蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 

久々に会った友人。でも彼は。




「よう久しぶり」

昼下がり。

買い物の帰りに通り抜けた公園で、中学生時分同級生だった野上に会った。
同級生と言っても病気がちで欠席ばかりだった僕は、かろうじて名前を覚えている程度でたいした面識はない。

「ここら辺にに住んでるの?」

「あ?いや、おれは元々こっちに家があるんだよね。中学の時は親父の単身赴任であっち行ってたけどさ」

名前と顔も一致しない元クラスメイト達の噂話をしばらく聞いてから、野上は

「良かったらうち来ない?」
と薄く笑った。

口を交わしたのはこれが初めてであったはずなのに、気が付けば僕は了承の笑みを返していた。
同窓であることが気を許したのか、彼の打ち解け顔がそうさせたのか。
元来人見知りで口下手な僕には、眩暈を起こすような行為だ。
足を運べば中々辿り着かないことには閉口したけれど、野上の饒舌さはそれらを物見遊山気分に変えるほど機知に富むものばかりだったことが、僕の気分を妙に高揚させた。
僕を気遣ってか、買い物の荷物まで持ってくれたことも、好感を持つに値するには充分であったかもしれない。

「ここ」

「ここ?」

「うん、そう。古いからあちこち痛んでる。林も手入れしてないし、歩くときは気をつけな」

少し物寂しい場所に、野上の家はあった。

「古いだろ。でもさ、考えようによっては、取り得だろ。朽ちて行かせる時間だけは、早めようがないからね」

きっと本音は違うのだろう。
皮肉気に口元を歪める野上は、先程までにこやかに話していた人間と、一瞬だけ別人のように見えた。
周囲を、鬱蒼とした竹林に取り囲まれるようにして立つ佇まいに、一種の寂寥を感じる。
古びた門構えに、重厚な感のある木造りの建物。
静寂という表現がしっくりくる。だが、こういった趣は嫌いではない。
少しの間見惚れていると、


「おーい、どしたー?」

いつのまにか先を歩く野上に、手招きされて慌てて止まっていた歩みを再開する。
耳を澄ませば野鳥の囀りや、竹の葉が風で揺れるさざめきさえ聞こえそうな気がして。
本音を言えば、そういったものを聞いてみたいと思った。
僕が感じていることを理解したらしく、野上が苦笑する。

「らしいと言えば、らしい。静だったよなあ」

「うん」

妙な似合わない彼の物言いに、僕もほんの少し口元を歪めた。

「わかりにくいけど、こっちが玄関」

「あ、うん」


「何度もゆうけど、古いから気をつけな」

振り返った彼の顔を見て、何故だか少し胸がざわざわとした。
通された一室は野上の自室らしく、雑然とした感じではあったが、高い天井に真新しい畳の敷かれた広い和室。
一通り眺めてから、入って来た入口の襖が少し開いていることに気付いた。
入って来る時に閉め忘れたらしい。
開けたら閉める。これは僕の日常動作だ。
今もそうしたような気がしたけれど、無意識下にあるそれは記憶の片隅にも残ってない。
さりげなくそっと閉めて、窓の障子を開ける野上に「良い家だね」と笑いかけた。

「変な気使うなって。古いだけだよ、こんなの――あ、」

「なに?」

「ごめん、襖閉めてくれない」

「え」

反射的に振り返った出入口。
薄暗く見通せない二十センチ程の隙間が、微かに風を吐き出すようにして開いていた。
先程のは無意識ではない。


「…閉めたと思ったんだけど」

「あれ、じゃあ俺がまた開けたのかも。ごめんな」

「いや、いいよ」

首を傾げる僕に、にっと歯を見せて野上が答えた。
頷いたものの、釈然としない心持ちで、再度襖を閉める。風が止む。
不思議と穴を埋めた時と、同じ感覚が沸いた。
出入り口は、ここだけ。他には窓が一つ。西を向いているのか陽光が入り、畳を白っぽく見せた。
野上の話は尽きることなく、僕を楽しませてくれた。
ほとんど馴染みのなかったクラスメイト達や、会ったこともない彼の友人達にさえ、親しみを覚えてしまったほどだ。
窓から夕日が差し込み始め、初めて夕暮れが近いことを知った。

