。だからつい、来ちゃった」

会いたくなって、という言葉を飲み込んで「喉乾いちゃった。少しだけあがっていい?」さくらは淡く微笑んだ。



「先生って忙しそうだね」
「そうかな。僕からすれば皆同じに見える」
「みんな同じってことはないでしょ」

瀬名くんは周りのひとが忙しいかどうかなんて見てないでしょう。さくらは形の良い唇を歪め、瀬名を見据えたが、それもそうだとでも思ったのか瀬名は黙って作業途中らしい机へと向かってしまった。

さくらがこの部屋を訪れたのは初めてではなかったから、キッチンに立ってもどこに何があるのかぐらいには迷うことはない。勝手にアイスティーを二人分入れて、一つを瀬名の前に置き、自分の分は端にあるオーディオラックに置いた。

ワンルームの部屋の隅に置いた小さな机を作業台にして、壁に向かうようにして瀬名は忙しそうにしている。教材研究も仕事の一環だと言い、背を向けた体つきは元々細いがさくらが数ヵ月前に見た時よりもさらに薄くなっている。

汗のかいたグラスに指を滑らせ、さくらは時間をかけてアイスティーを飲んだ。たっぷりとシロップを入れたおかげで、喉に刺さるように甘い。

瀬名はパソコンのキーボードを叩き、ウェブページを何十にも開いた上で、時々教材らしき分厚い本を熱心に読んでいる。
さくらはなにもすることがないので、日に焼けない瀬名の白い顔を飽きもせず、ずっと見ている。
会うのは久しぶりだった。会う時はいつも男女混在の五人でいたから二人になる機会はあまりなかった。だから、こうして二人になっても何を話していいのか、さくらにはわからない。

「瀬名くんさあ」
「はい」
「仕事面白い?」
「ええ」
「全然そうは見えないね」

みけん、とさくらは瀬名の額に触れる。

「皺寄ってる」真面目そうな顔を崩さない瀬名に可笑しくなって、さくらが指で瀬名の眉間を軽く撫でる。
「君、邪魔しに来たの」

悪戯っぽく笑って、さくらは答えない。

「そういうのって癖になっちゃうよ、瀬名くんせっかく綺麗な顔してるんだから気を付けないと」

「気を付けてどうするの」

呆れたように笑って、瀬名はまた熱心に教材を読み込む。さくらも一緒になって覗き込んだが、久しぶりに見る数式にすぐに読むのを諦めた。
教員として高校に赴任になったと、瀬名から受話器越しに聞いた時はさくらは非常に驚いた。てっきり院生になるものだと思っていた。
研究室に残る選択肢以外を、瀬名が持っているようには見えなかった。

いつからそうなろうと思っていたのだろうと思いを馳せるが、さくらには見当も付かない。
思えば将来について、瀬名と話したことなどなかった。他の四人の誰かなどとはそんな絵図を語っていたのかもしれないが、さくらには寝耳に水のような事象だった。決まりきったように集う時間が永遠だと信じていたわけではなかったが、気がつけばそれぞれがそれぞれの道で忙しくしていて、当たり前だったはずの顔ぶれが今では揃うことすら稀になった。




好きなんだろうお前、あいつのことが。
花見をしようと近くの公園に出掛けた席で、さくらを見ないまま真っ直ぐに前を向いて新が呟いた。
たっぷりと一分は黙ってからさくらは、えぇーと肩を落とした。『知ってんだ』『まあわかるわ』『みんな知ってるのかな』『知ってんじゃねえの』
膝を抱くようにしてさくらは『なぁんかそれってカッコ悪いね』と足元の芝生を撫でた。
酔っぱらった高崎は少し緑の混じる枯れた芝生の上で、大の字で眠っている。さっきから携帯が煩いくらい鳴っているが、起きる気配はない。

『そんなことないだろ。人がどうこう言うようなことじゃないだろ。お前の気持ちじゃん。大事なものだろ。そんなんに格好いいも悪いもないだろ』

花見をするには少しばかり早すぎないだろうかと危惧していたように、夜風は肌寒く静かに温度を下げて、深夜を回る頃には薄着では寒いくらいになっていた。

『…んー…』
『言えば?』
『やだよ。輪が崩れるじゃん。ぎくしゃくしてさ、皆で会えなくなるのとかやだよ』
『何で我慢すんの』

寝ている高崎がくしゃみをしたので、近くにあったダウンジャケットを掛けてやりながらさくらは起こそうと揺らしたが、高崎は身じろぎするだけだった。
追加の買い出しに出掛けた瀬戸と梓はまだ戻らない。新が黙ったままだったので、さくらは大きく溜め息を吐いて隣を見る。

