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■ 橋
余計なモノに関わるな。キリヤの言う事はいつも正しい。
しゃぼんだまで、あそびました。 じょうずにつくれたので、ぼくのまわりは、しゃぼんだまだらけになりました。 しゃぼんだまの中には、ぼくやおとうとが、たくさんいました。
雑踏は酷く苦手だった。 歩くだけで頭が痛くなるし、気分が悪くなる。 歪みそうになる視界をどうにか保って、駅へとただ歩き続ける。 それぞれに交差して歩く人々は、まるで十字架をなぞって歩いているかのようで。
すっかり暗くなってしまっていると言うのに、街の中は眩暈がする程に明るく不気味だった。
「早く帰ろうぜ」
キリヤが僕の肩を叩く。
相変わらず彼の手は冷たくて、か細い。 それはきっと僕も同じなのだろうけれど、彼よりはきっとぬくもりを持っているはずだと思った。
大通りの橋を渡る。 もう何度目かになるこの場所で、いつも見る光景に僕は足を止める。 その『光景』はもはや『風景』みたいなもので、どちらがどちらなのか、区別が付かないほど日常茶飯事なものだった。 足を止めた僕に気付いたのか先を歩いていたキリヤが、同じようにして振り返った。
「見るな」
「でも」
「ああいうのは関わらないほうがいーんだよ」
キリヤが僕の腕を掴む。 周りの人が僕らを振り返った。 その視線は、真っ直ぐと僕を捉えていて、不快だった。
思ったより大声を出していたようで、彼らは僕を指差し何事か囁き合っていて。
「帰ろうぜ」
また同じ事をキリヤが言った。 そうして、彼はまた歩き始める。 それでも視界の端にちらちらと映るそれに、どうしても気を取られてしまう。 普段は素知らぬ振りをして通り抜けれるはずなのに、今日はどうしてだか、やけに気になって仕方がない。
僕は何かを忘れているようで、何かを思い出さなくてはならないような気がした。 だからなのか、誘惑に負けるようにして、足を止め振り向いてしまって。
視界の中央で繰り広げられる光景は、とても単調なもので、いつもと代わり映えはしなかった。 混み合った人の群れの中、ちょうど橋に差し掛かるあたりでいつも彼女は現れる。 そっと吐いた息がカタチを保つようにして、突如現れ動き出すのだ。 ゆっくりと流れに沿って歩いたかと思うと、橋の欄干に手をかけて彼女はそれによじ登りだす。
重そうな長い黒髪。鮮烈な赤のコート。赤と黒のコントラストが、網膜に焼け付く。 欄干に上った彼女はそのまま、橋の下へと飛び降りる。 下は地面ではなく川だ。水深はわりと深く、けれど汚水に近いその水が、飛沫を立てることはない。
僕は静かに立ち尽くし、その光景を見守る。 そうして重い溜息を吐いた。 これで何度目だろう。彼女が落ちていくのを見るのは。 それから数秒もしない内に、彼女はまたごった返す人の流れの中に現れるのだ。 エンドレス。 フィルムが巻き戻されるのではなく、落ちた彼女は何度も同じ場所に現れ、落ちていく。 これを彼女は永遠と繰り返す。 雨の日も、風の日も。
僕がこの橋を通りかかる時は、そうする彼女を見るのが日課で。 腰よりも長い髪のせいか、彼女の表情はいつだって見えない。見えることはない。 意識を逸らせば、普段はそれまでのことだった。 なのに今は目を逸らしても、鮮血に似た赤が視界の端に映り込む。
不意に息苦しくなって、気付けば、拳を握り締めていた。 僕が立ち止まってからも、黙々と彼女は同じ事を繰り返す。 キリヤが、何か言った。 それが僕の耳に届き、頭が理解する前に、視界に蠢く赤がぴたりとその動きを止めた。
「――あ、」
キリヤが振り返る。 それとほぼ同時に、彼女が振り向いた。
「あ、バカ」
前を歩いていたキリヤが慌てたのが分かったけれど、もうそれは遅くて僕は彼女と目が合ってしまっていた。 長い髪は顔じゅうにべったりをかかり、彼女の顔も大部分を覆い隠している。 けれど、その顔を確認するには、充分すぎるほどの距離だった。
「――、」
無意識に手は、僕の口元を押さえていた。 そうしないと、叫んでしまいそうだとでもいうように。
「行くぞ」
それを押し留めたのは、キリヤの緊張した声で。 痛いくらい掴まれた手首が引っ張られ、走る事を促される。 全速力で走るのは、久しぶりの事だった。
「はっ、待…っ」
心臓が弾け飛ぶかと思うくらい、鼓動を早める。 大通りを走り抜ける僕らに誰もが奇異の目を向けたが、それは一瞬のことで。
「キリ、ヤ…っ」
もう走れない。息が止まそうだった。 薄汚い路地を曲がったところで、キリヤが足を止めた。
「くる、…しいよ…っ」
「うるせえ」
不機嫌な口調で、キリヤが僕を睨みつける。
「あーゆうのと関わるなって、前も言わなかったか?」
たいして息も乱れていない弟に、幾分尊敬の念を抱きながら、僕はその場にしゃがみ込んだ。
「だ…って」
「馬鹿かお前」
心底呆れているような。そんな空気が刺々しい。 僕らは人には見えないモノが見える。 それは、その人達にとって助けてあげられることがあるかもしれないってことだ。 そう思うからこそ、僕はかれらに「見ぬふり」はできなかったりするのだ。
「ホント、馬鹿な。お前って」
「どうして?」
「やってらんね。もうお前、一人で帰れ。後、それ捨てて来いよ」
呆れ返った目の色をして、キリヤがそっぽを向く。 何を怒ってるのだろう。
「キリヤ?」
「うるさい、触んな」
伸ばそうとした腕をあっさりと振り払われ、今度はキリヤの全速力で走り出し僕から離れて行った。 追おうとしたけれど、追いつけないとすぐに諦めた。 彼と僕では、足の速さが全く違う。 どうしてキリヤはすぐに怒るのだろう。 僕が言う事を聞かないから?
ばしゃばしゃと水を蹴る音がすぐ近くでした。 すぐ後ろで。 僕は振り返る。 そこには何もなかった。 何も。煩いほど行き来する人の波も、競うように外まで聞こえるほどのBGMを流していた立ち並ぶ店先も。
「――っ」
ふと、寒さに震えた。 やけに寒い。そうだ、とても寒い。そしてどうして足がこんなに重いんだろう。 走ったせいかと思ったけれど、そうではなく。 腰に、足に、下半身全体にかかる抵抗力。 たっぷり水を吸った衣服が、べったりと体に張り付く、そんな感覚。
「おーい! きみ! そんなところで何してるんだ」
上から降る怒声に、僕は顔を上げた。 さっきまでより、高い夜空。まあるい月が、綺麗だと思った。 月? 夕暮れだと思っていたのに。 ああ、いつのまに夜になったんだろう。 寒い。どうして僕は、こんなに震えているのだろう。
騒々しい人の声。皆が僕を指差す。橋の上は人だかりで、黒っぽく見えた。 頬に張り付いた髪が、べたべたとして気持ち悪かった。 そうか。皆、上にいたんだ。どおりで僕の周りは誰もいない。
呆けたようにして、冷たい川の中で僕は立ち尽くす。 僕の身に付けたコートの赤が、視界の中で唯一の色で。
こんなに寒いのは、キリヤがいないせいだと思った。
【END】
2011年01月01日(土)
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