蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 LIAR

この後どこか行かない?

それだけの台詞を言うために、私は酷く緊張していた。なんでもない。なんでもないことじゃないか。言い聞かせるように胸に手を当てて俯く。何度も練習した言葉を口にするだけでこんなに緊張するなんて、中学校の文化祭で上演した「リア王」以来だ。
あの時は意味なんか理解しなくても、ただ口から言葉を発せればそれで良かった。

最初から途切れがちだった会話は、今はほとんどない。それでもはずっと話し掛けてきてくれていた山崎くんだったけれど、あまりに反応のない私に困り果てたのか駅が近くなる頃には、無言に近くなっていた。

それもこれも不要な緊張のせいだ。今もし何でも願いが叶うなら、鋼で出来た心臓が欲しい。
そうして言うんだ。
この後、一緒にどっか行こうって。

「どうしたの、今日あんまり元気ないね。もしかして何かあった?」

頭の中は忙しなく働いているのに、相変わらず私達の間には会話はなかった。それに焦れたように、山崎くんがこちらを伺う。

「ずっと、上の空だね」
「…と、」
「なんか、悩んでるみたいだからさ。ごめんね。俺、気付けなくて」

照り返しのせいで白く光って見えるアスファルトに視線を落として、山崎くんが静かな声で言った。

「ち、違うの…っ、そうじゃなくて。私、山崎くんに言いたいことがあって――」

慌てて出した声は思ったよりも大きく、それにさらに慌てた私は自らの口に手を当てがった。

「言いたいこと?」

ぴたりと足を止めた山崎くんが、こちらへと向き直る。痛いばかりの日差しの中、眩しいのか細まった薄茶色の瞳が私を見下ろす。しまった。明らかに、私の言葉を待っている。余計に、言い出しにくくなった。

「えと、あの、」

暑さとは別の汗が、首筋を伝う。
知らなかった。緊張しても、汗って出るんだ。

少し先に見える駅が陽炎のように、揺らいで見える。いつもはあそこで別れが待っている。また明日ねって。でも今日は金曜日だし、明日は学校ないし、何よりも――。

『そういうのって、付き合ってるって言うの?』

く、と強く唇を噛んで、顔を上げる。大丈夫、言える、大丈夫。だってそれくらいのこと、駄目だったって気にしなければいい。綺麗な線を描く目と、目が合った。何度見ても、見慣れない。夜も寝られないくらい好きだと言ったら、今見せている涼しげな表情を綻ばせてくれるんだろうか。それとも歪ませちゃうんだろうか。

「鈴川さん?」

少し甘さの残るトーンが、私の背中を押した。

「あの…っ、あのね、私、」
「うん」

静かな視線が、途切れがちな台詞を促す。今言わなきゃきっと後悔する。

「私、まだ山崎くんと――…、一緒にいたい、んだけど」

山崎くんが驚いたように軽く目を見開く。言ってしまって、しまった、と思った。勢いに任せた台詞は考えてた以上に、強引過ぎた気がした。

どうしようもなくて俯いた私の頭上に降るのは無言という重みだった。
単に誘うつもりだったのに。それが前置きもない唐突な告白に面食らったに違いなく、顔を上げれなくなった。こういうの状況、前にもあった。ふと夏の始まりにした告白を思い出す。私って進歩ない。

蝉が煩く鳴く。一匹鳴けば次々と連鎖するように始まって、わんわんと響いた。
呆れられてしまっただろうか、と肩を落としたその時。下に降りるばかりの視界に、こちらに向かって差し出される山崎くんの手が映り込んだ。