『するよ、我慢。だって、そんなの。あたしはみんなでいたいよ。それなら言わなきゃいいだけだもの』
『それってさ――』

あまり質の良くない笑い方で新は曇りきって澱んだ空を見上げ、何か言いたそうにはしたが、結局何も言わなかった。

誰も何も言わないまま、皆で過ごした最後の春は終わってしまった。体の良い言い訳だ。傷つきたくないのだと、どうしても言えなかったあの春先は、二度と巡ってこない。

『輪が崩れるじゃん』

輪はもう崩れている。瀬名を好きだという想いを伝えなくても、もうあの輪は自分達にはない。
ほとんど毎日、五人で顔を合わせた四年間はあっという間だった。当たり前だった日常は優しく、しかし瞬きの一瞬のようにあっさりと終わりを迎えてしまった。今は色鮮やかで温かいあの日々も、いずれは色褪せてしまうだろう。

唐突にばらばらにはならなくても、少しずつ、自分の歩きたい道を歩き始めて行っているのはさくらにもわかっていた。会わなくなっていく時間が、それを如実に確かに告げている。

何も言えないまま通りすぎるのは、散り行く春の桜のようだ。それはいい加減出来すぎた独りよがりだとさくらが自嘲したところで瀬名が「それで」と顔を上げた。

なにが『それで』なのか全く話が見えなかったさくらは「え?」と困惑と疑問の表情を浮かべる。特に何かについて話していた記憶はなかったので、促すような瀬名の枕詞に返せるのは数秒の沈黙だけだった。

いつのまにか机の上で広げられていた教科書の類いは閉じられていて、パソコンのモニタは黒一面に変わっている。

「それで君は帰らなくていいの」

通じていないことがわかったのか、瀬名はゆっくりとそう言い立ち上がる。空になったグラスを下げ、「送っていこうか」呼吸するような自然な声は、さくらが知っていた声よりもずっと静かだった。元々騒ぎ立てるような種類の人間ではないが、その頃よりもさらに落ち着いたように感じてさくらは寂しくなる。
教室で彼は、こうやって生徒に話しかけるのだろうか。
瀬名はとても綺麗な顔立ちをしているから、女性生徒に人気があるだろう。
そうして、自分のように何も言えないまま終わってしまうのかもしれないし、告げるものもいるだろう。その好意は拒絶されるかもしれないし、受け入れられるかもしれない。その選択肢にさくらが関わることはない。
それがわかってしまっても、さくらは痛まない。ただ考えてしまうと心が冷えた。



「さくら?」
「――あ、うん聞いてる」

まだいたいと言ったら瀬戸は何と言うだろうかと思ったが、「タクシー呼ぶから大丈夫」とさくらはコートを手にした。

出会ってから今に至るまで瀬名の選択肢の中に、さくらが含まれている瞬間がどこかにあったろうか。
そう聞いてみたくても、やはりさくらは曖昧に笑うことしかできなかった。



街路樹の緑はまだ早いとばかりに芽吹くのを堪えている。寒さが残る春となった今年は、冬の様相を色濃く残して日だけが過ぎる。
マフラーもしてくるべきだったか、とさくらが手を合わせた時、不意に目の前に桃色の花びらが舞った。アスファルトだらけの埋め立て地でと流れてくるほうを振り返れば、マンションの敷地内に申し訳程度に作られた公園に植えられた一本の桜の木が目に止まった。

五分咲にも届かないが、薄桃の花をつけた若木はさくらより少し高いばかりの頼りない背丈でそのくせしっかりと細い枝を伸ばしている。

「さくら」

訝しむように呼ばれてさくらがそちらに目を向けると、瀬名がやはり疲れた顔をして立っていた。

「やっぱり送っていくよ」

有無を言わせない強い口調でそう言うと、瀬名はさっさと駐車場へと歩き出した。

2011年04月16日(土)
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