「今何時?」

未だ止まない話の合間に、時計を探して部屋を見回した。
僕自身時計をつける習慣がなく、時間を探る術は外部にしか持たない。

「えっと、五時ジャスト。なん、腹減った? ああ、何も出してなかったよな、菓子とかあるか見てくるわ」

要らぬ気を使わせてしまったらしく、野上はそそくさと立ち上がり、もう帰るからとの制止も聞かずに部屋を出て行った。
そろそろ帰らなければならない。

買い物の帰りだった僕は、キリヤの昼食さえまだ作っていない。
それを思い出したのだ。
今頃彼は怒り狂っているに違いない。
そう思うと、尚更早く帰りたくなった。
途端、視界の端で襖が動いたのが見えた。

「野上? 本当にそろそろ帰ろうと思うんだけど」

野上が帰って来たのかと、そちらへと首を捻って彼を呼んだ。
襖は確かに開いて、またもぽっかりと黒い隙間を生んでいる。
だが返事はなかった。

「野上?」

もう一度呼んで立ち上がり一歩足を進めた。が、すぐに足を止めた。
なんだろう?
鼻腔を掠める黴臭い匂いに、顔を顰めた。
背筋がぞくりとした。
理由はない。
ただ、気持ち悪かった。
襖の隙間から流れる臭いだと気付くのに、時間はかからなかった。
隙間の向こうは全くの闇で、一筋の光さえ見当たらない。
僕は窓を背にして襖に向かい合って立っているのに、その先はどれほど目を凝らしても全く何も浮かび上がらない。
無音。なのに、鼓膜を揺らす。耳鳴りかもしれない。
その中へ野上が入って行ったことさえ、見間違いかと思うほどだった。
――異空間みたいだ。

外へ出る出口ではなく、どこかへと通じる入り口。
部屋の中は夕焼けが滲んだかのように、朱色に染まる。
風が吹く。
今となっては強烈な異臭を放つ、風が。

「野上」

常闇を思わせる隙間へと、手を伸ばす。おそらく、襖を開け放とうとしたのだと思う。
少し湿った冷気が皮膚を撫で、腕に這い上がろうとしたところで、手を引いた。
反射的に駄目だと思った。
肌がびりびりする。明確な理由はない。
ここは二階。
身を翻して窓に走り寄ったのは、後から考えれば無意識だった。



「何してんだよ、お前」

キリヤの声にふと目を開ける。
すぐ間近で、澄んだ瞳の弟が僕をじっと覗き込んでいた。

「キリ、ヤ」

「なんだよ。つーか、お前何してんのこんなところで」

彼が立ち上がる。
斜めに、地平線に落ちていこうとする太陽が見えた。
橙色に染まる弟が、呆れたように僕を見下ろしていて。

「え?」

辺りを見回せば、そこは買い物帰りに通り抜けた公園。

「帰って来ないと思ったら、こんな場所で昼寝かよ」

「…さあ」

僕は頭についた砂を払い、立ち上がる。

「腹減って死にそーなんだけど」

「ごめん、すぐ作るから。ああそうだ、ねえキリヤ、野上って覚えてる?」

キリヤが黙って僕を振り返る。

「野上?」

人形のように無表情で、何を考えているのかはわからなかった。

「そいつのところに行ったんだ。…たぶん」

地面に置きっ放しだった買い物袋を拾い上げ、ジーンズにまだついていた砂埃を払った。
影が長い。
朱色の陽射しが、最後の光を投げかける。

「…そりゃ随分な寄り道だな」

しばらく僕の顔を見つめていたキリヤは、唇を歪めてそう言い放つと、さっさと公園を出て行く。
最後にアチラ、だとか呟いた気もするけれど、よく聞こえなかった。

「なんて? ちょっと待ってよ」

追いかける僕の頬を、風がそっと撫でて追い越していった。


【END】

2011年01月02日(日)
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