蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 午後九時のInvitation

午後九時。清掃も片付けも終わって照明を落とす。日中は華やかで賑やかな空間が生み出すこの静けさが、感傷的に一日の終わりを告げた。
よし、最後の戸締まり終了。今日もお疲れ様。自分にそう呟いて歩道に繋がる階段を降りれば、

「お疲れさま」

停めた車を背もたれ代わりにした春日が、手を上げてあたしを見ていた。

「…何でいるの」

驚きを隠せなくて声が大きくなってしまって、慌てて口を覆った。それが可笑しかったのか春日が少しだけ笑う。

「何でって、見ての通り待ってたんだけど。でも思ったより早かったね」

少しだけ竦めた肩が寒そうで、思わず立ち止まる。

「いつからいたの?っていうかさ、上がってこれば良かったじゃない」

従業員がいたっておかまいなしに入って来てはベタベタとくっついて来る人間が、こんな所で待っているなんて思う筈がないじゃないか。

「あぁうん、でもほら、最近駐禁がきついじゃない。だからここで待ってた」

珍しく歯切れ悪く春日が言った。

「こんな時間に?」

思わず笑えば、春日も笑った。全く。らしくない。「まったくもう」今度は口にして、傍に駆け寄る。

「寒かったでしょ」
「そうでもないよ」

嘘ばっかり。白い吐息と同じような色合いの頬。掌をあてれば思った以上に冷たかった。

「ほら、すっごく冷たいし。あんた、風邪引きたいわけ?」

眉を寄せて睨んでも、春日は何でもないように口許を綻ばせて。

「別に。泉ちゃんが看病してくれるからいい」

なんて嬉しそうに目を細めた。

「何。その決定事項」
「してくれないの?」

僅かに眉を下げて伺うような表情に、あたしは簡単に落ちる。

「そんなこと言ってないでしょ。それくらいするよ、するけどさ、あたしが言ってるのはそんなんじゃなくて」

と返して、溜め息を吐いた。

「体調管理も出来ないなんて、経営者失格だよね」
「…そうくるかー」

ぴしゃりと言い切ったあたしの言葉に返される苦笑。

「当たり前だよ。あたし、経営に関しては先輩だから――ねえ、ちょっと屈んで」

先月買ったばかりのコートの衿を軽く引く。
不思議そうな顔をしながらも、あっさりと素直に折れた膝に満足して、自分の巻いていたマフラーを外す。
それから、黙って膝を折ったままの春日の首に巻いてやった。うん、今日はいつもはあまり巻かない淡いブルーにして来て良かった。
女物のピンクじゃさすがに巻かせてくれないだろうし、似合わない。

「暖かいね、これ」
「そ」

心底暖かそうな顔をした春日はうっとりするくらい柔らかな笑みを零し、冷たい手であたしの頬に触れる。

「ストップ」
「……なんで?」

寄せられた顔の前に掌を突き出せば、不満そうな春日の声が路上に響いた。

「調子に乗らないの。外でそういうことするの、嫌だって前に言ったでしょ」
「せっかくいい感じだったのに」
「……。それはあんたの頭の中だけ
で、今日は何の用事?」

じろりと見上げれば、春日は苦笑いを浮かべ「んーとねぇ」コートの中に手を突っ込んで、紙切れを取り出した。

「なにこれ」
「チケット?」
「疑問で返さないで。馬鹿みたいだから」
「酷い」

呟く春日を無視して、手にした小さな紙を覗き込む。確かに映画のチケット、だ。それをひらひらとさせて春日は、

「先行公開ってやつ? 今晩がそれなんだって。行かない?」

「今から?」
「今から」

手元を覗き込めば、観たいと思っていた洋画のタイトル。
でも今月の予定を考えれば、講習会の続く定休日ですら行けないと諦めていて。
レンタルされるまで待つしかないか、とひそかに考えてたんだけど。

ちらり、と見上げれば僅かに首を傾けてあたしの返事を待つ春日。
ツナの缶を手にしたあたしを見る時のコウタによく似ている、と言ったら嫌がるだろうか。だろうな。
でもそれよりも、本当こいつは――。

「…わかっててやってるでしょ」

小さく落とした独り言は届かなかったらしく、春日は片眉を上げて伺うような表情をしただけだった。

待たせた――故意でも本意でもないところが更に不本意だ――罪悪感に、観たかったロードショー。
揃いすぎた条件の答えは一つしかなくて。

「…いく」
「そう。良かった」

ほら、その心底嬉しそうな顔。そういう顔されると。
別にいいかと思ってしまう。上手く乗せられたことも、たったこれだけの事で上機嫌になってしまった事も。

腕を引かれて助手席へと導かれ。

「どうぞ」

芝居がかった仕草で、扉が開かれる。
くすぐったいような、気恥ずかしいような気持ち。知られたくなくて、わざと澄ました顔を取り繕う。
だから「ありがと」その四文字さえ素っ気ない。でも春日はきっとわかってる。あたしが今どれだけ、喜んでいるか、なんて。



エンジンの切られた車の中は、しん、と冷えていた。

「寒い? ごめんね」

僅かに身体を震わせたあたしの頬に、冷えた指がつい、と滑って離れていった。
そっちのほうがよっぽど寒いくせに。
でも素直じゃないあたしは、頭を左右に軽く振っただけで、黙ってしまう。

小さな振動が体を包み、エアコンから吐き出される冷気混じりの温風から顔を背けた。
低い視線から窓越しに見る自分の店が、まるで知らない場所のように見えて。
いつもと違うあたしのようにも思えて。


動き出す景色に細く開いたままだった窓を閉め、前を向く。

「はる、」
「んー?」
「嫌いじゃないよ、あたし」

だから、たまには口に出しても悪くない。

「何の話?」
「…あんたが迎えに来てくれたりするの」
「それは良かった」

前を向いたままだったけれど、嬉しそうに笑う春日の横顔に自然とあたしも微笑んで。

赤になった信号。
大通りはまだまだ賑やかで、ハンドルから手を離して肘を付く春日の横顔を飽きずに眺めてから。
――衝動的に唇を掠めた。

「外でこういうことするの嫌いなんじゃなかったっけ」

しばらくして、ぽつりと落とされる声音はとても静かだった。あたしからするキスなんて、初めてかもしれない。だったら少しでも動揺してればいい。

「かろうじて室内だよ」
「…そうくるか」

信号が変わる。手の中にあるチケットに刻印された開始時刻まで、一時間と少し。
決して短くはないけれど、滅多に見られない春日のこんな顔を見ていられるなら。

きっとあっという間。


【END】

2010年06月07日(月)
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