その動きに誘われるようにして目線を向ければ、口元を押さえてあらぬほうを見る山崎くんがいた。

「――そんなふうに言われるなんて、考えてもみなかった」

感嘆、とでもいうような響きが私の頭の中を混乱させた。
でも呆れてはなさそうなその口振りに、僅かにほっとした。

「あ、あの――」
「じゃあさ、俺の家に来ない?」

あまり大きくはない、けれどもよく通るその声が、何でもないことのようにそう言った。

ゆっくりできるよ、二人で、誰にも邪魔されずに。
山崎くんがいつも通りの優しい声で、でも少しだけ低い声でそう言って、最後に「ね、そうしよう?」と私の大好きな笑い方で私を見た。






柔らかく、でも体が沈み込んでしまわない程よい固さのソファに浅く腰掛けて、何度目かの深呼吸をする。
わりと広いリビングには雑多なインテリアが所狭しと置かれていたけれど、妙な統一感が保たれていてちっとも煩くはない。

「父親がね、好きなんだこういうの。古美術なんか見せるとね、もう目の色が変わってしまうくらい好きらしくてさ、増えていく一方なんだよね」

かたり、とトレーをテーブルに置いて、山崎くんがあたりを見回す。トレーの上に乗せられたグラスに浮かぶ氷が、今にも涼しげな音をたてそうに重なっていた。
ごめんね、両親共働きで誰もいないんだ。そう言ってすすめてくれた桃の香りのするアイスティーは、とても冷たそうだ。

「そうなんだ」

ふうわりと甘く優しい笑顔を浮かべて、山崎くんが隣に座る。ひだまりのような、温かな匂いがする。
もう一度深呼吸をする私に「どうしたの」と覗き込んでくるその近さに、息が止まりそうになる。
わかってる、この距離感は決して不自然じゃないし、一緒にいたいと言ったのは私であって山崎くんじゃない。
なのに私は気の利いたことも言えなくて、相変わらずどきどきしているだけだ。

だってまさか、家に呼んでくれるなんて思ってもみなかった。ミユキが言ったことがくやしくて、信じたくなくて、どうにか恋人らしくしたかっただけなのに、いきなり二人きりになるなんて私にはハードルが高すぎる。

「緊張してるの?」

くすりと山崎くんが笑う。

「ごめんね。俺、女の子が好きそうな店とかもよく知らないしさ、それに外は騒がしいでしょ? そういうの、好きじゃないんだ」

何度か聞いた内容に、私は首を左右に強く振る。
ファーストフードの店やゲームセンターが山崎くんに相応しくないことくらい、私だってわかっている。

「…あ、あの違うの、ごめんね。私が慣れてないだけだから」
「? 何に?」
「え、えとその…」

首を傾げた山崎くんに私はさらに、慌てふためき、首をぶんぶんと振った。
顔に熱が溜まるのがわかる。本当に私は不器用だ。嫌になるくらいに。
俯いてしまった私の頬に、山崎くんの指が触れる。とても優しい触れ方に、それでも大袈裟に肩を揺らしてしまうのは。

「慣れてないの。男の人にとか」

俯いていても、山崎くんが私を見ているのはわかる。黙って、静かに。どう思われているのかは分かりようもないけれど、随分と困らせているに違いない。
でも慣れないのだ。

「それに山崎くんが、こんなに近くにいることとか……。だって、ね? ずっと憧れてたんだよ私」

再び顔に熱が溜まる。私の顔は今、相当に赤いに違いない。
頬に触れていた指が、撫でるようにすうっと動く。そうしてそのまま、両の頬全体を掌が包んで。

「もしかして、鈴川さんは付き合ったの、俺が初めてなの?」

優しい声音に、気分を害してないことがわかって、ほっとする。だからその内容にあまり考えることもせず、小さく何度も頷く。
何か言うと、声が震えてしまいそうな気がした。

「…そっか」

ゆっくりと顔を上げさせられても、山崎くんを直視することがどうしても出来ない。

「じゃあ、全部俺が初めてだ」

伏せた瞼に吐息がかかる。それは笑っているようにも思えた。目元に唇が触れる。優しい、柔らかい感触に私は目を細めた。

2011年03月21日(月)
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